わたしとあなたの夏。

ハコニワ

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一 大倉麻耶 

第32話 神田礼子

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 いきなり礼子が抱きついてきた。
「わっ!」
 いきなりすぎて声をあげてしまった。彼女の息が、心臓の鼓動が、体温が、匂いがわたしにピッタリとくっついてくる。糊みたいにくっついて解けないように絡みついて。

 わたしは一瞬、思考が真っ白になった。なにが起きたのか、さっぱりでした。体は氷漬けにされたように微動だにしない。抱きしめられることに心地よい感覚があったのかもしれません。わたしも礼子の体に腕を回した。

 住民からチヤホヤされる美貌にいつもテストで満点をとる頭の知識、それだけで五年生とは思えない存在だった。この夏が始まる前は。でも、今は違う。

 こうして、抱きしめると華奢で身長がほぼ同じ。わたしと同じ五年生なんだってはっきりわかる。

 窓の外から景子の声が聞こえた。そのとき、わたしの背後が窓際だったので様子は見えない。でも、見えなくても景子が鬼の血相で斧を振っている情景が見える。見えてしまう。

 聞いたことない悲鳴が外から聞こえてくる。襲っているのは景子? 耳を塞ぎたくなる状況だけど、なぜか安心していた。心のどこかが安堵に満ちている。それは、礼子がそばにいたからかもしれない。

 実際に耳を塞ぐとわたしと礼子の二人だけの世界だ。いつの間にか、わたしが奥の室内で、礼子が窓際の立ち位置にいた。

 抱きしめられて気づかなかったのか。礼子は少しずつ器用にわたしの立ち位置を逆転させていた。

 耳元に唇が近づいてきた。ゆっくりと。無感情な声ではなかった。いつもの淡々とした口調でもなかった。あれは、そう、愛に満ちた口調。

「生きて。精いっぱい生きてそして苦しみなさい。それがこの村で生き残ったあなたたちの枷なのだから」

 トンと肩を叩かれと同時に腕が離れた。あんなにくっついてた体温が消えていく。腕が離れた礼子は窓の枠によりかかり、そのまま真っ逆さまに落ちてしまった。

 静かにスローモーションで頭から落ちていく。彼女は落ちる間際まで笑っていた。ひだまりのような笑顔で。

 それを目前と目の当たりにし、体が硬直した。暫くしてズドンと重いものが無造作に落ちた衝撃音が轟いた。空気中に。わたしの耳に。

 保健室は一階だけど、他の教室と違う構造がある。それは、外に繋がる廊下から室内に着くなり、三段の階段があること。そんなに低い地形じゃないのに保健室だけは階段がある。しかも、その下はアスファルトだ。

「れ、礼子……」
 夢であってほしい。あの衝撃音も全て彼女のドッキリでした! なんてこともあってほしい。そんな想いをのせてわたしはゆっくり窓際に歩み寄った。そして、下を見下ろした。

 心臓が止まった瞬間を覚えている。息をのみ、全ての神経が停止した瞬間。

 今、眼で認識している光景ははたして本当なのだろうか。もしかしたら、わたしはまだ寝ていてここは夢の世界じゃないのか。そう思いたいほど現実味が感じられない。

 亀裂が入ったアスファルトの隙間から小さな雑草が伸びている場所で、礼子は横になっていた。

 ドロリとした泥のような液体を下に敷いて。礼子を中心に丸く血が広がっていく。亀裂が入ったアスファルトまで伝うと、川のようになった。
「礼子……嫌だ嫌だこんなのやだぁぁぁ!!」
 窓際に乗りかけ、ジャンプした。

 彼女の自慢の黒い髪の毛が四方八方に乱れている。
 そばによって、体を揺さぶるも抵抗もしない。返事もしない。いつも、蝿につままれたようにあしらうのに。どうして反応してくれないの。
「まっちゃん」
 わたしは必死に礼子の名前を呼んだ。体を揺さぶった。
「まっちゃん!」
 断末魔を切ったような声に振り向いた。真っ赤になった斧を手に、全身返り血を浴びた景子が近くに立っていた。

 わたしはそのとき、どういう表情をしていたのだろうか。今思いだしても〝憤り〟しかなかったでしょうね。

 次第に辺りが明るくなった。太陽が山から少しずつ顔を出してくる。黒だった全ての景色に色がついていく。村中が悲鳴に轟いた夜が明けました。

 茶色の木材製の学校、チュンチュンと鳴く雀たち、横たわる人々。
「終わったよ。全て……」
 景子が喋った。
「なにが?」
 わたしが問うと、景子は斧を持っている手を離した。カランと乾いた音が響く。真っ赤に染まった血斧に怒っているわたしの姿が映っていた。


 景子の言うとおり、朝日が登ると同時に絶法村惨劇事件は幕をおろした。その最大のきっかけは隣街の刑事さん、および、お医者さんが来たことだったから。

 長い長い悪夢の夜はこうして終焉を迎えた。
 でも、終わりじゃない。これから続くのだ。死より苦しいメディアからの拷問、政治関係者からの村八分が。




 8月2日(木)


 隣街の病院でわたしは目が覚めた。
 あれから、疲労と精神ショックにより倒れて一日眠ってたらしい。目が覚めて、ベッドの脇に眠っていた人に目が留まった。
「礼子っ!」
 上体を起き上がると、その人物は違った。おばあちゃんだった。おばあちゃんはわたしが叫んで起きたことに、びっくりして椅子から転けている。あいたた、と腰に手を添え痛そうに苦しむおばあちゃん。
「あ、ごめんなさい。おばあちゃん……」
 おばあちゃんは顔をあげると、立上がってわたしの頬に両手を添えた。しわくちゃで温かい手のひら。おばあちゃんは優しい目でわたしの顔を見下ろした。
「ごめんね麻耶。一人にさせて。辛かったろ? 痛かったろ?」
 今でもおばあちゃんの爪痕が残る頬をなぞられ、少しこそばゆく感じ微笑んだ。
「ううん。全然!」
 おばあちゃんはホッと胸を撫で下ろし、わたしを力強く抱擁した。わたしもそれに応えた。

 でも、脳裏にあの心地よさが浮かんでくる。心から安心するようなあの安堵さはもう、誰もいないのだと分かってしまった。
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