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第2話 それはとても欲しくて
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ある日の蒸し暑い夏だった。
地下だから、夏には快適だ。地下は季節問わず温度が一定している。冬だけは隙間風が入ってきて、寒いけど。夏はまだまだ快適。
鉄格子の窓から、不意に外を覗いた。小さな窓だから、一体全体どうなっているのか分からない。家の庭がまず映る。八年前から変わっていない庭だ。
よく兄と砂遊びしてたっけ。
そんな思い出は偽りだ。わたしは頭を振って思考を現実に戻した。
人の声がした。ボールがこちらに転がってきている。誰かが家の中に入ってきた。近所で遊んでいる少年少女たちだ。
叫べば届く距離にいる。助けを求めれば答えてくれる距離。でも、出来ない。いざ助けを求めても手を差し伸べてくれなかったら、家族から何をされるか想像しただけでも失神する。
家族はいないのだろうか。少年がコソコソ玄関から入ってきても、怒る声がしない。留守中か。少年が近づいてきた。ボールを取るためだろう。
人が入ってくることは、稀だった。しかも、家族じゃない他人が庭を出歩いているのは初めてだ。普段は、玄関の重い扉を開ける前に、家族が客人を相手する。家の中にも、庭にも一歩も入らせない。
見つかるはずもないのに、わたしは隠れた。そっと覗きこむと、少年が屈んでボールに手を差し伸べていた。わたしはその姿を、じっと眺めた。
背景にある太陽の光が、スポットライトのように眩しい。少年の姿が逆光で見えない。わたしは少し、顔を上げた。その少年の顔を見たくて。
その少年と目が合った。鉄格子越しで。大きな純粋な丸い瞳とぶつかる。わたしはさっと隠れた。少年は声をあげて、さらにこちらをうかがっている。鉄格子に手を入れてきたり、声をかけてきたり、外の人怖い。
わたしは息を殺した。家族の誰でもない人が侵入してくる。ただただ怖かった。もし、この手を受け止めたら、どんな罰が下されるだろう。もっと痛いことされる。早く帰ってほしい。
でも少年は、割としつこい。鉄格子をガンガン叩きつけて割ろうとしている。わたしは耐えに耐え切れなくて
「帰ってっ!」
と叫んだ。
空気が静まり返った。ひんやりしている。地下が寒いからじゃない。少年に人がいることを分からせてしまった。自分か墓穴をつくった。
やっぱりわたしは、何やってもだめなんだ。いつもいつも、肝心なところで躓く。分かっているのに、何度も失敗する
「ねぇ、そこにいるの?」
声が反響して、さらにおぞましく聞こえる。まだ声変わりしていない、甲高い声。わたしは耳を塞いだ。家族以外の他者と触れ合うのは、五歳以来で、久しぶりで怖い。この人も、わたしのことを殴るんだ。
殴られるのが怖い。
わたしは、他者との言葉が自分に投げられるのが怖くて耳を塞いだ。
いつの間にか、少年の姿はなかった。少年少女たちの姿もない。ほっとした。やっぱり他人は怖い。ほんとにいないか、そっと顔を覗かせて確認した。その時だった。
「わっ!」
少年が突然目の前に。わたしはびっくりしすぎて、固まった。少年はまだそこにいたのだ。隠れてわたしが出て来るのを待っていたのだ。そうとは知らず、わたしはノコノコ顔をだした。
純粋で無垢な瞳、あどけない顔、少年はにっと笑った。
「やっぱり人いた! こんなところでなにしてんの?」
なにしてんの、て聞かれてもあなたこそ、なにしてんの。ここは人のうちの庭なんだよ。早く帰ってよ。
わたしは隠れた。隠れるしかなかった。少年の明るい表情と太陽の光が眩しすぎてもある。少年はまだ、明るく話し掛けてきた。
「ねぇ、なんでそこにいるの? 暗くない? ここの家の人? でもここって、兄弟はいるけど、女の子いないて聞いたけどなぁ。君名前は? ここで遊んでたの?」
もうやめて。話しかけないで。怖い。わたしが怖がっていることに、少年は一切気づいていない。ずっと無視を続ければいいけど、そろそろ、家族が帰ってくる。家主がいないときに、勝手に足を踏み入れたらどうなるか、そして巻き添えにわたしも罰をくらう。
早く帰れ。早く早く早く早く。
遠くから、少女の声が聞こえた。また知らない人。玄関の奥から聞こえる。
「亮太ぁ! ボール取ったなら早く帰ってきてよ! 試合が終わるじゃない!」
少女の金切り声に、少年はしぶしぶ返事をして帰っていった。玄関まで出ていく後ろ姿を眺めた。やっと帰ってくれた。
家族以外の人が至近距離にいたのは、生まれて初めてかも。家族以外の人にバレてしまった。ここは、近所では大きなお家だ。屋敷がある。大きなお家に、池がある庭。近隣住民からは、ニコニコ挨拶された。五歳までの朧げな記憶だけど。
わたしは大きな息を吸った。緊張が溶けて緩やかになっていく。
その日、家族は自分の家に他人が入ってきたことは知らない。罰はくださなかったから。ほぼ日課の兄の儀式と、治療と言って傷を抉る兄にいたぶられ、母からはこの世にある罵倒台詞を言われた。毎日の繰り返し。それでいい。
痛い罰も下さらないから、平気だ。少年も、お化けを見たと思ってここには来ないだろう。家族全員が外出しているのも、滅多にない。
わたしの予想を遥かに超えた出来事が起きた。少年がその日から現れるのだ。家族がいるときも、目を盗んではやってくる。
わたしは隠れている。少年はそこにわたしがいると思って、話し掛けてくる。毎日毎日。〝学校〟とかいう兄たちが行っている施設で楽しかったこととか、〝部活動〟ていう体を動かす団体で、頑張っている話とか、色々聞かされる。
返事はしなくても、次から次に話題を持ちかけてくる。飽きもしないで。そんな少年の根気強い粘りから、わたしはいつしか負けて、少年と会話するようになった。
時々分からない単語がサラリと出るから、その単語の意味を聞くと、少年は詳しく教えてくれる。少年からよく聞かされる〝学校〟や〝野球〟というものに、興味がわいた。
冷たいコンクリートに狭まれ、錆びた鉄格子の奥には、信じられないほど大きくて広い世界がある。
四季ごとに変わる木々。青い空。歓声に笑い合うひとたち、外の世界を見てみたい、と思ってしまった。
「だったら、一緒に行こうよ」
亮太くんが言った。
亮太くんは簡単に言ったけど、そんな簡単な話じゃないんだよ。
「このまま、ずっとそこにいるつもり? 酷いことされて、苦しむ君は見たくない。僕が必ず君をそこから連れ出す」
わたしは、亮太くんの顔をまじまじと見た。真剣な表情だった。わたしに差し伸べる手。その手は、殴る手でも痛めつける手でもない。その手は、救いだった。
鉄格子越しに指し伸ばされたその手を掴んだ。外の世界を知った鳥は、この小さな箱に収まるわけがない。もっと世界をこの目で見てみたいと、小さな翼を羽ばたくのです。
地下だから、夏には快適だ。地下は季節問わず温度が一定している。冬だけは隙間風が入ってきて、寒いけど。夏はまだまだ快適。
鉄格子の窓から、不意に外を覗いた。小さな窓だから、一体全体どうなっているのか分からない。家の庭がまず映る。八年前から変わっていない庭だ。
よく兄と砂遊びしてたっけ。
そんな思い出は偽りだ。わたしは頭を振って思考を現実に戻した。
人の声がした。ボールがこちらに転がってきている。誰かが家の中に入ってきた。近所で遊んでいる少年少女たちだ。
叫べば届く距離にいる。助けを求めれば答えてくれる距離。でも、出来ない。いざ助けを求めても手を差し伸べてくれなかったら、家族から何をされるか想像しただけでも失神する。
家族はいないのだろうか。少年がコソコソ玄関から入ってきても、怒る声がしない。留守中か。少年が近づいてきた。ボールを取るためだろう。
人が入ってくることは、稀だった。しかも、家族じゃない他人が庭を出歩いているのは初めてだ。普段は、玄関の重い扉を開ける前に、家族が客人を相手する。家の中にも、庭にも一歩も入らせない。
見つかるはずもないのに、わたしは隠れた。そっと覗きこむと、少年が屈んでボールに手を差し伸べていた。わたしはその姿を、じっと眺めた。
背景にある太陽の光が、スポットライトのように眩しい。少年の姿が逆光で見えない。わたしは少し、顔を上げた。その少年の顔を見たくて。
その少年と目が合った。鉄格子越しで。大きな純粋な丸い瞳とぶつかる。わたしはさっと隠れた。少年は声をあげて、さらにこちらをうかがっている。鉄格子に手を入れてきたり、声をかけてきたり、外の人怖い。
わたしは息を殺した。家族の誰でもない人が侵入してくる。ただただ怖かった。もし、この手を受け止めたら、どんな罰が下されるだろう。もっと痛いことされる。早く帰ってほしい。
でも少年は、割としつこい。鉄格子をガンガン叩きつけて割ろうとしている。わたしは耐えに耐え切れなくて
「帰ってっ!」
と叫んだ。
空気が静まり返った。ひんやりしている。地下が寒いからじゃない。少年に人がいることを分からせてしまった。自分か墓穴をつくった。
やっぱりわたしは、何やってもだめなんだ。いつもいつも、肝心なところで躓く。分かっているのに、何度も失敗する
「ねぇ、そこにいるの?」
声が反響して、さらにおぞましく聞こえる。まだ声変わりしていない、甲高い声。わたしは耳を塞いだ。家族以外の他者と触れ合うのは、五歳以来で、久しぶりで怖い。この人も、わたしのことを殴るんだ。
殴られるのが怖い。
わたしは、他者との言葉が自分に投げられるのが怖くて耳を塞いだ。
いつの間にか、少年の姿はなかった。少年少女たちの姿もない。ほっとした。やっぱり他人は怖い。ほんとにいないか、そっと顔を覗かせて確認した。その時だった。
「わっ!」
少年が突然目の前に。わたしはびっくりしすぎて、固まった。少年はまだそこにいたのだ。隠れてわたしが出て来るのを待っていたのだ。そうとは知らず、わたしはノコノコ顔をだした。
純粋で無垢な瞳、あどけない顔、少年はにっと笑った。
「やっぱり人いた! こんなところでなにしてんの?」
なにしてんの、て聞かれてもあなたこそ、なにしてんの。ここは人のうちの庭なんだよ。早く帰ってよ。
わたしは隠れた。隠れるしかなかった。少年の明るい表情と太陽の光が眩しすぎてもある。少年はまだ、明るく話し掛けてきた。
「ねぇ、なんでそこにいるの? 暗くない? ここの家の人? でもここって、兄弟はいるけど、女の子いないて聞いたけどなぁ。君名前は? ここで遊んでたの?」
もうやめて。話しかけないで。怖い。わたしが怖がっていることに、少年は一切気づいていない。ずっと無視を続ければいいけど、そろそろ、家族が帰ってくる。家主がいないときに、勝手に足を踏み入れたらどうなるか、そして巻き添えにわたしも罰をくらう。
早く帰れ。早く早く早く早く。
遠くから、少女の声が聞こえた。また知らない人。玄関の奥から聞こえる。
「亮太ぁ! ボール取ったなら早く帰ってきてよ! 試合が終わるじゃない!」
少女の金切り声に、少年はしぶしぶ返事をして帰っていった。玄関まで出ていく後ろ姿を眺めた。やっと帰ってくれた。
家族以外の人が至近距離にいたのは、生まれて初めてかも。家族以外の人にバレてしまった。ここは、近所では大きなお家だ。屋敷がある。大きなお家に、池がある庭。近隣住民からは、ニコニコ挨拶された。五歳までの朧げな記憶だけど。
わたしは大きな息を吸った。緊張が溶けて緩やかになっていく。
その日、家族は自分の家に他人が入ってきたことは知らない。罰はくださなかったから。ほぼ日課の兄の儀式と、治療と言って傷を抉る兄にいたぶられ、母からはこの世にある罵倒台詞を言われた。毎日の繰り返し。それでいい。
痛い罰も下さらないから、平気だ。少年も、お化けを見たと思ってここには来ないだろう。家族全員が外出しているのも、滅多にない。
わたしの予想を遥かに超えた出来事が起きた。少年がその日から現れるのだ。家族がいるときも、目を盗んではやってくる。
わたしは隠れている。少年はそこにわたしがいると思って、話し掛けてくる。毎日毎日。〝学校〟とかいう兄たちが行っている施設で楽しかったこととか、〝部活動〟ていう体を動かす団体で、頑張っている話とか、色々聞かされる。
返事はしなくても、次から次に話題を持ちかけてくる。飽きもしないで。そんな少年の根気強い粘りから、わたしはいつしか負けて、少年と会話するようになった。
時々分からない単語がサラリと出るから、その単語の意味を聞くと、少年は詳しく教えてくれる。少年からよく聞かされる〝学校〟や〝野球〟というものに、興味がわいた。
冷たいコンクリートに狭まれ、錆びた鉄格子の奥には、信じられないほど大きくて広い世界がある。
四季ごとに変わる木々。青い空。歓声に笑い合うひとたち、外の世界を見てみたい、と思ってしまった。
「だったら、一緒に行こうよ」
亮太くんが言った。
亮太くんは簡単に言ったけど、そんな簡単な話じゃないんだよ。
「このまま、ずっとそこにいるつもり? 酷いことされて、苦しむ君は見たくない。僕が必ず君をそこから連れ出す」
わたしは、亮太くんの顔をまじまじと見た。真剣な表情だった。わたしに差し伸べる手。その手は、殴る手でも痛めつける手でもない。その手は、救いだった。
鉄格子越しに指し伸ばされたその手を掴んだ。外の世界を知った鳥は、この小さな箱に収まるわけがない。もっと世界をこの目で見てみたいと、小さな翼を羽ばたくのです。
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