なずなの日和風

青桜さら

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なずな

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『あなたに私の全てを捧げます』
 なずな:花言葉。 

◇◇

「それなら、一緒に住んでもいいですか?」
 目の前にいた高野という大学生に、いきなりそう切り出された。
 サラダを食べようとしていた誠二は、箸を落とす。
 
 そもそも、この居酒屋『なずな』でアルバイトをする大学生で、名前は『高野』と書いてあるネームプレートで知った程度の間柄。
 誠二は今言われたことが理解できずに、落とした箸の転がり落ちる音が聞こえた。
 
 たった数時間前に偶然『高野』くんと出会って、そのままアルバイト上がりの彼と食事をすることになった。この店『創作料理なずな』で。
 誠二はこの店の常連でよく来ていた。友人ともよく来る店だ。
 少し不愛想な店員は『高野』というネームプレートを付けていて、挨拶するくらいには顔見知りになったと思う。
 とはいえ、彼のアルバイトが上がりだからと言って……店員と客が向かい合わせに座って食事をするという違和感は、どうしても拭えない。
 一回り以上も年下の大学生。はたから見たらいったいどう見えるだろうか?
「なにか苦手な食材がありましたか?」
「いや、大丈夫」
 問題は食材ではないんだ。何をどうしたら食事をし合う関係になるのか、誠二はどうしても納得いく答えが出せない。
「今日の食材も新鮮なので、きっと好きだと思いますよ」
「…………」
 確かにこの店の野菜は、契約農家から直送で安心かつ新鮮な野菜を提供してくれる。
 実家暮らしをしていても、いろいろ訳ありで夕食くらいはのんびり外で食べるようにしている。そんな誠二には、ありがたい店だった。 
  
「高野くんは――」
「高野遥人(たかのはると)です。遥人と呼んでください」
 笑顔でそう言われると、誠二は断ることができなかった。諦めて名前で呼ぶことにする。店員のときはそんな笑顔を見たことがない。
 誠二は、そこまで親しいわけじゃないんだけど、と戸惑う。
「遥人……は、この店に詳しいんだね」
 敬称を付けようとして、無言の圧力を感じて呼び捨てすることになった。無言の圧力、あの笑顔が誠二は弱かった。逆らえない何かがその笑顔にはあると、誠二は思う。
「この店は僕の叔父がやっているんです。有機野菜って作るのが大変なの知ってますか? 実はそこの農家が叔父の友人なんですよ。いつも人手が足りないって駆り出されるんです」
「有機野菜ってそんなに大変なの?」
「ええ、土作りからですから。正社員として募集しているらしいんですけど、かなり大変な力仕事だから人が定着しないんですよね」
 ため息交じりに言う遥人は、言葉ほどに困っているように見えない。誠二が首を傾げると彼はそれに気づいて話を続ける。
「僕は大学でそんな感じの勉強を専門にしているので、大変ではあるけどこの目で得る知識はかなり貴重なんです」
「このお店も、その農業も好きなんだな」
「もちろんです。美味しいでしょう?」
 確かに美味しい。
 曇りのない笑顔に、誠二は警戒していたことを忘れていた。

 そもそもただの店員と客が、同じテーブルで食事をする。それは普通のことではないことで、でも配膳してくれる別の店員は何も言わない。
 店の忙しさから店長もフロアにいて、時折目が合うけど笑顔を向けてくるだけ。
(なんとなく苦笑に見えるのは、気のせいだろうか?)
 ほろ酔いの誠二は不思議に思う。察した遥人は、サラダを取り分けてくれながら聞いてきた。
「誠二さん、どうかしました?」
「いや、店内が混む時間だなと思って。よく上がらせてもらえたな」
「僕は大学生なので、学業優先なんです」
 そう言いながら、今度は彩りよく盛られた刺身が運ばれてきた。
「叔父さん、ありがとうございます」
「いやいや、遥人君もいつも手伝ってくれてありがとうね。これ、サービスのお刺身だから食べて」
 そんな店長に誠二は緊張しながらお礼を言う。
 サービスでこれほどの盛り合わせは、出さないだろう。でも店長が遥人の叔父で、この料理がサービスというなら、なんとなく理解ができるような気がした。
 ただ、店長と話している遥人は笑うことなく不愛想に見える。
(何かが引っかかる)
 そう思うけど、具体的にわからない。
 再び誠二を見た遥人は笑顔で、どの顔が素顔なんだろうと悩んだ。

 一人より誰かと食べるご飯は、とても美味しい。
 柔らかなサラダ菜の葉、ちぎられたレタス、細切りのニンジン。上にかけられた崩された茹で卵とオリジナルのドレッシングが、よく合う。
 刺身はカツオとホタテとイカ、そしてマグロ。薬味は大葉、わさび、生姜にニンニク。
 それに添えてある花が紫、白、黄色ときれいに飾られていた。
「この花も食用なので食べられますよ。別のメニューで彩りサラダにも入っている花です」
 透明なグラスに注がれるお酒はウイスキー。歩いて帰られる距離だからたまに飲む程度だけど、今夜のお酒はいつもより美味しくて少し飲み過ぎたかもしれない。
「誠二さんは実家に住んでいるんですね」
「この年で同居もどうかと思っているけど。いや、マンションは買ってあるんだ。ただ……。いやまて、なんで実家暮らしって知っている?」
「一人で暮らしているなら、多少なりとも自炊はするでしょうし、なにか事情があるから頻繁に来ているのかと思っていました。違ったらすいません」
 すいませんという割りには、どうして笑顔なのか疑問だ。
 それから遥人の言ったことは正しくて、一回りも年下の学生に指摘される大人には、耳の痛い事実だった。

 お酒のせいで、他人に話す必要のないことまでいつの間にか愚痴をこぼしていた。
 今夜は特にいろいろあって疲れていたせいもある。
「誠二さんはそのマンションに住まないんですか? もったいないです」
「売ろうかなって、考えている。でも実家も出たい……今は迷っているかな。そのマンション家族用なんだよ。俺一人じゃ広すぎるし、そもそも家事全般が俺は全くできない」
 ため息と共にそんな弱音も落ちていく。
「なぜ家族用?」
「婚約者と一緒に購入したんだ」
 ほんの少し息をのむ遥人に、誠二は気が付かない。
 遥人もまた何も答えない。

◇◇

 半年ほど前に婚約者とマンションを決めて、誠二が購入した。
 家具も徐々にそろえていって、彼女の希望をなるべく取り入れたインテリアにしていった。和風モダンのライト、クイーンサイズのベッド、オーダーメイドのカーテン、ソファーは海外から取り寄せた。
 誠二にとって贅沢な買い物だった。だけど彼女を幸せにしてあげたかったから、多少のわがままも聞いてきた。
『あと数ヶ月で一緒に住めるのね』
 そう言った彼女は、その二日後に兄の嫁になっていた。
 気まずそうな彼女としたり顔の兄を、両親はとても喜んでいた。
(また兄に取られたのか)
 何かあるごとに誠二のものを奪う。
 兄は誠二を今でも恨んでいる。

 そもそものはじまりは、誠二が超未熟児として生まれ落ちた頃からだ。
 生きるか死ぬかの瀬戸際だった誠二を、みんなが見守っていた。
 四十歳前の今では体の線は細いけれど、健康的な体に恵まれ過ごしている。

 誠二が未熟児で入院していた数ヶ月、幼い兄は親戚に長い間預けられていたらしい。一緒に住むようになっても、兄の嬉しそうな笑顔を誠二は見たことがない。
 トラウマになるほどに、誠二を嫌っている兄は、今まで徹底的に嫌がらせをされてきた。
 心配させたくなくて誠二は両親に言わなかったけれど、母は兄の一方的な話を信じるようになり家の中で誠二の居場所はすべて奪われていった。  
(今でもまだ、恨んでいたのか……)
 そんな誠二の諦めが、心に降り積もる。
 兄に流された元婚約者には諦めしかなく、愛情の欠片さえ残らない。
 すべてきれいに消してしまいたかった。彼女の存在も、マンションも家具も。
 すぐにそれをするには、誠二の心の整理がついていなかった。
 だから今もまだ、マンションを手放す決意ができない。

◇◇

「まあ、なんというか……察してくれる?」
 簡単にしか説明できなくて、とても曖昧な答えになった。
 それを聞いて遥人は何かを少し考え込む。
 家族になろうと決意し購入したマンション。それが必要なくなったということは、つまり相手がいなくなったってことだ。
 そのくらいなら遥人も予想できるだろう。
 ちょっと気まずい空気を紛らわせるように、誠二はグラスに残っていたウイスキーを飲み干した。
 いつもならそれほど呑まないけど、今夜は促されるままに飲んでいく。
 ふと、グラスを持つ自分の腕が目に入る。

 未熟児で生まれ落ちたものの、ここまで成長できたのは両親と周りの人たちのおかげ。
 だけど、男らしいとは言いがたい腕の細さ。仕事が体力使うのに、他の従業員よりも一回りも小さい。
 顔つきも母親に似た。
 兄と比べても正反対だろう。恋人を兄にまた取られたけど、そもそも見た目で気持ちが変わるような人と家族になりたくなかった。
 学生の時から三つ年上の兄は、誠二に恋人ができると奪っていく。無理矢理ではなく、男性的な魅力で。
 なぜここまで……と、そう思った時期もあった。
 今はもう諦めているし、結婚間近だった恋人は兄を知っていても誠二から離れなかった。そう思っていた。
 二股をかけられているなんて、そんなこと考えもしなかった。
 兄と天秤にはかられて、最後の決断で兄を選んだのだろう。今さら真実なんて知りたくない。
 兄は何を考えて、ここまで誠二のすべてを押しつぶしていくのだろう。
 そう思うほどに執拗な嫌がらせは、今も続いている。

「それなら、一緒に住んでもいいですか?」
 目の前で考え込んでいた遥人は、ふと思いついたようにそう切り出す。
 サラダを食べようとしていた誠二は、箸を落とした。

◇◇

 今日から、誠二と遥人は同居することになった。
 あの食事のときのことに、誠二がしばらく何も言えなかった。
 遥人は遥人自身の事情を、詳しく話してくれた。
「実は大学とアパートの距離が遠いのです。在学中だけでも、ひとつ部屋をお借り出来たらとても助かると思って……どうですか? 家事も料理もできますよ?」
 学生なら無理して高いアパートに住むことは、難しいだろう。
 それに誠二にも、その提案は嬉しいものだった。
「……最初に言っておくけど、俺は料理だけじゃなくて家事全般が全くできない。家賃を安くするから、家事を教えてくれると嬉しんだけど。どう?」
 遥人はそれでも即座に了承してくれた。   

 あれから数日後、誠二は先に実家から荷物を運び込む。
 マンションに家具などはあるから、必要なものだけを厳選して荷造りしておいた。
 珍しく父がトラックを出してくれるというので、その言葉に甘え一度で荷物を運び入れることができた。
 父は家族用マンションのことも、誰と住むのかとか、家を出る理由も聞かずに黙々と手を貸してくれる。
 少し不器用な父だなと昔から想っていたけど、本当に不器用な父かもしれない。
 謝礼を渡そうとしたら、断られてしまう。そして逆に、封筒を手に乗せられる。
「それは謝礼はいらないから、それは生活費にするように。……俺からの封筒は、引っ越し祝いだ。家族には内緒で頼む」
 それだけ言い、父は帰っていった。
(家族に興味がないんじゃなくて、ただ生き方が不器用なんだ)
 そう思うと、父に対して印象が少しだけ良くなっていく。

 昼過ぎに遥人と彼の友人が、引っ越しのために誠二のアパートへ着いた。
 優しそうな表情をした髪の長い女性と和やかな会話をしつつ、遥人は誠二に挨拶をした。 
「誠二さん、今日からお世話になります」
「よろしく。ところで男性の中で女性が混じるというのは、危険があるんじゃないのか? いつもこんな感じで一緒にいるの?」
 その言葉に女性は髪を一つにまとめながら、にっこりと笑む。
「お心遣いありがとうございます。こう見えても鍛えているんですよ。それに友人も助けてくれるので大丈夫です」
 澄んだ声だけど、少しだけ低めの声。彼女の豊かな黒髪は光に反射して煌めく。
「誠二さん。こちらは僕の友人で、香織(かおり)です。香織はおしとやかに見えても護身術は強いので、心配しないでください。大丈夫ですよ」
 誠二が心配していたことを遥人は察して、彼女の説明をしてくれた。
 
 お互いに自己紹介をしているうちに、誠二の友人が片付けの手伝いに来た。
「遅くなって、悪い。ちょっと配達してた」
「俺も悪かった。寝坊した」
 そんな友人に誠二は苦笑し、ありがとうと伝える。家事ができないからこそ、助けに来てくれた二人は、学生からの親しい友人だ。
 配達で遅れたのは、農園を営む久志(ひさし)。それから寝坊した友人は、システムエンジニアの直也(なおや)。
「じゃ、今日はよろしくお願いします」
 誠二の言葉にみんな頷いて、それぞれ荷物を抱えて部屋へ散っていった。
 家族には恵まれなかったけど、友人にとても恵まれたと思う。

◇◇

「今日はお疲れ様でした。おかげでほぼ片付いたよ」
 手伝いに来てくれたみんなにそう言うと、そろって優しく笑う。
「あの……誠二さんは、洗濯ができないって本当ですか?」
 そう聞いてきたのは、香織だった。
 嫌な予感がするけれど……これはおそらく。
 そう考え、誠二の友人で背が高くすらりとした久志を見る。そっと目をそらす彼をみて、誠二は理解した。
 少し小柄で日に焼けていない直也もまた、一緒に視線を外す。
 片付けをしながらいろんな雑談とともに、誠二についていろいろ語ったと。
 遥人の友人としては心配して聞いていたのかもしれないけど、久志が話したことは確かなようだ。
「洗濯機に服入れて、洗剤を入れれば良いんだろう。だけどやったことはないから、それ以上は知らない」
 やったことはないけど、一応知っている。
 何事も勉強をしていけば大丈夫。いざとなれば、取扱説明書を読む。あるいは、遥人に聞いても大丈夫だろう。
 家賃を相場の三分の一にしたのは、家事全般を教えてもらうことが条件だ。
 遥人が卒業するときまで、ある程度できればそれでいい。
(きっと俺はこの先ずっと独りで、生きていくだろうから)
 もう何も失いたくないと、誠二は思う。

 ダイニングテーブルに、いろんな料理が並んでいく。
 材料は久志の農園で扱う有機野菜だという。
 見渡せば皆ある程度のことは、軽くこなしているように見えた。
 誠二は何をしたら良いのかさえわからなくて、配膳しか手伝うことができない。
「さて、揃ったね」
 久志の言葉で、皆は席に座る。
 足りない椅子は代用で脚立だったり、折りたたみ椅子だったり、書斎の椅子も出ていた。
(座ることができれば、問題ないのか?)
 神経質な方ではないけど、誠二は大らかな彼らに驚く。

 リビングの空間には、お店とは違う家庭的な料理の香りがした。
 そんなことに誠二は嬉しく思う。
 新しい生活に、家庭的な香り。親しい友人達と食事を楽しむのが、無性に心が躍る。
「こっちのサラダは、オリジナルドレッシングをかけてね。スープに鶏肉入れたから、しっかり食べていって。魚と野菜のグリル焼きには好きなソースを」
 久志が一通り説明していく。
 彩りがきれいで、料理ってすごいなと誠二は改めて感じた。
「野菜がとても美味しい!」
 香織は満面の笑みでそう言った。
「ドレッシングってどの店で買ったのもですか? すごく美味しい」
「これはオリジナルだ。ちょっとした隠し味で、かなり変わっていくんだ」
「うーん……味わっても真似できない」
 誠二はふと思う。
 久志の農園は契約の店に卸すのがほどんど。なら、ここに並んでいる野菜は誠二のために、わざわざ収穫してきてくれたのだろう。
 実家からの独立に、久志も直也も心から祝ってくれているということだ。
「久志、わざわざありがとうな。すごく美味しいよ」
「祝いだって言っただろう? 気にするな」
 久志に直也の二人は、誠二の実家での問題を知っている。
 だからこそ、今回の実家を出るという決断は彼らをかなり安堵させたのかもしれない。
「ほら、グリル焼きの魚。美味しいよ。俺からは焼酎な、貰いものだけど一人で呑むんじゃ寂しいからな」
「未成年には……呑ませるなよ」
 ここには女性がいる。やはり心配だ。
「誠二さん大丈夫。僕たち全員、成人していますよ。それに香織もお酒に強いし、いざとなれば僕がいますから、安心してくださいね」
 隣に座る遥人は、誠二の心配を見抜いたように教えてくれる。
 よく見れば、長身の鍛えられた体を持つ遥人。今日はシャツではなくて、ニット系の薄手の服を着ているせいか、より逞しく見えた。
 確かに遥人がいるなら、大丈夫だろう。

「さて、夜が更ける前にお開きにしよう」
 誠二の言葉に不満の声が上がる。
「料理もデザートも酒も終わった。食後のコーヒーも。それから女性がいるんだから、気を使わないとだめだろう。香織さんを家まで送る人はいる? タクシー呼ぶ?」
 過保護だと言われようと、女性を守ることは全力で努力したい。
「あ、俺が同じ方向なので送っていくよ」
 直也が軽く手を上げて答える。
 彼女もうなずく。この信頼関係なら大丈夫だろうだと、誠二は考えた。
「お疲れ様でした。ご馳走様でした」
 それぞれそう言って、荷物を持ち玄関に向かう。
 そして、皆が玄関から出て行き遥人と二人残された。
「えっと、明日から家事とかよろしくお願いします」
「誠二さん、なんでそんな口調なんですか? 僕は家賃を安くしてもらったんですから、そんな言葉遣いはやめてください」
 遥人はそう言った。

◇◇

 さぁ寝ようか、というときに問題が起きた。
「遥人、ちょっと意味がわからないんだけど。もう少し詳しく説明してくれ」
 本当は聞こえていた。聞こえていたけど、脳がそれを受け入れない。
 できれば、聞き間違えであって欲しいという願いを込めて、遥人に説明を求めた。
 けれど……。
「はい。ですから寝具を間違えて捨ててしまいました。でも心配しないでください。引っ越しの段ボールが山ほどあるんですから」
 にっこりと笑う彼を、恨めしく思う。
「お前……まさか、段ボールで寝るとか言わないよな?」
「寝ますよ。暖かいですし、他に寝るところもないですから」
(せめて、客用の布団を用意しておくべきだった)
 友人を泊めるという経験もなかったから、客用に寝具を用意しておくということは思いつかなかった。
 生活力の無さは、こんなところで発揮されるとはと誠二は頭を抱える。
(若いから段ボールで寝ても、体が痛くなることはないだろうなぁ。だけど、そもそも同居しているのに、段ボールで寝ることを見ないふりもできない)
「せめて、明るいうちに言ってくれれば、買いに行けたのに」
 誠二はため息交じりにそう呟く。
「すいません、ついうっかり忘れてました。では、お休みなさい」
 そう言って主寝室を出て行こうとする遥人に、誠二は思わず止めた。
「ちょっと待て、それは俺が嫌だ。段ボール以外に寝袋とかないのか? さすがに気になって俺が眠れない。ソファーで毛布くらいなら……」
「誠二さんなら大丈夫でしょうけど、僕だと足が出ちゃいます。その方が寒いですよ? どうしても段ボールに反対されるなら、その広いベッドの端をお借りしてもいいですか? 二人寝ても余裕がありそうですし」
 誠二はちらりと背後のクイーンサイズのベッドを見る。
 確かに広い。遥人の足が出る心配もないくらいゆったりしていた。
 問題は別の問題を呼ぶ。
「男同士で? 一緒に?」
 信じられない気分で遥人に聞き直す。
「いえ、むしろ同性だから安心でしょう? これが女性の友人だったほうが問題だと思いますが」
 正論だ。いや、正論なのか?
 困惑する誠二を遥人は真顔で見つめる。
「嫌ならそれでもいいです。僕は段ボールで寝るだけですから。これは僕のミスで、僕の問題です。では、お休みなさい」
 いつも笑顔を見ていたせいか、その表情は少し怖い。そして突き放されたようで誠二は悲しくなる。
(広いベッドの半分を一晩だけなら、平気か?)
 シングルベッドなら断るけど、こんなに広いのに貸さないというのも非情かな。
 そんなに意固地にならなくても、良いことではないか。
「遥人待て、段ボールは頼むからやめてくれ。半分なら貸すから、それで今夜は我慢して寝ろ。布団は明日買いにいこう」
「良いんですか? ありがとうございます」
 誠二が諦め折れると、遥人はとても嬉しそうに笑った。
(俺はきっとこの笑顔に弱いんだろうなぁ)
 それから二人並んでベッドに入る。
 確かに触れることもないほどに、ベッドは十分に余裕があった。
(これなら眠れそうだ)
「誠二さん、おやすみなさい」
「おやすみ」
 これで今日一日が終わる。
 誠二はそう思って、目を閉じた。

◇◇

「……誠二さん」
 誰かに名前を呼ばれた気がする。声を潜めるように一度だけ。
 誠二をそう呼ぶのは、遥人だけだ。だけど、彼はこんな甘い声は出さない。
(夢を見ているのかな)
 誠二はそう思い、再び深い眠りに沈んでいく。
 まどろみの中で、唇に何かがしっとりと触れた気がした。

◇◇

「おはようございます。朝ご飯にしましょう」
 遥人に起こされ、慣れない朝に戸惑う。
 いつもなら、休みの朝は遅く起きていた。
 だけどキッチンの方から、良い匂いが流れてくる。
 誠二より早起きをして朝食を用意していた。それなら誠二は起きるべきだろうと判断する。
「おはよう」
 寝起きのかすれた声とともに、誠二は寝具から体を起こす。
 冬の空気は乾燥しがちで、少し困る。
(昨夜に何かの夢を見たよな気がするんだけど、思い出せない……)
 思い出そうとすると、霧を掴むような気分になる。
 何かが印象的だった。だけどそれが何かが、思い出すことができない。
 夢とはそんなものだろう。
 思い出せないことにいつまでもこだわっていては、時間の無駄と考え誠二は良い匂いのするダイニングに移動する。

 ダイニング件リビングに、対面キッチン。その部屋に入って、誠二は寝坊したことをとても後悔した。
 テーブルの上には、盛られた白いご飯、豆腐とワカメの味噌汁。それから、昨日の夕食の残りが温められていて、すぐにでも食事ができるように用意してあった。
(休みの朝は、遅く起きると言ってなかったな)
 何事も言葉にして伝える大切さを、誠二は椅子に座りながら噛みしめる。
(いや、休みの日も早く起きたほうが健康的か)
 二人向かい合いに座り、手を合わせいただきますと箸をとる。
 誠二が最初に手に取ったのは、湯気がふわりと舞うみそ汁。
「美味しい。家庭の味がする」
「そうですか? ありがとうございます」
 遥人は嬉しそうに、礼を言いながら小皿に根菜の煮物を取り分ける。
「でも誠二さん、みそ汁なんて珍しくはないでしょう? 簡単ですし」
「いや、ちょっと家庭の事情がややこしくて……ここ数年はみそ汁を飲んでいないんだ。簡単なら暇なときに教えて欲しい」
「はい、わかりました」
 そのあとは言葉を交わすことなく、食べることに夢中になった。
 白いご飯は、どこでも同じ味だと思っていた。だけど、炊き立てのご飯はすごくい美味しい。
 成長期の子供のように夢中で食べるのは、少しだけ恥ずかしい。
 心に滲みる朝食に、誠二はとても嬉しかった。

「なぁ遥人、今日は布団を買いに行け」
 残さず食べ終わり、とりあえずお皿を簡単に片付けた後にコーヒーを飲む。
 ふと昨日の寝具問題を思い出して、買いに行くことを提案した。
 そんな誠二の言葉に遥人は、マグカップをテーブルに置く。
「実はですね、今月ちょっとお金が足りなくて買えないんです」
「は?」
「恥ずかしい話ですけど、学生なのでアルバイトばかりするわけにもいかなくて……」
 語尾を濁す彼は少し困っているような顔をした。
「じゃあ、俺が買ってやるから」
「いえいえ、布団は実家にお願いしました。ただちょっと納品まで期間があるみたいなんです」
 お金の貸し借りはトラブルの元ですから、と遥人に言われてしまうと正論過ぎて反論できなかった。
(ん? 納品まで期間はどうなるんだ?)
 心を読んだかのように、遥人は話を続けた。
「できれば昨夜のように、ベッドの端をお借りできたら嬉しいです。迷惑であれば段ボールはたくさんありますし、それはそれで問題はないかと考えています」
(心情的に俺のほうが問題だ)
「いやいや、同性同士で同じベッドなんて」
「広かったですよ?」
「そうじゃない。広さの問題じゃなくて……」
「異性の方が問題だと思いますけど?」
 昨夜も同じ話をした。
 確かに異性の方が、問題は大きい。未婚の異性がベッドを共にする……それは間違いを起こす可能性が高い。
 同性ならその危険性はない、誠二はそう思ったけれど。  
「いやだからといって、同性だから大丈夫という問題でもないだろう。これから家事を教えてもらうお礼として、布団を買うからそれでどうだ?」
「実家から注文した布団が届いたら、もったいないです。それならまだ、段ボールで過ごした方がお金の無駄になりません」
 誠二は深く息を吐き出した。
 遥人は少し大雑把な性格なのかもしれない。そして意固地。いや柔軟過ぎるのかもしれない。
 誠二は考える。
(どうしても俺が買うことは嫌だと言う。ベッドの端を貸さなかったら、本気で段ボールに寝るだろうなぁ)
 考えても考えても、答えはすでに出ている。
 ときには諦めも必要なのかもしれない。
「わかった。布団が届くまでベッドの端を貸す。段ボールは来週に全部出すから、使うなよ?」
 その言葉に遥人はにっこり笑う。
「ありがとうございます」
「あ――だけど、あれだ。俺を抱き枕の代わりにしないでくれ」
 朝方にふと目が覚めたとき、遥人に抱きしめられていた状況はとても心臓に悪かった。
「それは本当にすいません。実家で犬を飼っていたんです。つい癖で」
「犬、か」
 謝る割りに申し訳なさそうな雰囲気がない。
 誠二は寝具と抱き枕のことは諦めた。


 同居をはじめて二週間が経つ。
 初日のような問題は特になく、一緒に過ごせている。
 寝具と抱き枕の問題だけは、どうしてか……どうにもならなかった。

「同居二週間、おめでとう」
 友人の久志はそう言って、乾杯する。
 仕事終わりの金曜日。
 創作料理なずなで、久志と直也と誠二が集まった。
「久志、それは「おめでとう」なのか? 体力勝負の農業なのに、お前はいつも元気だな」
「体力勝負だからこそ、休息と栄養が必要になってくるんだ」
 そう言って久志は胸を張る。誠二と違い、平均以上の長身が羨ましい。
 誠二も実家の建材店で働き体力に自身はあるけど、体格だけはどうにもならなかった。
 そんな二人を見て、直也は顔をしかめた。
「あのな、システムエンジニアは力仕事じゃないからこそ、日々の体力作りが大切なんだよ。お前らだけ体力があると思うな」
 仕事がおわってから、鍛えなきゃならないんだと、直也は愚痴る。
 体力仕事じゃなくても、健康を維持するためにしていると。
 日に焼けていない小柄な直也に、誠二と久志は謝る。
 いつものことなので、直也は対して気にしていなかった。
「そういえば、明日休みなのは俺だけか?」
 誠二の問いに、二人は頷く。そんな彼らに少し申し訳なく思う。
 久志はそっと、蒸し鶏のサラダを小皿に取って渡した。
(いつも思うけど、長身で威圧感がある割りには優しいんだよな)
 理想の身長とすらりとした体の線に、バランスの良い筋肉。
 誠二もこんな風に成長したかったなと、何度も思った。
 久志は甘い印象のせいか、女性に声をよくかけられていたことを、誠二は思い出す。
(性格が厳しいのが、惜しいところだな)

 そんなことをつらつらと考えていると、久志は少し神妙そうな声で誠二に問う。
「ところで誠二、仕事は相変わらずか?」
「相変わらずだ」
 家族経営の建材店は、折り合いの悪い兄と一緒に仕事をしている。
 仕事に支障はないけれど、日々の嫌がらせには疲弊していた。
「相変わらずだけど俺のもう四十歳前だから、転職もできないし、させてもらえなかったな」
 父が引退したら兄弟で、建材店を盛り上げていかなきゃいけない。
 それが一番の懸念。
 学生のときから、家族のことで相談してきた友人は心配してくれる。
「転職本気でしたいか?」
 久志は真顔で聞いてくる。
「できるなら、転職したい」
「なら俺の畑に来ないか? 正社員として」
 保証も有給もある。休みは不定期になるけど、その条件は誠二にとってとても魅力的だった。
「実は手が足りないんだよ。有機野菜を育てるのはかなり大変で、今までは両親とともにやってきたんだ。だけど引退して……困っている」
 求人しても、なかなか良い人材が見つからない。そう久志はこぼす。
「ここにも野菜を卸しているんだ。久志のところと他にも数店。配達を含めて人員が足りないんだ」
 誠二さえ良ければ、正式に来て欲しい。そう久志は真剣に話す。
(転職できるのか? しかも正社員。体力なら負けない)
「久志、その話を真剣に検討したい」
「本当か? 前向きに検討を頼む」
 直也はその間、黙ってビールを飲んでいた。彼は久志から、この話を聞いていたのかもしれない。
「じゃあ転職祝いだ」
 機嫌良く久志は、店員を呼んだ。
(今夜は遅くなりそうだ)


「ただいま」
 誠二はほろ酔いで玄関を閉める。
 リビングから遥人が出てきた。
「おかえりなさい。遅かったですね、大丈夫ですか?」
「大丈夫。それより転職ができるかもしれない。有機野菜の農園に」
「久志さんのところですか? 僕も何回か野菜を取りに、行ったことがあります」
「知り合いだったのか?」
「ええ。そうですか、誠二さんを誘ったんですね」
 人の手が足りないって言っていたのは、本当のことだと実感する。
 取引先が畑まで取りに行くのは、誠二の知る限りあり得ないことだと思う。
 それでも久志の作る野菜は、それだけの価値があるということだろう。
「まだ決定はしていないんだけど、転職祝いをされたんだ」
「誠二さん、嬉しそうですね」
「え?」
 そんなに嬉しそうな顔をしていただろうかと、誠二は気恥ずかしくなる。
 念願の転職、しかも正社員。
 諦めていたことが、叶う。
(顔に出てても仕方ないよな)

「ところで遥人、布団は届いたのか?」
 気恥ずかしさを誤魔化すように、誠二はわざと話題を変えた。
「それがですね、業者の不手際では受注ミスが起きたそうです。つまり、まだ届くめどはないと連絡がありました」
 話題を変えたけど、良い返事ではなくて誠二は肩を落とした。
 この二週間ずっと、ベッドの端を貸しているまま。広さ的に問題はないけれど、抱き枕にされている問題が解消されていない。
 何度か遥人に苦情を言ったけれど、無意識の行動で改善されるわけがない。
 さすがに二週間経てば、届くだろうと思っていた誠二だった。
 いくら細身で平均以下の身長だとしても、男から抱き枕にされるのは不本意。
(慣れつつある自分が、かなり怖いけどな)
 人は状況に慣れていくものなんだな、と誠二は眉間にしわを寄せる。

◇◇

 最近の夢はおかしい。しかもリアルな感覚の夢。
 唇に触れる柔らかな、なにか。
 髪の毛を頭をそっとなでられているような。
 感覚だけで見えない。だからこそ誠二はこれらが夢だと思っていた。
 けれど。

 ふと目が覚める。
 目の前には天井ではなくて、ふさふさした何かが首筋にいた。
 寝ぼけているせいか、それの正体に気づくのが遅れる。
(なんだこれ? くすぐったい?)
「あれ……?」
 首筋に濡れた感触がして、さすがに何かがおかしいと意識がはっきりしてくる。
「起きちゃいました? 誠二さんは寝たら朝まで起きないから、大丈夫だと思っていたんですけど」
 首筋にいたふさふさが、そう話す。
(違う、これは頭だ)
 その正体は声でわかった。
「遥人は何をしているんだ? 何で上に?」
「体重をかけていないから、重くないと思うんですけど。残念、すっかり目が覚めちゃいましたね」
 そう言いながら目線を合わせた犯人は案の定、遥人だった。
 いたずらっぽい笑みと、怪しさを含んだ目の色。
 いつもの遥人とはなにかが違うことに、誠二は動揺する。
「遥人、なにをしてるんだ?」
 まだぼんやりとする誠二は、そう問うのが精一杯。
 起きてすぐ脳を使えるほど、器用ではない。
 けれど、ただ事じゃないことだけは理解できる。
 息が触れそうな距離で見つめられて、ゆっくり唇を重ねられた。
(意外に柔らかい)
 そんなどうでもいいことを考えるくらいに、誠二はとても混乱している。
「キスしています」
 そっと唇を離し、遥人は囁く。
 彼は寝ぼけている様子はなく、しっかりとした口調で甘く言葉を紡ぐ。
「誠二さんが悪いんですよ。いままでキスしても、起きたことがなかったのに」
「なにを言ってるんだ」
 いままで。
 遥人はそう言った。
(同居を始めてから、いままで?)
「遥人……もしかして何回か、今までにこういうことをしていたのか?」
 黙り込む遥人をみて、誠二は納得する。
 つまり、こういうことを寝ている間にしていたと、遥人は認めた。
 誠二は深くため息をついた。
「なんで、こんなこと」
「叔父の店で手伝いした時に見かけて、好きになったんです。だからあの店で、アルバイトを始めたんです。一目惚れでした」
 誠二は考える。遥人の言ったことを素直に信じるなら、引っ越す前から誠二に好意があったということだろう。
 それに気づかず同居して、布団がないからと一緒のベッドに寝ていた。
(己の危機感のなさに泣きたい)
「まて。俺は男だし、もう三十八歳だぞ」
「知っています。叔父から聞きました。でも仕方ないじゃないですか……好きになるのに理由なんて付けられないです」
 切なげに遥人はそういうと、誠二の胸の上に頭を置いた。
「好きになってごめんなさい。でも諦められない。実家を出たがっている誠二さんの気持ちを、利用しました」
 こうして見ると、遥人は年相応に見える。
 二十歳そこそこの若い、学生。
 誠二より背が高く、肩幅が広い青年。それがいま誠二の胸の上に頭をのせて、泣きそうな声を出している。
「遥人は同居して、何がしたかったんだ? 嘘までついて。俺は嘘がすごく嫌いなんだよ」
「そばにいたら、好きになってもらえる可能性もあるでしょう? それに」
 そこで口を閉じた遥人に、誠二はなんとなく察した。
「それに? 寝ていればキスくらいできると? 遥人は俺を馬鹿にしているのか」
「誤解しないでください。僕は体だけが目的じゃないです」
 体だけが……つまり、体も目的だった。
 一方的に慕われて、同居に持ち込み、寝ている間にキス。
 そこで誠二は違和感をもつ。
 目が覚める前、首筋に何かが這うような感触を覚えている。
「遥人、寝ている間にしていたのはキスだけか? 本当に?」
 その問いに遥人は目をそらした。
(……過ぎたことは、考えないことにしよう)
 知らないほうが、幸せなときもある。


 このことで、新たにルールができた。
 誠二が寝ているときに、勝手なことをしない。
 学生の間は、同居を続ける。
 嘘をつかない。
(本当は無理やりでも布団を、買ってしまいたかった)
 一緒に寝ていたから、起きたこと。なら寝るところさえ、別にすればいいだろうと。
 そんな誠二に遥人は、真顔でその案を蹴った。
「嫌です。布団は買いに行きません。必要ないです」
「なんでだ? 布団が届かないって困っていただろう?」
 お金はいらない。家事を教えてもらっている礼だと言えば、理解してもらえると誠二は考えていた。だけど――。
「……怒らないでくださいね。寝具は実家にわざと置いてきたんです。最初から一緒に寝ようと思っていました」
 わざと、置いてきた。最初から一緒に。
 誠二は眩暈がしそうだった。
(寝具を捨てたということが、嘘だったのか。なぜそんなことを)
「俺は嘘が嫌いだ」
「はい。本当にごめんなさい」
 二度と嘘をつかないことを条件に、布団の件は許したけれど……その後も布団の購入を遥人は受け入れなかった。
 そして誠二は、流されるままいろいろ諦めた。
 ただ、最低限のルールだけを決めて。
「遥人が素直だと、なんか怖いな」
「誠二さんにだけです」
 甘い笑顔でそう答える遥人に、誠二は脱力した。
 仕事中は、それほど笑っていなかった印象がある。
 なら、この笑顔は本当に誠二に対してだけなのだろう。

◇◇

 父に転職をすることを伝え、正式に今までの仕事を辞めた。
 父は苦労かけて悪いなと言って、退職金をくれた。
 少しだけ寂しそうな背中は、誠二の気のせいではないだろう。

 その数日後、兄がマンションまで訪ねてきた。
 幸い遥人は大学に行っていて、いなかった。
「久しぶり誠二。家を出てからまともに顔を見せなくなったから、心配したよ」
「見ての通り、元気に過ごしていますから大丈夫です」
 白々しい空気の中で、そんな会話を交わす。
「今日は天気が良いです。外の空気を吸いながら、話をしましょうか」
「何だ、部屋に入れてくれないのか。冷たいな」
 何を言われようと、部屋に兄を招くのはどうしても嫌だった。
 兄は何かと誠二に執着するし、大切なものは物だろうが人だろうが、奪っていく。
 今までのことを忘れたわけじゃないだろうに、今更何の用だろうと、誠二は疑う。

 公園のベンチに座る兄に、缶コーヒーを一つ渡す。銘柄は何でも良い人だから、適当に買ってきた。
「兄さん、今日の用事はなんですか?」
「お前の顔を見に来ただけだ。兄弟だろう」
 兄の言葉には必ず裏がある。
 誠二はさらに警戒した。
「兄弟と言っても、世帯が違います。もう俺に関わらないでください」
「なんだよ。そんなに婚約者を取ったことに、怒っているのか? でもあいつ、俺が声かけたら――」
「そんな話はもう、聞きたくない。関係ないです」
 そう言い返すと、兄はつまらなそうに頷いた。
 兄が誠二に嫌がらせしたのは、これが初めてではない。執着じみた嫌がらせが、いったいどんな意味なのかなんて、知りたくもない。
 誠二はそう思う。
「兄さん、もういっそ全部を話したらどうでしょうか。俺に対してなにかあるのでしょう? ネチネチと嫌がらせするのは、もう終わりにしてください」
 ベンチに腰をかけた兄は、少し黙る。
 誠二もまた兄を待つ。
 再び口を開いた兄から、言葉が落ちていく。
「誠二が嫌いなんだ。俺が無理して愛想振りまかないと、人が集まらないのに……お前は簡単に周りの人の気持ちを掴む。営業の仕事も正直、腹立たしかったよ。兄として劣っているなんて、外聞が悪い。俺はお前が大嫌いだ」
 そこまで一気に話して、また黙る。
 誠二は兄の声を待つだけ。
 本当の理由はそれだけじゃないと、誠二は思った。 


 兄に対して、何かを言い返したのは今回が初めて。
 何か仕返しをされると覚悟していた誠二だけど、不気味なほどに兄から音沙汰がなかった。
 あれから二週間が経つのに。
(なにか不気味で怖いな)

 兄が仕返しをしてくるなら、同居している遥人に迷惑がかかるかもしれない。そう考えた誠二は、前もって話しておこうと遥人の部屋へ向かう。
 扉の前に立って、ノックをしようとした。
 だけど中から遥人の話し声がする。
(電話中か? もう少し後にまた来よう)
 誠二はノックしようとしていた手を、下げる。遥人はドア付近で話しているせいか、相手の声もわずかに聞こえてきた。
 誰かのすすり泣くような声。どこかで聞いたことがある声。
「香(こう)はそれでいいのか?」
 遥人は泣いている誰かを、慰めている様子。
 誠二の胸がざわりとした。
 そして物音を立てないように、そっとその場をあとにする。
 遥人は誰にでも優しいわけじゃない。
 アルバイト中であっても笑うことは、あまりない。
(俺のほかに、優しくする相手がいたのか。いったい誰だ)
 誠二はどうしてか、とても悲しかった。
 そして嫌なことは、さらに重なる。         

 今夜はカレーにしよう。
 豚肉と玉ねぎをたっぷり入れて、先に帰宅した誠二は具材を煮込んでいた。
 じゃがいもと人参は、気分によって入れたり入れなかったり。ただ皮むきがめんどうなだけ。
 あとは市販のカレールーを入れるたら完成。
 たかがカレー。それでも家庭によって味が変わるから不思議なものだと思う。
 誠二はそんなことをぼんやり考えながら、あえて昨日のことからを思考を放棄していた。

「誠二さん、話をしたいんですけど」
 背後から遥人の声がした。誠二の背中に緊張が走る。
「それは今しないとだめか? もう少しで夕食が出来るんだけど……」
 目を合わせないでそう答えると、遥人はすぐそばに来て煮込んでいた鍋の火を消した。
「なにをして」
「もう火が通っていましたから」
「あぁ、うん」
 背後を取られた誠二は動けない。
 そのままで遥人は話し始める。
「昨日の電話は、友人からだと言いましたよね?」
 確かにそう聞いた。誠二はこくこくと頷く。
「友人に香織がいることを知っていますよね? 本名は香(こう)だと言いました」
 知ってるし、そういわれた。
 それに彼女に会った時のことを覚えている。
 かなりの可愛い系の美人だった。
 長い髪は健康的に手入れされていたし、仕草の一つ一つが可愛らしかった。
「香織のことは、本人から話してもらいます。だから、機嫌を直してくれませんか?」「…………」
「誠二さんはずるい。悪いのは僕ですか? 言葉を尽くしても、僕を信じられないくせに」
 誠二はそれでも、何も言えなかった。
「今夜は自室で寝ます」
「……布団がないのに?」
 遥人は目を伏せる。激しい感情を抑えるように。それから、ゆっくりと誠二に伝えた。
「僕はいまとても気が立っています。同じベッドに寝たら、無理矢理めちゃくちゃにしてしまう、かもしれないですよ? 意味がわかりますよね? それでも一緒に寝たいですか?」
 何も言えず立ち尽くした誠二を置いて、遥人は自室に行ってしまう。
 遥人の気持ちは理解していた、つもりだった。
 それでも応えられないのは誠二のほう。
 そもそも遥人が誰と話をしようと、誠二以外の誰かを好きになったとしても、誠二にはそれを責める権利は全くない。
(なのに疑うなんて)
 それでも、電話での二人の声が誠二を追い詰めていく。
(誰にも取られたくない)
 今の生活は遥人の協力でとても快適。
 でも、居心地が良いのはそれだけじゃない。遥人に好意を寄せられる、心地良さがあったから。
(今ひとりにされたら、俺はどうなるのかな)
 不安が押し寄せてくる。

 朝起きると、遥人はすでにいなかった。
 ダイニングテーブルに、メモ書きが残されていた。

『急用で実家に帰ります』

 部屋は無駄に広く、そしてとても寒い。
 どうしてこんなことに、なったのだろう。なぜ、こんな気持ちになってしまうのか。
(寂しいなんて……) 
 喧嘩するつもりなんて、なかった。

◇◇

 あれから三日が経つ。
 遥人からの音沙汰はない。
(電話すべきだろうか)
 そう考えるものの、いざ携帯電話を手に取るとメールすら誠二は打てなかった。
 遥人を信じきれなかった、自分自身にそんな権利があるだろうか。そんなことを延々と考えていた。

 ふいにインターフォンが鳴る。
(遥人か?)
 合鍵を持っている遥人か鳴らすわけないのに、誠二は相手が遥人だと思い込んでしまった。
 冷静さを欠くと、ろくなことは無いのに。
 玄関に駆け寄り相手を確認することなく、ドアの鍵を開けてしまった。
 そしてそこにいたのは、兄だった。
「誠二、久しぶり」
 落胆、後悔、腹立たしさ、悔しさ。兄の顔を見た途端にそんな感情が湧き出した。
 この部屋には招きたくないと、強く思う。
「何か用事ですか? 気分が良くないので帰ってください」
 家の仕事は辞めた。兄がここを訪れる理由はない。
 いつも誠二を見下していた兄が、今更なんの用があるのだろうか。
 兄は真顔になり、誠二に話す。
「話があるんだ。この前、公園で話したことをよく考えていた。そのうえで誠二に話がある」
 話の途中でドアを閉めようとしたら、すでに兄の片足が玄関の中へ入っていた。
 誠二の背すじを冷たい汗が流れた気がした。
(何か良くない予感がする)
 
 再び兄の訪問に、誠二は眉をひそめた。
 言いたいことは先日伝えたし、関わらないで欲しいとも伝えた。
 なのに目の前の玄関先にいる兄。
 明らかに不快な表情を出しているのに、去ろうとしない。
 誠二は大きなため息を吐きだした。
(なんて面倒な)
 この部屋は誠二と遥人の家だから、ここに来ないでほしかった。
「申し訳ないですが、俺の気持ちは変わらないので帰ってください」
 実家にいた頃の誠二とは違い、目を合わせてはっきりとそう言う。 
 今の誠二は遥人のほうが、最重要案件だ。
 それに友人の農業に就職するにあたって、有機野菜やその農業方法のことを勉強しなくてはいけない。
 配達もすることになるだろう。そのときに取引先の質問に確実な情報を伝える必要があるから。
 つまり遥人のことで悩んでいるうえに、仕事が忙しい。
(あれだけのことを言った後で、どうしてここに来るのか……理解できない。仕返しか?)

「そんなに邪険にしないでくれ。この前の誠二が言っていたことをずっと考えていた」
「…………」
 今まで見たことがない、しおらしい態度の兄。
「玄関先で話すようなことじゃないから、中に入れてくれないだろうか?」
 伺うような兄に、誠二は少し警戒を解いて中に招き入れた。
 兄はマンションの中を見渡して、キッチンを覗いたりダイニングを覗いたりしている。
「意外ときれいになっているんだな。正直言うと驚いている」
「それは同居人の家賃を安くする代わりに、家事を教えてもらう約束をしたから」
「本当は恋人と暮らす部屋だったんだよな。ごめん」
「…………」
 今更過ぎることを言われても、誠二は何とも感じない。
 早く帰って欲しいとそれだけを思う。
「で、今日は何の用でしょうか?」
「お茶も出してくれないのか」
「茶葉やコーヒーがなくなってしまったので」
 兄に出すお茶などない、そう言いたいのを我慢して誠二は答える。
 実家での仕事はとにかく来客が多かった。
 だから、誰が来てもいいように、お茶はなくならないよう気を付けていた。
 一杯のお茶ではなく、飲んでも飲まなくても二杯は出すのが決まり。
 行きだけではなく、帰りも無事に帰ることができるようにと。
(あれもただの地域の風習だったのかな)
 それとも危険を伴った仕事だからこそ、そんなことがあったのかもしれない。
 ともあれ、それは実家での元職場の事情だ。
 今はお茶を切らしても、文句を言われることではない。
 兄は勝手にリビングのソファーに座り、くつろいでいる。
 そうそう簡単に帰ってくれないと、誠二は察した。
(さて、どうするか)
 考えても良い案は浮かばない。
(敵意はないようだから、大丈夫か)
 そう考えて誠二は、折りたたみ式の簡易椅子を引き寄せソファーから遠く座る。
「誠二、今までのこと悪かった。あれからオレなりに、いろいろ考えていた」
 神妙そうな顔の前で両手を組み、兄は話していく。
(いや、そこまで思い詰めるようなこと言っていないはずだけど)
 そう思ったけれど、誠二は聞くだけにしておく。
 感情的で自尊心が高い兄だから、あまり刺激したくなかった。
 部屋に兄を入れたことを、今更ながら後悔する。
「誠二が生まれたときから、周りの関心をすべて持っていかれた憤りは確かにあった。でも、それは昔のことで。今はそうじゃなくて……」
 未熟児で生まれた誠二は、体も弱くて大変だったと親に聞いたことがあった。
 子供なら嫉妬に駆られるだろう。
 ふと誠二は疑問に思う。
(そうじゃない……? じゃあ今までの嫌がらせは一体何だったのか)
 ふと柔らかく兄は笑う。
「まあ、誠二が警戒するのも仕方ないと思う。今までお前が傷つくようなことをしてきたからな。とりあえず、お茶とお茶請け持ってきたから食べようか」
 いままで険悪だったのが不思議なくらい、穏やかな空気が流れた。
 ローテブルに並べられる二つのペットボトルと、パウンドケーキ。
 いつも自分本位な兄が紙皿まで用意してきた。
 驚く誠二に兄は苦笑する。
「この前は部屋にも入れてくれなかったからな。せめてこれくらいは」
「さっきの玄関では、かなり強引だったと思うんだけど」
「まぁ細かいことは、言わないでくれ」
 物心ついたときから、こんな親し気に話をしたことがなかった。
 そのくらい兄からの嫌がらせは、幼少期から続いていた。
(これで今までのことが消えるわけじゃない)
 けれど出された菓子には罪はない。そう考え誠二は椅子をローテブルに近づけて、パウンドケーキを受けとる。
 プレーンのパウンドケーキ。形は少し歪だった。
「オレが作ったんだ。割りと昔から菓子作りは好きでね。……誠二は家事全般やらせてもらえなかったのは、オレが母さんにいろいろ言ったからな。すなまい」
 兄はペットボトルの蓋を開けて、温かいお茶をひとくち飲む。
「これでも反省したんだ。誠二にいろいろしてきたこと」
 そう言って苦笑する姿に、偽りはないように見えた。
「そう、なのか」
 今更謝られても、なんと答えていいのか迷う。本当に今更なことだったから。
「兄さんが菓子を作るとは、知らなかった」
「だろう? 母さんも知らないから、内緒な」
 誠二は手元のパウンドケーキを、添えられた小さなフォークで切り分けて食べる。
 添加物のない自然な味と、香りづけのブランデーがバランス良く美味しい。
「パウンドケーキってさ、焼いた直後より一晩寝かせたほうが味が馴染むんだ」
「知らなかった」
 普通の兄弟じゃなかった。だから、この状況の兄との距離感がどの程度のものか誠二は知らない。
 家の中でも孤独で、誰にも必要にされていないと思っていた。
(家の仕事を辞めるときに、父は心配してくれていたことを知ったけど)
 母はきっと今でも、誠二を疎んでいる。
 家を出ると言ったとき、母の安堵した顔を誠二は覚えている。
       
「誠二、何を考えてるんだ?」
「いえ別に」
「そうか。なぁ誠二、今すぐに仲直りなんてできないだろうけど。だけど、関係を修復していくのは出来ると思うんだ。縁を切るようなことはしないでほしい」
 懇願するように兄は頭を下げる。
「いまさら修復しようと? それはもう無理だよ」
 根付いた嫌悪は、もはやどうすることもできない。なら、別々の人生をそれぞれ歩んだほうがいい。
 誠二はそう考える。
「兄さんは、これから増える家族を大切にしていきなよ」
「…………」
 婚約者を取られたことを別にしても、これからのことを大切にして欲しいと誠二は思う。
 食べかけのパウンドケーキの紙皿をローテブルに置いて、お茶を飲む。
 誠二の人生で、家庭を築くことはない。誠二はそう決めた。
 同居している遥人が、卒業していずれここを去るなら、この部屋を売ってしまってもいいと思っている。
 とはいえ、いまだに帰ってこない遥人が気にかかって仕方ないけど。
 小さなため息を一つ吐き出した。

「誠二、手洗いを貸してくれ」
 唐突に言われ、誠二は後ろのドアを指さした。
「玄関に通じる廊下の途中に、プレートの付いているドアがトイレだ」
「ありがとう」
 席を立つ兄は、そのままドアに向かう。
 目の前から姿がなくなると、誠二はほっとした。
(どんなに謝罪されても、今までの記憶がなくなるわけじゃない)
 食べかけのパウンドケーキを見て、誠二はそう思う。
(今さら仲良くしようなんて、都合のいい話はない。そんなことくらい、兄もわかっているだろうに)
 つらつら考えていると、誠二のすぐ背後に兄の気配がした。
「兄さん手洗いは――――」
 話しかけた途中で誠二の目が回る。
 誠二が押し倒されたと分かるのに、数秒はかかった。
 状況が把握できない。気がつくと床の上に仰向けで誠二は押さえつけられていた。
「え?」
 兄はにやりと口の端を上げる。先ほどの穏やかさは、今の兄にない。


 現実味のない状況に誠二は、逃げるときを逃した。
 のしかかる兄の重みと体温。
 押さえつけられた手首は、きつく握られて痛む。
「なに……」
 誠二はただ茫然と、そう呟く。信じたくない気持ちもあった。
 今の状況を、誠二は認識できない。
「誠二、ずっとお前の存在に囚われていたんだ」
「…………」
「お前から母さんを遠ざけさせたのも、恋人を奪ったのも、婚約者を取ったのも……誠二を独り占めしたかったんだ。この前の公園で話をしたときに、オレはやっと自覚した」
 独白する兄の目が、誠二の動きを封じる。
 その目から狂気がにじみ出ていた。
「なぁ誠二。兄弟で生まれてきたのは運命だと思わないか? ずっと可愛いと思っていた」
 兄の右手が誠二の胸にあてられる。
「お前はずっと体を鍛えていたようだけど、体質的に母さんの血筋なんだな。小柄で可愛い」
 胸にあった兄の手が、服越しに誠二の胸の上を這う。
 恐ろしさで動けなかった誠二も、なんとなく嫌な予感がして逃げようと抵抗する。
(動けない……逃げられない)
 今更ながら恐怖で鼓動が早まった。
 誠二の冷たくなった手が震える。
「兄さん、離して」
「駄目。離したらお前は逃げるだろう? 逃がさない」
 体格の差が誠二を追い詰める。
 頭の上で両手首を兄の左手が戒めた。
 太ももの上に体重を掛けられて、身動きができない。
(まずい)
 焦るものの抵抗する術はなく、シャツのボタンを弾き飛ばし破いた。
「冗談はやめて」
 冗談では済まない状況に追い詰められていく。
 それでも、気の迷いだという僅かな可能性に誠二はすがる。
「嫌がらせでも冗談でもない。誠二こそ覚悟を決めろ」
 勝手な言い分に冷や汗が流れる。
 シャツをはだけられ、右肩に噛みつかれた。
「痛……っ」
 噛みついた跡をなぞるように舐められる。
 おぞましい感覚に耐えながら、誠二は必死にもがく。
「誠二も歳をとったな。あんなに小さかったのに、元気に育ったよ。困った顔が見たくてよく嫌がらせをした。悪かった。これから先もずっと俺だけの弟でいてくれ」
 素肌を兄の手のひらが這っていく。
 首筋から胸元、脇腹から腰骨へ。
 兄の欲望が手のひらの熱から伝わってくる。ただひたすら、気持ち悪い。
 器用に片手でベルトとボタンを外されたとき、誠二は兄が本気で一線を越えようとしていると確信した。
「離せ、やめろっ」
「暴れるなよ。そんなにお仕置きされたいのか?」
 そう言うなり、左腰骨のあたりが激しく痛む。
「…………っ」
 また噛みつかれたのだと気づく。
 骨の上は特に痛くて、声をとっさに飲み込んだ。
(痛みが……まだひかない)
 何をされるか……わからない恐怖に誠二は怯える。
 悪夢のような状況に、誠二は気が遠くなりそうだった。
 素肌を味わうように這う手がおぞましい。誠二は抵抗を続ける。     
 気を失うような気質じゃないことが、幸いなのか不幸なのか……けれどここで気を失ったら強引に体をいたぶられそうで、それもまた怖い。
(くそ……っ)
「誠二、いい加減に諦めたらどうだ? お前の力で逃げられないってわかるだろう?」
 逃げられない、叶わない。
 そんなことは知っている。
(それでも、体を自由にさせてたまるものか)
 どうしても兄に触られたくなかった。
 目の前にある兄の顔が、欲望で歪んで見える。
 好きだからといって、強引に組み敷く兄が憎い。

 そんな地獄のような事態だというのに、誠二の脳裏に遥人の顔がよぎった。
(そうか。遥人はいたずらをしても、叱るとやめていたんだな)
 男の本能のままことに及べば、兄のようなことになるだろう。
 でも遥人はそんなことはしなかった。
(些細な喧嘩をしたままだったな……)
 あのとき遥人の友人だと言ったことを、どうして信じられなかったのかと誠二は思う。
 ただの現実逃避。今も兄は誠二の上に体重をかけて息を荒くしている。
 それでも考えるのは、ここにいない遥人のこと。
(大切にされていたのか?)
 同居は強引だった。ベッドで共に寝るのも強引だった。
 強引でありながら、性的な無理強いはしたことがない。それって――。

「誠二、何考えてる? 余裕だな」
「……兄さんこそ、いい加減に離してくれ。兄さんに触られたくない」
「やっと誠二が好きだと気づいたんだ。離すわけないだろう」
「俺は嫌いだ」
 嫌いだと告げた兄の目が、闇に満ちた。
 本能的に恐れ、誠二は身を縮める。
 すでに上半身はシャツが破かれて、半裸に近い状態になっていた。
(もう駄目か……)

   
 きつい拘束がふいに解ける。
 兄の体重も消えた。
「誠二さん、何してるんですか?」
 兄は後ろの襟を掴まれ、腕を後ろにねじり上げられて誠二から引き剥がされていた。
「遥人?」
「誠二さん、何をしていたんですか」
 厳しい口調だけど、確かに遥人がいた。
(帰ってきたのか)
 そのことに誠二はすごく安堵した。
 なにも答えない誠二の肩口に、噛み跡を見つけた遥人は兄を無言で睨む。
 腕をさらに逆関節でねじり上げ、足元をすくい、うつぶせに兄を引き倒した。
 見事に鼻頭を打ち付け、多量の鼻血が出た。
 そのまま抵抗できないよう、遥人は兄を無力化する。
(遥人は意外に力が強いんだな……)
 男としては情けない。でも遥人のおかげで助かった。
 複雑だけど遥人に感謝する。 
 兄の醜い悲鳴が部屋に響く。
「痛い、やめてくれっ。そもそもお前は誠二の何なんだっ」
「大学が近いので、居候させてもらっているものです」
 誠二は居候という言葉に違和感を抱く。
 そんな他人の距離だっただろうか……と。
(もっと近い存在だと勝手に思っていた)
 知らないうちに遥人の存在が当たり前になっていたことに、今更ながら自覚する。

「誠二さん、警察を呼びますか?」
 いつの間にか兄の名刺を取り、確認したうえで誠二に聞いてきた。
 どの仕事も同じだけど、信頼が一番大切。
 仮にここで通報したことで、たったそれだけで噂は立ち信頼はなくなる。
 そうなると危機を感じたメーカーが手を引くだろう。それでは仕事にならない。
 下手したら廃業に追い込まれることもあるだろう。
「警察は……呼びたくない」
 悔しいけれど、両親のことを思えば選択肢は一つしかない。
「そうですか。わかりました」
 怒りの籠っていた遥人の目は冷静になり、無表情になった。
「わかったら、さっさと離せっ。ただで済むと思うな」
 兄は自分のしたことを棚に上げて、遥人に食って掛かる。
 遥人は一つ長いため息を吐き、押さえこんだ兄の横顔に近づいて恫喝した。
「勘違いするな。お前のしたことは暴行罪になる。世帯が違うなら、不法侵入も付けてやるところだ。花瓶が割れていることに気づいているか? 物損も加えられる。出来れば誠二さんの意向に沿いたいけど、お前の態度次第ではオレの気が変わるぞ。次はないと思え」
 取り上げた兄の名刺をひらひらと見せつけながら、今まで聞いたことのないような、遥人の低い低い声が部屋に響いた。
(遥人だよな……こっちが本性か?)
 兄の怯えた目が、血溜まりの床を見ていた。力を誇示したがる人は、虚勢だったりする。
 兄もまたそうだったのだろう。
「今日は不本意だけど、見逃してやる。さっさと出ていけ」
 こくこくと頷く兄は、今まで見たことないほど戦意喪失していた。
 鼻から血を拭うこともなく、解放されたとたん玄関の外へ走って逃げていく。

 ようやく誠二は心から安堵した。

◇◇

「ここは掃除しておくので、誠二さんはシャワーを浴びてきてください」
 遥人はそういうと誠二の背中を押して、リビングを追い出した。
 まだ殺気が漂っていて、誠二は大人しく浴室へ向かう。
 二人の間には微妙な空気が流れていた。
(帰ってきて、あの状態だもんな)
 遥人とは喧嘩していたけど、好きだと言ってくれていた。
(気分が悪いのも仕方ないか……)
 ふと手首を見ると、押さえつけられていたせいで赤く跡が付いていた。
 自分の手首をさすり、今更ながら沸き起こる嫌悪感を抑え込む。
 遥人だって誠二より体格は良い。
 その気になれば、兄と同じように無理やりことに及ぶことも可能だっただろう。 それでも遥人はそうしなかった。
(遥人は――)
 好きな人を大切にしたい。そんな気持ちをずっと遥人から感じていた。
 そんな遥人に想いを返すことも拒否することもしないで、友人との関係を勝手に疑って彼を怒らせた。
(ずるいのは俺のほうか)
 誠二は濡れた髪をタオルで拭きながら、新しい服を着てリビングに向かう。
 うやむやにしてきたことなど、遥人と話をしようと思った。

「怪我は大丈夫ですか? 消毒します?」
 先程より落ち着いて遥人は話しかけてくる。
 ただ、まだ遥人から荒れた気配がした。
「血は出てないから、平気」
「そうですか」
 気まずさに誠二は黙り込む。
 リビングのテーブルに、温かそうな二つのマグカップが置かれた。
 いつも二人で使っていた、コーヒーのカップ。
 そんなに離れていたわけじゃないけど、懐かしい気分になる。
 床を見てみると割れた花瓶の破片も兄の血もきれいになっていた。
「遥人、掃除してくれてありがとうな」
「しっかり消毒しておいたので、安心してください。割れたのが一輪挿しの花瓶でよかったです。あんなことされていたのに、お茶を飲んでいたんですね」
 とげのある遥人の言葉に、まだ怒りが静まらないことを誠二は知る。
「いや、なんというか。今までのことの謝罪と話がしたいって言ってて……」
「そうですか。今後は安易に人を入れないでくださいね」
「もしかして、俺に対しても怒っているのか?」
 そう聞くと遥人は少し黙った。
(怒っていたのか。いや心配したのかもしれない)
「遥人、心配かけて悪かった。それから、お前の友人のこと疑って本当にすまない」
「いえ」

 遥人がこの部屋を出ていったことと、誠二が友人を疑ったことは関係ないと話してくれた。
「兄の急な出張と、姉の体調不良が重なったんです。なので、実家に手伝いに行っていたんです。説明するにも時間がなくて、置手紙になってしまいました」
 遥人の兄夫婦とその子供たちはまだ幼いらしく、手が足りないと母親から呼び出されたという。
 喧嘩が原因ではないと知り、誠二はほっとした。

「やっと帰ってこれたと思ったら、知らない人に押さえつけられているし……その時の僕の気持ちがわかりますか?」
「そういえば遥人は、兄に会ったことがなかったな。本当に助かったよ、ありがとう」
 お礼を言っても、遥人の表情は苦いまま。
 けれど誠二にしてみても、喧嘩しただけで連絡も無しにいなくなったことを思えば複雑だった。
 とはいえ、助けてもらったことを考えると誠二の方が折れるべきだろう。
「警戒心が足りなかったことは、反省する」
「ただの嫉妬です。すいません」
 ため息交じりにそう言った遥人に驚いて、誠二は彼を見つめた。
「僕は誠二さんが好きだと、言いました」
 少しだけ気まずそうに彼は視線を逸らす。
 確かに誠二は聞いた。その答えは未だに答えていない。
 そんな微妙なときに喧嘩をしたり、遥人が実家に帰ったり、誠二が兄に襲われていたりした。
 嫉妬をされるのは、人生で初めてだ。
 互いに冷静になれる期間があったのは、良かったのかもしれない。
(兄さんには、今後一切近づかない)
 誠二は心の中に、しっかり刻み込んだ。
 見た目と考えていることが一致する人が当たり前じゃないと、この歳になって誠二は思い知った。
(そんなに世間知らずじゃないと、思っていたんだけどなぁ)
 そもそも誠二は同居の時点で、家事全般ができなかっただけでも世間知らずだった。

「遥人」
「はい」
「遥人は、嫌いじゃないよ」
 兄のときは全身が拒絶していた。
 でももっと前に、遥人にされたことを思い出せば……拒絶とまでいかなかったし、嫌悪もなかった。
「嫌いじゃない」
 誠二は静かに遥人の言葉を待つ。
 誰かに想いを伝えることは難しい。
 歳を重ねると自分の自尊心と向き合うため、素直になるのはさらに難しかった。
(好きかと聞かれたら困るけど)
 いまの誠二が遥人に返せる答えは、これが精一杯。
 不意に強く抱きしめられる。
 遥人の匂い、熱、鼓動がとても近い。
 驚きと戸惑う誠二に、遥人はまっすぐに見つめてくる。
「誠二さん、好きです」
 重なる唇の熱に、誠二は酔いそうだった。
「僕のこれからの人生すべてをかけて、誠二さんを大切にします」

◇◇

 後日、遥人の友人が挨拶に来た。
 引っ越しのときに手伝ってくれた、あの彼女が短い髪の毛を風に揺らしている。
 そしてその隣に、一人の男性がいた。
 女性ではないと聞かされて、心底驚いた。
 隣の男性がその子の恋人と紹介されて、さらに驚く。
 幸せそうな二人は、挨拶だけを済ませ、帰って行った。

 その寄り添う二人がうらやましいと、誠二は思う。
 誠二は右手の指先で、遥人の服の端を引っ張る。
「俺は……遥人のことが、好きだ」
 遥人は一瞬驚いたあと、誠二を両手で強く強く抱きしめた。
 顔は見えないけど、互いに同じ気持ちになったことを嬉しいと言われているように感じる。

 季節は夏前の長期休暇中。
 日差しがとても眩しかった。

【End】
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