月夜に咲く

夕暮れ狼

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第5章 月の終わり、花のはじまり

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彼の手を握ったとき、私は確かに感じた。
 ——あたたかい。

 涼の肌はまだ微かに震えていたが、そこには“命”が、確かに息づいていた。

「……涼。聞こえる? 大丈夫……だから」

 呼びかける声に応えるように、彼のまぶたがゆっくりと開いた。
 月光がその瞳に反射し、まるで湖の底で揺れる光のように、美しかった。

「……真琴……?」

 弱々しく名前を呼ばれた瞬間、私は涙がこぼれるのを止められなかった。

「よかった……ほんとに、よかった……」

 涼はかすかに笑って、天を仰ぐ。

「……あの影は、もう消えた。祠も、しばらくは眠ったままだ」

「あなたは? その……狼に、戻らないの?」

 彼はしばらく何も言わなかった。
 けれど、やがて静かに口を開く。

「たぶん……もう戻れない。
 君の言葉が、俺を“人”にしてしまったから」

 それは、呪いの解放ではなかった。
 人狼としての力を手放し、ただの人間として生きる選択だった。

「それでもいい。もう“守るべきもの”は見つけたから」

 彼はそう言って、私の手を強く握った。

 それから数日後、涼は正式に町に残ることを決めた。
 祖母・美代はすべてを知っていたようで、何も聞かずに彼を受け入れてくれた。
「これからは“守る”んじゃなく、“共に生きる”時代なんだろうね」

 そう言って縁側に座る祖母の言葉に、涼は穏やかに頷いた。

 森は少しずつ静けさを取り戻し、夜喰の影はもうどこにもない。
 けれど、私たちは知っている。

 ——あの夏が、ただの夢ではなかったことを。

 夏の終わり、私は大学へ戻る日を迎えた。
 朝焼けの中、涼が駅まで見送りに来てくれた。

「しばらく、離れちゃうけど……」

「待ってるよ。次に会えるときは、君の好きな“普通のカフェ”にでも行こうか」

「そんなの、都会にいっぱいあるよ?」

「でも、君と行くなら、どこでも特別だろ」

 そんなセリフ、涼が言うとは思わなかった。
 私は笑って、最後に彼の手を握った。

「——じゃあ、またね。人間の狩野 涼くん」

「またな。月の下で出会った、橘 真琴さん」

 電車が動き出す。
 窓の外で手を振る涼の姿が、少しずつ遠ざかっていく。
 だけど、不思議と寂しさはなかった。

 ——彼はもう、ただの幻じゃない。
 この夏に咲いた、本物の想いだったから。

【エピローグ】
 数ヶ月後。
 私は再びあの町を訪れた。紅葉が始まった山の中で、彼は変わらず静かに暮らしていた。
 けれど、一つだけ違ったことがある。

 祠の前に、小さな花が咲いていた。
 誰も植えたはずのないその花は、月の光を浴びて、まるで笑うように揺れていた。

 

 ——あの夜、確かに命が交わった。

 

 月夜に咲いた、一つの恋。
 それは、今も確かにこの森に生きている。

—完—
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