魔王と勇者のPKO 2

猫絵師

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散髪

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鏡の前で、髪の毛にハサミを入れた。

金色の髪が、あたしから切り離されて床に散らばった…

かなり思い切ってやったから、もう後には引けない。

ハサミを進め続ける。

やっぱり自分だとやりにくい…

『お嬢様』とドアから呼ぶ声がした。

誰も入ってこないように鍵を閉めてたから、不思議に思ったんだろう。

『入ってくんな、ライナー』と彼を拒絶した。

『鍵なんていつもかけてないでしょう?

何をなさっておいでですか?』

ノックと心配そうな声が廊下から響く。

騒ぎにしたくなかった。

『何も…』

『嘘おっしゃい!何か隠しておいでだ!』

ドアノブがガチャガチャとやかましく騒ぐ。

『やめろって!』

『何か思い詰めておいででしたよ!

何を考えているのか知りませんが、私の目は誤魔化せませんからね!』

『分かったよ!騒ぐなって!』

誰か来たらどうするんだ…

本当にドアを蹴破ってでも入ってきそうだったから、あたしが先に折れた。

ドアを開けたあたしを見てライナーが目を見張った。

『何です!その髪は!』

『自分で切った…あたしには必要ないだろ?』

『大旦那様が見たら…』とライナーが青い顔して言葉を失った。

また親父殿か…

『親父殿に必要なのは女じゃなくて戦える奴だ…

こんな長い髪は邪魔だ…』そう言って手に持ってた髪の束を捨てた。

『だからって…なんて事を…』

床にちらばった髪の毛を集めながら、彼は嘆いていた。

あたしの髪を整えるのも、この男の仕事だったから、思い入れがあったのかもしれない。

あたしだって辛くないわけじゃない…

辛いから髪を切ったのだ…

親父殿への未練と一緒に髪を捨てた…

そんな事、誰にも言えるわけが無い。

あたしの好きは、父親への好きではなく、男へのそれだった。

出会った時からずっと…

床にちらばった髪を丁寧に集めると、ライナーはため息を吐いて鏡台の椅子を引いた。

『…座ってください、私が整えますから』と彼は諦めたようにそう告げた。

どっちにしろ、もう半分以上切ってる。

誤魔化すのは不可能だった。

あたしは頷いて彼の前に座った。

『男みたいにして…』と注文をつけた。

『かしこまりました』

鏡越しに彼を見ると眉間に三本シワが出来ていた。

まあ、そういう顔になるよな…

再び髪にハサミが入る。

彼は器用な手つきであたしを男に近づけていく。

『慣れてるんだな』

『戦に出れば床屋には行けませんからね』と彼は答えた。

『同じ部隊にいた床屋の息子に習いました』

彼はそう言って後ろを整え終わると、左右のバランスを見ながらあたしの髪をさらに短くした。

『…無理して男にならなくても』と彼は言ったが、女を辞めるのと男になるのはセットだ。

『いいんだ、これで嫁に行かなくて済む』

『…そんなことのために?』

彼は切った髪を払う手を止め、鏡越しに私を見た。

シュルツという騎士の家から縁談があったと耳にした。

こんなじゃじゃ馬を欲しがる奴が居たらしい。

別にその男が嫌いとかそういうことじゃない。

親父殿への当てつけでも無い。

ただの意地と我儘だ…あとは少しの未練…

『親父殿には、死ぬまであたしの面倒見てもらう』

『はぁ…左様ですか…』

『あんたもだよ、ライナー』

『私もですか?』

『髪切ったろ?共犯だ』

『…なるほど、そう来ましたか…』

『ずっとあたしの髪を切らせてやるよ』

あたしの言葉に『嫌な仕事更新です』と彼はため息を吐いた。

『男になったんだ、煙草も覚えるさ』と笑うと彼は苦い顔をした。

『おやめなさい、いい事ありませんよ』

『お前だって煙草飲みだろ?』

『まあ、嗜みますが…』

『じゃあ問題ないだろ?』

『やれやれ…どうしようもないお嬢様だ…』

半ば諦めたようにライナーは嘆いた。

良いんだよ、ライナー…

あたしの幸せはあたしが決めるんだから…

お前は軽口叩きながら、あたしの後を付いてくれば良いんだよ。

✩.*˚

眩しいな…

そう思ってうっすらと目を開けた。

どうやらあたしはまだ死んでないらしい。

毒の摂取量が少なかったか、解毒が間に合ったのか?

どちらにしても寝てる場合ではない。

身体を起こそうとしたが、自由が効かない。

痺れたような感覚がまだ残ってる。

「…ラィ、ナー…」

近くに居るだろ?呼んだら来いよ…

「ヒルダ?」マリーの声が聞こえた。

「目が覚めたの?今喋った?大丈夫?」

矢継ぎ早に質問する彼女はあたしの手を握った。

「私今どっちの手握ってるか分かる?」

「右だろ?痺れてるけど分かるよ…」

「じゃあこれは?指何本見える?」そう言って彼女は両手で指を立てた。

右二本と左一本指を立てて見せる。

「三本」

「良かった…」とマリーがその場に座り込んだ。

随分心配してくれたみたいだ…悪い事をした…

「…マリー、ヘイリーは無事か?」

「彼は無事よ。

シュミットが逃がしたそうよ」

「そうか…褒めてやらないとな…」

やっぱりあいつは頼りになる。

それに比べてあたしは油断しててこのていたらくだ。

それにしても、目を覚ましたら一番に飛んでくると思ったのに、彼の姿が見当たらない。

「マリー、ライナーはヘイリーと一緒か?」

「彼なら…貴方の隣のベッドに…」

視線をめぐらせると、視界を遮る衝立ついたてが隣にあった。

その向こうにもベッドがあるらしい。

「寝てるのか?」と尋ねるとマリーの仮面が泣き顔になった。

彼女は何も言わないが、彼女の感情を映す仮面を見て、最悪の事態を悟った…

「…やられたのか?」

マリーが黙って頷く。

それが全てだった…

それ以上でもそれ以下でもない。

衝立に向かって手を伸ばそうとしたが、虚しく空を掻いただけだった。

「マリー、これを退けてくれ」

動けない自分に代わって、小さい友人に目隠しを退けて貰えるように頼んだ。

彼女は躊躇って二の足を踏んだ。

「まだ綺麗にしてないから」と彼女は言ったが、そんなこと関係ない。

「良いんだ、見せてくれ」

マリーは「でも…」と嫌がった。

「いい、自分でする」

マリーがしてくれないなら自分でするしかない。

私が起き上がろうとするとマリーが悲鳴を上げた。

「止めてよ!無理しないで!」

「ならこれを退けろ!」

感情が爆発する。

マリー相手でも言葉が選べない…

「ライナーに会わせろ!

今すぐだ!あたしが会うって言ってるんだ!

そんなもの邪魔だ!退かせ!」

「そんなに興奮しないで!」

お互いに引かないから二人で言い合いになる。

ベッドを囲むカーテンの向こうで物音がした。

「マリー、何を騒いでいる!?」

聞こえてきたのはイール王子の声だった。

マリーが慌てて声のした方を向く。

カーテンをめくって彼が中に入ってきた。

「イールお兄様!ヒルダが…」

「気がついたのか?」

「ライナーに会わせろって…」

その言葉に彼も言葉を失った。

みんな知ってるんだ…知らなかったのはあたしだけ…

「お願いだ…」怒りの次に悲しみが溢れた。

「彼に会いたい…」

自分で身体を起こす事も、涙を拭うことも出来ない…

あたしは無力だ…

「…分かった」とイール殿下が静かに答えた。

マリーが兄に抗議したが、彼は「自分が責任を持つ」と言ってくれた。

あんなに邪魔だった衝立は、いとも容易く撤去された。

障害物がなくなり、隣にライナーの横たわるベッドが現れた。

「…ライナー」

「起き上がれるか?

マリー、椅子をくれ」

イール王子が身体を起こして肩を貸してくれた。

彼は、マリーの用意した椅子に私を座らせた。

目の前にはよく見知った顔がある…

もう彼は私を呼ばない…笑いかけることも無い…

青白い顔色は死人のそれだった…

私が彼の死を招いた。

「…よくやった、ライナー」

彼の欲しがるであろう言葉をかけた。

彼は立派に戦って死んだのだ…

守られていただけのあたしに、勝手に死んだと彼を責める権利は無い。

「お前の功を称える…

フィーアの南部に生を受けた男として誇れ」

「…良いのか?」とイール王子が問うた。

「貴殿らはそんなただの主従では無いだろう?

もっと仲が良いように見えたが…」

「…そうだな…

なんでも話せる父親みたいな…そんな人だった」

親父殿に言えないようなことでも、彼とは共有できた。

彼の前では虚勢を張らずに我儘な娘でいられた…

「二人きりにして欲しい」とイール王子に頼むと彼はまた「分かった」とだけ答えた。

「マリー、お前もだ」

「でも…」

「馬鹿な真似はしないだろう?

彼に救われた命だ」

痛い事を言う…

あたしがマリーに頷いて見せると、彼女の仮面は泣き顔になった。

何でマリーが泣くんだよ…

何か思い出させてしまったのかな?

マリーが泣いてたら、あたしが泣きにくくなるだろうが…

カーテンの向こうでドアの閉まる音がした。

「ライナー…」意を決して彼の名を呼んだ。

「あんた、最後までとんでもない貧乏くじだよ」

「ありがとう」とか「ごめん」とかそんな言葉も出てこない。

「誰があたしの髪を切るんだよ…

親父殿が怖くて、あんた以外、誰もこんな仕事したがらないよ。

どうしてくれんのさ…」

眠るような横顔に恨み言を言ってやった。

あたしらはこういうお別れの方がお似合いだよな…

あんたは「また伸ばせばいいじゃないですか」って軽口を叩いて笑い飛ばすんだろうな。

頬に涙が伝う。

太腿の辺りに涙が落ちて染みを作った。

怒りと悲しみが、胸の辺りで虫のように蠢いている。

ムズムズと気持ち悪い…

「こんなに早く放り出しやがって…

もっと世話かけてやる予定だったのにさ。

あんたは身軽になっただろうが、あたしはまた一つ荷物が増えたよ」

《毒蜘蛛》は絶対に許さない…

見つけたら間違いなく殺す。

あたしの一生かけて潰してやる。

頭も足も残さず全ての《蜘蛛》殲滅する。

「あんたの為じゃないよ、あたしの為だ。

あんたの為にあたしの一生をくれてやる気は無いよ」

そんなの気持ち悪いだろ?

あたしはそんな殊勝な人間じゃない。

「あたしは《盾の乙女シルトメイド》だ。

手を出した相手が悪かったって、奴らに恐怖を植え付けて、後悔の中で殺してやる」

この屈辱は一生忘れない。

やられたままで、泣き寝入りするような女だと思うなよ!

✩.*˚

何でこうなった…

「カッパー!カッパー!

お前、アルフレートにもなれるのか?」

「真似する?」とカッパーは懐っこい様子でトリスタンに尋ねる。

カッパーに服を着せながら、ウィルがトリスタンを睨んだ。

最初この部屋に来た時に、蛇の姿をしたカッパーを見てしまったので、私は少し気分が悪い。

「トリスタン!カッパーを玩具にするな!

カッパー、君もあの男の言うことは聞かなくていい」

「トリスタン、助けてくれた」

「そうだぞカッパー!お前賢いな!

俺が居なかったらお前も親父殿も《蜘蛛》に良いように振り回されてたんだぜ」

確かに助けられた。

カッパーを襲おうとした《蜘蛛》も、私が追いかけてた《蜘蛛》もトリスタンが仕留めた。

信じ難いが、彼が言うには《蜘蛛》からは変な匂いがするそうだ。

私たちには全く分からない。

「で?何でお前は戻ってきたんだ?」

「…何となく?」と答えるトリスタンは自分でも分からないと言った感じだ。

動物か?

全く、トラブルを嗅ぎつける勘の良さだけは相変わらず獣並だ。

「フィッシャー、お前もだ。

何で連れて帰らなかった?」

「大旦那様、お言葉ですが、大旦那様が手を焼くのに私がお止めできると思いますか?

《狂女》に止められるか、トリスタン様に斬られるかの二択ですよ」

うむ、お前も可哀想だな…

「それより、せっかく俺が《蜘蛛》捕まえたり、忠告してやったのに、無視されるとさすがに傷つくぜ」とトリスタンは不満そうだ。

「確かに今回は役に立ったな…」と私が答えると、ウィルとフィッシャーも苦い顔で頷いた。

「癪ですが…」

「空振りだったら最悪でした…」

「お前ら酷くない?

俺の味方はカッパーだけかよ?」

トリスタンが拗ねながらカッパーの頭を撫でた。

その手で私に触れるなよ…

トリスタンはカッパーを気に入ったようだが、私は屋敷で蛇を飼うのは絶対に許さないからな…

「それはお前の普段の行いの結果だ」と伝える。

彼の信用は悪い方のベクトルを向いている。

問題を嗅ぎつける能力と同じくらい、問題を起こすからだ。

「自業自得だ」とウィルが呟く。

「自由すぎるんですよね…」とフィッシャーも彼に賛同した。

「それより大旦那様、この城の《蜘蛛》はさっきの二人だけですか?」

「分からん、まだ居るかもしれん。

カッパーの護衛だけは何とかしなくては…」

ウィル一人では心許ないな。

カッパーが殺されるのも困るが、それ以上に侯爵の不在がバレるのがまずい…

アーケイイックに残してきたヘイリーとヒルダも心配だ。

ライナーは無事アーケイイックに着いて、預けた手紙を渡せただろうか?

彼が居るなら幾分安心要素が増える。

「ところで、本物のヘイリーは何処なんだ?」とトリスタンが尋ねた。

今回は役に立ったし、少しくらい教えてやるか…

「アーケイイックだ。

ヒルダと一緒だから安心しろ」

「…はぁ?なんでまたそんな事になってんだよ?」

「侯爵も療養だ」

「ふーん…最初っから教えてくれりゃいいのに、俺だけ除け者にして意地悪くね?

親父殿も案外ガキみたいなことするんだな」

トリスタンに言われるとイラッとするな…

お前がもっとしっかりしてたらとっくに相談してる。

「俺、アーケイイック行ってこよっかな?」等と言い出したトリスタンは全く反省していない。

「お前はアーケイイック出禁だ。

ルイ王子にちょっかい出したのを忘れたのか?」

「あー、あいつらまだ怒ってんの?

あいつら冗談通じないのな」

「冗談では済まないことをしたんだ!

絶対勝手なことするなよ!

今度はヒルダが仲裁しても私が許さないからな!」

「おー!怖ぇーな!また串刺しか?勘弁してくれ」

相変わらずふざけた奴だ。

何で数ある弟子の中でこれを息子に選んだのか、未だに後悔する。

「とりあえず、トリスタン。

城にまだ《蜘蛛》が残ってないか確認して来い」

私の指示を聞いて、トリスタンの左右異なる瞳に狩猟犬のような光が宿る。

全く、この獣め…

「アルフレート、行くぞ」と颯爽と出ていこうとする彼をフィッシャーが呼び止める。

「大丈夫、大丈夫」とヘラヘラ笑ってるトリスタンは誰がどう見ても大丈夫じゃない。

「大旦那様!よろしいんですか?

お屋敷でも被害を出したんですよ!」

「私は確認して来いと言ったんだ。

騒ぎは起こすなよ」

「向こうが暴れなかったらなー」と笑うトリスタンは信用ならないが、今の所結果を出してるのは彼だけだ。

フィッシャーが止めてくれれば良いが…

無理だろうな…

トリスタンはカッパーに「またな」と挨拶して部屋を後にした。

「また、って」とカッパーがヘイリーの顔で笑う。

彼もトリスタンを気に入ったようだ。

「…もう来なくていいです…」と疲れた顔のウィルがボヤいた。

私も同じ思いだ…

城の修繕が必要なのは目に見えてる。

さっさとラーチシュタットに帰ってくれ…

✩.*˚

廊下にマリーと並んで立って、薬草の鉢植えを眺めていた。

朝露を含んだ緑の葉に朝日が宿る。

昨晩は寝れなかったから余計に眩しく感じる。

よく生き延びたと思う。

全身の筋肉を弛緩させる猛毒…

生物毒には基本解毒薬は無い。

一部の魚や昆虫に似た毒を持つものが居るが、対処法は、呼吸が安定するまで人工的に酸素を与え、心臓が止まらないように見張ってるしかない。

下手に手を出せば逆効果だ。

毒を吸う希少な魔石も、彼女の防殻に妨害されて使えなかった。

「父上の本に助けられた…」

《シークの薬見本》に蜘蛛の毒の対処法が記載されてた。

陛下の変な発明にも救われた。

水中で呼吸するための口に含む変な道具。

一応使う場所があったんだな…

「本当に彼女は強運ね…

あとものすごく丈夫…」

「確かに…」

毒自体も少量だったのだろう。

二時間もすれば呼吸が戻った。

それは毒が体内で分解された事を示している。

普通の人間より丈夫という《祝福》の効果もあるのだろう。

でも、命が助かったことが彼女の救いとは思えない。

私が過去に味わった絶望を、今彼女は味わっている。

ステファノの遺体を見た時の絶望を、私は今も鮮明に覚えてる。

普通の死に方じゃなかった。

あんな死に方をするような奴じゃなかった…

「…イールお兄様?」

「…何でもない…ステファノを…少しだけ思い出しただけだ…」

「何でもなくないじゃない…」

そう言ってマリーは部屋の方を見た。

「ヒルダ…大丈夫かしら?」と心配を口にした。

蘇生ができるのは生きられる人間だけだ。

シュミットはその枠から外れていた。

全身に毒が廻り、首の傷も致命傷ではないが重傷だった。

血も多く失っていた。

彼の剣は、死闘を示すように歪んでいた。

それでいて、死に顔が穏やかだったのは、安心して死ねたからだろう。

彼は我々がヒルダを助けると信じていたのだろう…

結果的に彼の信じた通り、ヒルダは生き延びた。

「そんなとこで何してんのさ?」と声がしてミツルが現れた。

ミツルも昨夜の話を聞いたのだろう。

お節介を焼きに来たようだ。

「ヒルダが、二人だけにしてくれと言ったから、ここで待ってる」と答えた。

「それって大丈夫なの?」とミツルは訊いてきたが、その答えは私も持ち合わせていない。

ただ、彼女のささやかな願いを叶えてやりたかった。

私にできることなんてその程度だ…

「お前はお節介すぎるんだ、別れくらい二人きりにしてやれ。

陛下は、彼の遺体を早めにフィーアに送り返す意向だ。

あと一時ひとときしか一緒に居られないし、彼女は彼の葬儀にも出れない…

今は邪魔してやるな」

「…分かった…それならヘイリーの所に行ってくる」

「彼女が無事だと伝えてくれ」

「分かった。

また後で連れてくるよ」

そう言って彼は素直に帰って行った。

あいつはバカだが良い奴だ。

ステファノが人間に殺されたと知って、私は怒りの矛先を、彼と、彼の世話をしてたベティに向けた。

ルイと陛下が止めてくれなければ、二人の命を奪っていた。

何も考えられないくらい、深く傷ついていた。

それでもミツルは私を許した。

私は本気で彼を殺す気だったのに、彼は懐っこく、私が閉じ込められた塔に上り、扉越しに『友達になろう』と言った。

あいつは本当にバカなんだ…

放っておけないくらいバカだ…

でもそのバカに救われた…

お前なら彼女を救えるのか?

その役目は私では無理なのか?

どうしようもない思いがぐるぐると巡った。

「…イールお兄様、ヒルダが呼んでるわ」

マリーに袖を引っ張られてやっと気づいた。

ヒルダのよく通る声が聞こえた。

「来てくれ」と聞こえた。

「何だ?」と部屋に入ってベットの間仕切りのカーテンを開けた。

「煙草はあるか?」と彼女は言った。

「ダメよ、今は…」とマリーが止めると、ヒルダは、「あたしが吸うんじゃないよ」と少し笑った。

「ライナーに吸わせるんだ。

戦場で、死んだ兵を簡易的に葬る時にする、儀式みたいなものだ」

「どうしたらいい?」

私はポケットから、彼女から預かってた煙草入れを取り出した。

煙草は、最後の一本になっていた。

「火を点けて、彼に咥えさせてやってくれ」とヒルダが言った。

「分かった…」と彼女に応えて、煙草に火を灯した。

バニラの香りを含んだ煙が立ち上る。

硬直したシュミットの口を少しこじ開けて、煙草を咥えさせた。

ヒルダに視線を向けて、これでいいかと視線で問うた。

彼女は満足そうに微笑んで、小さく頷いた。

「…ありがとうダンケ、イール殿下…」

彼女の白い頬にまた一筋涙が伝って、いつの間にか差し込んだ陽の光を含んでそのまま落ちた。

そんな彼女の姿を、美しいと見とれた自分を強く恥じた…
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