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異母兄弟
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父上は何故あの卑しい兄を重用するのか?
生まれなら俺の方がずっと上だ、身体も恵まれ、ビッテンフェルト家の家督を継ぐべく教育を受けてきた。
優先されるべきは、俺であってあの卑しい男じゃない。
あいつは、俺が受けるはずの《祝福》を掠めとって生まれた泥棒だ!
俺が先に生まれていたら!
あいつの存在が憎くてたまらない!
兵隊が足らないから、父上に他の隊から回してくれるように交渉しに行ったのだが、返ってきた答えは「自分で何とかしろ」という怒号だった。
話を打ち切るように部屋を出て行った父上は、忌々しげに激しく扉を閉めた。
しかし、そのすぐ後に聞こえた声に驚く。
「ワルターか?」
父上は声が大きいので、否応でも扉の向こうからでも声が聞こえる。
異母兄への対応は俺へのものと違っていた。
唇を噛み締め、拳を握った。
何故俺ではダメなのか?
俺が後に生まれただけだ…
父上はあの男の肩を抱いて《息子》と呼ぶが、俺のことは《本妻の子》と呼ぶのだ。
俺があんたの《息子》なのに…
それがさらに苛立ちを募らせる。
あいつも、あいつの部下も、あいつのもの全てが憎くてたまらない。
金に物を言わせて、部下を引き抜いたり、あいつの恋人に嫌がらせや危害を加えた。
それでも、怒りも悲しむ姿も見せない、飄々とした態度を崩さないあいつがムカついた。
俺など、相手にするまでもない、小者だと言いたいのだろうか?
父上の声が聞こえなくなったので部屋を出た。
待たせていた部下を連れて建物を後にしようとすると、中庭の方が何やら騒がしい。
「何だ?」
「先程クルーガー隊長の部下たちが、揃って中庭に行くのを見ました」
異母兄の姓を聞いてまた憎悪が鎌首をもたげる。
「そういえば、新入りらしき貧相な子供を連れていました」
「例の魔法使いか?」
興味が沸いた。
あの男が隠そうとしてた子供の魔法使いだという。
憂さ晴らしに虐めてやろうと思って、顔を見に中庭に足を運んだ。
昨日見たあいつの取り巻きの姿がある。
その中に一人、見慣れない黒髪の子供の姿があった。
魔法使いと聞いたが、杖は持っていない。代わりに、白い珍しい弓を手にしている。
「…女だとは聞いてないぞ」
「いえ、あれで男だそうです」と部下が答えた。
弓を持った子供は、遠目から見ても分かる、異質な空気を放っていた。
血色のいい頬と白い肌、それとは対象的な長い黒髪は艶のある漆黒で、目は濃い青か紫色をしていた。
貧相な格好だが、あれが男だと言うなら、大層な美少年だ。
「…あれが」
異母兄が俺から隠したがったものか…
純粋に、欲しいと思った。
あの見栄えする子供を傍に置けば、俺はもっと威厳を持つだろう。
なぜあいつはいつも俺の欲しいものを持っている?
順番が違っただけで、あの少年だって、俺の方がいいに決まっている。
「ギュンター様?」
「あの子供をここに連れてこい。
俺が召し上げる」
「それは…さすがにあいつらが黙っていないかと…」と部下が難色を示した。
あの少年の周りにいるのは、異母兄の部下でも指折りの猛者達だ。
「いいから行け!」怒鳴りつけると部下たちは慌てて子供を迎えに走った。
中庭に走った部下たちが、異母兄の部下たちと揉めている。
あいつらは俺の事をなんとも思っていない連中だ。
腕だけは立つが、はみ出し者の狂犬たち。
あの男に似合の頭のおかしい奴らだ…
少年の視線がこちらに向いた。
彼は異母兄の部下に何やら言って、引き止めるあいつらを置いて俺の部下に着いてきた。
何だ、よく分かってるじゃないか?
やはりあの男より、俺に着いた方が良いと分かっているのだろう。
「何?」と俺の前に立った少年は、挨拶もなしにそう口を開いた。
やはり綺麗な顔をしている。
青年と呼ぶには幼い。
線の細い女みたいな顔は、その辺の女よりも美しい整った顔で目を引く。
黒い長いまつ毛に縁取られた紫の瞳はカットされたサファイヤのように光を含んでいた。
「お前を俺の部下に召し上げてやろうと思ってな、俺が誰が知っているか?」
俺の質問に、少年は「知ってる」と答えたが、その菫色の瞳は反抗的な光を放ち、俺を睨めつけていた。
「あんたはワルターの優しさにつけ込む嫌な奴だ」
「…何?」
「僕はワルターを選ぶ。それを言いに来た」
はっきりと宣言した少年は、そのまま踵を返して仲間のところに戻ろうとした。
あの男を選ぶと、それだけ言うために来ただと?
こんな子供に、この俺が侮辱された…
怒りが込み上げた。
「このッ!」子供に掴みかると、細い腕を無理やり引き寄せた。
「何を生意気な!」
「乱暴だな!放してよ!」身体を捩って逃げようとする少年を無理やり組み伏せた。
「お前は黙って俺の言うことを聞けばいいんだ!」
「嫌だね!ワルターはそんなことしなかった!」
「あいつの名を出すな!不愉快だ!」
顔を殴ろうと拳をふり上げた。
殴られると思ったのか、綺麗な顔の少年は目を瞑り、手で顔を守ろうとした。
怯えたその姿に高揚感を覚えたが、次の瞬間、背筋が凍るような死神のような声を聞いた。
「おい…てめぇ、今何しようとしてる?」
ダガーの刃が喉元に当たっている。
恐ろしい形相で、ダガーを突き出した男を見て少年が彼の名を呼んだ。
「…エルマー」
「だから行くなって言ったんだ。
こいつはワルターの弟だがクソ野郎だ」と忌々しげに、低い声で呟いた。
「スーを殴るなら、その腕を失う覚悟で殴るんだな。
俺はマジだぜ」
狂気を宿した視線に怯む。
相手の手は自分の腰の剣に伸びていた。
子供を掴んでいた手を離すと、エルマーはダガーを鞘に納めて、スーと呼んだ子供を抱き寄せて仲間の所に戻った。
「ギュンター様!」
役に立たない奴らだ。
俺に刃が届く場所まで、あの男の接近を許すなんて無能共め!
「ギュンター様、さすがにお父上のお耳に入ったらお叱りを受けます。
一旦御屋敷にお戻りになった方がよろしいかと…」
「クソっ…仕方ない戻るぞ」
騒ぎを聞きつけて、父上や異母兄が戻ってきて鉢合わせするのはバツが悪い。
逃げるように拠点を後にした。
あの生意気な子供を思うと、腸が煮えるような怒りを覚えたが、それと同時に、手に入らないものを奪いたくなる思いも募る。
あの男が隠したがったくらいだ。
今度こそあの男の苦しむ顔が見れると思った…
✩.*˚
「バカ!」
「お前イカれてんぞ!」
エルマーとオーラフがスーを叱りつけた。
「全く…何かあったらどうすんだ!」と言いながらエルマーはスーの背中に付いた砂を忌々しげに払う。
スーは子供の形のくせに随分と肝が座っている。
「大袈裟だよ」と答える彼に、エルマーも眉を顰めて閉口した。
「怪我ないな?」とフリッツが確認すると、スーは頷いて「君の方こそ」と笑った。
面白い奴だ。
さっき投げた時も、不意打ちにも関わらず、割と上手く受身をとっていた。
体幹はしっかりしてるし、目も良い。
自分より大きな相手でも向かっていくとは、なかなか有望だ。
稽古が楽しみだ。
「ソーリュー!お前も何か言え!先生だろ?」
「…なかなか見所がある」
「違うだろ!」とオーラフが怒鳴ったが、思ったことを口にしただけだ。
スーの腕を握って、腕の解き方を教えた。
「ああやって掴まれた時は、腕を一度上げて真っ直ぐ振り下ろすと解ける。
そうしたら目か喉が股間を狙え」
「分かった」とスーは素直に答えた。
「今度は上手くやるよ」
「今度は無しにしてくれ…
ワルターが知ったら大事だぞ」とスーの返事にフリッツが額を抑えて呻いた。
ワルターの名前を聞いて、ギュンター相手にも怯まなかったスーの顔が曇った。
「ワルター、怒るかな…」
「強いて言うなら、俺たちが怒られるな」と嫌そうな顔のオーラフが答えて、エルマーが「全くだ」と応じた。
「あっぶねぇなぁ…あと少しで中庭が大惨事になるところだ…」
「ワルターが本気でキレたら、団長だって止めるのに難儀する」
「…ワルターが?」とスーが驚いたように訊ねた。
スーはワルターの事をまだ表面しか知らない。
軽薄そうな男の仮面の下にある、本当の顔を知るのはまだ先だろう。
「ワルターは《祝福持ち》だからな。
本気で戦ったらギュンターなんか相手になんねぇよ」
「《氷鬼》か…久しく見てないな…」
「あいつにもダメージがあるから、むやみやたらに使ったりしねぇよ」とエルマーが呟いた。
煙草を出して咥えながら頭を搔いて提案した。
「まぁ、何だ…何も無かったことにしねぇ?」
「お前、ギュンターにダガー抜いたろ?」とフリッツが眉を顰めた。
「やっぱりダメなの?」
「当たり前だろ?後でバレた時の方が怖いぜ」
「あーあ、ヘタこいたなー…」
「ごめん、僕のせいだ」
スーは申し訳なさそうにエルマーに頭を下げた。
エルマーは煙草を指に摘んで「いいさ」と苦笑いした。
「これであいつがどんな奴か分かったろ?
もう近付くなよ?」
エルマーは笑いながら、優しくスーの頭を撫でた。
この狂犬みたいな男が、弱者の無事を本当に喜んでいるのが信じられない。
《嘲笑のエルマー》と呼ばれ、恐怖される彼が子供の世話を焼く姿など、誰も想像できないだろう。
この子供は随分なタラシのようだ。
まぁ、俺も魅了された一人かもしれないな…
そう思って、仮面の下で少しだけ笑った。
✩.*˚
「…ほらよ」と親父は紙切れを寄越した。
礼を言って受け取った紙は、見た目に反して重いものだった。
「俺はお前に期待してんだ…裏切るなよ」
この街で、スーの安全と身元を保証する紙切れと引き換えに、親父は俺に一つ条件を提示した。
俺としては飲むしかない。
それに、スーが居なくてもどちらにしろ、押し付けられる役だ。俺に選択肢はなかった。
「もう行っていいか?」と訊ねると、親父は机の引き出しから小さな皮袋を出して投げて寄こした。
「スーの分だ」
中身を確認して眉を顰めた。
「間違えてねぇか?」と親父に訊ねる。
中に入っていた金は、新人の前金の倍入っていた。
「そうか?お前の首輪を買ったと思えば安いもんだ」
親父はそう言って葉巻を出して、吸口を切ると火を点けた。
「もう少し良い家に移れ。
あそこじゃ手狭だろ?」
「引越しなんて面倒だ。
どうせ遠征ばかりで外で寝てるんだ、あのオンボロの安宿で十分だ」
俺はあの古い汚い宿を気に入っていた。
仕事で出れば、宿営地で寝泊まりするから、家は荷物置きの役目しかない。
それでも、あそこの主人とは昔馴染みだし、融通を利かせてくれるので移る気はなかった。
親父は俺の返事に「そうか」と呟いた。
「気が変わったら来い、用意しておいてやる」
親父の言葉の意味を理解していたが、知らないフリをした。
「じゃあまた」と別れて、親父の壊した建付けの悪くなったドアをくぐった。
話が話なだけに長くなってしまった。
スーたちの姿を探していると、中庭が騒がしかった。
まさかと思って足を運ぶと、やはりあいつらが騒ぎの真ん中にいた。
「あ!ワルター!」何故か土に汚れたスーの姿があった。
ソーリューが、服に着いた土埃を払っているのを見て理解する。
「こんなところで目立つことするなよ」と苦言を呈すと、彼は無視して「筋がいい」とだけ言った。
ソーリューがそうやって褒めるのは珍しい。
スーは興奮した様子で俺に話しかけた。
「《組手》とかいうのを教えてくれてた。
ソーリューはスゴいね!
僕もフリッツを投げれるようになるよ!」
「いや、勘弁してくれ…」と名指しされた本人は嫌そうな顔をしている。
フリッツの服にも土が着いているところを見ると、彼も被害者らしい。
「随分長かったじゃねぇの?何か問題か?」と木陰で煙草を手にしたエルマーが俺に訊ねた。
さっきの話を思い出して気分が重くなる。
「いや…親父から一筆貰ってただけだ」と事実を半分だけ伝えて、スーに証書を見せた。
「親父がお前の身元を保証してくれた。
俺が預かってるから、勝手にフラフラして無駄にするなよ?」
「ありがとう」
「あと、金も預かった。お前のだ」と皮袋を渡そうとしたが、スーは手を出さなかった。
「ワルターが預かっててよ」
「お前のだ」と言ったが、スーは首を横に振って答えた。
「使い方が分からない。
それに昨日も今日も君の世話になったから、そこから返せるかな?」
意外と気にしていたらしい。
確かに、使い方が分からないうちに持たせておくのも危なっかしい。
しばらくは面倒見てやるつもりでいたから、少しだけ持たせて、あとは預かることにした。
「ワルター、少しいいか?」と珍しくソーリューの方から声をかけてきた。
その低い声色から嫌な話だと想像できた。
「ギュンターがスーにちょっかい出してきた」
ソーリューの仮面の下の曇った声は最悪の報告を聞かせた。
「あいつに何かされたのか?」と訊ねると、スーは「大したことじゃない」と答えた。
「自分の所に来いって言ったから、断っただけだよ」
「嘘つけ、あいつがそんなので納得するわけないだろ!」
語気が荒くなる。
あいつの質の悪さは、俺が一番よく知っている。何も無く帰っていくわけが無い。
思い通りにならなければ拳を振るう。
相手が女子供だろうと関係ない。そういう奴だ。
スーを預けた二人を睨んだ。
「お前ら見てただけか?!」
「バカ言え、黙って見てるわけねぇだろ?」とエルマーが答える。
何となく口が重い。こいつも何かしたな…
エルマーが忌々しげに舌打ちして何があったか報告した。
「あの野郎、スーが大人しくしてるのをいい事に、腕を掴んで引き倒しやがった。
拳で殴ろうとしたから俺もちっさい方を抜いた、悪かったよ…」
「僕が自分で話すって言ったんだ。
エルマーたちは悪くない」
「いや、お前のことを守るようにあの二人に任せた。任された以上、お前を守るのがあいつらの仕事だ」
スーにそう言って二人に視線を戻した。
「何か言うことあるか?」
「面目無い」
「言い訳はしねぇよ、あんたの期待を裏切った、すまねぇ」
ソーリューもエルマーもすんなりと非を認めた。
「次はないからな」と二人に伝えた。
「スー、お前もだ。
お前が勝手な行動をとったからこうなった。
お前も反省しろ、二度とギュンターに関わるな」
「分かった…ごめん…」
「何かあったら必ず報告しろ。
俺の言うことが聞けないんなら、お前を引き取るって話も無しだ。出てってくれて構わない」
その言葉に俯いてたスーが弾かれたように顔を上げた。
紫の瞳が泣きそうな色をしていた。
その顔に少しだけ胸が傷んだ…
エルマーが泣きそうなスーの肩を抱き寄せて、俺を睨んだ。
「おい!それは言い過ぎだ!」
「悪いもんは悪い!
今回は運良く、親父がいる場所だったからあいつも引いただろうが、次どんな手を使ってくるか分からん!
あいつはそういう奴だ!」
今回の事で諦めるような奴じゃない。
しつこく機会を伺って、何度でも痛ぶりに来る。
しかも、あいつからしたら兎狩りみたいな遊び感覚だ。質が悪い。
「こいつはエマじゃない」とエルマーが口にした。
聞きたくない名前を聞いて、頭に血が昇った。
手が冷たくなる…
周りの空気がパキパキと音を立てているのは、空気に含まれる水が凍る音だ。どうにも止められない。
「ワルター!エルマーも止めろ!落ち着け!」
フリッツが間に入った。
「エマが悲しむ」と彼に言われて唇を噛んだ。
「分かってるよ」と何とか自分を抑えるが、一度冷たくなった手の温度はなかなか元には戻らなかった。
スーがフリッツの袖を引いた。
「…エマって?」
「俺の妹だ」とフリッツはスーを見下ろして苦く笑った。
「エルマー、先にスーを連れて戻ってろ。
ソーリューも一緒に行け。
俺はワルターと話がある」
「じゃぁ、俺も帰るわ」とさっさとオーラフは帰って行った。
後に続くように三人も中庭を後にした。
スーが何度か振り返ったが、何も言わず見送った。
「らしくないぞ」とフリッツが口を開いた。
「後でスーに謝れよ?結構酷いこと言ってたぜ」
「当たり前のことを言っただけだ」と言い返したが、付き合いの長い彼は、俺の機嫌が悪い原因に気が付いていた。
煙草を出して咥えると、俺にも勧めた。
「団長か?それともギュンターか?」
「…誰にも言うなよ…時期ビッテンフェルトを打診された」
俺の返事にフリッツも驚いたようだった。
「団長も思い切ったことをする」と彼は眉を顰めた。
「あぁ…さら当たりが強くなる…」
俺がビッテンフェルトを名乗るってことは、同時にこの傭兵団の団長を継ぐということだ。
それはギュンターにとって最悪の状況だろう。
親父もその決断をするほど、ギュンターに失望していた。
部下の給料用の資金を使い込んだり、勝手に他の隊から傭兵を引き抜いたり、自分に靡かないやつにひたすら嫌がらせを続けた結果だ。
悪行を重ねる愚弟から親父の心は離れてしまった。
「スーが心配か?」とフリッツは俺に訊ねた。
俺は答えなかったが、答えなど分かりきってることだ。
煙草の煙を口に含んで、吐き出すと重い口を開いた。
「俺と関わるとろくな事がない」
「そうか?」
「お前の妹が死んだのは俺のせいだ」
フリッツと同じ色の長い髪をした彼女を思い出した。
兄貴に似ずに、賢くて大人しい、控えめな美人だった。水色の瞳は春の空のような暖かな色をしてた。
「違う、ギュンターが悪いんだ。そうだろ?」
煙を吐いてフリッツが俺に答えた。
平然としているが、彼の心中は穏やかじゃないだろう。
お前がどんだけエマを大事にしてたか知ってるよ…
俺が、呪われた人間のくせに、人並みの幸せを願ったから彼女を巻き込んでしまった。
俺たちが遠征に出てる間に、エマは乱暴された。
実行に移したのは別の奴らだが、裏で糸を引いたのはギュンターだ。
随分してから、異母弟が酒場で誇らしげに、ならず者に俺の恋人を襲うように仕向けたと豪語していたと聞いた。
戦場から帰った俺を待ってたのは、自ら命を絶った恋人の変わり果てた骸と、詫びを綴った悲しい手紙だった。
死体なんて見慣れてたはずなのに、あの死に顔だけが目に焼き付いて消えない。
もっと早く帰ってやれれば、もう少しきれいな状態で彼女を葬れたのに、首に縄がくい込んだ遺体は、誰にも気付かれずに、少しだけ腐敗が進んでいた。
親父から金を借りて、急いで彼女の墓を用意した。
一緒に住む家を借りる前に、墓を用意するとは思わなかった…
涙も出なかった…
自分を呪う嘲笑が口元に宿っただけだ。
ギュンターを恨む事すら億劫で、ただ自分の出自を呪った。
全てを知った親父が、俺とフリッツに謝罪したが、そんなこともうどうでもよかった。
エマは戻らない。
あの、はにかむような笑顔も、優しい声も、暖かで柔らかな肌も…全部失った…
出立前、最後に会った時には、『ちゃんと帰ってきてね』と言ってキスをくれた。
彼女の最後の言葉は生きる希望だったが、帰ってみれば絶望に変わっていた。
この街から出ていこうかとも思ったが、そうなればギュンターの思うツボで、フリッツは無駄に妹を失っただけの話になる。
惨めな負け犬になるのは構わないが、彼女の死すらなかったことにすることは出来なかった。
結局ここに残って、奴と向き合う生活を続けた。
「スーを手放した方がいいか?」とフリッツに訊ねると、彼は「知るか」と素っ気なく答えた。
「お前はスーをどうしたいんだよ?」
「…分からん」この期に及んでまだ迷っている。
今手放しても、一度俺に関わってしまったからには、あの異母弟の憎悪の対象だ。
このまま手放すのは無責任に思えた。
俺はあの懐っこい犬のような青年が気に入っていた。
抱いて寝たせいだろうか?
妙に情が湧いてしまった。
「お前が決めろ」とフリッツは俺を突き放した。
『エマを貰っていいか』と尋ねた時もフリッツは素っ気なくそう答えた。
良いとも悪いとも言わずに、ただ『死ぬまで責任持て』と言って俺の背を乱暴に殴った。
苦笑いが漏れる。
「そうさな」と言って煙を口に含んだ。
苦い味が口に広がる。ウジウジした気持ちと一緒に苦い煙を吐き捨てた。
「親父から証書も貰ったしな、無駄にしたらまた怒鳴りつけられるな…」
「まぁ、そうだな」
「スーの毛布を買わないと」
「服も買ってやれ」とフリッツがお節介を焼いた。
彼は機嫌良さそうに笑いながら俺の背を叩いた。
「寄っていくだろ?」と彼は妹の眠る墓に俺を誘った。
買い物ついでに、安い花束を買って、土産話をしに立ち寄ろうと思った。
変なガキを拾ったと言ったら、エマは笑ってくれるのだろうか?
✩.*˚
ワルターの部屋の鍵を宿屋の主人に預かった。
優しそうなお爺さんだ。
「一人で大丈夫か?」
「うん」部屋まで送ってくれたエルマーに頷いてみせると、彼は長い腕を伸ばして僕の頭を撫でた。
「ワルターはああ言ってたけど、本気じゃねぇよ。
あんま気にすんなよ?」
「ありがとう」
「またな」軽く手を振って、立ち去るエルマーの背を見送って部屋に入った。
主人の居ない散らかった部屋を見渡した。
脱いだ服や洗濯物がその辺に放置されて、ゴミ箱が溢れそうになっている。
いかにも忙しい独り身の部屋だ。
床に転がった酒の瓶を拾ってまとめた。
洗った方が良さそうな物と、そうでない物を取り分けると少しだけ部屋がスッキリした。
あまり使われてなさそうな箒で床を掃くと、埃が陽の光の中キラキラと舞った。
舞い上がった埃にむせて咳き込んだので、窓を開けて空気を入れ替えた。
煙草の吸殻を集めたが、どうやって捨てるのか分からずそのままだ。
煙草の匂いが染み付いた毛布は、叩くとまた埃が舞った。
掃除するための雑巾が欲しかったが、どこにあるか分からない。もしかしたら、それすらないのかもしれない。
少しだけ片付いた部屋を眺めて、机の前の椅子に腰掛けた。
椅子は少し軋む音を立てて僕を受け入れた。
お腹が空いていた。
朝、食堂の女将さんから貰った、パンの耳のお菓子が残っていた。
「…甘い」サクサクとした歯ごたえで食べごたえがある。
人目がないので、指先に付いた砂糖を子供のようにしゃぶった。
喉が乾いた…
賑やかな人に囲まれていたから一人だと寂しく感じる。いつも一人で平気だったのに…
机に突っ伏して動かないドアを眺めた。
いつ帰ってくるんだろう?
まだ怒ってるのかな?
エマとは…フリッツの妹と僕は似てるのだろうか?
そう思って自分の顔を触れた。
僕の顔は父さんに似てるらしい。エルフの顔立ちと人間の特徴が混ざったこの姿は、アーケイイックでも珍しがられた。
他のエルフと接触した時に、親切な若いエルフがいたが、彼は僕を集落に引き止めてくれた。
「人の国に行っても君は目立つよ」と彼と彼のお父さんが警告してくれた。
結局、人の国でも目立って、僕には居場所がないのだろうか?
ワルターも、本当は僕をここに置いておきたくないのかな…
エルマーたちは、僕が珍しいから面白がってるのかな?
嫌な考えばかりが過ぎる。
出ていけって言われたら…どうしよう…どこに行こう?
明るく振舞っていたけど、人の気持ちなんて分からない。
ワルター…早く帰ってこないかな…
そうしたら、ちゃんと謝って、君の言うことなんでも聞くよ。
だから、君たちの仲間に入れて欲しいんだ…
目頭が熱くなって顔を伏せた。
少し泣いて眠ってしまった。
✩.*˚
荷物を持って部屋に戻ると鍵が開いてた。
開けっ放しなんて不用心だ、なんかあったらどうすんだよ?
「…ただいま」と言って変な気がした。
そんな言葉、ずっと使ってなかった。
俺の部屋で、俺しか居ないのに、そんな言葉使う相手もなかった。
いつも部屋の中の物がドアに引っかかるのに、今日はすんなり扉が開いた。
部屋が片付いてる。
窓も開いていた。
甘いパンの匂いがして、部屋の奥の小さな机に突っ伏したスーの姿があった。
「お、おい?」どっか具合でも悪いのかと心配したが、寝てるだけのようだ。
寝床で寝りゃいいのにと思ったが、遠慮をしたのだろう。ここは、スーからしたら他人の部屋だ。
窓辺の陽の当たるところに毛布がかけてあった。
こいつなりに気を使ってくれたのだろう。
掃除なんてしばらくしてなかったから、久しぶりに床を見た。
「…役に立つじゃないか」と部屋を見回して笑った。
買ってきた毛布をかけてやって、自分は寝床に腰掛けると煙草を出して吸った。
『スーはお前が良いんだと』と言ったフリッツの言葉を思い出した。
ギュンターに、自分の口から俺を選ぶと伝えたそうだ。
チビのくせに肝が据わってる。
まぁ、怖いもの知らずは問題だが、少しだけ嬉しかったのも事実だ。
こいつはこいつなりに、背伸びして、俺たちの仲間になろうとしてるのかもしれない。
エルマーにもソーリューにもキツく当たってしまった。あいつらにも詫びなければならない。
あいつらはちゃんとスーを守ってくれた。
止めるのが遅かった気もするが、俺が不在の中、ギュンター相手に良くやった方だ。
煙草の火を消して寝床に横になった。少しだけ小綺麗になった部屋を眺めて、目を閉じた。
✩.*˚
太陽が西に傾いたのだろう。
何かに反射した太陽の明かりが顔に当たって目が覚めた。
机に伏せていた身体を起こすと、何かが肩から床に滑り落ちた。
視線を動かすと、それが茶色い、真新しい毛布だと気付く。
部屋を見渡すと、ベッドと呼ぶには貧相な寝床に、ワルターの姿があった。
彼は毛布も被らずに、靴も履いたままの姿で寝ていた。寝にくくないのだろうか?
起こさないように静かに近づき、そっと毛布を彼に返した。
ワルターは、あんまり団長とは似てない。
ギュンターの方が団長に似てた。
唯一親子と思わせるのは、短い赤みがかった金髪だけで、それも団長の髪とは違って僅かに癖のある巻き毛だ。
見れば見るほど団長とは似ていない。
でもギュンターとは似てなくて良かったと思う。
彼の異母弟の顔は、どことなく歪んでいるように見えた。
寝床の隣に腰を下ろし、足を抱くように丸くなって座った。
床掃除が途中になっていたので、残っていた埃が服に付く。また掃除しないと、と思って床を指で撫でた。
埃っぽい床に指の跡が残る。
床を撫でていると、不意に大きな手のひらが伸びて頭に触れた。
「…何だ、スーか?」ワルターの声がした。
顔を上げようとしたが、大きな手はそのまま頭を撫でた。
彼は、「この毛布、お前のだ。お前が使え」と言って、座っていた僕に毛布を投げると、身体を起こした。
体温の残る新しい毛布は暖かくて、彼の煙草の匂いが移っていた。
「部屋、片付けてくれたんだな、ありがとよ」
ワルターはぶっきらぼうだが褒めてくれた。
被った毛布を手に取って撫でる。兎みたいな柔らかい毛に指が埋もれる。
「…いいの?」
「何が?」
「僕…この毛布…」上手く喋れずに、目元が熱くなる。泣きそうだった…
本当に、これを貰っていいのだろうか?
「寝るのに要るだろ?
お前だって、男二人で抱き合って寝るの嫌だろうが?」
「居ていいの?」
そう口にして涙を抑えきれなくなる。
泣き出した僕の頭に、また、あの広い手のひらが重なった。
父さんのとは別の、硬い暖かい手のひらが、優しく頭を撫でた。
「さっきは俺が言いすぎた。悪かったよ。
でも、約束ってのは守るためにあるんだ。
出てけなんて言わないから、約束は守れよ?いいな?」
「…うん」
「よし、じゃあ、この話は終いだ」彼はそう言って笑った。僕も涙を拭った。
「昼飯食い損なったな…腹減ったろ?」と彼は僕に訊ねた。その言葉に素直に頷いた。
西に傾いた太陽が、空を赤く染めようとしていた。
空が、彼の髪のような色を含んで、夜の藍を呼んだ。
もう昼より夜に近い時間になっていた。
「少し早いが、エルマーたちと飯を食いに行こう」
「昨日のお店?」と訊ねると、彼は「そうだ」と答えて煙草に火を点けた。
「エルマーとソーリューに、俺の奢りだって言ってきな。
俺はこれを吸ったら行くからよ」
ワルターは煙草を咥えながら僕を促した。
「分かった」と答えて毛布を置いて部屋を出た。
ワルターは、煙草を吸いながら、僕に小さく手を振って見送った。
生まれなら俺の方がずっと上だ、身体も恵まれ、ビッテンフェルト家の家督を継ぐべく教育を受けてきた。
優先されるべきは、俺であってあの卑しい男じゃない。
あいつは、俺が受けるはずの《祝福》を掠めとって生まれた泥棒だ!
俺が先に生まれていたら!
あいつの存在が憎くてたまらない!
兵隊が足らないから、父上に他の隊から回してくれるように交渉しに行ったのだが、返ってきた答えは「自分で何とかしろ」という怒号だった。
話を打ち切るように部屋を出て行った父上は、忌々しげに激しく扉を閉めた。
しかし、そのすぐ後に聞こえた声に驚く。
「ワルターか?」
父上は声が大きいので、否応でも扉の向こうからでも声が聞こえる。
異母兄への対応は俺へのものと違っていた。
唇を噛み締め、拳を握った。
何故俺ではダメなのか?
俺が後に生まれただけだ…
父上はあの男の肩を抱いて《息子》と呼ぶが、俺のことは《本妻の子》と呼ぶのだ。
俺があんたの《息子》なのに…
それがさらに苛立ちを募らせる。
あいつも、あいつの部下も、あいつのもの全てが憎くてたまらない。
金に物を言わせて、部下を引き抜いたり、あいつの恋人に嫌がらせや危害を加えた。
それでも、怒りも悲しむ姿も見せない、飄々とした態度を崩さないあいつがムカついた。
俺など、相手にするまでもない、小者だと言いたいのだろうか?
父上の声が聞こえなくなったので部屋を出た。
待たせていた部下を連れて建物を後にしようとすると、中庭の方が何やら騒がしい。
「何だ?」
「先程クルーガー隊長の部下たちが、揃って中庭に行くのを見ました」
異母兄の姓を聞いてまた憎悪が鎌首をもたげる。
「そういえば、新入りらしき貧相な子供を連れていました」
「例の魔法使いか?」
興味が沸いた。
あの男が隠そうとしてた子供の魔法使いだという。
憂さ晴らしに虐めてやろうと思って、顔を見に中庭に足を運んだ。
昨日見たあいつの取り巻きの姿がある。
その中に一人、見慣れない黒髪の子供の姿があった。
魔法使いと聞いたが、杖は持っていない。代わりに、白い珍しい弓を手にしている。
「…女だとは聞いてないぞ」
「いえ、あれで男だそうです」と部下が答えた。
弓を持った子供は、遠目から見ても分かる、異質な空気を放っていた。
血色のいい頬と白い肌、それとは対象的な長い黒髪は艶のある漆黒で、目は濃い青か紫色をしていた。
貧相な格好だが、あれが男だと言うなら、大層な美少年だ。
「…あれが」
異母兄が俺から隠したがったものか…
純粋に、欲しいと思った。
あの見栄えする子供を傍に置けば、俺はもっと威厳を持つだろう。
なぜあいつはいつも俺の欲しいものを持っている?
順番が違っただけで、あの少年だって、俺の方がいいに決まっている。
「ギュンター様?」
「あの子供をここに連れてこい。
俺が召し上げる」
「それは…さすがにあいつらが黙っていないかと…」と部下が難色を示した。
あの少年の周りにいるのは、異母兄の部下でも指折りの猛者達だ。
「いいから行け!」怒鳴りつけると部下たちは慌てて子供を迎えに走った。
中庭に走った部下たちが、異母兄の部下たちと揉めている。
あいつらは俺の事をなんとも思っていない連中だ。
腕だけは立つが、はみ出し者の狂犬たち。
あの男に似合の頭のおかしい奴らだ…
少年の視線がこちらに向いた。
彼は異母兄の部下に何やら言って、引き止めるあいつらを置いて俺の部下に着いてきた。
何だ、よく分かってるじゃないか?
やはりあの男より、俺に着いた方が良いと分かっているのだろう。
「何?」と俺の前に立った少年は、挨拶もなしにそう口を開いた。
やはり綺麗な顔をしている。
青年と呼ぶには幼い。
線の細い女みたいな顔は、その辺の女よりも美しい整った顔で目を引く。
黒い長いまつ毛に縁取られた紫の瞳はカットされたサファイヤのように光を含んでいた。
「お前を俺の部下に召し上げてやろうと思ってな、俺が誰が知っているか?」
俺の質問に、少年は「知ってる」と答えたが、その菫色の瞳は反抗的な光を放ち、俺を睨めつけていた。
「あんたはワルターの優しさにつけ込む嫌な奴だ」
「…何?」
「僕はワルターを選ぶ。それを言いに来た」
はっきりと宣言した少年は、そのまま踵を返して仲間のところに戻ろうとした。
あの男を選ぶと、それだけ言うために来ただと?
こんな子供に、この俺が侮辱された…
怒りが込み上げた。
「このッ!」子供に掴みかると、細い腕を無理やり引き寄せた。
「何を生意気な!」
「乱暴だな!放してよ!」身体を捩って逃げようとする少年を無理やり組み伏せた。
「お前は黙って俺の言うことを聞けばいいんだ!」
「嫌だね!ワルターはそんなことしなかった!」
「あいつの名を出すな!不愉快だ!」
顔を殴ろうと拳をふり上げた。
殴られると思ったのか、綺麗な顔の少年は目を瞑り、手で顔を守ろうとした。
怯えたその姿に高揚感を覚えたが、次の瞬間、背筋が凍るような死神のような声を聞いた。
「おい…てめぇ、今何しようとしてる?」
ダガーの刃が喉元に当たっている。
恐ろしい形相で、ダガーを突き出した男を見て少年が彼の名を呼んだ。
「…エルマー」
「だから行くなって言ったんだ。
こいつはワルターの弟だがクソ野郎だ」と忌々しげに、低い声で呟いた。
「スーを殴るなら、その腕を失う覚悟で殴るんだな。
俺はマジだぜ」
狂気を宿した視線に怯む。
相手の手は自分の腰の剣に伸びていた。
子供を掴んでいた手を離すと、エルマーはダガーを鞘に納めて、スーと呼んだ子供を抱き寄せて仲間の所に戻った。
「ギュンター様!」
役に立たない奴らだ。
俺に刃が届く場所まで、あの男の接近を許すなんて無能共め!
「ギュンター様、さすがにお父上のお耳に入ったらお叱りを受けます。
一旦御屋敷にお戻りになった方がよろしいかと…」
「クソっ…仕方ない戻るぞ」
騒ぎを聞きつけて、父上や異母兄が戻ってきて鉢合わせするのはバツが悪い。
逃げるように拠点を後にした。
あの生意気な子供を思うと、腸が煮えるような怒りを覚えたが、それと同時に、手に入らないものを奪いたくなる思いも募る。
あの男が隠したがったくらいだ。
今度こそあの男の苦しむ顔が見れると思った…
✩.*˚
「バカ!」
「お前イカれてんぞ!」
エルマーとオーラフがスーを叱りつけた。
「全く…何かあったらどうすんだ!」と言いながらエルマーはスーの背中に付いた砂を忌々しげに払う。
スーは子供の形のくせに随分と肝が座っている。
「大袈裟だよ」と答える彼に、エルマーも眉を顰めて閉口した。
「怪我ないな?」とフリッツが確認すると、スーは頷いて「君の方こそ」と笑った。
面白い奴だ。
さっき投げた時も、不意打ちにも関わらず、割と上手く受身をとっていた。
体幹はしっかりしてるし、目も良い。
自分より大きな相手でも向かっていくとは、なかなか有望だ。
稽古が楽しみだ。
「ソーリュー!お前も何か言え!先生だろ?」
「…なかなか見所がある」
「違うだろ!」とオーラフが怒鳴ったが、思ったことを口にしただけだ。
スーの腕を握って、腕の解き方を教えた。
「ああやって掴まれた時は、腕を一度上げて真っ直ぐ振り下ろすと解ける。
そうしたら目か喉が股間を狙え」
「分かった」とスーは素直に答えた。
「今度は上手くやるよ」
「今度は無しにしてくれ…
ワルターが知ったら大事だぞ」とスーの返事にフリッツが額を抑えて呻いた。
ワルターの名前を聞いて、ギュンター相手にも怯まなかったスーの顔が曇った。
「ワルター、怒るかな…」
「強いて言うなら、俺たちが怒られるな」と嫌そうな顔のオーラフが答えて、エルマーが「全くだ」と応じた。
「あっぶねぇなぁ…あと少しで中庭が大惨事になるところだ…」
「ワルターが本気でキレたら、団長だって止めるのに難儀する」
「…ワルターが?」とスーが驚いたように訊ねた。
スーはワルターの事をまだ表面しか知らない。
軽薄そうな男の仮面の下にある、本当の顔を知るのはまだ先だろう。
「ワルターは《祝福持ち》だからな。
本気で戦ったらギュンターなんか相手になんねぇよ」
「《氷鬼》か…久しく見てないな…」
「あいつにもダメージがあるから、むやみやたらに使ったりしねぇよ」とエルマーが呟いた。
煙草を出して咥えながら頭を搔いて提案した。
「まぁ、何だ…何も無かったことにしねぇ?」
「お前、ギュンターにダガー抜いたろ?」とフリッツが眉を顰めた。
「やっぱりダメなの?」
「当たり前だろ?後でバレた時の方が怖いぜ」
「あーあ、ヘタこいたなー…」
「ごめん、僕のせいだ」
スーは申し訳なさそうにエルマーに頭を下げた。
エルマーは煙草を指に摘んで「いいさ」と苦笑いした。
「これであいつがどんな奴か分かったろ?
もう近付くなよ?」
エルマーは笑いながら、優しくスーの頭を撫でた。
この狂犬みたいな男が、弱者の無事を本当に喜んでいるのが信じられない。
《嘲笑のエルマー》と呼ばれ、恐怖される彼が子供の世話を焼く姿など、誰も想像できないだろう。
この子供は随分なタラシのようだ。
まぁ、俺も魅了された一人かもしれないな…
そう思って、仮面の下で少しだけ笑った。
✩.*˚
「…ほらよ」と親父は紙切れを寄越した。
礼を言って受け取った紙は、見た目に反して重いものだった。
「俺はお前に期待してんだ…裏切るなよ」
この街で、スーの安全と身元を保証する紙切れと引き換えに、親父は俺に一つ条件を提示した。
俺としては飲むしかない。
それに、スーが居なくてもどちらにしろ、押し付けられる役だ。俺に選択肢はなかった。
「もう行っていいか?」と訊ねると、親父は机の引き出しから小さな皮袋を出して投げて寄こした。
「スーの分だ」
中身を確認して眉を顰めた。
「間違えてねぇか?」と親父に訊ねる。
中に入っていた金は、新人の前金の倍入っていた。
「そうか?お前の首輪を買ったと思えば安いもんだ」
親父はそう言って葉巻を出して、吸口を切ると火を点けた。
「もう少し良い家に移れ。
あそこじゃ手狭だろ?」
「引越しなんて面倒だ。
どうせ遠征ばかりで外で寝てるんだ、あのオンボロの安宿で十分だ」
俺はあの古い汚い宿を気に入っていた。
仕事で出れば、宿営地で寝泊まりするから、家は荷物置きの役目しかない。
それでも、あそこの主人とは昔馴染みだし、融通を利かせてくれるので移る気はなかった。
親父は俺の返事に「そうか」と呟いた。
「気が変わったら来い、用意しておいてやる」
親父の言葉の意味を理解していたが、知らないフリをした。
「じゃあまた」と別れて、親父の壊した建付けの悪くなったドアをくぐった。
話が話なだけに長くなってしまった。
スーたちの姿を探していると、中庭が騒がしかった。
まさかと思って足を運ぶと、やはりあいつらが騒ぎの真ん中にいた。
「あ!ワルター!」何故か土に汚れたスーの姿があった。
ソーリューが、服に着いた土埃を払っているのを見て理解する。
「こんなところで目立つことするなよ」と苦言を呈すと、彼は無視して「筋がいい」とだけ言った。
ソーリューがそうやって褒めるのは珍しい。
スーは興奮した様子で俺に話しかけた。
「《組手》とかいうのを教えてくれてた。
ソーリューはスゴいね!
僕もフリッツを投げれるようになるよ!」
「いや、勘弁してくれ…」と名指しされた本人は嫌そうな顔をしている。
フリッツの服にも土が着いているところを見ると、彼も被害者らしい。
「随分長かったじゃねぇの?何か問題か?」と木陰で煙草を手にしたエルマーが俺に訊ねた。
さっきの話を思い出して気分が重くなる。
「いや…親父から一筆貰ってただけだ」と事実を半分だけ伝えて、スーに証書を見せた。
「親父がお前の身元を保証してくれた。
俺が預かってるから、勝手にフラフラして無駄にするなよ?」
「ありがとう」
「あと、金も預かった。お前のだ」と皮袋を渡そうとしたが、スーは手を出さなかった。
「ワルターが預かっててよ」
「お前のだ」と言ったが、スーは首を横に振って答えた。
「使い方が分からない。
それに昨日も今日も君の世話になったから、そこから返せるかな?」
意外と気にしていたらしい。
確かに、使い方が分からないうちに持たせておくのも危なっかしい。
しばらくは面倒見てやるつもりでいたから、少しだけ持たせて、あとは預かることにした。
「ワルター、少しいいか?」と珍しくソーリューの方から声をかけてきた。
その低い声色から嫌な話だと想像できた。
「ギュンターがスーにちょっかい出してきた」
ソーリューの仮面の下の曇った声は最悪の報告を聞かせた。
「あいつに何かされたのか?」と訊ねると、スーは「大したことじゃない」と答えた。
「自分の所に来いって言ったから、断っただけだよ」
「嘘つけ、あいつがそんなので納得するわけないだろ!」
語気が荒くなる。
あいつの質の悪さは、俺が一番よく知っている。何も無く帰っていくわけが無い。
思い通りにならなければ拳を振るう。
相手が女子供だろうと関係ない。そういう奴だ。
スーを預けた二人を睨んだ。
「お前ら見てただけか?!」
「バカ言え、黙って見てるわけねぇだろ?」とエルマーが答える。
何となく口が重い。こいつも何かしたな…
エルマーが忌々しげに舌打ちして何があったか報告した。
「あの野郎、スーが大人しくしてるのをいい事に、腕を掴んで引き倒しやがった。
拳で殴ろうとしたから俺もちっさい方を抜いた、悪かったよ…」
「僕が自分で話すって言ったんだ。
エルマーたちは悪くない」
「いや、お前のことを守るようにあの二人に任せた。任された以上、お前を守るのがあいつらの仕事だ」
スーにそう言って二人に視線を戻した。
「何か言うことあるか?」
「面目無い」
「言い訳はしねぇよ、あんたの期待を裏切った、すまねぇ」
ソーリューもエルマーもすんなりと非を認めた。
「次はないからな」と二人に伝えた。
「スー、お前もだ。
お前が勝手な行動をとったからこうなった。
お前も反省しろ、二度とギュンターに関わるな」
「分かった…ごめん…」
「何かあったら必ず報告しろ。
俺の言うことが聞けないんなら、お前を引き取るって話も無しだ。出てってくれて構わない」
その言葉に俯いてたスーが弾かれたように顔を上げた。
紫の瞳が泣きそうな色をしていた。
その顔に少しだけ胸が傷んだ…
エルマーが泣きそうなスーの肩を抱き寄せて、俺を睨んだ。
「おい!それは言い過ぎだ!」
「悪いもんは悪い!
今回は運良く、親父がいる場所だったからあいつも引いただろうが、次どんな手を使ってくるか分からん!
あいつはそういう奴だ!」
今回の事で諦めるような奴じゃない。
しつこく機会を伺って、何度でも痛ぶりに来る。
しかも、あいつからしたら兎狩りみたいな遊び感覚だ。質が悪い。
「こいつはエマじゃない」とエルマーが口にした。
聞きたくない名前を聞いて、頭に血が昇った。
手が冷たくなる…
周りの空気がパキパキと音を立てているのは、空気に含まれる水が凍る音だ。どうにも止められない。
「ワルター!エルマーも止めろ!落ち着け!」
フリッツが間に入った。
「エマが悲しむ」と彼に言われて唇を噛んだ。
「分かってるよ」と何とか自分を抑えるが、一度冷たくなった手の温度はなかなか元には戻らなかった。
スーがフリッツの袖を引いた。
「…エマって?」
「俺の妹だ」とフリッツはスーを見下ろして苦く笑った。
「エルマー、先にスーを連れて戻ってろ。
ソーリューも一緒に行け。
俺はワルターと話がある」
「じゃぁ、俺も帰るわ」とさっさとオーラフは帰って行った。
後に続くように三人も中庭を後にした。
スーが何度か振り返ったが、何も言わず見送った。
「らしくないぞ」とフリッツが口を開いた。
「後でスーに謝れよ?結構酷いこと言ってたぜ」
「当たり前のことを言っただけだ」と言い返したが、付き合いの長い彼は、俺の機嫌が悪い原因に気が付いていた。
煙草を出して咥えると、俺にも勧めた。
「団長か?それともギュンターか?」
「…誰にも言うなよ…時期ビッテンフェルトを打診された」
俺の返事にフリッツも驚いたようだった。
「団長も思い切ったことをする」と彼は眉を顰めた。
「あぁ…さら当たりが強くなる…」
俺がビッテンフェルトを名乗るってことは、同時にこの傭兵団の団長を継ぐということだ。
それはギュンターにとって最悪の状況だろう。
親父もその決断をするほど、ギュンターに失望していた。
部下の給料用の資金を使い込んだり、勝手に他の隊から傭兵を引き抜いたり、自分に靡かないやつにひたすら嫌がらせを続けた結果だ。
悪行を重ねる愚弟から親父の心は離れてしまった。
「スーが心配か?」とフリッツは俺に訊ねた。
俺は答えなかったが、答えなど分かりきってることだ。
煙草の煙を口に含んで、吐き出すと重い口を開いた。
「俺と関わるとろくな事がない」
「そうか?」
「お前の妹が死んだのは俺のせいだ」
フリッツと同じ色の長い髪をした彼女を思い出した。
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「違う、ギュンターが悪いんだ。そうだろ?」
煙を吐いてフリッツが俺に答えた。
平然としているが、彼の心中は穏やかじゃないだろう。
お前がどんだけエマを大事にしてたか知ってるよ…
俺が、呪われた人間のくせに、人並みの幸せを願ったから彼女を巻き込んでしまった。
俺たちが遠征に出てる間に、エマは乱暴された。
実行に移したのは別の奴らだが、裏で糸を引いたのはギュンターだ。
随分してから、異母弟が酒場で誇らしげに、ならず者に俺の恋人を襲うように仕向けたと豪語していたと聞いた。
戦場から帰った俺を待ってたのは、自ら命を絶った恋人の変わり果てた骸と、詫びを綴った悲しい手紙だった。
死体なんて見慣れてたはずなのに、あの死に顔だけが目に焼き付いて消えない。
もっと早く帰ってやれれば、もう少しきれいな状態で彼女を葬れたのに、首に縄がくい込んだ遺体は、誰にも気付かれずに、少しだけ腐敗が進んでいた。
親父から金を借りて、急いで彼女の墓を用意した。
一緒に住む家を借りる前に、墓を用意するとは思わなかった…
涙も出なかった…
自分を呪う嘲笑が口元に宿っただけだ。
ギュンターを恨む事すら億劫で、ただ自分の出自を呪った。
全てを知った親父が、俺とフリッツに謝罪したが、そんなこともうどうでもよかった。
エマは戻らない。
あの、はにかむような笑顔も、優しい声も、暖かで柔らかな肌も…全部失った…
出立前、最後に会った時には、『ちゃんと帰ってきてね』と言ってキスをくれた。
彼女の最後の言葉は生きる希望だったが、帰ってみれば絶望に変わっていた。
この街から出ていこうかとも思ったが、そうなればギュンターの思うツボで、フリッツは無駄に妹を失っただけの話になる。
惨めな負け犬になるのは構わないが、彼女の死すらなかったことにすることは出来なかった。
結局ここに残って、奴と向き合う生活を続けた。
「スーを手放した方がいいか?」とフリッツに訊ねると、彼は「知るか」と素っ気なく答えた。
「お前はスーをどうしたいんだよ?」
「…分からん」この期に及んでまだ迷っている。
今手放しても、一度俺に関わってしまったからには、あの異母弟の憎悪の対象だ。
このまま手放すのは無責任に思えた。
俺はあの懐っこい犬のような青年が気に入っていた。
抱いて寝たせいだろうか?
妙に情が湧いてしまった。
「お前が決めろ」とフリッツは俺を突き放した。
『エマを貰っていいか』と尋ねた時もフリッツは素っ気なくそう答えた。
良いとも悪いとも言わずに、ただ『死ぬまで責任持て』と言って俺の背を乱暴に殴った。
苦笑いが漏れる。
「そうさな」と言って煙を口に含んだ。
苦い味が口に広がる。ウジウジした気持ちと一緒に苦い煙を吐き捨てた。
「親父から証書も貰ったしな、無駄にしたらまた怒鳴りつけられるな…」
「まぁ、そうだな」
「スーの毛布を買わないと」
「服も買ってやれ」とフリッツがお節介を焼いた。
彼は機嫌良さそうに笑いながら俺の背を叩いた。
「寄っていくだろ?」と彼は妹の眠る墓に俺を誘った。
買い物ついでに、安い花束を買って、土産話をしに立ち寄ろうと思った。
変なガキを拾ったと言ったら、エマは笑ってくれるのだろうか?
✩.*˚
ワルターの部屋の鍵を宿屋の主人に預かった。
優しそうなお爺さんだ。
「一人で大丈夫か?」
「うん」部屋まで送ってくれたエルマーに頷いてみせると、彼は長い腕を伸ばして僕の頭を撫でた。
「ワルターはああ言ってたけど、本気じゃねぇよ。
あんま気にすんなよ?」
「ありがとう」
「またな」軽く手を振って、立ち去るエルマーの背を見送って部屋に入った。
主人の居ない散らかった部屋を見渡した。
脱いだ服や洗濯物がその辺に放置されて、ゴミ箱が溢れそうになっている。
いかにも忙しい独り身の部屋だ。
床に転がった酒の瓶を拾ってまとめた。
洗った方が良さそうな物と、そうでない物を取り分けると少しだけ部屋がスッキリした。
あまり使われてなさそうな箒で床を掃くと、埃が陽の光の中キラキラと舞った。
舞い上がった埃にむせて咳き込んだので、窓を開けて空気を入れ替えた。
煙草の吸殻を集めたが、どうやって捨てるのか分からずそのままだ。
煙草の匂いが染み付いた毛布は、叩くとまた埃が舞った。
掃除するための雑巾が欲しかったが、どこにあるか分からない。もしかしたら、それすらないのかもしれない。
少しだけ片付いた部屋を眺めて、机の前の椅子に腰掛けた。
椅子は少し軋む音を立てて僕を受け入れた。
お腹が空いていた。
朝、食堂の女将さんから貰った、パンの耳のお菓子が残っていた。
「…甘い」サクサクとした歯ごたえで食べごたえがある。
人目がないので、指先に付いた砂糖を子供のようにしゃぶった。
喉が乾いた…
賑やかな人に囲まれていたから一人だと寂しく感じる。いつも一人で平気だったのに…
机に突っ伏して動かないドアを眺めた。
いつ帰ってくるんだろう?
まだ怒ってるのかな?
エマとは…フリッツの妹と僕は似てるのだろうか?
そう思って自分の顔を触れた。
僕の顔は父さんに似てるらしい。エルフの顔立ちと人間の特徴が混ざったこの姿は、アーケイイックでも珍しがられた。
他のエルフと接触した時に、親切な若いエルフがいたが、彼は僕を集落に引き止めてくれた。
「人の国に行っても君は目立つよ」と彼と彼のお父さんが警告してくれた。
結局、人の国でも目立って、僕には居場所がないのだろうか?
ワルターも、本当は僕をここに置いておきたくないのかな…
エルマーたちは、僕が珍しいから面白がってるのかな?
嫌な考えばかりが過ぎる。
出ていけって言われたら…どうしよう…どこに行こう?
明るく振舞っていたけど、人の気持ちなんて分からない。
ワルター…早く帰ってこないかな…
そうしたら、ちゃんと謝って、君の言うことなんでも聞くよ。
だから、君たちの仲間に入れて欲しいんだ…
目頭が熱くなって顔を伏せた。
少し泣いて眠ってしまった。
✩.*˚
荷物を持って部屋に戻ると鍵が開いてた。
開けっ放しなんて不用心だ、なんかあったらどうすんだよ?
「…ただいま」と言って変な気がした。
そんな言葉、ずっと使ってなかった。
俺の部屋で、俺しか居ないのに、そんな言葉使う相手もなかった。
いつも部屋の中の物がドアに引っかかるのに、今日はすんなり扉が開いた。
部屋が片付いてる。
窓も開いていた。
甘いパンの匂いがして、部屋の奥の小さな机に突っ伏したスーの姿があった。
「お、おい?」どっか具合でも悪いのかと心配したが、寝てるだけのようだ。
寝床で寝りゃいいのにと思ったが、遠慮をしたのだろう。ここは、スーからしたら他人の部屋だ。
窓辺の陽の当たるところに毛布がかけてあった。
こいつなりに気を使ってくれたのだろう。
掃除なんてしばらくしてなかったから、久しぶりに床を見た。
「…役に立つじゃないか」と部屋を見回して笑った。
買ってきた毛布をかけてやって、自分は寝床に腰掛けると煙草を出して吸った。
『スーはお前が良いんだと』と言ったフリッツの言葉を思い出した。
ギュンターに、自分の口から俺を選ぶと伝えたそうだ。
チビのくせに肝が据わってる。
まぁ、怖いもの知らずは問題だが、少しだけ嬉しかったのも事実だ。
こいつはこいつなりに、背伸びして、俺たちの仲間になろうとしてるのかもしれない。
エルマーにもソーリューにもキツく当たってしまった。あいつらにも詫びなければならない。
あいつらはちゃんとスーを守ってくれた。
止めるのが遅かった気もするが、俺が不在の中、ギュンター相手に良くやった方だ。
煙草の火を消して寝床に横になった。少しだけ小綺麗になった部屋を眺めて、目を閉じた。
✩.*˚
太陽が西に傾いたのだろう。
何かに反射した太陽の明かりが顔に当たって目が覚めた。
机に伏せていた身体を起こすと、何かが肩から床に滑り落ちた。
視線を動かすと、それが茶色い、真新しい毛布だと気付く。
部屋を見渡すと、ベッドと呼ぶには貧相な寝床に、ワルターの姿があった。
彼は毛布も被らずに、靴も履いたままの姿で寝ていた。寝にくくないのだろうか?
起こさないように静かに近づき、そっと毛布を彼に返した。
ワルターは、あんまり団長とは似てない。
ギュンターの方が団長に似てた。
唯一親子と思わせるのは、短い赤みがかった金髪だけで、それも団長の髪とは違って僅かに癖のある巻き毛だ。
見れば見るほど団長とは似ていない。
でもギュンターとは似てなくて良かったと思う。
彼の異母弟の顔は、どことなく歪んでいるように見えた。
寝床の隣に腰を下ろし、足を抱くように丸くなって座った。
床掃除が途中になっていたので、残っていた埃が服に付く。また掃除しないと、と思って床を指で撫でた。
埃っぽい床に指の跡が残る。
床を撫でていると、不意に大きな手のひらが伸びて頭に触れた。
「…何だ、スーか?」ワルターの声がした。
顔を上げようとしたが、大きな手はそのまま頭を撫でた。
彼は、「この毛布、お前のだ。お前が使え」と言って、座っていた僕に毛布を投げると、身体を起こした。
体温の残る新しい毛布は暖かくて、彼の煙草の匂いが移っていた。
「部屋、片付けてくれたんだな、ありがとよ」
ワルターはぶっきらぼうだが褒めてくれた。
被った毛布を手に取って撫でる。兎みたいな柔らかい毛に指が埋もれる。
「…いいの?」
「何が?」
「僕…この毛布…」上手く喋れずに、目元が熱くなる。泣きそうだった…
本当に、これを貰っていいのだろうか?
「寝るのに要るだろ?
お前だって、男二人で抱き合って寝るの嫌だろうが?」
「居ていいの?」
そう口にして涙を抑えきれなくなる。
泣き出した僕の頭に、また、あの広い手のひらが重なった。
父さんのとは別の、硬い暖かい手のひらが、優しく頭を撫でた。
「さっきは俺が言いすぎた。悪かったよ。
でも、約束ってのは守るためにあるんだ。
出てけなんて言わないから、約束は守れよ?いいな?」
「…うん」
「よし、じゃあ、この話は終いだ」彼はそう言って笑った。僕も涙を拭った。
「昼飯食い損なったな…腹減ったろ?」と彼は僕に訊ねた。その言葉に素直に頷いた。
西に傾いた太陽が、空を赤く染めようとしていた。
空が、彼の髪のような色を含んで、夜の藍を呼んだ。
もう昼より夜に近い時間になっていた。
「少し早いが、エルマーたちと飯を食いに行こう」
「昨日のお店?」と訊ねると、彼は「そうだ」と答えて煙草に火を点けた。
「エルマーとソーリューに、俺の奢りだって言ってきな。
俺はこれを吸ったら行くからよ」
ワルターは煙草を咥えながら僕を促した。
「分かった」と答えて毛布を置いて部屋を出た。
ワルターは、煙草を吸いながら、僕に小さく手を振って見送った。
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この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
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