燕の軌跡

猫絵師

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愛別離苦

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ウェイド卿が《下降》を合図した。

障害物なく、ほぼ一直線に進んだおかげで本当に日が太陽が沈み切る前に到着した。

飛竜ワイバーン?!なぜこんなところに?!」

中庭に降り立とうとした飛竜に、武装した騎士が反応した。槍を構えた男に慌てて声をかけた。

「待て!トゥルンバルト!俺だ!」

「閣下?!」彼は驚いて槍を下ろして、部下にも武装を解かせた。

「ああ、もう!面倒くせぇな!」

焦りで外れない安全ベルトをガチャガチャと弄っていると、「何やってるんだい?」と呆れた様子のスーがやってきてベルトを外した。

「閣下、これは…」

慌てて駆け寄ってきたトゥルンバルトの腕に掴みかかった。

「トゥルンバルト!テレーゼは?シュミットは戻ったか?!今どこだ!」

俺の言葉に彼は言葉を詰まらせた。

「…ケヴィンだけ戻りました」と答えて、トゥルンバルトは俺に屋敷に入るように促した。

「戻ったケヴィンの話では、奥様たちの様子までは分かりません。

ただ、機転を利かせたギートらがオークランドの騎士たちからケヴィンを逃がしたとの事です…それ以上は…」

「何も分からないのか…」と苦い思いで頭を抱えた。

「ワルター、ケヴィンはまだ子供だ」とスーが苦言を呈した。分かっている。一人で戻ってくるのだって心細かったはずだ…

それでも…

「出てくるまで、テレーゼは無事だったのか?」

「出立が遅れることをギートらに伝えて欲しいと伝言されて離れたそうです」

それがちょうど昼を少し過ぎた頃で、ケヴィンが戻ったのが三時頃だったという。今は七時手前だ。

「先に一時間ほど前にケッテラー殿が手勢を20騎程連れてフェアデヘルデに向かいました。

私には旦那様を待って指示を仰ぐようにとの事でした」

「そうか、苦労をかけた」

「いえ、勝手を致しました」とトゥルンバルトは謝罪したが、彼らは自分にできることをしてくれた。

「旦那様…」

俺の姿を見たシュミット夫人が慌てて頭を下げた。彼女も顔色が悪い。夫のこともあるから彼女も不安だろう。

「ラウラ、ケヴィンは無事か?どうしてる?」

「息子だけ戻って申し訳ございません。お叱りでしたら私が全てお受け致します」

「叱るもんか。ケヴィンが無事なだけでも希望だ。

それよりシュミットの安否も分からなくて辛いだろうが、もうしばらく辛抱してくれ。

助けられるなら必ず助ける」

「あぁ…ありがとうございます」夫人がその場に泣き崩れた。

まだ産まれたばかりの子供だっている。

父親を失うには、シュミットの子供らはあまりに幼すぎた。

夫人に休むように伝え、ケヴィンの元に向かった。

ケヴィンも叱責されるのではと青い顔で震えていた。

その姿が憐れで同情を誘った。

叱るわけねぇだろ?お前はよく頑張ったんだ…

「ケヴィン」

「は、はい」震える声で返事をして、ケヴィンは泣きそうな顔で俯いた。震える肩に手を置いて小さな忠臣を抱き締めた。

「親父無しでよく頑張ったな。偉いぞ」

「そんな…僕は…テレーゼ様を…」茶色い瞳から涙が溢れた。この子はこの子で責任を感じていたのだろう。でもお前のせいじゃない。

「お前は悪くない。この件はテレーゼを送り出しちまった俺の責任だ…

お前は自分に出来ることをして、十分頑張った。自分で自分を褒めてやれ」泣きじゃくる少年の頭を撫でて褒め称えた。

そうだ…これは俺の責任だ…

「俺はこれからテレーゼを助けに行く。

シュミットも居ないから、俺の不在はお前が守ってくれ?頼めるか?」

「はい!」

「よし!それでこそ男だ!」まだ少年の彼には重い任務だが、この子なら大丈夫だ。

「行ってらっしゃいませ、旦那様」と涙を拭った顔でケヴィンは俺を見上げた。

小さな家宰代理に屋敷を預け、中庭に戻った。

「オークランドめ…」

腸が焦げるような怒りが湧く。

テレーゼを俺から奪うなら、それ相応の覚悟ってもんがあるんだろうな?

空気のパキパキと凍る音が俺の周りで不気味に響く。

「どうぞ、旦那様」とトゥルンバルトが用意した馬に乗った。

「テレーゼを迎えに行く」と宣言した俺に、スーが、「かっこいいじゃん」と茶化した。

スーも既に臨戦態勢だ。手には久しぶりにあの白い弓と、レプシウス師が贈ってくれた魔法石の指輪が光っていた。

「ソーリューは先に行ったってさ。

俺もオークランドには借りがあるから、思いっきり暴れて良いよね?」

「おう、やってやれ!」と煽ってやった。

俺も手加減できる気がしない。敵をやるのは良いとして、味方まで巻き込むことにならなければいいのだが、それも少し難しい。

「スー、俺の《祝福》が危うくなったら、早めに仲間を逃がしてくれ」

「いいよ。仲間は逃がすさ。

君の周りの《精霊》もかなり凶暴になってるみたいだからね。気にしておくよ。

俺が着いてるから安心しな」

スーはそう言って大人っぽく笑った。

いつの間にか、随分頼もしくなったスーに礼を言って、馬の腹を蹴って駆け出した。

✩.*˚

時間を稼がなくては…

せめて明日の朝まで、フィーアに留まらねば、助けも来ない。

ケヴィンは逃げきれたかしら…?

血で汚れたので、身体を清めるように指示された。

薄い衝立の向こうには、シュミット様たちと、オークランドの騎士たちを待たせている。

「シュミット、アンネ、そこにいますか?」こまめに彼らの安否を確認した。二人はちゃんと返事を返した。

衝立があるとはいえ、同じ空間に知らない男がいる中で湯浴みをするのは屈辱的だ。

それでも、シュミット様たちを守る為には致し方なかった。

「邪魔な衝立だな」とすぐ近くで男の声がする。

「少しくらい、美しいお姿を見たいものだ」と誰かが衝立をわざと蹴るか叩くかした。音を立てて揺れた衝立が倒れないかと身体を強ばらせた。

「やめてください!」と叫ぶシュミット様の声が聞こえる。「奥様」と心配するアンネの声が不安げに届いた。

「ふん、捕虜のくせにお高くとまってる」

「どうせ処女じゃないなら手を出しても分からんだろう?」と見張り役の恐ろしい言葉を聞いて肩を抱いて震えた。

ワルター様…

唇を噛み締めて、涙が滲んだ。

今朝、別れた時に、日を改めるように言われた事を素直に聞けば良かったと後悔したが遅かった。

私はこんなところで、知りもしない男に初めてを奪われるかもしれない。

オークランド王への献上品として差し出されるから、乱暴はされないと思っていたが、それも甘い考えかもしれなかった。

衝立がまた揺れた。

怖い…

覗かれるかもしれないし、もしかしたらそれ以上もあるかもしれない…

時間を稼ぐ以上に、恐怖から湯を出ることを躊躇った。

精神的な疲弊が酷く辛かった。

アビー男爵家の用意した侍女に促され、風呂を後にした。

「貴婦人の香りがするな」と嘲笑するような下卑た笑いが聞こえた。

勝手に髪に触れられてゾッとした。

「お止め下さい!」と勇気を振り絞って声を上げた。

触った男は悪びれもせず、ニヤニヤ笑って私の反応を楽しんでいるようだ。

「いやいや見事な御髪おぐしだ。まるで女神様のようだな」

「いやいや、こんな美女を抱いているなんて、旦那様とやらはなんと羨ましい。おすそ分け頂きたいものだ」

「湯上りの美女は格別だな。艶っぽくてそそるなぁ」

耳を塞ぎたくなる下品な言葉に心が折れて泣きそうになる。

額に青筋を浮かべたシュミット様が男たちを睨みつけているが、彼は手出しできないように後ろ手に縛られていた。歯軋りして怒りを露わにする彼に、私は大丈夫と無理に笑顔を作った。

彼は生きて帰ってもらわなければ困る。

伯父様やヘルゲン子爵様が残してくださった、ロンメル家の大切な家臣だ。

それに四人の子供の父親でもある。

何としても、二人を守らねばならなかった。

「あんたも奥様のあの姿に欲情してるんだろ?」と酷い言葉を浴びせられ、シュミット様は肩を震わせた。

彼の怒りは溢れんばかりになっている。あの姿でも暴れ出しそうで心配になる。

「シュミット様、落ち着いてくださいませ」と声をかけて見張り役の二人に「無礼が過ぎます」と意を決して苦言を呈した。

「フェルトン卿に、事の次第をお伝えしても構いませんね?」と彼らの上司の名を口にすると、男たちは口を閉ざした。

「媚びる相手は選ぶらしい」と侮蔑的な言葉を吐いたが、彼らは分が悪いと引き下がった。

安堵のため息を吐いて胸を抑えた。

二人のためにも、ロンメル男爵夫人として負ける訳にはいかないのだ。

泣くのは後だ…

身支度を整える際に、侍女が結婚指輪を外すように言った。

「お断り致します!これが何かご存知でしょう?!」

「しかし…私たちもそのように指示されておりますので…」と侍女たちは困った顔をした。

彼女らも悪くないのだろう。それでも《はい》と頷けるようなものではなかった。

「お願いします。これは私から奪わないでください!」

「それでは私たちがお叱りを受けます。何卒、何卒お聞き入れ下さいませ」

彼女らも必死だが、私も必死だ。

あの日見つめあって交わした誓いを、指輪の形で交換したのだ。私が彼の妻である証を、そんな簡単に手放すことなどできない。

やっと…やっと、私の指に馴染んできたというのに…こんなことってない…

強く握った左手を隠すように右手で庇った。

これを渡すのは…これを外すのはワルター様への裏切りだ…

私のために、自分の気持ちを押し殺して二年も待ってくれた。

私の我儘にもお付き合いしてくれた。

不器用で優しい人だ。

はにかむように笑う顔が好きだ。

大きな硬い手のひらが好きだ。

控えめに抱きしめてくれる、広い肩と煙草の匂いのする暖かな懐が好きだ。

やっと夫婦らしくなってきたのに…やっと彼の妻になれるのに…

逃げることも出来ず、ただ手を握って駄々をこねる子供のように嫌がった。

話は平行線で進まない。

身支度をする部屋のドアがノックもなく、いきなり勢いよく開いた。

「遅い!女一人の身支度に時間をかけすぎだ!何をしている?!」

「まあまあ…ご婦人とはそういうものだ」

現れたのは知らない騎士と、彼を宥めているフェルトン卿だった。

フェルトン卿の黒い鎧と対象的な白銀の鎧に身を包んだ騎士は、私を見つけて睨みつけた。

鋭く睨めつける猛禽のような黄色い視線に怯んだ。

彼は私の姿を見て侍女たちを睨んだ。

「いつまで時間をかける気だ!日が暮れる前に出ると言ったろうが!まだ髪も整えてないとはどういうことだ!」

「も、申し訳ございません…」侍女たちが震えながら騎士に謝罪した。今度は私を睨んでよく通る声で怒鳴りつけた。

「お前もだ!さっさと済ませろ!」

「お前なぁ…」と呆れたようにため息を吐いて、フェルトン卿が「すまんな、お嬢さん方」と謝罪して、乱入した彼を回収して出ていこうとした。

「アーサー!お前なんのつもりだ!」

「ロバート…物事にはそれにあったやり方があるんだ…お前のは逆効果だ」

「お待ちください、フェルトン卿」とオークランドの公用語のパテル語で話しかけた。彼は話ができる人のはずだ…

ロバートと呼ばれた騎士も、パテル語で話しかけた事で驚いた顔で私を見た。

「私を憐れんで、お願いを聞いてくださいませ」

「何かな?」とフェルトン卿は聞く姿勢を見せた。

「私から指輪を取り上げないように、アビー男爵にお伝え願えませんか?

神の前で夫婦の誓いを立てた指輪です。

何卒、よろしくお願い致します」

「それは必要かね、ロンメル男爵夫人?」と返ってきた返事は少し呆れたような響きを含んでいた。

話を聞いてもらえると期待しただけに、その言葉は堪えた。

「どうせオークランドに入れば同じ事を言われる。それならここで外そうが、オークランドで外そうが同じ事だ」と彼は冷たく答えた。

その言葉は真実だ。

絶望する私の前に、白銀の鎧の騎士が割って入るように立った。

「何故パテル語で話す?」と彼は眉間に皺を寄せた顔で私に訊ねた。

「ご不快でしょうか?」と訊ねると彼は不機嫌そうに「答えろ」とだけ返事を促した。

「私は四ヶ国語で話せます。私を指導してくださった方の賜物です。

『国にはそれぞれの文化があります。文化は人そのものです。そして言語を理解することは相手を理解することです』と、教えられました。

ですから私は自分の国の言葉ではなく、可能な限り、相手の方の言語でお話します」

「なるほど、理解した」と彼は頷いて、「指輪は諦めよ」と告げた。

「オークランドに入れば、ルフトゥ正教会に改宗させられる。

結婚を誓ったのはヴォルガに対してだろう?それなら改宗に伴い誓いは無効となる。お前は結婚すらしてないことになる。

それはこちらで預かる」

「お断り致します。私が愛すると誓ったのはロンメル男爵ワルター様一人です」

「この状況で意固地を張るのもいい加減にしろ」と彼も呆れた様子だ。でも私にも譲れないものがある。

「ならば、改宗しても同じ誓いを立てます!洗礼を受けたその瞬間に誓います!」

「…夫人、あんたも頑固だな…」

フェルトン卿の手が私の左の手首を掴んだ。

「そんなことで時間を無駄にするわけにはいかんのでな。悪いが諦めてくれ。

俺だって好きでする訳じゃない。仕事だ」

「やめてください!これは渡せません!」

「諦めろ」

男の人の力には敵わない。

「やめて…」ずっと我慢してた涙が溢れた。指輪を取られてしまう…

強引に開かれた指から指輪が奪われそうになる。

「ワルター様…」涙で滲んだ視界に、フェルトン卿の腰元にダガーが見えた。必死に手を伸ばして短剣を奪った。

「なっ!何をする!」慌てて指輪を奪おうとした手が離れ、ダガーを奪い返そうとした。

しかし、それは上手くいかなかった。私が刃物を自分の首に押し当てた方が早かった。

「奥様!」シュミット様の叫ぶ声とアンネの悲鳴が重なった。

ごめんなさい…貴方たちを守るのが男爵夫人としての務めなのに…それを放棄するのを許してください…

「止せ!おもちゃじゃないんだぞ!」とフェルトン卿が叫んだが、それならむしろ好都合だ。私の目的は達せられる…

「どうせ死ぬなら、今死んでも、オークランドで死んでも同じ事です。

私はワルター様の妻としてフィーアで死にます」

覚悟を決めて首元に押し当てた刃物を引こうとした。

「ロンメル夫人」と落ち着いた声が呼び止めた。黙って聞いていたロバートだった。

「交渉だ」と言って、彼は腕を組んだ。

「指輪を外す代わりに、夫への別れの手紙を用意させてやろう。手紙はその二人に預けて、ブルームバルトに送り返してやる」

「…それは…」決心が揺らいだ。彼はさらに言葉を続けた。

「大神ルフトゥの名と《白蘭の聖騎士団》の名に誓う。

団長ロバート・アウレリウス・ウェルシュは約束は守る」

「ロバート!」

「黙ってろ、アーサー。剣を奪われたお前の失態だぞ」抗議したフェルトン卿を黙らせて、彼は「選べ」と選択を迫った。

二人が助かる…

「約束は守る」と目の前の騎士は再度誓いを口にした。

「うぅ…」嗚咽が漏れて、指先から力が抜けた。手から滑り落ちた短剣が、乾いた音を立てて床に転がった。

足から力が抜ける。その場を座り込んで泣いた。

私の負けだ…

我儘を選択するなど、できるはずがない。助かるのなら、二人の命の方が大事だった…

「全く…顔に似合わず剛毅な姫さんだ…」と、ダガーを拾ったフェルトン卿がため息混じりにボヤいた。

「お前のせいで必要ない約束をする羽目になったのだぞ」

「はいはい、すいませんねぇ」と黒衣の騎士は白銀の騎士に頭を下げた。

「約束だ」と言ってフェルトン卿は私の手を取って指輪を攫った。

「すぐに身支度を整えて、手紙を用意しろ」と言い残すと、ウェルシュ卿は部屋を出ていった。

「悪いな」とバツ悪そうに呟いてフェルトン卿もウェルシュ卿に続いて部屋を後にした。

愛した人の姿が瞼の裏に浮かんだ…

『明日は大事な日だ』と言う、嬉しそうで恥ずかしそうな彼の姿を思い出して、また涙が溢れた。

ごめんなさい…ごめんなさい、ワルター様…

私も楽しみにしてたのです…でも…


私は、私の意思でワルター様を裏切った…

✩.*˚

「何だよ?らしくねぇなロバート」

アーサーの声が私を呼び止めた。

「あんな娘相手に、ダガーを奪われたお前の方がどうかしてる」と苛立たしく応じた。

「ちぇっ、厳しいの…」ふざけた男はそう呟くと、さっきまでロンメル夫人の指に収まっていた指輪を眺めてため息を吐いた。

「可哀想にねぇ…あんなに健気に抵抗して…

相手はそんなにいい男なのか?」

「知らん」と答えたが、あの娘の事が気になるのも事実だ。

美人だった。

教養もある。良識も、包容力も、慈悲深さも、度胸も、信仰心も、愛も…彼女は全てを持ち合わせているように見えた…

母のような女であれば、容赦なく冷徹になれたのに…

伯爵夫人でありながら、夫以外の男と閨を共にし、狂ったように遊び、豪遊し、子供たちに十分な食事も与えなかった。

幼い私の信仰心は、母という怪物によって育てられた。

見かねた教会が子供たちを引き取り、幼い兄弟は神の家で育てられた。

前世に問題があったのだと、幼い少年は聖職者の言葉を信じた。

幼い身でありながら精進を重ね、功徳を積んで、聖職者として、聖騎士としてのお手本のような生き方を神に捧げた。

私が13の時に、教会で慎ましく生きる兄弟たちの前にあの悪魔が訪れた。

懺悔のためではない。

彼女は、私たちを人買いに売るために引き取ろうとしたのだ。

私たちの世話をしてくれていた、教会の代表であるレイン枢機卿が間に入って下さらなかったら、今の私は無い。

私たち兄弟は、神の忠実な下僕しもべとなるのに迷いはなかった。

私は神から《祝福》を与えられ、生涯を国と神に捧げるために生きているのだ。

あのような異教徒の娘に耳を傾け、慈悲を与えるなどどうかしている…

何故あのような約束をしてしまったのだろう?

私の心がまだ弱いとでも言うのだろうか?

「この指輪、どうする?」とアーサーが私に訊ねた。

「お前が何とかしろ」と答えた。関わりたくもなかった。

「何とかって…」

「好きにしろ。夫人に渡さなければどうとでもして構わん」と彼に指輪の処理を押し付け、一人でさっさとその場を後にした。

窓の外に夕日が見えた。

時間は有限だ。もう日が沈む…

急ぎ出立しなければ、危険なのは我々の方だ。

こんな状況で、なぜ手紙を書かせようとしたのか、私の中に、その答えは見つけられなかった…

✩.*˚

おいおい、機嫌悪ぃな…

苛立たしげに歩き去る友人を見送って頭を搔いた。

指輪と一緒に残されて、小さな輪っかを眺めた。

俺の小指にも入らんような、小さな銀色の輪を守る為、あの夫人は命すら危うくした。

愛ってやつだろうな。健気な娘だ…

あいつもその姿に、僅かに心を動かされたのだろう。

俺だって嫌だよ、女泣かすの…

しかもあんな美人だぜ…胸糞悪ぃな…

ため息を吐いて指輪をしまった。

本当は返してやりたかったが、ロバートにそれは止められている。

『愛なんて信じない』と彼は俺に言った。

どうしようもない母親のせいで、歪んで育った哀れな男だ。愛も恋も知らずに、一生童貞で神に仕えることを誓った酔狂な男は、女が怖いのだ。

そんな生き方、俺はごめんだがね…

今だって、俺はか弱い夫人から、大事な指輪を強奪した悪党ってポジションだ。

これでも国じゃ、ご婦人に優しい、色男で通ってるんだがな…

このままじゃどうにも気分が悪い…

何か代わりに渡せるものがないかと思ったが、あいにく任務中で女の喜びそうなものは持ち合わせていなかった。

仕方ないので、庭に咲いてた花をいくらか摘んで、指輪の代わりとした。

皮肉な花だ…

他の花に混ざった白いガーベラを見てそう思った。

白いガーベラの花言葉は《希望》だ…

それを俺に教えた女はもう居ない。

俺がいじけてしまうよりずっと昔の話だ…

『ありがとう、アーサー』と嬉しそうに花を受け取った少女はちょうど彼女くらいの年齢だったと思う。

やっぱり良くないか?と思って、《希望》の花を捨てようとしたが、どうにもそれだと彩りが悪い。

仕方なく、他の花と一纏めにしたまま花束を持って立ち上がった。

指輪を奪って泣かせた罪悪感を薄めるために、彼女の手元を飾る花を届けた。

✩.*˚

「手紙は書いたか?」とフェルトン卿が戻ってきた。

手には何故か花束を持っている。

彼は笑ってみせると、手紙を認めている私の元に歩み寄って、何も言わずに花束を左手の上に置いた。

「手元が寂しかろ?せめてもの慰めだ」

「…ありがとう…ございます」

礼を言って花束を手にした。

自分でしたのだろうか?

それにしては綺麗な花束だ…バランスもいいし、見栄えするようにわざわざ長さを変えている。

「泣かせた詫びだ。有り合わせでそれしか無かった。

ちゃんとしたのはオークランドで用意してもらえ」

彼は私にそう告げて、今度はシュミット様の元に歩み寄った。フェルトン卿はシュミット様に一言二言話してまた戻ってきた。

シュミット様の驚いた顔を見て、何を言われたのか気になったが、訊ねるにも距離があるし、彼もいる。

「で?手紙は?」とフェルトン卿は戻ってくると、私の向かいの席に断りも無く勝手に座った。

「急がないと、またあのせっかちな男が戻ってくるぞ。

肝心な事を書きそびれるぞ」彼はそう言って私を急かした。

よく分からない人だ…

悪い人では無いのだろうが、無条件に優しい訳でもない。

今は彼に構ってる暇はないが、どうにも気になってしまう。

彼が戻ってきた事で、私に卑猥な言葉を投げ掛ける見張りたちも口を閉ざした。

ペンを持つ手は重くて進みが悪い。宛名を書いて手が止まっていた。

何を書いても、ワルター様への裏切りには変わらないのだ。

去るくせに、《愛してる》と綴れば図々しいだろう。

許されるわけないのに、《ごめんなさい》と綴るのは彼のためじゃない。私自身のための自己満足だ…

『テレーゼ、燕が巣を作ってるぞ!』

春に、屋敷の壁を汚す泥の巣を見つけて二人で喜んだ。

彼は私と同じ鳥を好きと言ってくれた。

塾を開きたいと言った時も、彼は必要なものを訊ねて、机や椅子を作ってくれた。

子供たちとも関わってくれたし、氷でかたどった像を作って楽しませていた。

四葉も増えた。

私の鏡台に黙って置いて行くのは、きっと照れくさいからだろう。彼はそういう人だ…

引き出しに四葉が溜まってるのを知ってるのかしら?

私がいなくなって、初めて気付くのかもしれない…

庭に植えた葡萄の木は実る姿を確認できなかった。

シュミット様の双子が産まれた記念に植えた木を、ケヴィンとユリアは早く食べたいと、甲斐甲斐しく世話をしていた。

自分の子供の記念には、何を植えようかと楽しみにしてました…

別れを思うと、日々の小さな出来事が溢れてくる。

幸せだったんですね…私たち…

「何だ?たったそれだけか?」手紙の短い文を見て、フェルトン卿は驚いていた。

「えぇ…お別れですから…」

どんなに書き連ねても、虚しくなるだけだ。

私が彼の前から居なくなることに変わりない…

それなら、いっそ…


《私を忘れてください》


愛してるも、ありがとうも、さよならも綴ることの出来ない臆病な私が、唯一彼に伝えれる言葉を綴った。
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