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ロンメル男爵夫人
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元ウィンザー公領の、ブルームバルトと名を変えた土地の新領主・ロンメル男爵夫妻の噂は、国境を超えてオークランドにまで届いた。
元傭兵にも関わらず、爵位まで授かるのは、彼が《英雄》の中でも特別な《神紋》を持つ者だからという。
その話が真実であるならば、オークランドにとって脅威だ。
はったりや、何かの間違いでなければ、その男は一人で千の兵士に匹敵するだけの価値がある。
そして、もう一人の噂の存在…
《白鳥姫》と讃えられるその幼い男爵夫人は、男なら誰しもが心惹かれる美しさという。
彼女の絵姿は敵国の地でも売れた。
《ロンメル夫人》と題した、幼さを残した少女の肖像画を求めて、金持ちは大枚を叩いて、本物かも分からぬ絵画を買った。
庶民たちも、フィーアから流れて来た新聞を拾って切り抜いた。
煌びやかな社交界も、掃き溜めのような酒場でも、男たちの間では彼女の話で持ち切りだ。
娼婦の源氏名も《テレーゼ》が流行るくらい、彼女は美女の代名詞となっていた。
美姫とはいえ、敵国でこれほどまで話題になるのは珍しい。
「異教徒の娘一人に浮かれすぎだ」と友人で上司のロバートは不愉快そうに呟いた。随分機嫌が悪い。
「アーサー、貴様も邪教の徒に鼻の下を伸ばしているようなら聖騎士団から排斥するぞ」
「鼻の下なんか伸ばしてないだろう?
俺も男だ、美人なら少なからず気にはなるさ」
「ふん!せいぜい火炙りにされぬように気をつける事だ!」真面目な友人は忌々しげに舌打ちしている。
彼は聖職の騎士としては立派な男だが、人間として余裕が無いのが玉に瑕だ。
聖騎士団に入団したからと言って、男としての野心や本能まで捨て去れるものではない。
俺だって人並み程度には欲がある。偉くだってなりたいし、金だって欲しい。性欲だって枯れちゃいないし、美人とやれるなら尚いい。
「任務に着く」とロバートが宣言し、部下を集めて号令を発した。
「これより、旧ウィンザー公国に向かう。
アビー男爵より内通の申し出を受けることとなった。
目的地は、オークランドと国境を接している、ブルーフォレスト南部フェアデヘルデ。
男爵の話によると、土地と財産を保護し、オークランドに取り立てて貰えるなら、恭順し、国王陛下にフィーア随一の美女を捧げるとのことだ」
「…待てよ、それって…」
忌々しげに舌打ちして、「ゲスめ」と呟くロバートの額には青筋が浮かんでいる。それが誰に向けられた罵倒なのかは確認するまでもない。
「こんな任務、不名誉なこと極まりない」
真面目な男は腹立たしげにそう呟いて、俺に背を向けた。
✩.*˚
「道中気をつけてな」とワルター様は心配そうに私を馬車まで送ってくれた。
「まだ秋口だが、朝夕は冷える。
ちゃんとショールもひざ掛けも持ったか?馬車も結構揺れるからな、腰のクッションもあるか?
帽子も日傘も用意したな?不自由ないか?」
世話を焼く姿は子供を見送る父親のようだ。
「ご心配なく。ワルター様も、早く出立なさらないと、約束のお時間に遅刻してお父様に叱られてしまいますわ」
彼は急な用でアインホーン城に召喚されていた。
戦が始まるかもしれないと、嫌な話を耳にした。
同行したかったが、私も用があって、隣接するフェアデヘルデのアビー男爵様を訪ねる事になっている。
戦災孤児を保護するための施設を援助していただけるよう、お父様に嘆願する署名を集めていた。
アビー男爵様は元ウィンザー公国の貴族として、これに応じてくださった。
「旦那様、いつまで未練がまじく奥様の手を繋いでおいでですか?」とシュミット様がワルター様の姿に苦言を呈した。
シュミット様の傍らには、めかしこんだケヴィンの姿もある。ケヴィンは見習いの小姓として同行することになっていた。
あとは、侍女のアンネと御者と護衛役が同行することになっている。
「嫁さんが用事とはいえ他所に行くんだ。心配くらいするだろう?」
「私も同行しますし、夕方には屋敷に戻る予定です」
「俺は明日の昼まで帰れねぇんだよ!
テレーゼの顔が丸一日拝めなくなるんだぞ!人生で一番不毛かつ無駄な日ができるんだぞ!」と彼はシュミット様に食ってかかった。
旦那様は私に視線を向けると照れたような、拗ねたような顔を見せた。
大きな手のひらが優しく頬に添えられる。
「しかも明日は大事な日だ…」
「そうですね」と応えた。
明日は私の16の誕生日だ。
彼と私の約束の日だ…
「できるだけ早く戻る」
「お待ち申し上げております」と笑顔で応えた。
別れる前に接吻を交わした。名残惜しいのは私も同じだ。ワルター様に会えないのは寂しい…
包み込むような腕に身体を預けて別れを惜しんだ。
「テレーゼ、一ついいか?」と彼は真面目な顔でそう言って、肩にかけていた薄手のショールを寄せて私の胸元を隠した。
ドレスはデコルテの広く開いた、首飾りの目立つ意匠だ。母の遺してくれたものの一つだった。
女性らしい身体つきになっていた私の胸の膨らみは、服の上からでも見て取れた。
「ドレスも首飾りも似合ってるよ…でもな、俺としては他の男に見られたくねぇや。しまっといてくれ」
可愛い彼の嫉妬に笑みがこぼれた。
女としてこれほど嬉しいことは無い。
彼はこんなにも私を愛してくれている…
「オシャレはできませんわね」と笑う私を、深い藍の瞳が優しく見下ろした。
「お前は何着ても綺麗だよ。俺の自慢の嫁だ」
こんなふうに愛を囁く人ではなかったのに、不器用にでも、彼は愛の言葉をくれるようになった。
「やっぱり行かせなくねぇなぁ…」と拗ねるワルター様は小さな子供のように駄々をこねだした。
「困りますわ、先方とお約束しておりますのに…」
「俺の行ける日じゃダメなのか?本当に今日でないとダメか?」
「かねてよりのお約束ですもの…突然反故にしてはご迷惑になります」
「奥様の言う通りですよ。旦那様も早く行かないと侯爵閣下に帰して貰えなくなっても知りませんからね」とシュミット様に叱られて、ワルター様は渋々手を離した。
馬車に乗り込んで、窓から顔を覗かせると、ワルター様は少し寂しそうな笑顔で手を振ってくださった。
「僕もいるから大丈夫だよ!」とケヴィンがワルター様に叫んだ。
「おう!しっかりな!テレーゼに悪い男が近寄ったら親父にちゃんと言うんだぞ!」
「かしこまりました、男爵閣下!」ケヴィンは可愛らしい敬礼を返して、旦那様に応えた。
屋敷の門に立って、いつまでも見送る彼の姿が遠くなる。彼の姿は次第に見えなくなっていった。
馬車にはケヴィンとアンネと私が乗り込んでいた。
「奥様、乗り心地はいかがですか?」とアンネか馬車の乗り心地を確認した。
少し揺れるが、辛くはない。毎日自分の足で屋敷から少し離れた学校まで通っていたので、足腰はお嬢様の頃よりは強くなっていた。
「平気よ、ありがとう」と応え、手元に視線を落とし、左手の薬指に光る指輪に触れた。
薬指で居心地悪そうに回る指輪は、近頃、落ち着いて収まるようになった。私の体は子供から大人になっていた。
ベッドに入る際に、ワルター様が居心地悪そうに私に背を向けて寝ることが多くなった。
その不器用な姿が愛おしくて、その背中を見ては嬉しいような寂しいような気がしたのももうおしまいだ。
私たちはやっと夫婦として結ばれる…
喜びと希望を胸に、馬車の窓から外を見た。
田園地帯には、秋の収穫を待つ麦の穂が、風景を金色に染め上げている。ブルームバルトは少しずつ豊かになりつつある。
失ったものも多かっただろうけど、みんな前を向いて生きている。
私も、お母様や伯父様、ヘルゲン子爵様を失ったが、それ以上のものを今手に入れている。
彼らのためにも、今生きてる者の役割として、できる限りの事をしようと心に決めていた。
✩.*˚
「まだ拗ねてるのかい?君は案外子供だな」とスーが俺に笑いながら言った。
出立の時間を遅らせたから、アインホーン城に向けて二人で早足で馬を走らせていた。
「うるせーよ」と悪態吐くのは子供のやることだろう。
でもよ、そうもなるだろう?
よくもまぁ二年も我慢したもんだ…
自分で自分を褒めてやりたいくらいだよ…
テレーゼは美少女から美女になった。
黒目がちな大きな瞳はガーネットの輝きを増し、長い金色の睫毛の縁どりは魅力的な女の目を煌びやかに飾った。
普段結い上げてる淡い色の金髪は、腰にまで届く長さで、下ろすと煌めきを纏い、彼女は黄金の川の女神になる。
あの日見た小さな胸は膨らみを増し、ネグリジェの下の肢体は女らしく艶っぽく変化した。
華のある笑顔が咲く度に、もっと咲かせたい欲に駆られる。
背もいつの間にか伸びて、彼女は立派な女になった。
もうあの花嫁衣装は着れないだろう。
眠れない夜もあったが、煙草で誤魔化して何とか凌いだ。馬鹿だな、俺…
赤ん坊を抱く彼女に、自分の子を抱く姿を想像してしまう。もうしばらくしたら、それも手の届く現実になるはずだ。
人並みの幸せな暮らしが俺にもあったのだと、夢のような心地で暮らしていた。
ギルのように、平穏な日々が続くことを願っていたが、オークランドはそれを許してはくれなかったようだ。
「戦になるかな?」とスーが訊ねたが、俺にはその答えは持ち合わせていない。
「さぁな」と応えたが、今の幸せな生活が続いてくれれば、人を殺さずに、この《祝福》も使わずに済むのだ。そうであって欲しいと願った。
そうすれば、彼女を悲しませることだってないのだ…
あの笑顔はそのままでいい。
「また彼女のこと考えてるだろ?」
「何だよ?悪いのかよ?」
「別に、いいんじゃない?
俺もテレーゼみたいな美人の彼女が欲しいな」
「ガキが背伸びしてんじゃねぇよ」と笑うと、スーは「俺の方が年上だ」とお決まりの台詞を吐いた。
スーの顔は、青年と呼べるような大人びたものに変わりつつあった。
人との関わりが、彼に身体の成長を促したのかもしれない。
子供じみた表情は次第になりを潜めていた。煙草を吸う姿も違和感がなくなったのは、見慣れたからではなく、成長したからだろう。
ソーリューに鍛えられた身体は、バネのある、軸のしっかりとした戦士らしい肉体に変化していた。
剣捌きも目を見張るほど堂の入ったものになったし、俺が油断出来ないほど強くなっていた。
特に剣を抜く速度と間合いを詰める速度は群を抜いている。判断も早い。
スーは着実に俺の右腕になりつつあった。手を抜かない先生のおかげだ。
ソーリューも少し変わったな…
仏頂面でルドを見守る姿は、素直じゃない。
それでも子供たちは、彼が見守ってるのを知っている。
ルドがひっくり返りそうになると、死神みたいな男が現れ、優しく手を添えて幼子を地面から守った。
文句を言いながら子供の世話を焼く姿は、傭兵の彼からは想像できない。
ユリアの作った花飾りがソーリューの頭に乗ってた時は、流石に笑ったな…
無みたいになってたが、それでも投げ捨てたりしなかったのは、嬉しかったからだろ?
みんな変わったんだな…
この生活を守らないとな…
そんな思いを胸に抱き、馬の背に揺られながら、秋の遠い青空を眺めた。
✩.*˚
旦那様は時間に遅れずにシュタインシュタットに到着しただろうか?
私の身体が二つあれば良かったのにとつくづく思う。
「お待ち申し上げておりました、ロンメル夫人」
「ご無沙汰しております、アビー男爵。
結婚式でご挨拶頂いた時以来ですわね」
屋敷のエントランスで出迎えたフェアデフェルデの領主に、奥様は優雅な会釈で応じた。
初老に差し掛かったくらいの年頃の少し肥えた男爵は、人の良さそうな笑顔で私たち一行を屋敷に案内した。
「道中お疲れでしたでしょう?どうぞごゆっくりおくつろぎ下さい。
フェアデフェルデの自慢の薔薇水をご用意致します」
「お心遣いありがとうございます。
この度は私の我儘を聞き入れて下さり、ありがとうございます」
「なに、こんな非才の身で、《白鳥姫》と名高いロンメル夫人のお役に立てるようで何よりです。
未来の南部侯爵領の為と働くロンメル夫人は、若いのにも関わらず、聡明でなんとも尊いお志をお持ちと感嘆しております」とアビー男爵は明るく笑った。
歳の割に張りのある頬に、柔和な深い皺が刻まれる。
人の良さそうな紳士は、テレーゼ様の署名を願う手紙に真っ先にお返事をくださった。
「おや、可愛いお小姓を連れておいでだ」と彼はテレーゼ様に従う息子を見て「名前は?」と訊ねた。
「ケヴィン・シュミットと申します。お会いできて光栄です、閣下」とケヴィンは教えられた通りの挨拶をこなした。9歳にも満たない少年しては上出来だろう。
「ふむ、なかなか良い家来を連れておいでですな」とアビー男爵はケヴィンを褒めた。
テレーゼ様は男爵の世辞に、嬉しそうに微笑んで礼を述べた。
「子供たちは希望です。
この子が大きくなる頃には、民が食べるものや住むところに困らない国になることを願うばかりです」
「誠に…ロンメル夫人の慈悲深い尊いお考えに感服するばかりです」
「ありがとうございます、アビー男爵。
早速で恐縮ですが、ご署名を頂戴してもおよろしいでしょうか?」
「おや、随分急くのですね?
昼食を用意しておりますので、その後、ごゆっくりお寛ぎになってからでもよろしいではございませんか?今晩は一晩当家にご滞在くださいませ」
「申し訳ございません。明日は大事な用がございますので、今日中に屋敷に戻ると主人とのお約束がございます。また主人と伺える日に、子供らの未来についてゆっくりお話出来ればと思っておりますわ。
ロンメル男爵は急用でアビー男爵とお会い出来ないことを残念がっておりました。是非またご訪問させてくださいませ」
「そうですか、それは残念です…」とアビー男爵は残念そうに頭を振った。
「では、せめて昼食をご一緒してくださいませ。
妻が亡くなって、子供たちも出て行ってからというもの侘しい食卓になってしまいましたので…」
寂しげに語る紳士に同情したのだろう。
お優しいテレーゼ様は彼の申し出を笑顔で快諾された。
「私で宜しければご一緒させて頂きます」
「奥様、宜しいのですか?」
馬車は足が遅い。暗くなる前にブルームバルトに戻る予定だったが、ゆっくりしていてはギリギリになってしまう。
「孤独は誰よりも存じております。
ケヴィン、ギートとフーゴに少し予定が遅れると伝えて下さい」
「かしこまりました、奥様!」
用事を言いつけられて、ケヴィンは嬉しそうに応えて駆け出そうとした。すかさず子供を捕まえて小声で注意した。
「これ!お行儀の悪い子だ」
「ごめんなさい、お父さん…」叱られてしょんぼりとするケヴィンを奥様が優しく庇った。
「ケヴィン、急いでないからゆっくりで良くてよ。転んだり、人や物にぶつかっては、せっかくのお使いが台無しになってしまうわ」
「はい、奥様」
「行ってらっしゃい」とケヴィンの背を押して送り出すと、奥様はアビー男爵の案内で広い食堂に通された。
「話し相手のいる食事は良いものですな」とアビー男爵はご機嫌な様子だ。会食は談笑しながら進み、領内の様子や特産品の話から話題は次第に踏み込んだものに変わっていった。
「そういえば、結婚されて二年ほどになりますが、お子様はまだですか?」
「え、えぇ…まぁ…」
「これは失礼。こればかりは急いて授かるものではありませんからな。旦那様も若い奥様を貰ってさぞ励んでおられるでしょうな」
酒のせいか下世話な話に及んで、テレーゼ様は恥ずかしそうに俯いた。
まだ、処女だなんて言えるわけが無い。嫁いで二年もお手付きになっていないなど、妻として不名誉な事だ。
「まあ、旦那様はまだ男盛りですから、そのうち授かるでしょう」と奥様の気も知らず、彼は明るく笑ってワインを煽った。
「しかし、これほどまでにお美しく聡明な姫君が、《英雄》とはいえ、一傭兵隊長に与えられるなど、誠に分からないものですな」と彼は呟いた。
その物言いに僅かに引っかかるものを感じた。
「私はワルター様と夫婦になれて、幸せに思っておりますわ」
「おやおや、これはこれは…なんともお熱いですな。
私が見るに、テレーゼ様は王妃にもなれる器でしょうに」とアビー男爵は驚きの言葉を口にした。
彼の言葉にテレーゼ様も言葉を詰まらせた。
「それは…身に余る評価ですわ。お褒め言葉として頂戴致します」
「何を仰いますか?ご謙遜を…真実を述べたまでですよ」男爵の言葉は、いつの間にか、悪魔の囁きのような不気味なものに変わっていた。
「その慈悲深いお心も、思慮深い聡明さも、輝かんばかりの美しさも、王妃と名乗るにふさわしいものです。そう思われた事はありませんか?」
「…何を」
さらに耳を疑うような言葉が、誘惑の悪魔の口から放たれた。
「テレーゼ様、一田舎領主の妻など捨て、王妃となられませ」
アビー男爵の言葉に、テレーゼ様の動きがピタリと止まった。
顔がみるみる青ざめ、大きな瞳は瞬きも忘れている。
「オークランドは貴女を歓迎しますよ」と悪魔の口からゾッとする言葉が洩れた。その言葉に、テレーゼ様も私も凍りついて固まった。
「何を…仰っているのか分かりません…」
「おや?聡明なテレーゼ様でしたらお分かりでしょう?
オークランド王の正室に推挙すると、そう言った方がよろしかったですかな?」
「私はロンメル夫人ですよ!」テレーゼ様が悲鳴のような声で叫んで椅子を立った。
「私はヴォルガ様と夫の前で《妻》として宣誓致しました。そのようなお話しは不愉快です!」
「奥様。帰りましょう」これ以上ここにいるべきではない。アビー男爵は元よりこの話のためにテレーゼ様を招いたのだ…
席を立った奥様を引き留めようと、アビー男爵はさらに囀った。
「お待ちを、テレーゼ様!
貴女がフィーアとオークランドとの架け橋となればおよろしいではありませんか?
休戦や停戦ではなく、戦を終わらせることもできるのではありませんか?」
その卑怯な言葉にテレーゼ様は僅かに反応したが、お心が動くことは無かった。
奥様は凛とした表情でアビー男爵を睨めつけ、ロンメルの女主人としての態度を崩さなかった。
「それは私の望む未来ではありますが、方法を違えています。
私は《氷の騎士》ワルター・フォン・ロンメル男爵の妻です。
オークランドの王室に興味はありません」
「…なるほど…素晴らしいお考えです。
やはり王妃にもなれる器の持ち主だ」
席に着いたまま、アビー男爵は落ち着いていた。
手元のワイングラスを眺めて弄ぶ姿は、余裕すら伺える。必死に追い縋って引き留めようとする方が、余程扱いやすかった。
謀反を囁く男のその姿に戦慄した。
彼は端から我々を逃がす気などないのだ…
「…シュミット様?」足を止めて剣に手をかけた私に、テレーゼ様が不安そうに視線を向けた。
「奥様、アンネ、私から離れないでください」
「流石、スペンサー男爵を葬った男ですな、シュミット殿。
この部屋がいちばん安全だと気付いていらっしゃる」
「閣下!これは侯爵家に対する謀反ですぞ!何卒ご再考を!」
「ご再考頂くのはテレーゼ様でしょう?
従者らの安全はテレーゼ様のお返事一つで決まります。あの可愛いお小姓も、あの幼さで失われるのは心が痛みます」
彼はわざとらしく悲しげに頭を振って嘆いてみせた。
ケヴィン…すまん…
戻らない息子の身を案じたが、今は奥様を守り、逃がすことで手一杯だ。まだ幼い息子を見捨てるしか無かった…
私は酷い父親だ…
男爵の言葉にテレーゼ様の表情が曇った。
「子供を盾にするとは卑怯ではありませんか!」
「なんと恐ろしいことを…
私は子供の身を案じている優しい紳士ですよ。
息子を見捨てるような薄情な男ではございませんよ」
アビー男爵が誰のことを言っているのかは明白だ。どの口がほざくと、怒りを覚えたが、冷静さを失うわけにはいかなかった。
彼に斬り付けるには距離がある。一瞬でも奥様から離れる訳にはいかなかった。
アビー男爵から目を離さないように睨んだまま、後ろに庇ったテレーゼ様に謝罪した。
「奥様、申し訳ございません。油断した私の失態です。息子はどうぞ諦めてくださいませ…」
「…シュミット様…」
「私に何かありましても、必ず希望をお捨てになりませんように…旦那様は奥様をお見捨てにはなりません。
抵抗はせずに時間を稼いで下さい。賢い奥様にでしたら可能なはずです。
屋敷の者たちも、奥様のお帰りが遅ければ気付くはずです。
アビー男爵にとって、奥様は大切な手札です。奥様を損なうような真似は致しますまい」
「でも…それでは」
「我々はお見捨てくださいませ…」
自分の尻拭いは自分でする。不甲斐なくて申し訳ないと、心の中で、亡き主と親友に詫びた。
「旦那様にお会いしましたら、家族を頼むとお伝えくださいませ…それで心残りはございません」
覚悟を決めた。できる限り、時間を稼ぐ。
この命がある限り、奥様を旦那様以外に渡す気は無い。
ラウラ…すまない…
子供たちを頼む…
産まれたばかりの子供らの顔を思い出して心が重くなる。元気な双子の男の子だった。
ユリア、お前はまだ甘えたい盛りだろう…辛いだろうが母を支えてやってくれ…
ケヴィン、無事であるなら…あとを頼む…
覚悟を決めた私の耳に、食堂の扉にノックの音が響いた。
「お館様、ご報告が」と現れたのは執事風の初老の男性だ。彼の後ろには鎧を着込んだ数名の騎士の姿がある。
鎧には血糊がベッタリと付着していた。
アンネの小さな引きつった悲鳴と、テレーゼ様の息を飲む気配を背に感じた。
騎士が前に進み出て凶報と共に朗報を伝えた。
「申し訳ございません。従者二人はうち果たしましたが、小姓に逃げられました…」
「馬鹿な!まだ小さな子供だぞ!」
「それが…子供と油断しましたが、馬術に長けた子供でして…
従者らの援護を受け、馬で逃げ切られました。追跡させておりますが、しばしお時間を頂戴するかと…」
「…ケヴィン…良かった」こんな時なのに、テレーゼ様は息子の無事を喜んで下さった。
「必ず捕らえよ!ブルームバルトに帰すでないぞ!」
「ついに仮面が剥がれたな、アビー男爵…」
紳士ぶっていた男は、焦りからその仮面が剥げ落ちた。
「それがどうしたと言うのかね?」と歪んだ欲望を含んだ笑みで応じた男爵は開き直っていた。
「お取り込み中悪いね」と手前の騎士を押しのけて、漆黒の鎧を身に着けた騎士が前に進み出た。
彼は小脇に荷物を抱えていた。私の背後に視線を向けて、彼は目を輝かせた。
「おお!これがかの有名なロンメル男爵夫人か!」
彼は嬉しそうに声を上げて歩み寄った。
「絵なんて当てにならんな!どれ?もっと近くでお顔を拝見させて頂こう!」
「貴様!それ以上奥様に近寄るな!」
馴れ馴れしく歩み寄る男に剣を抜いた。その場に居合わせた騎士らが色めき立ったが、彼はそれを片手で制した。
「ご婦人の前で剣を振るうなんて紳士じゃないぜ」と黒衣の騎士は鼻で笑った。挑発するようにさらに一歩進んだ。
間合いに入った男に剣を振るった。攻撃を避けて下がるかと思ったが、男はさらに前に出た。
「なっ!」
「へぇ…なかなか重い剣だ。俺じゃなきゃやられてたな」
彼は剣を抜かずに私の剣を片手で軽くいなした。
「悪いな。俺は神様から愛されてるのさ」と巫山戯たことを吐かして、男は嘲るように笑った。
すかさず二激目を放ったが、これも軽くいなされた。
どういう事だ!?焦りが生じる。何が起きているのか分からない。
「分からんだろう?分からんでいいさ。この男も同じ顔をして死んだよ」
彼はそう言って小脇に抱えていた物を見せた。
背後で悲鳴が上がる。それが何か理解して言葉を失った。
鎧の兜ではなく、人間の生首だった…
「ギート…」テレーゼ様の震える声が背から聞こえた。
「あぁ、こいつの名前か?聞く前にやっちまったからな。まあまあ頑張ってたが、この《祝福》の前じゃ役不足だったな」
彼はそう言って生首を捨てた。
まだ血の滴る人の生首は、重い音を立てて男の足元に転がった。
「奥様方には刺激が強すぎたかね?」と彼は肩を竦めながら無邪気な少年のように笑った。
ゾッとする。この男には勝てない気がした…
命を失う覚悟で挑んでも、彼には一太刀も入れられないだろう。
「シュミット様、そこをどいてくださいませ」
後ろから奥様の震える声を聞いた。
「奥様…」
驚いたことに、この状況で、守られるべき夫人の目には強い光があった。
「ロンメル家の家宰シュミットにロンメル男爵夫人として命じます。お下がりなさい」
テレーゼ様は自分の足で男の前に立った。
「へぇ…」と黒衣の騎士は品定めするように奥様を舐めるように眺めた。不快な視線を受けてもテレーゼ様は真っ直ぐに男を見据えて背筋を伸ばした。
「ロンメル男爵夫人テレーゼと申します」
「これはこれは…ご丁寧に」オークランドの公用語で挨拶をする奥様の姿に、男は少し驚いたが、嬉しそうに笑った。
「貴方に用はございませんが、お足元を失礼致します」とその場に膝を折ると、奥様は血の滴る生首をその手で拾った。
その場の誰もが驚いて息を飲んだ。
飄々としていた黒衣の騎士も驚いて言葉を失っている。
「ギート…ケヴィンを逃がしてくれてありがとうございます。貴方の働きに、ロンメル男爵夫人として感謝を申し上げます」
テレーゼ様は小さくそう呟くと肌を隠していたショールを脱いで、ギートの首を整えて優しく包んだ。
淡い黄色のドレスが血の染みで赤く染った。
テレーゼ様はそれを気にも留めず、赤ん坊でも抱くように大切にギートの首を抱いて立ち上がった。
「こいつはすげぇや」と黒衣の騎士も感嘆の声を上げた。その場の誰も彼女の姿に見蕩れていた。
「お名前を頂戴したく存じます」とテレーゼ様は目の前の男に名乗るように求めた。
「これは、失礼いたしました」と彼は苦笑いを浮かべ、佇まいを直すと騎士らしく会釈した。
「神聖オークランド王国、《白蘭の聖騎士団》副団長のアーサー・ヘンリー・フェルトンと申します。
美姫と名高い《白鳥姫》にお会いできて史上の喜びです」先程までの不遜な態度を改め、彼はテレーゼ様に敬意を評した。
「フェルトン卿。貴方は騎士でいらっしゃる。そうですね?」
「左様です」と彼はテレーゼ様に応えた。
「ならば騎士として、私と家宰、侍女を丁重に扱うとお約束下さいませ」
「なるほど…では、家宰殿の剣をお預かりしても宜しいでしょうか?」
「お約束いただけるのであれば」と答えたテレーゼ様に頷いて、彼は部下にも同じ事を厳命した。
ふざけた男だが、騎士としての矜持は持ち合わせているようだ。
「シュミット様、剣をお納めください。言う通りに致しましょう」
「…畏まりました」
剣を鞘に収め、奥様にお渡しした。
「他にも武器があればお預かりします」と言うのでダガーも差し出した。
「テレーゼ様、よくぞご決断下さいました」と嬉しそうにアビー男爵がししゃり出て、テレーゼ様の前に跪くと手を取って甲に接吻を贈った。
殴り殺したい気持ちに駆られたが、テレーゼ様は冷静だった。
「アビー男爵、私は捕虜になる事を決断したのです。貴方の思いどおりにはなりません。
私はロンメル男爵夫人です」
「テレーゼ様、斯様な冷たいことをおっしゃりますな。貴方はお妃になられるのですから」とアビー男爵は恥ずかしげもなく滑らかな口で語った。
その姿に黒衣の騎士は小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「卑しい野郎だ」と呟くところを見ると、彼もアビー男爵のやり方に納得していない様子だった。
「家宰殿」とフェルトン卿は私に呼びかけた。
「あの馬に乗って逃げたのはあんたの子ですかな?」
「長男です」と答えると、意外な言葉が返ってきた。
「なかなかいい腕だ。うちの奴らじゃ追いつけやしないぜ」
よく分からない男だ。なぜそんなことを言う?
「俺は俺が認めた相手には敬意を払うんだ。
あんたも殺すには惜しい男だ」と言って彼はまた少年のように笑った。
✩.*˚
「馬鹿者!とって返せ!」
パウル様は挨拶もそこそこに大層な剣幕で怒鳴った。
執務室の窓ガラスがビリビリと震えるほどの剣幕だ。
拳で叩いた机上には、整頓された文具が飛び上がって散らかる。
何がまずかったのか分からずに、スーと二人で顔を見合わせて動揺した。
「…何を…」
「何をだと!テレーゼをどこに行かせたと言った!」
「彼女はフェアデヘルデのアビー男爵の屋敷に…」
「さっさと連れ戻せ!
全く…その件で呼び出したというのに…」と忌々しげに舌打ちをして、焦った様子の侯爵は髪を掻き乱した。
「先を越されましたな」と傍らで話を聞いていた男が呟いた。元ウィンザーの騎士でスペンサーの右腕として働いていたウェイド卿だ。
ただことでない雰囲気に胸騒ぎを覚えた。
「どういうことで?」
「アビー男爵は旧ウィンザー公国の貴族で、油断のならんコウモリ男だ!
あの男は、いち早くヴェルフェル家に臣従の意を示し、家と土地を守った。
ウィンザー大公がオークランドへ亡命しそこなったのは、彼が足止めしたからだ。そこで暗殺されて大公家は滅んだ…
あの男は今度はオークランドにすりよろうとしているのだぞ!
そんな男が、なんのためにテレーゼを呼び寄せたと思う?親切心で動くような男ではない!むしろ打算しかない男だ!
私はあの男を信用してないからこそ、彼を国境に配したのだ。案の定、彼はオークランドとの内通の兆しを見せた。
卿であればもう少し慎重に動くと信じておったのに…なんということだ…」
血が凍るような感覚を覚えた。
パウル様の信頼などはこの際どうだっていい…
「…テレーゼ…」
妻を送り出してしまった事に後悔したがもう遅い。
彼女の笑顔と声が脳裏を過った。
行かせるべきじゃなかった…
ショックを受ける俺に、追い打ちをかけるようにパウル様が呻くように言葉を吐き出した。
「亡命にも手土産が要る。
国を越えて噂になるほどの絶世の美女なら、私だって欲しいと願う…
テレーゼにはそれだけの価値がある…」
「テレーゼはオークランドでも有名なの?」とスーが口を挟んだ。それに頷いて侯爵はスーに答えた。
「スペース、男とは美女に弱いものなのだ。
身分が高ければ高いほど、その傾向は強くなる。
それに加え、テレーゼは敵国とはいえ侯爵家の血を引いているし、ヘルゲン子爵仕込みの教養や所作も申し分ない。
彼女は私が知っていたよりはるかに有能で、聡く、慎ましい、慈悲深い乙女だった。
侯爵家に恥じないどころか、王室に入れても恥ずかしくない娘だ。
私ももっと彼女に関わるべきだったと後悔した程だ」
「へぇ、じゃあワルターにはちょっと勿体なかったね」とスーは巫山戯たことを吐かして、「帰るよ」と俺に告げた。
「良いよね、パウル様?
それとも義理の息子にお説教をする時間はあるかな?」
「それは無さそうだな…事が済んでからとしよう」とパウル様も席を立った。
「ウェイド卿、私のために働いてくれ」
「畏まりました、閣下」真面目な男は短く答えて、俺たちを城の一角に案内した。
「あまり一般的な乗り物ではありませんが」と小屋から引き出したのは馬ではなく翼を持った竜だった。
「アーケイイックから取り寄せていた騎乗用の飛竜です。
数が少ないので、まだ軍事転用出来ずにいたのですが、この際やむを得ませぬ」
雛鳥のような声で鳴きながら、引き出された飛竜はウェイド卿に擦り寄っていた。
「この子らは私を親だと思ってます」と説明して、ウェイド卿は慣れた様子で用意を始めた。
飛竜に鞍や手綱を着けて用意を整えると、付属品のような金具の着いたベルトを俺たちに差し出した。
「どうぞ」
「…どうぞって…」
「鞍と繋げるための安全用のベルトです。落ちたらひとたまりもないですからね」
何をどうやって乗るんだよ?!スーに視線を向けたが、彼も「俺だって乗ったことないよ」と肩を竦めた。
スーはウェイド卿からベルトを受け取ると、すぐに腰に巻いた。
「テレーゼのためだろ?我慢しな」とスーが笑って見せた。こいつは乗る気らしい。
「馬よりは確実に早いです。急げば、ブルームバルトまで日が落ちる前に到着できます。私も同行します」と言って、ウェイド卿は空を見上げた。
太陽は西の空に傾きつつあった。
「…よろしく頼む」
胸がザワつく。彼女は夕刻までには戻るはずだが、屋敷に戻って、彼女の姿がなければそういう事だ…
「私はアビー男爵が嫌いなのです。あの節操なしのコウモリ男の好きなようにはさせません」と言って、彼は飛竜の頭を撫でて落ち着かせると、俺に騎乗するように促した。
「多少勝手は変わりますが、馬と同じ感覚です。
この飛竜たちは前の者に着いていく習性がありますので、私が先導します。
風を切る音で、会話が出来ませんので、片手の簡単な合図で意思疎通します。
とりあえず《上昇》、《降下》、《可》、《不可》だけ分かればよろしいでしょう」と彼は合図を教えた。
「へぇ、俺もこれ欲しいな」と既に飛竜の背に乗っているスーは楽しそうだ。
「卵から育てないと人には懐きませんよ」と言うウェイド卿に「じゃあ卵ちょうだいよ」と図々しく強請っている。その姿にウェイド卿は苦笑いした。
「まずはロンメル男爵夫人をお助けするのが先でしょう?終わったら、侯爵閣下にお強請りしてください」
ウェイド卿は投擲用の槍束を背負って、自身も飛竜の背に跨ると、「参ります」と一言告げて飛び立った。仲間が飛び立つ姿を見て、俺たちの飛竜が翼を広げて続いた。
馬の背に比べてかなり揺れる。気持ちの悪い浮遊感と風を切る感覚があったが、竜の羽ばたきが安定すると収まった。
遥か下に、小さくなった夕日に染まった街並みが見える。
夕餉を用意する煙が帰宅を促す狼煙のように各家から立ち上っていた。
テレーゼ…
彼女を思って恐怖に駆られた。
杞憂であればいい。でもそうでなければ、俺はまた大切な女性を失う事になる…
また、あの過ちを犯す事になる…エマのように…
シュミットやギートらを着けてはいるが、それだけでは心許ない。彼らも無事だろうか?
同行させると言っていた、ケヴィンは?
心配を挙げればキリがない。
それでも、守るべきものを思って、冷たくなる手で飛竜の手綱を握った。
✩.*˚
『ケヴィン逃げろ!振り返るな!』
背中に投げられたギートの言葉がまだ耳に残っている。
彼はすぐに異変を察知した。
門の外で馬車を見張っていた彼は、遠くから近づいてくる騎士団の一行にいち早く気付いた。
傭兵だった彼は、オークランド風の鎧を着た男たちが何なのかすぐに分かったらしい。
お父様の乗ってきた馬に僕を乗せると、ブルームバルトの屋敷に走るように言って自分の剣を抜いた。
『人違いだったら…』と戸惑う僕に、彼は『ここはフィーア王国領だ』と硬い声で返した。
『こんなところにオークランドの騎士団が居るなんて有り得ねぇ。なんかある』
僕らの姿に気付いた騎士らが慌てて馬に鞭を打った。何人かがこちらに向かってくる。手にはもう剣を抜いていた。
『ちっ!やっぱりな…フーゴ!ケヴィンを逃がせ!』
『ケヴィン!ソーリューの兄貴やトゥルンバルトの旦那たちに知らせろ!』
『でも…お父さんたちが…』
『逃げ切るならお前が一番望みがある!親父さん仕込みの馬術もあるし、馬の負担も少ないお前なら早く知らせれるはずだ!走れ!ケヴィン!』
彼らは二の足を踏む僕を叱咤して、フーゴが馬の尻を叩いた。
合図を受けて駆け出した馬の背に慌ててしがみついた。
『振り返んじゃねぇぞ!帰ってきたらお前のケツもぶっ叩くぞ!』とギートに怒鳴られて涙目になりながら馬の背に縋った。
『子供が一人逃げた!』『逃がすな!』と後ろでギートとは違う怒鳴る声が聞こえた。
ギートに一足先に逃がして貰えたおかげで、騎士たちは僕に追いつけないと諦めたらしい。
お父さんのアール号は早かった。来た道をぐんぐん走って、ブルームバルトの境まで僕を運んでくれた。
「アール、ありがとう」馬の背から礼を言って、来た道を振り返ったけれど追っ手は無かった。
「お父さん…」心細くて涙がこぼれた。
僕だけ逃げて来た。
子供だから、役に立てずに逃がされた…
「テレーゼ様…」優しく送り出してくれた奥様も置いてきてしまった…
奥様の優しさを裏切って、一人で逃げた罪悪感が重く押し寄せた。
「どうしよう…どうしたらいいの?」
知らせろと言われて送り出されたけど、僕一人だけ帰るなんて…卑怯者だ…恥ずかしくて帰れない…
お母さんにも叱られてしまう…
妹や弟に合わせる顔がない…
ルドにも…
優しい旦那様の顔も頭を過った。
奥様を…残してきてしまった…
旦那様がテレーゼ様を大切に送り出す姿を見ていた。
僕は旦那様に、奥様を任されたのに…
腰に下げた短剣に触れた。
僕が小姓として着いて行くと決まった時に、旦那様がくれたダガーだ…
『頑張れよ』とダガーと一緒に言葉をくださった。
『まだ早いがよ、お前はシュミットの子だ。必ず強くなるはずだ。
強いってのは力だけじゃダメだぞ。
失敗しても諦めんな?心が折れたら終いだ。
何度倒れても、恥かいても、もうダメだって思っても、必ず立ち上がれ。雑草みたいにしぶとく生きろ。
おキレイに生きるな、それでこそ男だ』
気取らない泥臭い言葉に笑って『はい』と返事した。
旦那様の言葉を思い出して涙を拭った。
僕はまだ旦那様の言った男になれてない。
「アール、もうちょっと頑張って…帰ろう」
アール号は小さく嘶いてまた早足で歩き始めた。
視界の隅に、コスモスの花が揺れた。
勇敢だった貴方の勇気をください…エルマーおじさん…
スーを守って死んだ彼に祈った。
少しだけ、胸が熱くなった。
元傭兵にも関わらず、爵位まで授かるのは、彼が《英雄》の中でも特別な《神紋》を持つ者だからという。
その話が真実であるならば、オークランドにとって脅威だ。
はったりや、何かの間違いでなければ、その男は一人で千の兵士に匹敵するだけの価値がある。
そして、もう一人の噂の存在…
《白鳥姫》と讃えられるその幼い男爵夫人は、男なら誰しもが心惹かれる美しさという。
彼女の絵姿は敵国の地でも売れた。
《ロンメル夫人》と題した、幼さを残した少女の肖像画を求めて、金持ちは大枚を叩いて、本物かも分からぬ絵画を買った。
庶民たちも、フィーアから流れて来た新聞を拾って切り抜いた。
煌びやかな社交界も、掃き溜めのような酒場でも、男たちの間では彼女の話で持ち切りだ。
娼婦の源氏名も《テレーゼ》が流行るくらい、彼女は美女の代名詞となっていた。
美姫とはいえ、敵国でこれほどまで話題になるのは珍しい。
「異教徒の娘一人に浮かれすぎだ」と友人で上司のロバートは不愉快そうに呟いた。随分機嫌が悪い。
「アーサー、貴様も邪教の徒に鼻の下を伸ばしているようなら聖騎士団から排斥するぞ」
「鼻の下なんか伸ばしてないだろう?
俺も男だ、美人なら少なからず気にはなるさ」
「ふん!せいぜい火炙りにされぬように気をつける事だ!」真面目な友人は忌々しげに舌打ちしている。
彼は聖職の騎士としては立派な男だが、人間として余裕が無いのが玉に瑕だ。
聖騎士団に入団したからと言って、男としての野心や本能まで捨て去れるものではない。
俺だって人並み程度には欲がある。偉くだってなりたいし、金だって欲しい。性欲だって枯れちゃいないし、美人とやれるなら尚いい。
「任務に着く」とロバートが宣言し、部下を集めて号令を発した。
「これより、旧ウィンザー公国に向かう。
アビー男爵より内通の申し出を受けることとなった。
目的地は、オークランドと国境を接している、ブルーフォレスト南部フェアデヘルデ。
男爵の話によると、土地と財産を保護し、オークランドに取り立てて貰えるなら、恭順し、国王陛下にフィーア随一の美女を捧げるとのことだ」
「…待てよ、それって…」
忌々しげに舌打ちして、「ゲスめ」と呟くロバートの額には青筋が浮かんでいる。それが誰に向けられた罵倒なのかは確認するまでもない。
「こんな任務、不名誉なこと極まりない」
真面目な男は腹立たしげにそう呟いて、俺に背を向けた。
✩.*˚
「道中気をつけてな」とワルター様は心配そうに私を馬車まで送ってくれた。
「まだ秋口だが、朝夕は冷える。
ちゃんとショールもひざ掛けも持ったか?馬車も結構揺れるからな、腰のクッションもあるか?
帽子も日傘も用意したな?不自由ないか?」
世話を焼く姿は子供を見送る父親のようだ。
「ご心配なく。ワルター様も、早く出立なさらないと、約束のお時間に遅刻してお父様に叱られてしまいますわ」
彼は急な用でアインホーン城に召喚されていた。
戦が始まるかもしれないと、嫌な話を耳にした。
同行したかったが、私も用があって、隣接するフェアデヘルデのアビー男爵様を訪ねる事になっている。
戦災孤児を保護するための施設を援助していただけるよう、お父様に嘆願する署名を集めていた。
アビー男爵様は元ウィンザー公国の貴族として、これに応じてくださった。
「旦那様、いつまで未練がまじく奥様の手を繋いでおいでですか?」とシュミット様がワルター様の姿に苦言を呈した。
シュミット様の傍らには、めかしこんだケヴィンの姿もある。ケヴィンは見習いの小姓として同行することになっていた。
あとは、侍女のアンネと御者と護衛役が同行することになっている。
「嫁さんが用事とはいえ他所に行くんだ。心配くらいするだろう?」
「私も同行しますし、夕方には屋敷に戻る予定です」
「俺は明日の昼まで帰れねぇんだよ!
テレーゼの顔が丸一日拝めなくなるんだぞ!人生で一番不毛かつ無駄な日ができるんだぞ!」と彼はシュミット様に食ってかかった。
旦那様は私に視線を向けると照れたような、拗ねたような顔を見せた。
大きな手のひらが優しく頬に添えられる。
「しかも明日は大事な日だ…」
「そうですね」と応えた。
明日は私の16の誕生日だ。
彼と私の約束の日だ…
「できるだけ早く戻る」
「お待ち申し上げております」と笑顔で応えた。
別れる前に接吻を交わした。名残惜しいのは私も同じだ。ワルター様に会えないのは寂しい…
包み込むような腕に身体を預けて別れを惜しんだ。
「テレーゼ、一ついいか?」と彼は真面目な顔でそう言って、肩にかけていた薄手のショールを寄せて私の胸元を隠した。
ドレスはデコルテの広く開いた、首飾りの目立つ意匠だ。母の遺してくれたものの一つだった。
女性らしい身体つきになっていた私の胸の膨らみは、服の上からでも見て取れた。
「ドレスも首飾りも似合ってるよ…でもな、俺としては他の男に見られたくねぇや。しまっといてくれ」
可愛い彼の嫉妬に笑みがこぼれた。
女としてこれほど嬉しいことは無い。
彼はこんなにも私を愛してくれている…
「オシャレはできませんわね」と笑う私を、深い藍の瞳が優しく見下ろした。
「お前は何着ても綺麗だよ。俺の自慢の嫁だ」
こんなふうに愛を囁く人ではなかったのに、不器用にでも、彼は愛の言葉をくれるようになった。
「やっぱり行かせなくねぇなぁ…」と拗ねるワルター様は小さな子供のように駄々をこねだした。
「困りますわ、先方とお約束しておりますのに…」
「俺の行ける日じゃダメなのか?本当に今日でないとダメか?」
「かねてよりのお約束ですもの…突然反故にしてはご迷惑になります」
「奥様の言う通りですよ。旦那様も早く行かないと侯爵閣下に帰して貰えなくなっても知りませんからね」とシュミット様に叱られて、ワルター様は渋々手を離した。
馬車に乗り込んで、窓から顔を覗かせると、ワルター様は少し寂しそうな笑顔で手を振ってくださった。
「僕もいるから大丈夫だよ!」とケヴィンがワルター様に叫んだ。
「おう!しっかりな!テレーゼに悪い男が近寄ったら親父にちゃんと言うんだぞ!」
「かしこまりました、男爵閣下!」ケヴィンは可愛らしい敬礼を返して、旦那様に応えた。
屋敷の門に立って、いつまでも見送る彼の姿が遠くなる。彼の姿は次第に見えなくなっていった。
馬車にはケヴィンとアンネと私が乗り込んでいた。
「奥様、乗り心地はいかがですか?」とアンネか馬車の乗り心地を確認した。
少し揺れるが、辛くはない。毎日自分の足で屋敷から少し離れた学校まで通っていたので、足腰はお嬢様の頃よりは強くなっていた。
「平気よ、ありがとう」と応え、手元に視線を落とし、左手の薬指に光る指輪に触れた。
薬指で居心地悪そうに回る指輪は、近頃、落ち着いて収まるようになった。私の体は子供から大人になっていた。
ベッドに入る際に、ワルター様が居心地悪そうに私に背を向けて寝ることが多くなった。
その不器用な姿が愛おしくて、その背中を見ては嬉しいような寂しいような気がしたのももうおしまいだ。
私たちはやっと夫婦として結ばれる…
喜びと希望を胸に、馬車の窓から外を見た。
田園地帯には、秋の収穫を待つ麦の穂が、風景を金色に染め上げている。ブルームバルトは少しずつ豊かになりつつある。
失ったものも多かっただろうけど、みんな前を向いて生きている。
私も、お母様や伯父様、ヘルゲン子爵様を失ったが、それ以上のものを今手に入れている。
彼らのためにも、今生きてる者の役割として、できる限りの事をしようと心に決めていた。
✩.*˚
「まだ拗ねてるのかい?君は案外子供だな」とスーが俺に笑いながら言った。
出立の時間を遅らせたから、アインホーン城に向けて二人で早足で馬を走らせていた。
「うるせーよ」と悪態吐くのは子供のやることだろう。
でもよ、そうもなるだろう?
よくもまぁ二年も我慢したもんだ…
自分で自分を褒めてやりたいくらいだよ…
テレーゼは美少女から美女になった。
黒目がちな大きな瞳はガーネットの輝きを増し、長い金色の睫毛の縁どりは魅力的な女の目を煌びやかに飾った。
普段結い上げてる淡い色の金髪は、腰にまで届く長さで、下ろすと煌めきを纏い、彼女は黄金の川の女神になる。
あの日見た小さな胸は膨らみを増し、ネグリジェの下の肢体は女らしく艶っぽく変化した。
華のある笑顔が咲く度に、もっと咲かせたい欲に駆られる。
背もいつの間にか伸びて、彼女は立派な女になった。
もうあの花嫁衣装は着れないだろう。
眠れない夜もあったが、煙草で誤魔化して何とか凌いだ。馬鹿だな、俺…
赤ん坊を抱く彼女に、自分の子を抱く姿を想像してしまう。もうしばらくしたら、それも手の届く現実になるはずだ。
人並みの幸せな暮らしが俺にもあったのだと、夢のような心地で暮らしていた。
ギルのように、平穏な日々が続くことを願っていたが、オークランドはそれを許してはくれなかったようだ。
「戦になるかな?」とスーが訊ねたが、俺にはその答えは持ち合わせていない。
「さぁな」と応えたが、今の幸せな生活が続いてくれれば、人を殺さずに、この《祝福》も使わずに済むのだ。そうであって欲しいと願った。
そうすれば、彼女を悲しませることだってないのだ…
あの笑顔はそのままでいい。
「また彼女のこと考えてるだろ?」
「何だよ?悪いのかよ?」
「別に、いいんじゃない?
俺もテレーゼみたいな美人の彼女が欲しいな」
「ガキが背伸びしてんじゃねぇよ」と笑うと、スーは「俺の方が年上だ」とお決まりの台詞を吐いた。
スーの顔は、青年と呼べるような大人びたものに変わりつつあった。
人との関わりが、彼に身体の成長を促したのかもしれない。
子供じみた表情は次第になりを潜めていた。煙草を吸う姿も違和感がなくなったのは、見慣れたからではなく、成長したからだろう。
ソーリューに鍛えられた身体は、バネのある、軸のしっかりとした戦士らしい肉体に変化していた。
剣捌きも目を見張るほど堂の入ったものになったし、俺が油断出来ないほど強くなっていた。
特に剣を抜く速度と間合いを詰める速度は群を抜いている。判断も早い。
スーは着実に俺の右腕になりつつあった。手を抜かない先生のおかげだ。
ソーリューも少し変わったな…
仏頂面でルドを見守る姿は、素直じゃない。
それでも子供たちは、彼が見守ってるのを知っている。
ルドがひっくり返りそうになると、死神みたいな男が現れ、優しく手を添えて幼子を地面から守った。
文句を言いながら子供の世話を焼く姿は、傭兵の彼からは想像できない。
ユリアの作った花飾りがソーリューの頭に乗ってた時は、流石に笑ったな…
無みたいになってたが、それでも投げ捨てたりしなかったのは、嬉しかったからだろ?
みんな変わったんだな…
この生活を守らないとな…
そんな思いを胸に抱き、馬の背に揺られながら、秋の遠い青空を眺めた。
✩.*˚
旦那様は時間に遅れずにシュタインシュタットに到着しただろうか?
私の身体が二つあれば良かったのにとつくづく思う。
「お待ち申し上げておりました、ロンメル夫人」
「ご無沙汰しております、アビー男爵。
結婚式でご挨拶頂いた時以来ですわね」
屋敷のエントランスで出迎えたフェアデフェルデの領主に、奥様は優雅な会釈で応じた。
初老に差し掛かったくらいの年頃の少し肥えた男爵は、人の良さそうな笑顔で私たち一行を屋敷に案内した。
「道中お疲れでしたでしょう?どうぞごゆっくりおくつろぎ下さい。
フェアデフェルデの自慢の薔薇水をご用意致します」
「お心遣いありがとうございます。
この度は私の我儘を聞き入れて下さり、ありがとうございます」
「なに、こんな非才の身で、《白鳥姫》と名高いロンメル夫人のお役に立てるようで何よりです。
未来の南部侯爵領の為と働くロンメル夫人は、若いのにも関わらず、聡明でなんとも尊いお志をお持ちと感嘆しております」とアビー男爵は明るく笑った。
歳の割に張りのある頬に、柔和な深い皺が刻まれる。
人の良さそうな紳士は、テレーゼ様の署名を願う手紙に真っ先にお返事をくださった。
「おや、可愛いお小姓を連れておいでだ」と彼はテレーゼ様に従う息子を見て「名前は?」と訊ねた。
「ケヴィン・シュミットと申します。お会いできて光栄です、閣下」とケヴィンは教えられた通りの挨拶をこなした。9歳にも満たない少年しては上出来だろう。
「ふむ、なかなか良い家来を連れておいでですな」とアビー男爵はケヴィンを褒めた。
テレーゼ様は男爵の世辞に、嬉しそうに微笑んで礼を述べた。
「子供たちは希望です。
この子が大きくなる頃には、民が食べるものや住むところに困らない国になることを願うばかりです」
「誠に…ロンメル夫人の慈悲深い尊いお考えに感服するばかりです」
「ありがとうございます、アビー男爵。
早速で恐縮ですが、ご署名を頂戴してもおよろしいでしょうか?」
「おや、随分急くのですね?
昼食を用意しておりますので、その後、ごゆっくりお寛ぎになってからでもよろしいではございませんか?今晩は一晩当家にご滞在くださいませ」
「申し訳ございません。明日は大事な用がございますので、今日中に屋敷に戻ると主人とのお約束がございます。また主人と伺える日に、子供らの未来についてゆっくりお話出来ればと思っておりますわ。
ロンメル男爵は急用でアビー男爵とお会い出来ないことを残念がっておりました。是非またご訪問させてくださいませ」
「そうですか、それは残念です…」とアビー男爵は残念そうに頭を振った。
「では、せめて昼食をご一緒してくださいませ。
妻が亡くなって、子供たちも出て行ってからというもの侘しい食卓になってしまいましたので…」
寂しげに語る紳士に同情したのだろう。
お優しいテレーゼ様は彼の申し出を笑顔で快諾された。
「私で宜しければご一緒させて頂きます」
「奥様、宜しいのですか?」
馬車は足が遅い。暗くなる前にブルームバルトに戻る予定だったが、ゆっくりしていてはギリギリになってしまう。
「孤独は誰よりも存じております。
ケヴィン、ギートとフーゴに少し予定が遅れると伝えて下さい」
「かしこまりました、奥様!」
用事を言いつけられて、ケヴィンは嬉しそうに応えて駆け出そうとした。すかさず子供を捕まえて小声で注意した。
「これ!お行儀の悪い子だ」
「ごめんなさい、お父さん…」叱られてしょんぼりとするケヴィンを奥様が優しく庇った。
「ケヴィン、急いでないからゆっくりで良くてよ。転んだり、人や物にぶつかっては、せっかくのお使いが台無しになってしまうわ」
「はい、奥様」
「行ってらっしゃい」とケヴィンの背を押して送り出すと、奥様はアビー男爵の案内で広い食堂に通された。
「話し相手のいる食事は良いものですな」とアビー男爵はご機嫌な様子だ。会食は談笑しながら進み、領内の様子や特産品の話から話題は次第に踏み込んだものに変わっていった。
「そういえば、結婚されて二年ほどになりますが、お子様はまだですか?」
「え、えぇ…まぁ…」
「これは失礼。こればかりは急いて授かるものではありませんからな。旦那様も若い奥様を貰ってさぞ励んでおられるでしょうな」
酒のせいか下世話な話に及んで、テレーゼ様は恥ずかしそうに俯いた。
まだ、処女だなんて言えるわけが無い。嫁いで二年もお手付きになっていないなど、妻として不名誉な事だ。
「まあ、旦那様はまだ男盛りですから、そのうち授かるでしょう」と奥様の気も知らず、彼は明るく笑ってワインを煽った。
「しかし、これほどまでにお美しく聡明な姫君が、《英雄》とはいえ、一傭兵隊長に与えられるなど、誠に分からないものですな」と彼は呟いた。
その物言いに僅かに引っかかるものを感じた。
「私はワルター様と夫婦になれて、幸せに思っておりますわ」
「おやおや、これはこれは…なんともお熱いですな。
私が見るに、テレーゼ様は王妃にもなれる器でしょうに」とアビー男爵は驚きの言葉を口にした。
彼の言葉にテレーゼ様も言葉を詰まらせた。
「それは…身に余る評価ですわ。お褒め言葉として頂戴致します」
「何を仰いますか?ご謙遜を…真実を述べたまでですよ」男爵の言葉は、いつの間にか、悪魔の囁きのような不気味なものに変わっていた。
「その慈悲深いお心も、思慮深い聡明さも、輝かんばかりの美しさも、王妃と名乗るにふさわしいものです。そう思われた事はありませんか?」
「…何を」
さらに耳を疑うような言葉が、誘惑の悪魔の口から放たれた。
「テレーゼ様、一田舎領主の妻など捨て、王妃となられませ」
アビー男爵の言葉に、テレーゼ様の動きがピタリと止まった。
顔がみるみる青ざめ、大きな瞳は瞬きも忘れている。
「オークランドは貴女を歓迎しますよ」と悪魔の口からゾッとする言葉が洩れた。その言葉に、テレーゼ様も私も凍りついて固まった。
「何を…仰っているのか分かりません…」
「おや?聡明なテレーゼ様でしたらお分かりでしょう?
オークランド王の正室に推挙すると、そう言った方がよろしかったですかな?」
「私はロンメル夫人ですよ!」テレーゼ様が悲鳴のような声で叫んで椅子を立った。
「私はヴォルガ様と夫の前で《妻》として宣誓致しました。そのようなお話しは不愉快です!」
「奥様。帰りましょう」これ以上ここにいるべきではない。アビー男爵は元よりこの話のためにテレーゼ様を招いたのだ…
席を立った奥様を引き留めようと、アビー男爵はさらに囀った。
「お待ちを、テレーゼ様!
貴女がフィーアとオークランドとの架け橋となればおよろしいではありませんか?
休戦や停戦ではなく、戦を終わらせることもできるのではありませんか?」
その卑怯な言葉にテレーゼ様は僅かに反応したが、お心が動くことは無かった。
奥様は凛とした表情でアビー男爵を睨めつけ、ロンメルの女主人としての態度を崩さなかった。
「それは私の望む未来ではありますが、方法を違えています。
私は《氷の騎士》ワルター・フォン・ロンメル男爵の妻です。
オークランドの王室に興味はありません」
「…なるほど…素晴らしいお考えです。
やはり王妃にもなれる器の持ち主だ」
席に着いたまま、アビー男爵は落ち着いていた。
手元のワイングラスを眺めて弄ぶ姿は、余裕すら伺える。必死に追い縋って引き留めようとする方が、余程扱いやすかった。
謀反を囁く男のその姿に戦慄した。
彼は端から我々を逃がす気などないのだ…
「…シュミット様?」足を止めて剣に手をかけた私に、テレーゼ様が不安そうに視線を向けた。
「奥様、アンネ、私から離れないでください」
「流石、スペンサー男爵を葬った男ですな、シュミット殿。
この部屋がいちばん安全だと気付いていらっしゃる」
「閣下!これは侯爵家に対する謀反ですぞ!何卒ご再考を!」
「ご再考頂くのはテレーゼ様でしょう?
従者らの安全はテレーゼ様のお返事一つで決まります。あの可愛いお小姓も、あの幼さで失われるのは心が痛みます」
彼はわざとらしく悲しげに頭を振って嘆いてみせた。
ケヴィン…すまん…
戻らない息子の身を案じたが、今は奥様を守り、逃がすことで手一杯だ。まだ幼い息子を見捨てるしか無かった…
私は酷い父親だ…
男爵の言葉にテレーゼ様の表情が曇った。
「子供を盾にするとは卑怯ではありませんか!」
「なんと恐ろしいことを…
私は子供の身を案じている優しい紳士ですよ。
息子を見捨てるような薄情な男ではございませんよ」
アビー男爵が誰のことを言っているのかは明白だ。どの口がほざくと、怒りを覚えたが、冷静さを失うわけにはいかなかった。
彼に斬り付けるには距離がある。一瞬でも奥様から離れる訳にはいかなかった。
アビー男爵から目を離さないように睨んだまま、後ろに庇ったテレーゼ様に謝罪した。
「奥様、申し訳ございません。油断した私の失態です。息子はどうぞ諦めてくださいませ…」
「…シュミット様…」
「私に何かありましても、必ず希望をお捨てになりませんように…旦那様は奥様をお見捨てにはなりません。
抵抗はせずに時間を稼いで下さい。賢い奥様にでしたら可能なはずです。
屋敷の者たちも、奥様のお帰りが遅ければ気付くはずです。
アビー男爵にとって、奥様は大切な手札です。奥様を損なうような真似は致しますまい」
「でも…それでは」
「我々はお見捨てくださいませ…」
自分の尻拭いは自分でする。不甲斐なくて申し訳ないと、心の中で、亡き主と親友に詫びた。
「旦那様にお会いしましたら、家族を頼むとお伝えくださいませ…それで心残りはございません」
覚悟を決めた。できる限り、時間を稼ぐ。
この命がある限り、奥様を旦那様以外に渡す気は無い。
ラウラ…すまない…
子供たちを頼む…
産まれたばかりの子供らの顔を思い出して心が重くなる。元気な双子の男の子だった。
ユリア、お前はまだ甘えたい盛りだろう…辛いだろうが母を支えてやってくれ…
ケヴィン、無事であるなら…あとを頼む…
覚悟を決めた私の耳に、食堂の扉にノックの音が響いた。
「お館様、ご報告が」と現れたのは執事風の初老の男性だ。彼の後ろには鎧を着込んだ数名の騎士の姿がある。
鎧には血糊がベッタリと付着していた。
アンネの小さな引きつった悲鳴と、テレーゼ様の息を飲む気配を背に感じた。
騎士が前に進み出て凶報と共に朗報を伝えた。
「申し訳ございません。従者二人はうち果たしましたが、小姓に逃げられました…」
「馬鹿な!まだ小さな子供だぞ!」
「それが…子供と油断しましたが、馬術に長けた子供でして…
従者らの援護を受け、馬で逃げ切られました。追跡させておりますが、しばしお時間を頂戴するかと…」
「…ケヴィン…良かった」こんな時なのに、テレーゼ様は息子の無事を喜んで下さった。
「必ず捕らえよ!ブルームバルトに帰すでないぞ!」
「ついに仮面が剥がれたな、アビー男爵…」
紳士ぶっていた男は、焦りからその仮面が剥げ落ちた。
「それがどうしたと言うのかね?」と歪んだ欲望を含んだ笑みで応じた男爵は開き直っていた。
「お取り込み中悪いね」と手前の騎士を押しのけて、漆黒の鎧を身に着けた騎士が前に進み出た。
彼は小脇に荷物を抱えていた。私の背後に視線を向けて、彼は目を輝かせた。
「おお!これがかの有名なロンメル男爵夫人か!」
彼は嬉しそうに声を上げて歩み寄った。
「絵なんて当てにならんな!どれ?もっと近くでお顔を拝見させて頂こう!」
「貴様!それ以上奥様に近寄るな!」
馴れ馴れしく歩み寄る男に剣を抜いた。その場に居合わせた騎士らが色めき立ったが、彼はそれを片手で制した。
「ご婦人の前で剣を振るうなんて紳士じゃないぜ」と黒衣の騎士は鼻で笑った。挑発するようにさらに一歩進んだ。
間合いに入った男に剣を振るった。攻撃を避けて下がるかと思ったが、男はさらに前に出た。
「なっ!」
「へぇ…なかなか重い剣だ。俺じゃなきゃやられてたな」
彼は剣を抜かずに私の剣を片手で軽くいなした。
「悪いな。俺は神様から愛されてるのさ」と巫山戯たことを吐かして、男は嘲るように笑った。
すかさず二激目を放ったが、これも軽くいなされた。
どういう事だ!?焦りが生じる。何が起きているのか分からない。
「分からんだろう?分からんでいいさ。この男も同じ顔をして死んだよ」
彼はそう言って小脇に抱えていた物を見せた。
背後で悲鳴が上がる。それが何か理解して言葉を失った。
鎧の兜ではなく、人間の生首だった…
「ギート…」テレーゼ様の震える声が背から聞こえた。
「あぁ、こいつの名前か?聞く前にやっちまったからな。まあまあ頑張ってたが、この《祝福》の前じゃ役不足だったな」
彼はそう言って生首を捨てた。
まだ血の滴る人の生首は、重い音を立てて男の足元に転がった。
「奥様方には刺激が強すぎたかね?」と彼は肩を竦めながら無邪気な少年のように笑った。
ゾッとする。この男には勝てない気がした…
命を失う覚悟で挑んでも、彼には一太刀も入れられないだろう。
「シュミット様、そこをどいてくださいませ」
後ろから奥様の震える声を聞いた。
「奥様…」
驚いたことに、この状況で、守られるべき夫人の目には強い光があった。
「ロンメル家の家宰シュミットにロンメル男爵夫人として命じます。お下がりなさい」
テレーゼ様は自分の足で男の前に立った。
「へぇ…」と黒衣の騎士は品定めするように奥様を舐めるように眺めた。不快な視線を受けてもテレーゼ様は真っ直ぐに男を見据えて背筋を伸ばした。
「ロンメル男爵夫人テレーゼと申します」
「これはこれは…ご丁寧に」オークランドの公用語で挨拶をする奥様の姿に、男は少し驚いたが、嬉しそうに笑った。
「貴方に用はございませんが、お足元を失礼致します」とその場に膝を折ると、奥様は血の滴る生首をその手で拾った。
その場の誰もが驚いて息を飲んだ。
飄々としていた黒衣の騎士も驚いて言葉を失っている。
「ギート…ケヴィンを逃がしてくれてありがとうございます。貴方の働きに、ロンメル男爵夫人として感謝を申し上げます」
テレーゼ様は小さくそう呟くと肌を隠していたショールを脱いで、ギートの首を整えて優しく包んだ。
淡い黄色のドレスが血の染みで赤く染った。
テレーゼ様はそれを気にも留めず、赤ん坊でも抱くように大切にギートの首を抱いて立ち上がった。
「こいつはすげぇや」と黒衣の騎士も感嘆の声を上げた。その場の誰も彼女の姿に見蕩れていた。
「お名前を頂戴したく存じます」とテレーゼ様は目の前の男に名乗るように求めた。
「これは、失礼いたしました」と彼は苦笑いを浮かべ、佇まいを直すと騎士らしく会釈した。
「神聖オークランド王国、《白蘭の聖騎士団》副団長のアーサー・ヘンリー・フェルトンと申します。
美姫と名高い《白鳥姫》にお会いできて史上の喜びです」先程までの不遜な態度を改め、彼はテレーゼ様に敬意を評した。
「フェルトン卿。貴方は騎士でいらっしゃる。そうですね?」
「左様です」と彼はテレーゼ様に応えた。
「ならば騎士として、私と家宰、侍女を丁重に扱うとお約束下さいませ」
「なるほど…では、家宰殿の剣をお預かりしても宜しいでしょうか?」
「お約束いただけるのであれば」と答えたテレーゼ様に頷いて、彼は部下にも同じ事を厳命した。
ふざけた男だが、騎士としての矜持は持ち合わせているようだ。
「シュミット様、剣をお納めください。言う通りに致しましょう」
「…畏まりました」
剣を鞘に収め、奥様にお渡しした。
「他にも武器があればお預かりします」と言うのでダガーも差し出した。
「テレーゼ様、よくぞご決断下さいました」と嬉しそうにアビー男爵がししゃり出て、テレーゼ様の前に跪くと手を取って甲に接吻を贈った。
殴り殺したい気持ちに駆られたが、テレーゼ様は冷静だった。
「アビー男爵、私は捕虜になる事を決断したのです。貴方の思いどおりにはなりません。
私はロンメル男爵夫人です」
「テレーゼ様、斯様な冷たいことをおっしゃりますな。貴方はお妃になられるのですから」とアビー男爵は恥ずかしげもなく滑らかな口で語った。
その姿に黒衣の騎士は小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「卑しい野郎だ」と呟くところを見ると、彼もアビー男爵のやり方に納得していない様子だった。
「家宰殿」とフェルトン卿は私に呼びかけた。
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「長男です」と答えると、意外な言葉が返ってきた。
「なかなかいい腕だ。うちの奴らじゃ追いつけやしないぜ」
よく分からない男だ。なぜそんなことを言う?
「俺は俺が認めた相手には敬意を払うんだ。
あんたも殺すには惜しい男だ」と言って彼はまた少年のように笑った。
✩.*˚
「馬鹿者!とって返せ!」
パウル様は挨拶もそこそこに大層な剣幕で怒鳴った。
執務室の窓ガラスがビリビリと震えるほどの剣幕だ。
拳で叩いた机上には、整頓された文具が飛び上がって散らかる。
何がまずかったのか分からずに、スーと二人で顔を見合わせて動揺した。
「…何を…」
「何をだと!テレーゼをどこに行かせたと言った!」
「彼女はフェアデヘルデのアビー男爵の屋敷に…」
「さっさと連れ戻せ!
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そんな男が、なんのためにテレーゼを呼び寄せたと思う?親切心で動くような男ではない!むしろ打算しかない男だ!
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「…テレーゼ…」
妻を送り出してしまった事に後悔したがもう遅い。
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ショックを受ける俺に、追い打ちをかけるようにパウル様が呻くように言葉を吐き出した。
「亡命にも手土産が要る。
国を越えて噂になるほどの絶世の美女なら、私だって欲しいと願う…
テレーゼにはそれだけの価値がある…」
「テレーゼはオークランドでも有名なの?」とスーが口を挟んだ。それに頷いて侯爵はスーに答えた。
「スペース、男とは美女に弱いものなのだ。
身分が高ければ高いほど、その傾向は強くなる。
それに加え、テレーゼは敵国とはいえ侯爵家の血を引いているし、ヘルゲン子爵仕込みの教養や所作も申し分ない。
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私ももっと彼女に関わるべきだったと後悔した程だ」
「へぇ、じゃあワルターにはちょっと勿体なかったね」とスーは巫山戯たことを吐かして、「帰るよ」と俺に告げた。
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それとも義理の息子にお説教をする時間はあるかな?」
「それは無さそうだな…事が済んでからとしよう」とパウル様も席を立った。
「ウェイド卿、私のために働いてくれ」
「畏まりました、閣下」真面目な男は短く答えて、俺たちを城の一角に案内した。
「あまり一般的な乗り物ではありませんが」と小屋から引き出したのは馬ではなく翼を持った竜だった。
「アーケイイックから取り寄せていた騎乗用の飛竜です。
数が少ないので、まだ軍事転用出来ずにいたのですが、この際やむを得ませぬ」
雛鳥のような声で鳴きながら、引き出された飛竜はウェイド卿に擦り寄っていた。
「この子らは私を親だと思ってます」と説明して、ウェイド卿は慣れた様子で用意を始めた。
飛竜に鞍や手綱を着けて用意を整えると、付属品のような金具の着いたベルトを俺たちに差し出した。
「どうぞ」
「…どうぞって…」
「鞍と繋げるための安全用のベルトです。落ちたらひとたまりもないですからね」
何をどうやって乗るんだよ?!スーに視線を向けたが、彼も「俺だって乗ったことないよ」と肩を竦めた。
スーはウェイド卿からベルトを受け取ると、すぐに腰に巻いた。
「テレーゼのためだろ?我慢しな」とスーが笑って見せた。こいつは乗る気らしい。
「馬よりは確実に早いです。急げば、ブルームバルトまで日が落ちる前に到着できます。私も同行します」と言って、ウェイド卿は空を見上げた。
太陽は西の空に傾きつつあった。
「…よろしく頼む」
胸がザワつく。彼女は夕刻までには戻るはずだが、屋敷に戻って、彼女の姿がなければそういう事だ…
「私はアビー男爵が嫌いなのです。あの節操なしのコウモリ男の好きなようにはさせません」と言って、彼は飛竜の頭を撫でて落ち着かせると、俺に騎乗するように促した。
「多少勝手は変わりますが、馬と同じ感覚です。
この飛竜たちは前の者に着いていく習性がありますので、私が先導します。
風を切る音で、会話が出来ませんので、片手の簡単な合図で意思疎通します。
とりあえず《上昇》、《降下》、《可》、《不可》だけ分かればよろしいでしょう」と彼は合図を教えた。
「へぇ、俺もこれ欲しいな」と既に飛竜の背に乗っているスーは楽しそうだ。
「卵から育てないと人には懐きませんよ」と言うウェイド卿に「じゃあ卵ちょうだいよ」と図々しく強請っている。その姿にウェイド卿は苦笑いした。
「まずはロンメル男爵夫人をお助けするのが先でしょう?終わったら、侯爵閣下にお強請りしてください」
ウェイド卿は投擲用の槍束を背負って、自身も飛竜の背に跨ると、「参ります」と一言告げて飛び立った。仲間が飛び立つ姿を見て、俺たちの飛竜が翼を広げて続いた。
馬の背に比べてかなり揺れる。気持ちの悪い浮遊感と風を切る感覚があったが、竜の羽ばたきが安定すると収まった。
遥か下に、小さくなった夕日に染まった街並みが見える。
夕餉を用意する煙が帰宅を促す狼煙のように各家から立ち上っていた。
テレーゼ…
彼女を思って恐怖に駆られた。
杞憂であればいい。でもそうでなければ、俺はまた大切な女性を失う事になる…
また、あの過ちを犯す事になる…エマのように…
シュミットやギートらを着けてはいるが、それだけでは心許ない。彼らも無事だろうか?
同行させると言っていた、ケヴィンは?
心配を挙げればキリがない。
それでも、守るべきものを思って、冷たくなる手で飛竜の手綱を握った。
✩.*˚
『ケヴィン逃げろ!振り返るな!』
背中に投げられたギートの言葉がまだ耳に残っている。
彼はすぐに異変を察知した。
門の外で馬車を見張っていた彼は、遠くから近づいてくる騎士団の一行にいち早く気付いた。
傭兵だった彼は、オークランド風の鎧を着た男たちが何なのかすぐに分かったらしい。
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『人違いだったら…』と戸惑う僕に、彼は『ここはフィーア王国領だ』と硬い声で返した。
『こんなところにオークランドの騎士団が居るなんて有り得ねぇ。なんかある』
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『ちっ!やっぱりな…フーゴ!ケヴィンを逃がせ!』
『ケヴィン!ソーリューの兄貴やトゥルンバルトの旦那たちに知らせろ!』
『でも…お父さんたちが…』
『逃げ切るならお前が一番望みがある!親父さん仕込みの馬術もあるし、馬の負担も少ないお前なら早く知らせれるはずだ!走れ!ケヴィン!』
彼らは二の足を踏む僕を叱咤して、フーゴが馬の尻を叩いた。
合図を受けて駆け出した馬の背に慌ててしがみついた。
『振り返んじゃねぇぞ!帰ってきたらお前のケツもぶっ叩くぞ!』とギートに怒鳴られて涙目になりながら馬の背に縋った。
『子供が一人逃げた!』『逃がすな!』と後ろでギートとは違う怒鳴る声が聞こえた。
ギートに一足先に逃がして貰えたおかげで、騎士たちは僕に追いつけないと諦めたらしい。
お父さんのアール号は早かった。来た道をぐんぐん走って、ブルームバルトの境まで僕を運んでくれた。
「アール、ありがとう」馬の背から礼を言って、来た道を振り返ったけれど追っ手は無かった。
「お父さん…」心細くて涙がこぼれた。
僕だけ逃げて来た。
子供だから、役に立てずに逃がされた…
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気取らない泥臭い言葉に笑って『はい』と返事した。
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