燕の軌跡

猫絵師

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「何かあったの?」

夕餉を食べていると、テントの外が慌ただしくなった。人の走る気配や声が聞こえる。

「確認してまいります」とベンが僕から離れて、テントの外に確認に向かった。

「何?…まさか、敵?」不安になった。

ここは対岸とはいえ、前線から遠くない。子供の僕にもそのくらいのことは分かる。

「大丈夫ですわ、坊っちゃま。ここはお父様のいらっしゃる本営です。

いくらなんでも、敵がここまで来ることなど有り得ませんわ」と、傍らで給仕をしてくれていたマリーが怯える僕を優しくなだめた。

「それより冷めないうちにお召し上がりください。

しっかりお召し上がりにならないと、お身体を悪くされますよ。お父様やお兄様に心配されてしまいます」

「うん、そうだね…食べるよ」と返事をして食事を口に運んだ。

「美味しいよ」と感想を述べると彼女は笑顔を見せてくれた。

世話係は何人も変わっていたけれど、彼女だけは変わらずいてくれた。お父様も、マリーを信頼していた。 

彼女は僕の母親に近い存在になっていた。

食事を続けていると、先程出て行ったベンが戻って来た。

「ただいま戻りました」とお辞儀をして、僕の座っていた椅子の傍らに膝を着いた。

下から見上げるように視線を合わせて、彼は外の様子を伝えた。

「食料の貯蔵庫にネズミが発生したそうです。

ネズミに驚いた馬が柵から脱走したので、騒ぎになったと聞きました。どちらも、野営地ではよくあることです」と彼は僕を安心させた。

「そうなんだ…良かった…」敵が攻めてきたのでは無いと知って、ほっと胸を撫で下ろした。

ベンは優しい顔で頷いて、立ち上がると、食事の邪魔にならない場所に移動した。

食事を終えると、マリーがお湯を用意してくれて、ベンが身体を拭いてくれた。この生活も少しだけ慣れた。

「足は辛くありませんか?」とベンが僕に訊ねた。

「大丈夫」

「毎日お兄様のテントにお一人で通われて、少しお身体も強くなりましたかね?」と言いながらベンは濡らした布で丁寧に足を拭いた。

付け根から曲がった足のせいで、歩くのが好きでは無かった。

外に出るのも、人の目が怖くて、しり込みしていた。

お父様のように、真っ直ぐな背中と、男らしく闊歩する姿に憧れた。

あんな風になりたかった。

でも僕の足はこんなのだ…

ベンが僕の《足》になってくれて、少しだけ外に出る回数は増えたけど、それでも自分で歩くことは少なかった。

歩くのが苦手な僕だけど、お兄様には会いたかった。

兵隊が見張っている、お兄様のテントの出入りは制限されていて、ベンもマリーも近づけなかった。

僕一人でしか通して貰えない。

お父様もお忙しい。

必然的に、自分の足で向かうしか無かった。

「ダニエル様が懸命に歩く姿を見るのは、私も嬉しいのです」と彼は微笑んだ。

「何で?」

「主の元気な姿は従者の喜びです。

主治医の先生も『歩くのは良い事だ』と仰ってました。きっとダニエル様の自信に繋がります」

「でも、不格好だ…格好悪いよ…」

「じゃあ、もっと練習しましょう。

ダニエル様は努力家ですから、続ければ、きっと良くなりますよ」とベンは温かく僕を励ましてくれた。

「お兄様と一緒に劇場に行きたいのでしょう?」

「…うん」

「私に抱えられてる方が格好がつかないでしょう?それに、一緒に並んで歩いた方がきっと楽しいですよ」

「そうかな?」

「二人だけなら、内緒の話も出来ますよ」

ベンはそう言ってイタズラっぽく笑った。僕も彼の笑顔に釣られて笑った。

「頑張るよ」と彼の喜びそうな言葉を口にした。

ベンに支えられながら、寝支度を整えていた時に、またテントの外で言い争う声が聞こえてきた。

視線の集まったテントの入口が、膨らんで弾けた。

「きゃぁ!」

マリーの悲鳴と共に、テントに転がり込んだものを見て、慌ててベンにしがみついた。

まず目に入ったのは、鈍色の鎧から溢れるおびただしい血だった。

「ひっ!」

「ダニエル様!」ベンの腕が包むように僕を抱いて視界を遮った。

ベンに抱かれたまま、知らない男の人の声を聞いた。

「お前ら従者か?」

「抵抗しないなら見逃してやる。その子供をこっちによこせ」

「できません!」男らの要求を拒否して、ベンはテントの隅に身体を寄せた。

「どうする、イザーク?」

「時間ねぇんだ。渡さねえなら奪うだけだ!」男たちの物騒な声に続いて、マリーの震える声が聞こえてきた。

「お、お願いします!坊ちゃんは足がお悪いのです!どうか…どうかお見逃しを…」

「関係ねぇよ、退け!」

男の声に、マリーの悲鳴が重なった。怖くて身体が竦んだ。

彼女も怖かったはずなのに…

「ベン!坊ちゃんを連れて逃げて!」

悲鳴のような彼女の声が耳に届いて胸が傷んだ。

「マリー…」顔を上げようとした僕を、ベンは強く抱き締めて目の前の光景を遮った。何がどうなっているのか分からない。でも、悪いことか起きてるのは間違いなかった…

「邪魔すんな!ぶっ殺すぞ!」

暴力を振るう音と女性の悲鳴が続いて、血の匂いが鼻に届いた。僕は何も出来ずに、ベンの腕の中で震えてた。

「…に…げて」かすかに聞こえたマリーの最後の言葉を、ベンの腕の中で聞いた。

ベンが右手を動かして何かを手にした。

「やめとけ。そんな小さなナイフ一本で、子供抱えて何しようってんだ?」嘲笑うような声が聞こえた。

ベンは護衛じゃない。戦うようなものなんて何も持ってなかった。

彼がナイフを振るったのは侵入者ではなかった。

彼は硬いテントの布地に、子供一人通れるくらいの穴を開けて僕を外に逃がした。

「逃げて下さい!近くの者に頼って…」

早口でそう叫んで、彼はテントを裂いたナイフを外に投げ捨てて背を向けた。

ベンと男たちの争う物音が続いて、途端に静かになった。

僕を押し出したテントの切れ間から手が出た。血に染まった手はベンの手じゃない。

慌てて這って逃げた。

男の手が空を掻いた。男はテントの切れ間を大きくしようとしたが、ベンのナイフじゃないと裂けない特別製らしい。

「クソッ!何だこの布!

アルノー!《坊ちゃん》を捕まえろ!」

後ろから声が迫る。

怖い!怖い!

震える腕で必死に這って逃げた。

お父様!助けて!誰か…

地面を蹴る音が迫って、襟首を掴んだ手のひらは、僕を地面に押さえつけた。

「捕まえたぞ、イザーク!」

「痛い!痛い!やめて!」泣き喚いて暴れても、手は振り解けなかった。男の手からは血の匂いがした…

「最初っから言うこと聞いてりゃ、あいつら死なずに済んだんだ」

彼らはそう言って、僕に猿轡を噛ませて、手を縛って荷物のように肩に担いだ。

僕は赤ん坊のように泣くことしか出来なかった…

✩.*˚

「意外といい生活してるじゃないか?」

テントに入ってくるなり、兜を脱ぎ捨てた青年が呟いた。

役目を終えた兜の下から、見慣れた綺麗な顔が現れた。

「久しぶりだな、アーサー」生意気な顔で笑うのは俺のよく知ってる男だ。

「…スー」

「その暑苦しい兜を脱げよ。話はそれからだ」と言って、スーは仲間に指示を出した。

ディルクが手にしていた金槌で、足に繋がれた枷を叩き壊した。鎖が音を立てて外れ、その役目を失った。

「鍵は後で外す。とりあえず、ずらかるぞ」

「一人か?女はどうしたんだ?」とスーが意地悪く訊ねた。

「今は居ない。食事を下げた所だ」と答えて、兜を脱いだ。息苦しさから解放され、肩が軽くなった気がした。

「なるほどね…お別れできなくて残念だったな」とスーは俺をからかった。

「帰るか」と笑う声が懐かしかった。

「見張りは?」と訊ねると、スーは指輪を嵌めた手をヒラつかせた。

「俺の魔法で眠ってるよ。

可哀想にな、あいつら後でめちゃくちゃ怒られるぞ」

「スー、それは後で…早く行きましょう。

ネズミたちが心配です」と外套のフードを目深に被った男の声は、聞き覚えがあった。

「…エインズワースの?」

「ギルの弟のレオンだよ。出入りしてたネズミは彼の使いだ」とスーが教えた。

その紹介に、レオンと呼ばれた男は黙って苦笑いを浮かべた。

「スー、早くしろ。イザークたちとも合流しなきゃなんねぇんだ」とディルクもスーを急かした。

「分かってる。行くぞ、アーサー」

黙って頷いて、彼らに続いてテントを出ようとしたが、テントの中を振り返って後ろ髪を引かれた。

手にしていた兜を木箱の上に残して、代わりにメリッサの摘んできた赤いジニアを胸のポケットに挿した。

「何してんだ?」

「何でもない…」と答えて、今度こそテントを後にした。

『ハッピーエンドがいいです』と、俺のために泣いてくれた彼女の姿を思い出して、少しだけ気持ちが重かった…

できることなら、《さよなら》や《ありがとう》を伝えたかったが、手紙を残すことも出来ない。

酷い男だな、アーサー…

暗がりで自嘲の笑みを口元に浮かべたが、見咎める者など居なかった。

そういえば、異母弟から借りた本を返し損ねていた。

彼女が返しておいてくれるだろうか?

勝手にそう期待して、胸に挿したジニアの花をそっと撫でた。

✩.*˚

「やだ…またネズミだ…」ネズミが足元を走り去って、危うく手にした物を落としかけた。

野営地だから仕方ないのだろうけど、最近やたらとネズミが多い。

子供の頃に思いっきりネズミを踏んでしまって、それからネズミがトラウマだ。

グニッと潰れる感触と、骨の折れる感触。飛び出した目玉や内蔵が目に焼き付いて離れない…

ゾッと身震いして、お湯を汲んだ桶とリネンを手に、《若様》の待つテントに向かった。

テントの周りは、私が出て行った時とは様子が変わっていた。

「え?…何で?何?」

いつも立っている兵士の姿がない。

胸騒ぎがした…

「《若様》、戻りました」と恐る恐る声をかけたが、返事が無い。慌てて中に入ると、見慣れた兜が私を迎えた。

そう…兜だけ…

中央の柱に繋がれた、鎖の先にいた男性の姿は無くなっていた…

「…何で…」まるで最初からいなかったように、彼はキレイに何も残さず居なくなっていた。

最後に言葉を交したのは…と必死に彼の様子を思い出した。

いつもと何も変わらない様子で、食事を終えると、感謝を述べて、『下げてくれ』と仰った。

『お湯を用意します』と、言ってテントを後にした。

何も変わらなかったのに…

涙が頬を伝った…

私も向こう岸に行くって言ったじゃないですか?

置いていくなんて酷い…

私、本当に、貴方に着いて行きたいと思ってたのに…

いつ?いつ出ていったの?まだ間に合う?

机に残された兜を手に、テントから飛び出した。

どっち?どっちに行ったの?多分人の少ない方だ…

彼はカナルを渡るはずだ。

涙を手の甲で拭って走った。

靴と裾の長いスカートが邪魔をした。靴を脱いで裸足になった。

この方が走りやすい。裸足は慣れてる。私は貧乏な田舎育ちだ。

兜と靴を手に、水の匂いのする方に向かって走った。

「《若様》!」返事は期待してなかった。

それでも私が来てると、私の気持ちを知って欲しかった…

私は貴方と一緒に居たいです!まだお別れしたくないんです!

まだお顔だって、まだ見せてくれてないじゃないですか?

走って、走って、背の高い葦の茂る河原に辿り着いた。

カナルの河原は暗かった。

必死に走った後ろを振り返ると、明るい篝火の灯りが遠くなっていた。

「《若様》…」もう先に行ってしまったのだろうか?

それとも違う場所に来てしまったのだろうか?

兜を抱き締めて祈るように彼の姿を探した。

砂利に足を取られそうになりながら、河原を歩いた。

誰かの代わりで求められた役だけど、満足してた。

楽しかった…

彼にとっては暇つぶしだったのだろう。

でも私にとっては…

恋をするには十分だった…

「《若様》!どこですか?」河原で何度も彼を呼んだ。

涙と嗚咽が声を出すのを邪魔した。

迷子になったみたいにしゃくり上げながら彼を探した。

「メリッサです!《若様》!

私も…連れて…行って…」

諦めきれずに、裸足のまま砂利の上を歩いた。

「《若様》!行かないで!」夜に溶ける声に返事は無かった。

この河を越えて、彼は向こう岸に戻ってしまう…焦燥が胸を焦がして虚しさを募らせた。

どこに行けば、彼に会える?もう渡ったの?

河に吸い込まれるように足を浸した。

冷たい川の水に足が沈んだ。

追いつけないなら…このまま死んでもいいから、貴方に少しでも近く…

そんな気持ちで兜を抱いて、向こう岸を見つめて足を進めた。

河の水はすぐに深くなる。腰の辺りまで急に沈んで怖くなった…

「…《若様》」

お顔…見たかったな…

河に身体を浸して、もう会えないだろうと、諦めかけた時だった…

「メリッサ!」

名前を呼ぶ声に、驚いて振り返った。

ザッザッと砂利を踏む音を立てながら、肩で息をする男性がこちらに歩いて来た。

彼の胸には、私の摘んだ赤い花があった…

彼の顔を隠す兜は無かった…

✩.*˚

イザークらと合流する時に、兵士らに追い付かれた。

「公子様を返せ!」と彼らは叫んでいた。

その公子とは俺の事ではなかった…

「お前ら!このひ弱なチビ助が大事なら、カナルを渡るまで大人しくしてな!」とイザークは子供を盾に、兵士らを牽制した。

彼の腕の中に、震える異母弟の姿があった。

「ほら、『まだ死にたくないです!』ってあいつらに言え!怖い思いも痛い思いもお前次第だからな!」と公子を脅しながら、彼は少年の口を塞いでいた猿轡を外した。

「…や…」か細い声が少年の口から漏れた。

「お父様…お兄様…助けて…」と助けを求める声に胸が締め付けられる思いだった。

「あんな小さな子を巻き込んで…」とスーに抗議したが、スーは「お前が帰ってこないのが悪い」と一蹴した。

「文句は逃げ切れたら聞いてやる」と言って、スーはイザークの腕の中で泣きじゃくる子供に歩み寄った。

「自分の名前と親父の名前を言って、あいつらに見逃せと伝えろ」とスーはダニエルを脅した。

「早くしろ。人質の役も満足に出来ないのか?」

「ダニエル…フェルトンです…

お父様は…セドリック・フェルトン伯爵です…」

震える声で名乗る少年の言葉に、追いかけてきた兵士らに動揺が走る。

「死にたいか?死にたくないよな?」

「やっ!助けて…」泣きながら懇願するダニエルの姿を兵士らに見せつけて、スーは指輪を嵌めた手を伸ばした。

「《ソムヌス》」

指輪が煌めいて、バタバタと兵士たちが倒れた。何が起きたかも分からず、彼らは目の前の青年の姿を恐ろしげに見つめた。

「着いてきたらお前らも子供も殺す」と警告を発して、さらに指輪を煌めかせて水精を呼んだ。半透明の狼が唸り声を上げながら牙を剥いた。

人の波が僅かに引いた。

「《燕の団》の《黒い妖精のスー》が公子を預かったと、この子の親父に伝えろ。手を出したらどうなるか分かってるな?」

さらにもう一頭獣を呼び出して、スーは彼らを牽制した。

「あいつらが一人でも追ってくるなら殺せ」と精霊に命じて、ディルクたちを先に行かせた。

「何で先に行かない?」とスーが俺を睨んだ。

「お前が無茶をしないか見張ってる」と睨み返した。

「へぇ…もしかして帰りたくなかったのか?そいつは悪いことしたな」と彼は皮肉っぽく呟いて、ディルクたちの後を追った。

「スー、ダニエル様は足が悪いんだ。向こう岸に連れて行くのは反対だ」

「捕虜になってた癖に偉そうに…

お前の勝手のせいでどれだけ迷惑したと思ってる?」

「俺の問題とあの子は関係ないはずだ!」

「何熱くなってんだよ?らしくないな」とスーは面倒くさそうに呟いた。

「…弟だ」と呟くとスーは眉を顰めた。その目は怒っているようだった。

「最近までろくに知りもしなかった弟だろう?

今更何だよ?あの可哀想な姿に情でも湧いたってのか?お前は流されやすいんだよ!」

彼の言葉に口を噤んだ。何も言い返せなかった…

スーはさらに怒りを口にした。

「お前一人の問題だと思ってるなら《傲慢》だ!

お前はもう《燕の団》の一員で、ブルームバルトのアーサーだ!俺たちの前から勝手に消えるな!

今回の件、ワルターがお前を許しても、俺は許さないからな!」

まくし立てるように言いたいことを言って、スーはまた怒りを顕にした足取りで仲間を追った。

「後でぶん殴ってやる!」と息巻いているスーにディルクも頷いた。

「俺も混ぜろよ」

「俺も」とアルノーとカイまで乗った。

「俺、酒で勘弁してやるよ。あんたには借りがあるしな」とイザークがニヤニヤと笑っている。

スーが早足になってイザークに駆け寄った。

「ダニエル」とスーに呼びかけに、異母弟は俯いていた顔を上げた。

「俺たちの言うことを守るなら、さっきみたいな怖いことはしない」

「…本当に?」

「本当だ。詫びもする」と言って、スーはダニエルに報酬を提示した。

「足を治して貰えるように交渉してやる。

向こう岸にはそれができる人がいる」

「…でも…僕…生まれた時から…これで…」

「多分治せる。彼女ならできる」

スーの言葉に耳を疑った。

「待て!スー!奥様に頼る気か?!」

「お前に話してない。黙ってろアーサー」

「…アーサー?」涙で潤んだ眼差しが俺を見た。

その目を見返すことか出来ずに、異母弟から視線を外した。

「…お兄様なのですか?」と訊ねる声はガッカリした響きがあった。

そうだろう…

この子の平穏を乱したのは俺だ…

裏切られたと思ってるだろう。

「イザーク、代わってくれ」とダニエルを抱く役を代わってもらえるように頼んだが、イザークはそれを断った。

「ダメだよ、あんた戻ってでもこの子逃がすだろ?

それじゃ、俺らが命懸けでここに来た意味が無くなっちまう」イザークにも俺という人間を見透かされていた。

「我慢しろ、アーサー」とディルクが肩を叩いた。

「この子はお前にとっても人質だ。

俺たちも譲る気は無い。分かったら帰るぞ。話はそれからだ」と告げて、ディルクがダニエルを抱く役を代わった。

「何だよ?ガリガリじゃねえか?」と軽すぎる子供を抱えて、ディルクも驚いていた。

抱き方が悪かったのか、「痛い」とダニエルが声を上げた。

「何だこれ?足、どうなってんだ?」

「根元から完全に曲がっちまってるんだよ」とイザークが答えた。イザークが手を伸ばそうとするとダニエルは彼を嫌がった。

「あの人嫌だ」とダニエルは目元に涙を溜めた。

「ベンとマリーを殺した…大嫌いだ…」

「邪魔しなきゃ殺さなかった」とイザークは言い訳したが、事実を否定しなかった。

まだ幼い異母弟に深い傷を与えてしまった…

その原因を作ったのは俺だ…

重苦しい気持ちを抱えたまま、スーたちの後に続いて歩いた。

「…何だ?」と呟いて、スーが顔を上げた。

「追手か?」と《犬》たちが得物に手を伸ばした。それをスーが片手で制した。

「女の声だ…」と呟いて、スーは声の出処を探った。

「誰か探してる」と言いながら、スーは長い葦の向こう側に視線を向けていた。

河からの風で、葦の葉が擦れる音に混ざって、声が聞こえた。確かに女の声だった…

もう、聞くはずの無かった声に、足が勝手に向いた。

「アーサー!」静止する声を置き去りにして、葦の向こう側の声を探した。

間違いであって欲しいと思いながら、彼女であって欲しいとも期待した…

河の浅瀬に、身体の半分を水に浸した女の姿があった…

「メリッサ!」何をしてるんだ?!

名前を呼ばれた女は驚いた顔で振り返った。

彼女は手には、残してきたはずの兜と、邪魔になった靴があった。

「《若様》…《若様》!」初めて顔を見たくせに、彼女は俺だと一目で分かったらしい。

水の中で転びそうになりながら、危なげな様子で彼女は岸を目指した。

バシャバシャと水音を立てて、岸に戻ろうとして彼女は水の中で派手に転んだ。

慌てて水に入って彼女に手を伸ばした。靴を手放した細い手が俺の手に応えた。

河下に向かって流れて行く靴を見送って、彼女を抱いて岸に上がった。

靴を履いてない女は二人目だ…

前は『帰りたい』と泣かれた…

今度の女は「行かないで…」と泣いた…

「メリッサ嬢…」

「一緒に…向こう岸に行くって…言ったじゃないですか…」子供のように泣く乙女は、手にしてた兜を捨てて離すまいとしがみついた。

「《ハッピーエンド》がまだです」とメリッサ嬢はあの時のように物語の結末を強請ねだった。

俺はスーの言う通り、流されやすい男らしい…

河の水で冷えた彼女の身体を抱き寄せた。

「来てくれ…一緒に…」

あの日、言えなかった言葉が口からこぼれた…

「好きだ、メリッサ…

カナルの向こうで…一緒になろう」

俺のハッピーエンドを願った女の願いを、叶えてやろうと、思った…
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