燕の軌跡

猫絵師

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怒り

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大切なものを奪われた…

ネズミに振り回されている間に、二人の子供を河の向こうに奪われた…

「閣下!閣下!おやめ下さい!」

静止するコーエン卿の声すら遠く聞こえた。

怒りを叩きつけ続けた拳には血が滲んだ…

やり直せるはずだった…今度こそ、息子らと…

「…アーサー…ダニエル…」

愛する者たちは、どうして私を置いて行く?

何故だ?私は呪われているとでも言うのか?

「閣下…お気を確かに…」

「…殺せ」

自分でも驚くほどの憎しみと負の感情が口から溢れた。

「カナルを、フィーア人の血で染め上げろ…

不毛の大地にしても構わん!

何も残すな!誰一人生かしておくな!

明日の朝一番にカナルの岸を占領せよ!」

「閣下!どうかご自制下さい!」

コーエン卿の言葉すら、怒りを増す材料となった。

「ネズミの一件で、我が軍の被害は甚大です!

このままでは我が軍は兵を維持することができませぬ!まずは兵站を整え、万全の体制で…」

「ならん!今すぐだ!」

「閣下!ご再考を!」

「邪魔だてするでない、コーエン!」

「閣下!お気持ちは分かります!

しかしお考え直しを…

数万の命をお捨てになるおつもりですか?!」

必死に引き留めようとする腹心の部下を、心の底から疎ましく憎く思った。

怒りの支配した頭では、冷静な部下の言葉に耳を傾けることも出来なくなっていた。

彼は邪魔者になっていた…

気が付けば手にした凶刃を振るっていた…

「…閣下」

鮮やかに舞い上がる赤に、冷静さを取り戻し、血の気が引いた…

「…コー…エン」

違う!こんな事…私の望みではない…

「すまん…すまん、コーエン卿…

誰か!誰かおらんのか?!早う!」

慌ててコーエン卿を助け起こした。

溢れる温い血が服を染めた。

「…閣下…ご再考…を…」

どんな恨み言より、胸を締め付ける言葉を遺して、彼の瞳は光を失った…

魂を失った身体は重くなった…

「…コーエン卿…すまん…すまん、許してくれ…」

まだ温もりを残した亡骸に詫びた。

やはり私は呪われているのだ…

血を流し続けた呪われたフェルトンには、孤独しか残されていないのだ…

✩.*˚

「おっ!帰ってきたな!」

フィーア側に戻った俺たちの姿を見て、岸で仁王立ちしていたヘンリックが声を上げた。

「…ワルターは?怒ってる?」恐る恐る彼に訊ねた。

「そりゃもう…夫人が居なきゃ、カナルは冬になってたぜ」と彼は豪快に笑った。

「まぁ、とりあえず、一番に見つかったのが俺でよかったな。歯ァ食いしばれ」と笑顔のヘンリックに殴られて意識が飛んだ…


「…痛ァ…」

ズキズキとする痛みで目を覚ますと、怖い顔の面々が並んでいた。両手両足はかなり厳重に縛られて、身動きできなくなっていた。

辺りを見回すと、ディルクたちも捕まっていた。

「とりあえず…言うことあるか?」と苛立たしげに足を揺すっているワルターが口を開いた。

「…ただいま」

「おう、おかえり…違うわ!馬鹿たれ!!」ワルターは怒鳴って、俺の頭に約束の拳骨を落とした。

何だよ、これ…めちゃくちゃ痛いやつ…

「何が《散歩》だ!《犬》やレオンまで連れていきやがって!無事帰ったにしても問題あり過ぎだ!懲罰もんだぞ!」

「…だってさ…行くって言ったら、ダメって言うだろ?」

「当たり前だ!

お前らもだ!何で止めなかった!」ワルターは並んだ《犬》たちにも怒鳴りつけた。

「わんわん!《犬》に拒否権ねぇよ!」とイザークが吠えた。

「《着いてこい》、《取ってこい》って言われたら言うこと聞くしかねえよな?わん!」

「わん!」カイやアルノーもイザークに乗っかって犬の振りをして乗り切ろうとした。

「お前らな…」頭の悪い言い訳に、ワルターも目眩を覚えたようで、頭を抱えた。

その様子を見かねたディルクが口を開いた。

「冗談はまぁ、置いといて…

スーは俺たちが拒否しても一人でも行くだろうよ。なんせ、それができるからな…

でもそうなったら、それはそれで問題だ。

俺は、スーについて行った方がいいと思ったからついて行った…言い訳しねぇよ…」

ディルクはそう言ってワルターに「すまんかった」と頭を下げた。

「まぁ、ディルクが居たのが不幸中の幸いだ…」とワルターは苦い顔で髪を掻き乱した。

「後が、犬の真似して誤魔化そうって馬鹿ばかりだからな…」

「で?この面子で、散々向こう岸を引っ掻き回して帰ってきたわけか?

全く…女子供の余計なお土産付きだな…」とヨナタンもフリッツもため息を吐いた。

「酷いじゃないですか、スー?私まで巻き込んで…」とブルーノにも恨み言を言われた。彼もワルターに叱られたのだろうか?申し訳ないことをした…

「とりあえず!一応アーサーを連れ帰ったことだけは評価してやる!今度やったらタダじゃ置かねぇぞ!」と釘をさして、彼は話を締めくくった。

「…もういいの?」

「テレーゼがあまり叱るなってんだ!お前ら感謝しろ!」

「あぁ、なるほど…」と納得した。ワルターをなだめてくれた彼女に感謝だ。

「それより、俺たちに何か言うことあるだろう?」

「悪かったよ…申し訳ありませんでした…」

素直に頭を下げた事で、ワルターもため息を吐いて溜飲を飲み込んだ。

彼は俺の前に胡座をかいて座った。

「で?無駄に丸一日プラプラしてたわけじゃないだろ?

なんか情報あるならよこせ」と頬杖をついたワルターが訊ねた。

「まあ、あるっちゃあるけど…」と昼間にイザークが酒保の娘たちから聞いた話をした。

「あとは、敵の目を引くために、レオンのネズミたちが糧秣を食い荒らして、馬を逃がしたくらいかな?」

「くらいかな、じゃねえよ…」とボヤいて、ワルターがまた大きなため息を吐いた。

「そりゃ、敵さん災難だったな…」

「今頃、《黒い妖精》の名前は疫病神になってるだろうよ」とヨナタンとフリッツも何とも言えない顔になっている。

「…レオンが敵じゃなくて本当に良かったよ…」とヨナタンが呟いて煙草を咥えた。

「ここの可愛い顔の連中はヤバいの揃いだな…

下手すれば《烈火》よりよっぽど怖いぜ…」とヘンリックも頷いている。

それって俺も入ってるのか?心外だな…

「あれ?ゲルトとカミルは?」

「お前が戻ったって報告受けてから、『アホらしい』って寝に行った。

叔父貴は今日、お前の分も働いてんだ。あんまり年寄りに迷惑かけるなよ?」

「そうか…悪いことしたな…」

「しかしなぁ…羨ましい事に、アーサーの奴、エラい別嬪さん連れて帰ってきたな。

あれなら捕虜も悪くないだろうに…」

「止めときなよ。オークランドの飯はクソ不味いよ。粘土食ってるみたいだったよ…」

そんな話をして、腹の虫が鳴った。

そういえば、合間に干し肉摘んだくらいで、ほとんど何も食べてなかった…

腹の虫の主張に、怒っていた面々も毒気を抜かれたらしい。

「とっとと飯食って寝ろ」とワルターのお許しが出て、《犬》たちと酒保の元に向かった。

✩.*˚

「初めまして、ダニエル様、メリッサさん」

怖い人たちに囲まれて、怯えていた僕の前に、女神様みたいな綺麗な女性がお兄様を伴って現れた。

ガーネットのようにキラキラ輝く瞳と、流れるような淡い色の金髪。整った卵型の輪郭の内側には、慈愛に満ちた柔らかな微笑みがあった。

彼女は聞き取りやすいパテル語で話してくれた。

「ブルームバルト領主、ワルター・フォン・ロンメル男爵の夫人、テレーゼと申します」

ゆったりとした優しい声に、緊張が緩んで涙が零れた。

「あらあら…緊張してましたか?大丈夫ですよ。貴方方の安全は私が保証致します」と優しい手が伸びて頭を撫でてくれた。

彼女の手のひらは温かく柔らかだった。

「ダニエル様」とお兄様が僕を呼んだ。

「明日の朝一番で、奥様の馬車でメリッサ嬢とブルームバルトに向かって下さい」

「…そんな…」

「ここでは他の者の目があります。オークランドの貴族と露見すれば命を狙われる可能性があります。

ブルームバルトのロンメル男爵の御屋敷なら安全です」とお兄様は僕を説得した。

「それでは、お父様が…

お兄様は僕を帰して下さらないのですか?」

こんな知らない場所で過ごすなんて…

僕はライン語がほとんど分からない。フィーアは敵国だし、不安しか無かった…

不安を感じて怯えた僕の前に、ロンメル夫人が膝を折って優しく顔を覗き込んだ。

「治療が終われば、お父様の元に帰して差し上げます。

足の事はアーサーから聞きました。辛かったですね?

ここは前線ですから、落ち着いて治療することができません。

治療の後の歩く練習だって必要でしょう?

私が責任もってお預かり致しますわ」

「…治るんですか?」

オークランドのどんな高名なお医者様も、治癒魔導師も治せなかったのに…

彼女はあっさりと「はい」と答えた。

「《フリューリング様》の名にかけて治してみせます。

今まで何も欲しがらなかったアーサーの願いですもの。彼に報いることができて私は嬉しいのです」と彼女は笑顔で僕の手を握った。

この足が…治る?信じられない…本当に?

「話は済んだか?」とテントの入口で男の人の声がした。お兄様がテントの入口を開いて、銀髪の背の高い男性を中に通した。

「ワルター様」とロンメル夫人が彼を見て微笑んだ。

この人がロンメル男爵?

彼は夫人よりずっと年上に見えた。

「すまんな、ウチの馬鹿どもが巻き込んじまって…

とりあえず、拳骨落としてきた」

「まぁ?!大丈夫ですか?」

「拳骨くらいでくたばるんなら傭兵なんて向いてねぇよ。

馬鹿につける薬はねぇんだ。拳骨が一番だ」と言って、ロンメル男爵は夫人の隣に並んだ。

「歳はケヴィンと同じくらいか?

細っこいな?ちゃんと飯食ってるか?」と彼は僕を眺めて心配してくれた。彼もパテル語で話してくれたけど、夫人のとは違って荒っぽい印象だ。

「僕は…オークランド人ですよ?」

「だから何だよ?嫌われたいのか?」と荒っぽい言葉に怯えた。

僕の様子を見て、夫人が夫の腕を引っ張った。

男爵と夫人はライン語でやり取りをしていたが、どうやら男爵が夫人に叱られていたようだ。

彼は夫人にやり込められて、苦い顔で口を噤んだ。

その夫婦のやり取りを、お兄様は苦笑いを浮かべながら眺めていた。

「ごめんなさいね。

ワルター様はパテル語がお得意では無いのです。

戦場でパテル語を覚えたので、荒っぽいのは大目に見てあげてください」と夫人が伝えた。

「ダニエル様。今はオークランド人、フィーア人のいざこざは忘れてください。

私たちは貴方を《アーサーの弟》として扱います。

思うところはあるかもしれませんが、それは今でなくても良いはずです」

彼女はそう言って問題を後回しにした。

「明日の朝一番でブルームバルトに向かいます。よろしいですね?」と柔らかくも有無を言わせずに、夫人は僕の行き先を決めた。

僕に断るという選択肢は無かった。

✩.*˚

焚き火の近くに、煙草を咥えているスーの姿を見つけて歩み寄った。

「…何だよ、アーサー」と拗ねた口調で、彼は帽子の下に隠してた顔を覗かせた。

「ロンメルに殴られたんだろ?」と訊ねると、スーは苦虫をまとめて噛み潰したような顔で答えた。

「ワルターの奴、マジで手加減なしで殴りやがった。馬鹿になったらどうするんだよ!」

「安心しろ。俺もお前もわりと馬鹿だ」と言って笑った。

その言葉に彼は不満だったのか、苛立たしげに紫煙を吐き捨てて、吸殻を焚き火に捨てて話題を変えた。

「…で?親父に会ってきたんだろ?」

「まぁ、な…

あの人はなんにも変わっちゃいなかったよ…

良くも悪くもな…」そう答えて焚き火の前に座った。スーはため息を吐いて、「あっそ」と興味なさそうに返事をした。

父は、相変わらず我儘で、人の話を聞かない人だった…

それでも、過剰な程に子供たちを愛していた…

あの人は何も変わっちゃいなかった…

「弟は、帰してやってくれ」と頼むと、スーは「興味無ぇよ」とボヤいた。

「結局俺なんかが頼まなくても、テレーゼはあの坊ちゃんの足治すだろう?

テレーゼはそういう人だ。

彼女はどこの誰でも関係ないんだろうよ」

「全く…あの夫婦の懐の広さに恐れ入るよ…」

「結局馬鹿なんだよ、あの人たちも…」とスーは言っていた。

「でも、いい馬鹿だ…あの二人はあのままでいいよ」と零して、スーはまた煙草を取り出した。

彼は足先で取り出した焚き火の炭に、煙草を押し当てて口に運んだ。

煙草の煙を空に逃がして、スーは帽子の上から頭を押さえた。

「…まだ痛むのか?」

「だから、ガチのやつなんだよ!しかもワルターに殴られる前にヘンリックにも殴られてるんだ!」

「それだけ心配させたんだ」

「オーラフに殴られた時の方がまだ良かったよ」

「誰だ?オーラフ?」

聞きなれない名前に首を傾げた。この面倒臭い男を殴るなんてどんな奴だ?

「昔の仲間だよ。

ヨナタンが毎年墓参りに行く相手だ…」とスーは懐かしそうに答えた。

「もう昔話さ」と言って、スーは俺の知らない話を紫煙に混ぜて語った。

何だよ、俺は二人目か?道理でロンメルが怒るわけだ…

「イザークほど軽薄じゃなかったけど、ディルクほど真面目でもなかった…

《エッダ》っていってもみんな違うんだよな…」と彼は感想を漏らした。

「当たり前だけど、みんな違うんだ。

仲間は大事にしないとな…無駄に死なせたりするもんか…」

スーはそう言って話を打ち切るように、二本目の煙草を火に焚べて欠伸をした。

「眠い…寝る」とだけ告げて、彼は焚き火の傍から離れた。

スーの背中を見送って、俺もダニエルとメリッサの待つテントに帰った。

「あ…」

戻った俺の姿を見て、メリッサが変な声を上げた。

「ダニエル様は寝たか?」

「あ、えっ、は、はひ!」

分かりやすく動揺する彼女に笑いが込み上げる。

「兜が要るか?」と彼女を茶化すと、彼女は顔を真っ赤に染めた。取り乱す姿が面白くてからかいたくなった。

彼女に歩み寄って細い手を取った。

指先を引き寄せて接吻すると、初心な乙女らしく、メリッサは耳まで赤くした顔を伏せて、俺から逃げるように視線を外した。

「情熱的に顔を見せろと強請ったクセに、いざ顔を見たら黙ってしまうのか?

俺はそんなに残念な醜男ぶおとこだったか?」

「そんな!そんなことないです!」と慌てて否定しながら彼女は目を瞑っていた。なるほど…そう来たか…

「まるで『キスして下さい』って顔だぞ」

「ひぇ!」不細工な悲鳴を上げて、メリッサが目を見開いた。若葉のような明るい緑色の瞳と目が合った。

恥じらう彼女の目が潤んだ。

「ち…近いですぅ…」彼女は消えそうな声で俺に抗議した。それでも手を離す気は更々なかった。

「嫌か?」と笑顔で押した。彼女は子供のように首を横に振った。その仕草が可愛らしい。

「俺の顔はどうだ?」と彼女に感想を求めた。

「す…素敵です…格好いいです…」と絞り出すような声で答えて、彼女は倒れてしまいそうなほど顔を赤くした。

「それは良かった」と笑って、次の質問を投げかけた。

「《ヒロイン》の眼鏡にかなったか?」

「《ヒロイン》って…私そんなんじゃ…」

「物語の《ハッピーエンド》に必要な存在だろう?

ここで君に振られたら、《ハッピーエンド》はまだ遠いな」

「わ、私なんかじゃ…お粗末です…」と萎縮してしまった彼女は目を潤ませて俯いた。

何だか本当に《ヒロイン》っぽいじゃないか?

でも何処と無く抜けてるところのあるメリッサは、《悲劇》より《喜劇》寄りだな…

俺もそっち側がいい。

「《お粗末》なものか。《大団円》だよ」と言って彼女の前に膝を着いた。

「《若様》…」

「メリッサ、アーサーでいい。《若様》も《フェルトン》も辞めた身だ…」と告げて、彼女の手を引いた。

「『カナルの向こうで一緒になろう』と言ったのは本気だ。

ロンメル家の居候で、何も無い男だが、その分身軽だ。好きになった女を気兼ねなく愛せるくらいの自由は出来た」

「私も…何も無い女です」

「なら、俺たちは似合いだな」

無い者同士、ゼロからのスタートも悪くない。

何とかなるものだろう。俺はもう子供じゃない。

「ロンメルのお屋敷で待っていてくれ。

必ず戻って、君を妻にする」

よくもまぁそんな臭い台詞を口にできたものだ…

でも人生で一度くらい、言ってもいいだろう。もう二度と言わないが…

メリッサは泣きそうな顔で頷いた。

色気のある乙女とは程遠い、べそをかいてる少女みたいな顔だ。でも彼女はこれでいい。面白いしな…

立って彼女を腕の中に抱き寄せた。

そのまま腕の中に収まった彼女は、腕を伸ばして俺に応えた。

幸せになるのは簡単だったんだ…

何もかも簡単に諦めて、不幸を装ってたのは俺の方だ。

こうすりゃ良かったんだ…

同じ馬鹿なら、幸せになれる馬鹿になれば良かったんだ。

彼女に顔を寄せ、唇を重ねた。

無粋な鋼鉄の隔たりはもう無かった…

✩.*˚

深夜、対岸にもたらされた凶報に耳を疑った。

「確かなのか?」と伝令を問い質したが、現実は変わらなかった。

「如何致しますか、メイヤー閣下」

側近の騎士らにも動揺が広がった。

知らぬ間に、オークランド側の河畔の軍は大打撃を受けていた。

大量発生したネズミの襲撃で、糧秣の半分以上が使用不能となったばかりか、軍馬の一部にも被害を被ったとの事だった。

全くもってついていない… 

オークランド軍はこの戦に、かなりの数の人員を掻き集めていた。

掻き集めた歩兵の殆どは農民からの徴兵だ。

貴族の子弟や騎士であれば耐えうる事でも、志もなく、ただ徴兵されただけの農民にとっては、脱走者が出るほどの一大事だ。

「残り何日分だ?」

「一週間ほどです…補給を受けたばかりでしたので、次回の補給が三週間後の予定でした。

急ぎ追加を手配しておりますが、量が量です。

無理な供出を民に強いることになるのは確実かと…」と伝令は言葉を詰まらせた。

「厄介な…」と苦く呟いた私の言葉を拾ったのだろう。

起きてしまったことは仕方ない。

する事は二つだ。

「配給を減らせ」と通達した。

同時に、フィーア国内での《略奪》の許可を出した。

「よろしいのですか?フィーア国内とはいえ、この辺りの土地は元ウィンザーの民が…」

「致し方あるまい。

兵を飢えさせれば、遅かれ早かれ逃亡兵が出て、勝手な略奪が始まる。

そうであれば、まだ組織的な統制を失わないうちに、戦略に切替えるべきだ」と略奪を正当化した。

「我々別働隊は、フィーア国内にて《騎行作戦》を本営に提案する。

敵に損害を知られるのは避けたい。今夜中に裁可を頂きたい」

「かしこまりました。急ぎ伝えます。

あと、もう一つ重要な事が…」と伝令は声を潜めた。

この上まだ何かあるのか?

しかも、この様子だと、鼠害以上の凶報だ…

嫌な予感を覚えながらも、平静を装って話を促した。

「参謀のコーエン卿がお亡くなりになられました」

「…コーエン卿が?何故だ?」

コーエン卿は参謀役として本営にいたはずだ。病に伏しているなどの話も無かった。死ぬ理由が思い当たらなかった。

「それが…」と伝令は言いにくそうに声を低くした。

「意見の相違で…諌言なさったコーエン卿を総司令自ら手打ちに…」

「馬鹿な?!なにかの間違いでは?!」

何たる醜聞だ!本営は何をやっている?!

「実は…騒ぎに乗じて、スパイが潜り込んでいたようでして…

訊問のために繋いでいた捕虜を奪われ、その折に、慰問に訪れていたフェルトン公子様がフィーア人に攫われたのだそうです。

冷静さを失っていた伯爵様をお諌めして、コーエン卿は…」

「もうよい!分かった!」と伝令の話を打ち切った。

コーエン卿は全くの無駄死にでは無いか?!

コーエン卿は話の分かる、優秀な男であっただけに残念だ。あの男以外に、誰があの老人の手網を握れると言うのだ?

鼠害よりずっとタチが悪い!

「本営の様子は了解した」と苦く言葉を吐き出して、何とか舌打ちだけは抑えた。

この戦場は何かと問題の多い現場だ…

「第一の橋の《黄金樹の騎士団》と連絡を取れ!

目標が変わった。

河畔のフィーア軍は後回しだ」と部下に指示を出した。

今必要なのは神の加護ではなく、軍を維持するための当面の食糧だ。

不名誉な選択をせねばならない不幸を呪った。
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