燕の軌跡

猫絵師

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乾いた、頬を打つ音が響いた。

「どうして…そんな大事な事を黙ってて!」

屋敷に着いて、初めて事情を知った奥様は、私に手を上げた。彼女のそんな姿を初めて見た。その場にいた誰もが驚いていた。

「奥様!」と我に返ったアンネが悲鳴を上げた。

「シュミット様は奥様のために…」

「そんなの!私のためじゃないわ!」と彼女は私の行動を拒絶した。

ディートリヒのような、苛烈な怒りを孕んだ瞳が私を睨んだ。瞳が揺れて涙が滲んだ。

その顔を見て、胸が痛んだ…

「そんなの…私は…ワルター様にどんな顔で…何て言えば…」

「奥様の安全が最優先です。旦那様は奥様を責めたりは致しません。責任は独断した私にあります」

「シュミット殿、間に合うか分かりませんが、我々はこれで…」とここまで送り届けてくれたツィーラー卿が馬返す用意をしていた。

ブルームバルトまでかなり無理な速度で馬車を走らせた。併走した馬も彼の部下たちも疲れているはずだったが、彼は騎士としての使命を優先させた。

彼は奥様の前に膝を折って騎士としての礼を捧げた。

「ロンメル夫人。家宰殿を責めてはなりません。家宰殿は立派にお役目を果たされました。

あの場で、夫人に出来ることなどありません。

後は我々にお任せ下さい」

「でも…ツィーラー卿は叔父様の…」

「フィーアの南部を守るのが我々の勤めです。

騎士を継いだ日に、《鷹食い》の旗と《一角獣》の旗に誓いました。《白鹿》の旗にも同じく誓います」とツィーラー卿は奥様に約束して自分の馬に戻った。

「良いか!皆、《白い手の女神》の願いに応えよ!存分に奮え!」

隊長の檄に応える声が上がった。馬蹄が轟いて遠ざかる。

「ご武運を…」と奥様の祈る声が彼らを見送った。

我々にはそれしか出来なかった…

「我々も備えねばなりません。お叱りは後ほど…」

「シュミット様…」その場に居合わせた二人の子供が、青ざめた顔で私を見上げていた。

「…僕たちの…村は…」

「彼らと、カナルの軍に救援を要請している。間に合うなら助けてくれるはずだ」

「間に合わなかったら…?」と少年は不安を口にした。

「…すまない」と答えた私に、子供の目から涙が溢れた。この子らには、その意味が分かっているのだろう。

泣き出した子供たちに歩み寄って、奥様が二人を抱きしめた。奥様の肩や背も震えていた。

「ごめんなさい…私には何も…何も出来なくて…」

「テレーゼ様ァ…」泣きじゃくる子供たちと一緒に奥様は泣いていた。

違う…無力なのは私だ…

逃げることでしか、貴方を守れない私こそが無能だ…

屋敷の門の前で動けなくなっていた私たちに、屋敷から出てきた意外な人物が声をかけた。

「テレーゼ様、お戻りになりましたか?お待ちしておりました」

屋敷から現れたのは、お嬢様を抱いた大柄な老人だ。その彼の姿に、テレーゼ様は驚いた様子だった。

「一体、何事ですかな?」

「お、お義父様?」とテレーゼ様は慌てて涙を拭って義父に挨拶した。

「何を悲しんでおいでですか?この老体でお役に立てるのでしたらなんなりとお申しつけ下さい」

大ビッテンフェルトは頼もしく奥様にそう告げて、腕に抱いた孫娘を義理の娘に返した。

「まー!」とフィリーネ様は奥様の腕に抱かれ、再会を喜んでいた。

「フィー、ごめんなさい、長く留守にして…」

「なかなかお転婆で手を焼きましたが、なんとも愛らしい…

お気に入りのお人形が…ちょっとあれですが…」と旦那様の姿の人形を見て、大ビッテンフェルトは苦笑いした。

「エマと揃いの玩具は気に入って貰えませんでした。箱の方が気に入ってましたな」と冗談を言って大ビッテンフェルトは場を和ませた。

「それで?何か問題でも?」と大ビッテンフェルトは声を低くして私に訪ねた。

少し奥様たちから離れた場所で経緯を説明した。

「仔細、承知した」と短く答えて、彼は私を労った。

「よく、テレーゼ様を無事に届けてくれた。感謝する」

「私は…逃げただけです…」

「悲観するな、シュミット殿。貴殿の《逃げ》は必要なものだ。

見ろ。貴殿は皆の命を救ったのだ。

胸を張って誇りとすることだ」

大ビッテンフェルトの言葉に顔を上げた。馬車で送り届けた奥様たちと、子供たちの姿に少しだけ救われた気がした…

彼は私が捨てた命より、守った命を褒めてくれた。

「ところで、シュミット殿。

軍隊から街を守る宛てはおありかな?」

「一応…心許ないですが…」

騎士たちも、傭兵も、殆どがカナルの防衛に当たっている。

元ウィンザー領の人口は戦争で減っていた。入植者を募って多少増えてはいたが、それでも元に戻るまでは長い時間が必要だった。

大ビッテンフェルトは「この爺に任せろ」と太い腕を組んで、胸を張った。

「フリッツに団長は譲ったとはいえ、俺はまだ耄碌してはおらんよ。ゲルトだって戦っている。俺だってまだやれる。

とりあえず、何かあった時のためにドライファッハから80人連れてきた。無駄にならずに済んで良かったな」

「ご助力、感謝致します」と礼を伝えた私に、大ビッテンフェルトは鷹揚に頷いて見せた。

「俺はいい親父じゃなかった。

でも、今からでもいい爺になるのは遅くないはずだ…

もう息子に、大切なものを失わせるのは懲り懲りだ」

頼りになる老人はそう言葉を残して踵を返した。

屋敷に向かって、落雷のような声が放たれた。ビリビリと空気が震えた。

「ウェリンガー!仕事だ!」

慌てて駆けつけた男に、大ビッテンフェルトは元傭兵団の団長の顔で告げた。

「連れて来た奴らを集めろ!仕事だ!

ビッテンフェルトとロンメルの名で、近くの村からも集められるだけの奴らを集めろ!」

「何事ですか?」

「仕事だ!ブルームバルトにオークランドの《騎行》が迫っている。

すぐにヴェルフェル侯爵に使いを出せ!

戦の用意だ!」

「承知致しました」とウェリンガーも腹の座った様子で、指示に従った。

この状況で、これほどまで頼りになる味方は居ない。

すぐに用意に取りかかろうとしていた義父を、奥様が呼び止めた。

「お義父様…申し訳ございません」

「安心召されよ、テレーゼ様。

元よりそのつもりで来ております。

留守番くらい出来なければ、息子らにボケたのかと思われてしまいます。

テレーゼ様と可愛い孫娘のために、この老骨も励むと致しましょう」

「ありがとうございます、お義父様…」涙ぐんで礼を述べる奥様に、大ビッテンフェルトはお辞儀を返した。

立ち去る老人の背は頼もしく見えた。

✩.*˚

出かかった不敬な言葉を飲み込んだ。

苦く重いわだかまりが、腹の奥で燻った…

《騎行》の足を止めた炎を確認しに行ったオリヴァーと、彼に合流したクィンの亡骸を前にして、何も言葉が出なかった。

首から下がった十字架がこれほどまで重く感じた日は無かった…

オルセン…クィン…オリヴァー…

有能な部下を立て続けに失った…

私は今、信仰を試されているのだろうか?

シェリル様…私は…

「すまん、マクレイ卿…」

二人の亡骸の前から動けなくなっていた私の元に、メイヤー子爵が謝罪に訪れた。

「いえ…閣下がご無事で…」良かったのだ。これで…

地面に横たえたクィンの兜を取った。彼は眠るように穏やかな顔で亡くなっていた。彼は綺麗な死に顔で、まるでまだ生きているようだった…

対象的に、オリヴァーの亡骸は何があったのか分からないが、凄惨を極めた。

胸より下の肉体が残っていなかった…

かろうじて残った身体を抱いて、クィンは死んでいたという…

彼らに何が起きたのか、見ていた者はいなかった。

ただ、オルセンを葬った炎使いが関係している可能性が高かった。

親子か、兄弟のような二人を知っていただけに、クィンがどんな気持ちでオリヴァーの遺体を抱いていたのか、思うと胸が痛んだ…

「すまん…二人とも…置いていく」連れ帰るのは難しい。

《祝福》で街道の脇に穴を開け、二人を埋葬した…

元ウィンザーの土地だ。

ここはクィンにとっては故郷のはずだ…

彼らをここに置いて行くことを、正当化するだけの説得力はあったが、私は納得出来なかった…

あの手厳しい、少し我儘な所が、弟のようで…好きだった…

クィンを死なせた事で、私には教会からの懲罰があるだろう…

もしかしたら団を去らねばならぬかも知れない…

どちらにせよ先の事だ。

「さらばだ…二人とも…」

掘り返されることのないように、深い穴に二人を横たえ、土を被せた。

目印もない、二人だけの墓だ…

誰にも知られることなく、彼らはこの街道にひっそりと眠るのだ…

この地がオークランドになれば…とも考えがよぎったが、それもずっと先になるだろう…

彼らの名前の刻まれた団員章を懐にしまった。彼らの分も背負って生きる。それだけが私にできることだ…

「先に進む」と残った団員に告げた。

新しい副団長を指名し、補佐を任せた。

「微力ながら…」

私に指名されたスティーブン・ウォルシュ卿は副団長を引き受けた。

まだ、《騎行》は終わらない…

黒く焦げた線の引かれた道の先に足を踏み入れた。

この先に、周辺では一番大きな街がある。

「ブルームバルトに向かう」とメイヤー子爵が宣言した。

軍隊が再び行軍を開始した。

✩.*˚

「僕が…憎くないんですか?」

恐る恐るロンメル夫人に訊ねた。

彼女は悲しそうに微笑んで、「そんな事言わないで」と言ってくれた。

曲がった足に添えられた白く光る手は、優しく温かかった。

内側に曲がってしまった足が、少しずつ外に向かう。無理やり矯正しようとした時とは違い、痛みも不快感も感じなかった。

僕の足は正しい形を取り戻しつつあった…

「私が貴方を憎んだら、憎しみの終着点は無くなります。

貴方は誰も殺してないし、これは貴方の望みではないでしょう?」と夫人は治療をしながら言葉を続けた。

「ダニエル様、私の夢を聞いてくださいますか?」

「…夢?」何でこんな時に?と思ったが、夫人の目を見たら、そんな言葉は出なかった。

「学校を作るんです。皆のための、学びたい子供たちのための学校を…

貧しくても、親がなくても、フィーア人でも、ウィンザー人でも関係なく学べるように…

そうして、育った子供たちが、また子供たちを育てて、この国と一緒に豊かになってくれることが私の望みです」

夢物語だ…そんなの、無理だ…

「でも…フィーアがウィンザーを滅ぼしたんでしょう?」

「そうですね…悲しいですが、そうなります」と彼女は悲しそうに肩を落とした。

「だからこそ、私はフィーア人として、ウィンザーの民に責任を持たねばなりません。

このブルームバルトを預けられたからには、彼らは等しく私の領民です。私は彼らを守って、彼らの生活と未来を保証しなければなりません」

彼女はお父様とは随分違う考えなのだ…

お父様は領民を厳しく扱った。

国王陛下から預けられた役目を果たすため、厳格な貴族としてお役目を果たされていた。

「私は学校で、子供たちに学ぶ機会を与えて、色々なことを知って欲しいと思っています。

でも、それと同時に、伝えたくないこともあります。

私は彼らに、《憎しみ》を受け継いで欲しくないのです…」

「そんなの…都合良くないですか?」

「私も、大好きな伯父様をバード平原の戦いで失いました…

殺したのはウィンザー人です…」

そう告げたロンメル夫人は辛そうに眉を顰めた。涙を堪えて、彼女は視線を上げた。

「失ったからこそ、失う悲しみは知っているつもりです。だから、終わりにしなくてはいけないのです。

でも、私一人では終わらせることはできません…

私は、無力ですから…」と彼女は言葉を詰まらせた。

「今この時も、私の大切な人が命を危険に晒しています…私の最愛の人です…彼もまた、私たちを守るために戦っています…」

夫であるロンメル男爵の事だろう…

ロンメル男爵は夫人に比べてずっと年上だったけれど、夫婦仲は良さそうに見えた。

幸せそうに寄り添う姿は物語の中の人物みたいで、すごく不思議な夫婦だった。

「私は…彼に…行かないでとは言えないんです…」と夫人は瞳を潤ませた。

当然だ。国を守るために戦うのは、貴族や騎士の義務だ。

お父様だってそうだ…

ずっと義務を果たしてこられた…お年を召した今でも、オークランドに尽くすその姿勢は変わらない。

「こんな事…終わりにしたい…」という彼女の呟きは、本心なのだろう…

「貴方にも、この気持ちが少しでも伝われば…

フェルトン伯爵に伝えて頂ければ…私は…私の夢は、少しだけ前に進めます…」

そう言って、彼女は白く輝いていた手を引いた。

「すみません、ダニエル様…少し疲れてしまって…」

ロンメル夫人は少し顔を背けて咳をした。

顔色が少し白くなっていた。

「今日はここまでで…申し訳ありません」と謝りながら、胸の辺りを抑えて咳を繰り返した。少し苦しそうに見えた。

「奥様、大丈夫ですか?」と傍らで様子を見ていた召使いが訊ねた。

「大丈夫、すぐ治まりますから。

それよりダニエル様、足の具合は如何ですか?」

「あ…」

腰の骨から歪んで内側に曲がっていた足の向きが変わっていた。

「すごい…」元の足に比べれば、ずっと歩きやすそうだった。立ち上がろうとした僕を夫人が止めた。

「まだ無理なさらないで下さい。もう少し治療が必要でしょうし、歩く練習も必要でしょうから…」

彼女は本当に《女神様》なのかもしれない…

そんな考えが頭を過った。

綺麗で優しくて、誰にも治せなかった足を治してくれた…

この足を見たら、お父様だって喜んでくれるはずだ…

僕はやっと…

「うぅ…」涙が溢れた。

ずっとお父様に遠慮していた。

ずっと恥じていた…

五体満足で生まれて来れなかった事を…フェルトンを継げない身体を恥ずかしく思っていた…

「あ、ありがとう…ございます」

「まだ、終わってませんよ」と夫人は優しく微笑んで応えた。優しい白い手が僕の背を撫でた。

「それでも…全然違うから…僕の足…こんな」

自分で見るのも嫌だった足は、まだ少し曲がっている気がするが、それでも元に比べれば真っ直ぐになった。

「シュミット様、フェルトン公子様をお願いします。私は、少し休みます…」

「奥様、大丈夫ですか?」

「疲れただけです…本当に…何でも無いです」

ロンメル夫人は僕の世話を任せた召使いにそう告げて、優雅なお辞儀をして、侍女を連れて部屋を後にした。

立ち去った後に廊下で咳き込む声が聞こえた。

✩.*˚

湧き上がる咳と胸の痛みに、嫌な思いが過った…

『今日はお帰りなさい』

白い顔で苦しそうに咳をするお母様…

紅とは違う赤が口元を染めていた…

「奥様、主治医の先生をお呼びしましょう」と心配したアンネが医者を勧めた。

でも今はそんな事言ってる場合ではない。

「大丈夫…少し休んだら…」

「こんなに咳をしてるのに、大丈夫なわけないじゃないですか?!もしかしたら…」

「やめて!アンネ!」それ以上は怖くて、彼女の言葉から耳を塞いだ。

そうだ…前から少しずつ兆候はあった。疲れたり、弱ってる時に、この病は忍び寄ってくるのだ…

療養すれば、咳は止まって、胸の痛みも軽くなった。

風邪や喘息、貧血と言って、ワルター様を誤魔化していた…

きっと…知ったら不安にさせるから…

もう私に頼ってくれなくなるだろうから…

「アンネ…ワルター様やシュミット様には内緒にして…」とアンネにお願いした。彼女はそのお願いに首を横に振って拒否した。

「ダメです、だって、奥様の命に関わります!」

彼女は瞳を潤ませて、私の病気を言い当てた。

「だって…この咳は《労咳》じゃないですか?」

その言葉が気持ちに重い影を落とした。

お母様の命を奪った病気だ…

「お願いです、ちゃんと治療なさってください!お嬢様にだって、伝染るかもしれないんですよ!」

「やめて…」彼女の言うことは尤もだ。もしかしたら子供たちにも…

でも…これじゃ、私の夢は…

「とにかく安静にして下さい!咳が治まらなかったら、奥様がなんと言おうとダマー先生を呼びますからね!」

アンネは私の手を取って、早足で寝室に向かった。

強く手を引く彼女から涙が落ちて、手元に雫が跳ねた。

「私だって…テレーゼ様の事…大好きで…ずっと」

「…アンネ…」

少し年上で、頼りになる姉のような、友達のような…

彼女はずっと、寂しい私に寄り添ってくれた。

『憧れる殿方もいないので』と言って、嫁ぎもせずに、ずっと傍に居てくれた。

彼女は明るく話し上手で、年頃の女の子みたいに二人でお喋りして、沢山笑わせてくれた。

彼女は使用人だけど、私の一番の親友だった…

「ごめんなさい、アンネ…」彼女に手伝われて部屋着に着替えた。その間も咳は止まらなかった。

「休んでください。今、奥様にできることはそれだけです」

ベッドを整えながらアンネは固い口調で言った。

「皆には、奥様はお疲れですと伝えます…でも酷くなったら…私…」

「ありがとう、アンネ」

彼女の気遣いに感謝して、ベッドの体を預けた。

「何かあったら、声をかけてちょうだい」と伝えて、彼女を部屋から下げた。

咳をして、手元に寄せた左手に光る薬指の指輪を見たら涙が出た。

彼の顔が頭を過った…

『何かあったら教えてください』と、彼に約束させたのに、私はずるい女だ…

あの大きな包み込むような腕と胸を求める自分がいた。

まだ、私は死ねない…まだ、夢の途中だ…

咳をしながら、瞼を閉じた。

✩.*˚

「…ん」

気が付くと、一人、冷たい地下室の床に倒れていた。

「あらまぁ…あたしだけ、置いてけぼりですか…」と恨み言を呟いて、起き上がろうとした私の手元に、ふわふわした硬い感触があった。

触り慣れてるような、いつもと少し違うような、そんな感触に戸惑った…

「…アナ…ベル」既に硬直した黒猫の身体をそっと撫でた。硬くなった身体は私の愛撫を受け入れてはくれなかった…

『次の《カーティス》ね』

彼女は、先代に手を引かれて来た私を見て、そう言った。

喋る猫に驚いた子供の私に、黒猫は上からの態度で告げた。

『貴方はこのウィンザーで、大公様に次ぐ、重要な役割を担う《カーティス》になるのよ。

今日から私が、貴方の《先生》で、《妻》よ。

よろしくね、アーノルド』

私はそうして《カーティス》になった…

空っぽになった黒猫を抱いて、地下室を後にした。

「もうこんな時間ですか…」

外に出て、黄昏時の空を見上げた。

赤く染る空に、紫の雲が伸びていた。

「アナベル、今日も貴方の大好きなウィンザーの空は美しいですよォ」と腕の中の目を閉じた猫に話しかけた。返事はあるはずもなかった。

夏の風が慰めを告げるように撫でて通り過ぎた。

妻の亡骸を抱いて、太陽の沈むシュミットシュタットの街を歩いた。

「お邪魔しますよォ」

店仕舞いしようとしていた花屋に足を向けた。

店主も女将も不気味な男の訪問に驚いていたが、花を求めると用意してくれた。花屋の女将さんは猫が好きなのだという。

ちょうどいい大きさの籠があったので、綺麗にして、アナベルの棺にくれた。

「良かったですねぇ、アナベル…」

「この子はそんな名前なのかい?」と彼女は私に訊ねた。少し笑って頷くと、彼女は「美人の名前だ」と猫の名前を褒めた。

そうですよォ…最高の美女の名前です…

そんな言葉を返そうとした私の中で、悲しみが溢れそうになった。溢れかけた感情を殺して、自嘲混じりの笑みで返した。

そんなの…私には似合いませんもんねぇ…

花屋の主人と女将に礼を伝えて、通りで馬車を捕まえた。

「急ぎで…アインホーン城までお願いします」と伝えて、あの地下の神殿を目指した。

『もし、あなたの代で、私の《旅》が終わるなら、《芽吹く王》と、《初代》の近くに葬って…』と彼女は願っていた。

貴方の最後の《夫》として、その願いを叶えねばなりませんねぇ…

花籠の中で眠る彼女は、淡い色の花に囲まれてお姫様みたいだ。

《初代》の墓は、城の地下墓地にある。

神殿はそれより深い場所だ。

まぁ、同じ敷地内だから、大丈夫だろう。

そんな適当な事を考えながら、馬車に揺られながらアインホーン城を訪れた。

門の辺りで少し揉めたが、私の訪問を知ったヴェルフェル侯爵が部下を寄越してくれて、何とか事なきを得た。

「何をしに来たのだ?」

彼はラーチシュタット帰りで、まだ《騎行》の件を把握していなかった。

「地下神殿の鍵をお借りしたく…」と前置いて、仔細を申し上げた。

その最中にブルームバルトから早馬が到着した。

どうやら私の方が僅かに早かったようだ。

同じような報告に、彼は私の話を信じた。

「リューデル伯爵は何をやっているのだ?!」

「既に伝令を向かわせましたが、無事到着しているかどうか…」

「閣下、時間がありません」伝令の報告に、焦る侍従が主を急かした。

「分かっている!バルテル!急ぎ、カナルに飛竜に乗れる者を飛ばせ!」と侯爵は指示を出した。

「ブルームバルトに大ビッテンフェルトがいて良かったと言うべきか…」

「エインズワースの兄弟も、既に戻っております。彼らも戦ってくれるでしょう」と伝えた。

侯爵は厳しい表情で頷いて、「鍵だったな」と私の用事に応えてくれた。

「私は忙しい。勝手を許すゆえ、好きにせよ。有益な情報の礼だ」

「ありがとうございます」

「終わったら、卿はどうするのだ?

シュミットシュタットに戻るのか?」

「戻って、閣下にご助力致します」

「卿が?」と驚いて問い返す侯爵に頷いて見せた。

「《カーティス》はブルームバルトに用事があります。

あの店を継いでくれる人間を口説きに行かねばなりませんのでねぇ…」

アナベルと別れが済んだら、彼に会いに行くつもりだ。

私はまだ、《カーティス》を終わらせる気は無かった…
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