燕の軌跡

猫絵師

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うたかた

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カナルの下流を攻めるオークランドの本営に届いた手紙を見て背筋が凍った。

「…国王陛下」

手紙に施された封蝋はオークランド王家の紋章で、封筒はおぞましい濃い赤色に染め上げられていた。

中を確かめるまでもない…

国王陛下はお怒りだ…

震える手で封を開いた。

手紙は、カナルの上流も下流も、共に成果が無く、苛立ちを募らせる国王陛下のお叱りから始まった。

「閣下…陛下は何と?」

コーエン卿の代わりに、補佐役として抜擢したアボット卿が恐る恐る口を開いた。

彼は事務能力に優れていたが、コーエン卿程の経験は無く、まだ信頼出来る部下には程遠い。

「…国王陛下は、現状に満足されていない。軍を一つにまとめたいとお考えだ」

確かに上流と下流の二方面作戦では、兵力が分散されてしまう。

どうやら我々以上に、上流では苦戦を強いられているらしい。

アーケイイックに近づきすぎたせいか、魔王の配下が干渉してくるのだという。

恐らく、木材の調達など、何かしら挑発になりうる行動を取ってしまったのだろう…

あの土地は厄介だ…

フィーア側はアーケイイックを刺激しないように細心の注意を払っていると思われる。フィーア側のカナル上流には、それができる人物を配しているのだろう。

手紙は手厳しい言葉が綴られていた。

私の更迭をほのめかす内容が、手紙に綴られていた。

《老いたな》と間接的に言われた気がした…

手紙には、私個人に向けられた内容も含まれていた。

このままでは、あの気の短い王の怒りに触れ、フェルトン伯爵家が取り潰される危険さえあった。

今まで積み上げたものが無駄になる。

私の国に対する忠誠心も、これまでの功績も、フェルトン家が積み上げてきたものも全てだ…

そして、今、どうしても更迭されるのを避けたい理由が、対岸にあった…

アーサー、ダニエル…

今、この岸を離れれば、二度と子供たちを取り返すことはできないだろう…

そうなれば、今までずっと拒み続けた養子を迎えねばならない…

あの子らの為に残してきたフェルトンを、自分の子以外に譲るのは、耐え難い屈辱だ…

アーサーやダニエルが連れ去られたあの日から、フィーアからは何の音沙汰もない。

フェルトン公子として攫われたはずなのに、なんの要求もないところを見ると不気味だ…

こちらの出方を窺っているのか、それとも人質としての価値を計りかねているのか…

最悪の事態を思うと、焦る気持ちばかりがジリジリと腸を焦がす。

結局私は、その焦りでコーエン卿を死なせた…

彼のおかげで冷静さを取り返したものの、失った対価はあまりにも大きすぎた。

フェルトンは私の代で終いだろう…

それなら最後に、有終の美を飾るも、我儘を貫くも同じかのように思えた…

だが願わくば、このカナルの岸で見た夢を、もう一度見たかった…

✩.*˚

さっぱり分からん!

『オークランドから流れてきました』と朝早くに持ち込まれたのは、小さなボートに乗せられた、大人と子供の服と杖だ。

それだけでも十分謎な取り合わせだが、さらに謎なことに、添えられた手紙には『彼らを返してくれ』と嘆願する言葉が綴られていた。

「杖の紋章は《フェルトン》かと…」とエアフルトは言ったが、それもそれで訳が分からない。

「ロンメル男爵を呼べ」と命じて、元フェルトン公子を預かっている男を呼び出した。

「アーサーには兄弟か子供が居るのか?」

その質問に、ロンメル男爵は僅かに動揺を見せた。何か隠してる気がした…

「これがオークランド側から流れてきたと、今朝、沿岸警備に就いている者から報告があった。

心当たりはあるか?」

質問を増やして、流れて来た服と杖を彼の前に並べた。ロンメル男爵は黙って子供服を眺めていた。

「ロンメル男爵。私は弁明なら聞く気だ。

ただ、隠し通すつもりであれば、それ相応の対応となる」

「…知ってる範囲で?」と悪事がバレた子供のように、彼は恐る恐る訊ねた。

黙って頷いて見せると、彼はもう一つ条件を入れてくれるように求めた。

「この子の安全は?」

「できる限り保証してやろう。

私は子供をいたぶる気は無い」

約束を取り付けた男は、やっと私の質問に応じた。全く、子供みたいな男だ…

「アーサーには異母弟がいます」とロンメル男爵はこの服の持ち主について口を開いた。

「生まれつき足が不自由で、一人で歩行することすら困難な憐れな少年です。

アーサーを連れ帰るための人質として、傭兵たちが連れ帰りました」

「…なるほど…で?その可哀想な少年はどこだ?」

「テレーゼに預けました。今はブルームバルトにいるはずです」

「…ん?姪殿に?」そうであれば随分前の話だ。

「帰る時に連れていた、小汚くした子供です」と隠す必要の無くなった男は、正直に答えた。

「あの痩せた子供か?!あれがフェルトン公子?」

驚いた。

兄に比べて、なんともひ弱そうな少年ではないか?

フェルトン伯爵家の事情は知らんが、確かにあの子供では後継としては心許ない…

まぁ、それでも、直系の男児がいないことに比べればずっとマシだ。

この人の良い男は、姪殿が公子の足を治したら、何も対価無しに父親の元に返したかったらしい。

彼は、アーサーの働きに報いる事ができると思っていたらしい。このお人好しめ!

「全く…厄介事を隠しておったものだ…」苛立ちしく机を拳でノックしながら呟いた。

「兄上には?」

「侯爵閣下にはまだ何も…

報告すべきかとも思いましたが、公子の事を考えると、事を大きくする事も出来ませんでした…」

「悪手だな」

「申し訳ございません…」潔く非を認める人間を責めるのは褒められることではない。

とはいえ、これ程重要な内容を知らなかった事にする訳にもいかない。

「まあ、この私相手に隠し通そうとしなかった事は評価しよう。

公子の件は兄上に報告させてもらう。分かったな?」

「フェルトン公子の処遇はどうされるおつもりですか?」

「先も言ったが、子供をいたぶって手柄にする気は無い。

アーサーの事もある。兄上とて、悪いようにはしないだろう。少なくとも、婿殿よりは上手くやるはずだ」

ロンメル男爵は私の返事に満足したように胸を撫で下ろした。

「フェルトン伯爵が子供に執着しているのなら、交渉の余地はあるやもしれん。

ブルームバルトの者たちに、公子を大切にするように伝えておけ。

フィーアがオークランドより劣っているなどと思わせるでないぞ」

我ながら甘いと思いながらも、用の済んだロンメル男爵を下がらせた。

「…息子か」と呟いて男の子の服を眺めた。

欲しくないなどと言えば嘘になる。しかし望んだが、私には恵まれなかったものだ…

自分で望んで、我儘を通して選んだ妻の子はみな女の子だった…

私の腹の中を見透かしたように、エアフルトが「やっと再婚する気になりましたか?」と呟いた。

「さあな」と笑って答えると、義理の兄はさらに再婚を勧めた。

「今からでも間に合うでしょう?」

「今から子供を育てるのは大変だ」

「ロンメル男爵は、子育ての真っ最中ですよ」と先程テントを出て行った同輩の男を引き合いに出した。

酷い義兄だ。妹を忘れずにいる義弟を褒めても良いだろうに…

「私は意外と繊細でな…

まぁ、気に入ったご婦人との出会いがあれば、考えなくはないさ」

私の言葉が気に入らなかったのか、義兄殿はこれみよがしに大きなため息を吐いて見せた。

「そういうのは《繊細》ではなく、ただの《我儘》と言うのですよ、閣下」

手厳しい言葉とは裏腹に、その声には苛立ちの感情は無かった。

✩.*˚

「歩くのがお上手になられましたね」

僕の隣を歩くアダムがそう言ってくれた。

「そうかな?」

「随分しっかり歩けるようになりましたよ。

私が支える事もほとんど無くなったじゃないですか?

公子様の頑張りですよ」と褒めてくれるアダムの声がベンに重なった。

僕に、歩く練習を勧めたのは彼だった…

この姿を見たら、彼は喜んでくれたのだろうか…

「…ありがとう」お礼を言うはずが泣きそうな声になってしまった…

「あ…失礼しました、何か、気に障りましたか?」と彼は僕を気遣ってくれた。

「歩けるようになったら…見せたい人がいたから…」と答えると、彼は「お父上ですか?」と訊ねた。

「うん…お父様にも見て欲しいけど…

僕のお世話をしてくれていた人たちに見て欲しかった…喜んでくれたかな?」

「喜ぶでしょう。戻ったら一緒に歩けますね」

何気ない一言に、心に蓋をした悲しさが押し寄せた。

一緒に歩けたら…どれほど良かっただろう…

ベンもマリーも、喜んでくれただろう…

そう思うと視線は足元に落ちてしまう。

少し内側を向いた靴の爪先に涙が落ちた。

「…殺されちゃった…僕を守ろうとして…」

「…それは…」アダムは言葉を詰まらせた。

黙り込んでしまった僕に、アダムの大きな手が伸びた。抱き寄せた手は慰めるように背を撫でた。その手がベンを思い出させて、堪えきれず、涙が溢れた。

「お辛かったですね、公子様…

貴方は幼いのに良く耐えておいでだ」

アダムは優しかった。彼の優しさに甘えて泣いた。

この御屋敷の人たちは皆優しいけど、それは僕が《アーサー》の弟がだからだ…

こんな話、ロンメル家の誰にも言えない。

だって、どんなに優しくても、彼らはフィーア人だ…

「まだ、話したい事はありますか?」とアダムは僕の中に残っている、誰にも言えない秘密を訊ねた。

彼は日陰に放置されたベンチに僕を座らせて、自分は僕の顔を覗き込むように、目の前に膝を折った。

「解決までは約束出来ませんが、聞くくらいならできます」

「本当?お兄様にも言わない?」

「お約束しましょう」と彼は自分の首から提げたルフトゥの十字架に誓った。

「まだ、それ持ってるの?」

「ルフトゥへの信仰を示すものですが、私には養母の形見でもあります。手放すことなどできませんよ」と彼は十字架を僕にも握らせてくれた。

古いものだけど、大事にしていたのだろう。

「アダムは…家族は…」と彼の宝物を眺めながら、恐る恐る訊ねた。

彼は僕の質問に、苦い顔で笑って答えた。

「私の生まれた家は貧しかったので、幼い頃に外に出るしかありませんでした」

アダムは嫌がらずに、僕に自分の話をしてくれた。

この十字架をくれたシェリル様の話をする時の彼は、とても誇らしげだった。

僕とは正反対の苦しい人生を歩んできた彼は、とても強くて立派な騎士だった。

そんな彼でも、人としての弱さはあった。

「私のような人間が、聖職の騎士団長として奉仕出来たことは誇るべきことでしょう…

それでも…私は今でも、シェリル様の息子として、あの孤児院で過ごした日々を忘れられずにいるのです」

「…シェリル様には、会いに行かないの?」

「もう、随分会っていません。

私が勇気がなくて、会いに行けないだけなのです…」と彼は言っていた。

何となく、彼の気持ちを察した…

僕もお父様に会いたいけど、もしお父様の心が変わってたらと思うと恐怖を感じる…

人の気持ちは、良くも悪くも変わってしまうものだから…

「でも、今思えば、会いに行っていればと後悔しています」

アダムは僕に、心の奥にしまい込んでいた本音を吐露した。

「忙しいを言い訳に、会いに行かなかったのは私です。

女々しい心を隠すために、シェリル様の孤児院に仕送りを続けていました。

自分はできることをやっているのだ、と…

もしかしたら、私の中に、私を手放したシェリル様への恨みのような気持ちがあったのかもしれません。

それでも、彼女の息子を名乗り続けていたのは、家族としての未練があったのでしょうね…

私は弱い男です」

《祝福》を与えられて、《聖騎士団長》にまでなった人でも、《弱い》のか?

「僕も、弱いよ」と彼に告げた。

アダムは少し驚いた顔を見せたが、僕の言葉を飲み込むように微笑んだ。

「それでは、公子様の《弱さ》を、私にこっそり教えて下さい。このままでは、私が恥を晒しただけですからね、不公平だ」と彼はおどけて見せた。

「僕は…お兄様が…」

ぽつりぽつりと話し始めた僕の話を、アダムは黙って聞いてくれた。

彼は、僕の汚い兄への嫉妬を受け止めてくれた。

少しずつ彼に話した。

ベンやマリーの事も、彼になら話せた…

疲れるくらい喋って、胸に溜め込んでいた悪い物を全て吐き出した頃には、僕の心は少し軽くなっていた。

「やはり、貴方は強い人だ」と全てを吐き出した僕に、アダムはそう言ってくれた。

僕が弱いから吐いた言葉を、彼だけは褒めてくれた。

「私は最近になって、やっと自分の弱さを認めることができたのです。その若さで、自分の心に向き合えた公子様はお強い方です」

「…本当に?」

「えぇ。

でも、アーサー様も、ダニエル様の事を大切に思っています。フェルトン伯爵家に帰らないのも、それだけの理由がおありの事でしょう。

一度、本当に腹を割って、お兄様と話しましょう。私が着いていてあげます」

「お兄様は、話してくれるかな?」

「弟に、自分の荷を押し付けるんですから、理由くらい語ってくれるでしょう。

言わないなら、男らしく拳で語りましょう」

そう言って、アダムは笑顔で拳を握った。

彼の提案は男らしく、単純で、笑いを誘った。

「勝てないよ。お兄様は強いもの」

「まぁ、一矢報いる程度なら何とかなるでしょう?

ダメならメリッサ嬢でも巻き込みますか?」と今度はずるい提案をしながら、彼は手を差し出した。

「もう昼餉の時間です。随分長くお喋りしましたね」

「本当だ」と頷いて、彼の手を取った。

杖と彼の手を借りて、自分の足で立った。

「大丈夫ですか?」と訊ねたアダムに頷いて見せた。

もう、誰かに抱えられて歩くことはないんだ…

僕は自分の足で歩けるようになったんだ。

お兄様と向き合わないままカナルの向こうに戻っても、胸を張って《フェルトン》を名乗れない。

お兄様と向き合って、息子として、お父様とも真っ直ぐに目を合わせて話せるようにならなきゃいけない。

太陽は中天から僕らを見下ろしていた。

夏の温度を残した陽射しに、背を押された気がした。

✩.*˚

「やあ、アーサー」

ロンメル家で打ち解けたアダムは、親しげに俺の名を呼んだ。

悪くなった花を摘み取っていた手元から顔を上げると、目の前には懐っこい笑顔の男が立っていた。

元々人懐っこい性格なのだろう。

一度、心の垣根が無くなると、まるで古くからの友人でもあったかのように振る舞う彼は、少年のような不思議な男だった。

アダムは、あの気難しいエインズワースとも和解していた。

エインズワースも、彼を邪険にすることは無かったが、距離感の近いアダムが少し苦手らしい。

「また花の世話か?」と彼は訊ねた。

「悪くなったのを摘んでやると、また新しい蕾がつく。見栄えだってその方が綺麗だ」

「君はマメな男だな。私は枯れたらそのままにしてしまう」そう言いながら、彼は習うように見栄えの悪くなった花を摘んだ。

「この庭の花は、全部君が手入れしてるのか?」

「目につくものはな。ロンメルからは、好きにしていいと言われてる」

「まるで君のお屋敷みたいだ」

「まあ、みたいなもんだな…」と苦笑いで返した。

「俺がいない間、庭師にも頼んだらしいが、どうにも落ち着かない。元に戻すのに時間がかかった…

おちおち留守もできないな…」と言う俺のボヤキを聞いて、アダムは面白そうに声を出して笑った。

「君が、《ブルームバルトのアーサー》にこだわる理由が分かる気がする」

そう言いながら、アダムは摘んだ花を足元にあった麻袋に詰めた。

彼は近くにあった別の花も摘もうとした。

「アダム、それは置いておいてくれ」と彼の手を止めた。

「これも傷んでるぞ」

「それは《イヌバラ》だ。花もいいが、その花の実は薬になる」

「へえ…よく知ってるな」

「風邪を引いた時に摂るといい。予防にもなる。

どうせなら、それに着いてる虫を落として潰しておいてくれ」

「薬学にも通じてるのか?君は優秀だな」

「…まぁな」と応えて、少し膨らんだ緑の実にそっと触れた。

子供の頃、アイリーンと競争するように、赤くなった実を摘んで遊んだ。

スカートを籠の代わりにして、沢山集めた。

二人で口に入れて、酸っぱくて酷い顔になったのを覚えてる…

「好きだった女との思い出だ」と答えて、緑の実から手を離した。

赤くなったら刻んで、種を取って、乾燥させる。

ケーキや紅茶に混ぜて、飲み食いしやすい状態で摂取するのが一般的だ。

そのまま食べるなんて、子供ながら、よくそんなことしたもんだ…

そう思って笑った。

隣に並んで、庭木の手入れをしていた男は、しばらく俺の様子を伺って、急に話を切り出した。

「アーサー。ダニエル様の事で、少し話があるんだ」

「何だ?」と問い返すと、彼は真っ直ぐな眼差しで俺を見据えて訊ねた。

「ダニエル様をどうするつもりだ?

このまま、フィーアに留めるつもりか?」

「治療が済んだら帰す約束だ。そのつもりは変わってない」

「そうか…なら、私は君たちに《お節介》を焼くことにするよ」と彼は宣言した。

「君の幸せをぶち壊そうとは思ってない。

だが、君はもう《フェルトン》には戻らないのだろう?

弟に、《フェルトン》という重荷を預けるのに、その理由を語らないのはどうしてだ?

ダニエル様やフェルトン伯爵と何があった?」

《お節介》とはそういう事か…

随分ズカズカと踏み込んで来るじゃないか?

「知りたいのか?」と訊ねると、アダムは「私じゃない」と答えた。

「ダニエル様が知りたがっている。

君から聞いたことを、ダニエル様に伝えるのは私の本意じゃない。

君たち兄弟で、きちんと話をつけるべきだ」

彼は尤もらしい説教をして、俺の秘密を弟に話すように勧めた。

「少なくとも、君はダニエル様を納得させる必要がある。本来であれば、君が《フェルトン》を継ぐ立場だ。

それを放棄して、弟に委ねるというのであれば、ある程度ケジメをつけるべきではないか?」

「アダム…人のことが言えるような立場なのか?」

「だから《お節介》だと先に言ったろ?」と彼は開き直った。

「《お節介》をありがとうよ。

だがな、これはダニエル様には辛すぎる話だ。

俺はこの話は知らないまま、フェルトン伯爵の元に帰って欲しい」

「…それは、伯爵家の名誉に関わることか?」

「…さぁな…少なくとも、俺には不名誉な話だ」

「アーサー…それは…例の《噂》の事か?」

アダムの言葉に、あぁ、と苦く笑った。

悪い噂というのは、流行病のように広がるもんだ。

「何だ?知ってるのか?」

「部下から、世間話程度に聞いたことがある。

フェルトン伯爵には政敵も多い。嫉む者も多いだろう?

だから、若い妻を貰った伯爵への嫉みから来た《噂》なのだろうと…」

「…そうか」

「…すまない」とアダムは踏み込んだ事を詫びた。

「事実だ。謝ることは無い」そう強がって、アダムに背を向けた。

顔を合わせるのが気まずかった。

「アーサー」と背にアダムの声が掛かる。振り返る気はなかった。

「何だ?」と返事だけ返した。

アダムは少し迷ったように言葉を詰まらせて、微妙な間の後に、意を決して話を切り出した。

「すまない…私はまた君に酷いことを言う。

ダニエル様には君から話してくれ」

「酷い話だ」と吐き捨てるように答えて、アダムを要求を拒絶した。

「何と言うんだ?

『ダニエル様。貴方のお母様は元は俺の許嫁で、父上の気の迷いで奪われたのだ』とでも言うのか?!

父への恨み言を、あの子に言えと?!

『帰らないのは、最悪の絶望を与えて、俺を裏切った父と、愛してると言いながら理不尽を受け入れた彼女への怒りだ』と…

そんなの…辛すぎるだろう…」

幸せだった時間もあった。それは本当だ…

でも、それを壊したのは、他でもない父だ…

そして、異母弟は…理不尽の結果生まれた、俺にとっては呪われた子だ…

アイリーンの面影が残っている…

その中に、どことなく幼い頃の自分の姿が重なった…

そして父の影も…

それはそうだろう…俺たちは家族だ…

胸に空いた穴の存在が、またじわじわと痛みを訴えた。悲しみの記憶は、忘れたくとも消えてはくれない…

アダムの意見は到底受け入れられなかった…

「アーサー、聞いてくれ。

君がダニエル様を大切にしてるのは、私も知っている。

だからこそ、私は君の口から、ダニエル様に伝えて欲しいと思っている」

アダムは落ち着いた声で冷静に語りかけた。

「ダニエル様は、今まであまり外に出たり、社交界に関わったりする機会はなかったのだろう?

ある意味、次男という立場と、あの不自由な足が、ダニエル様を他人の悪意から守っていたんだ…

でも、君が《フェルトン伯爵》を彼に押し付けるというなら、彼は跡継ぎとして、表舞台に出ざるを得なくなる。

賢い君が分からないはずはないだろう?

ダニエル様が、悪意のある者からその話を歪曲して伝えられることになれば、それこそ彼を傷つけることになると、分からない君ではないだろう?!」

アダムの言うことは的を射ていた。

何も言い返すことが出来ず、唇を噛み締めることしか出来なかった。

上手い言い訳も、彼の気遣いを拒絶する言葉も出てこない。

自分ではもっと器用な人間だと思ってんだがな…

✩.*˚

何だろう?

何か避けられてる気がする…

「アーサー様…あの…」

「すまない、メリッサ。後にしてくれ」

ろくに顔も合わせずに、彼は夕食の後も何処かに行ってしまった。

何か粗相があったのだろうか?

気を落としていると、通りがかったミアさんが「どうしたの?」と声をかけてくれた。

「困ってる?」と彼女は親切に話しかけてくれた。

ブルームバルトは元ウィンザー公領だから、オークランドの公用語のパテル語でも、ある程度の意志の疎通はできた。

それでも、このお屋敷での会話の多くはライン語だ。学のない私には難しい…

どうやって答えようか悩んでいると、彼女は「おいで」と手を取って厨房に私を連れて行った。

「手伝って」と彼女は子供と話すような簡単な言葉を使った。

無理して喋るより、身体を動かしている方が気分も晴れた。

「何をしましょうか?」と訊ねると、彼女はそばかすの浮いた、少し幼い顔に笑顔を咲かせた。

「食器の位置は覚えた?

お皿の片付け任せれる?」

彼女は簡単な仕事をくれた。

ここの人たちは皆優しいんだよな…

フェルトンのお屋敷では、メイドの躾は厳しかった。

何処となくギスギスした雰囲気で、派閥まであったから、立場の弱い下級メイドはいつ目をつけられるかと怯えていた。

「それが終わったら、銀食器を磨いておいて」

「はい」

「メリッサはすごいよ。

あたしよりずっと仕事できるよ」とミアさんは褒めてくれた。

彼女は明日のパンの用意をしながら、小麦粉と格闘している。あっちの方が大変そうだ。

「あたしさ、本当はこんな立派なお屋敷で働ける人間じゃないんだよ」

彼女はライン語混じりのパテル語で、自分の事を話してくれた。

彼女は傭兵相手に商売する娼婦だったらしい。

好きになった相手がロンメル男爵の部下で、アーサー様を迎えに来た青年のお兄さんだったと言っていた。

「ルドのお父さん?」

「うん。そうだよ。傭兵だけど、子供の好きな良い人だったよ」と彼女は元夫を自慢した。

「でもさ、悪い事件に巻き込まれて、死んじゃった…

あの人は、できる限りのことをして、子供たちを守って死んだから、悔いはなかったんだろうね…」

「そうなんだ…でも、悲しいね」

「うん…

でも、お腹にルドがいたし、旦那様も彼の代わりに面倒見るって言ってくれたしさ…甘えちゃった…」

そう言ってミアさんは、粉の付いた頬を手の甲で拭った。彼女は悲しい話をしたのに、私には笑顔を見せた。

「ここってそういう所なんだよ。

旦那様も奥様も優しいし、シュミット様たちも良い人たちだ。

だから、困ったら遠慮なく言えばいいんだよ。

あたしは頭も良くないし、ただの住み込みのメイドでしかないけど、相談なら乗るからさ」

「…ありがとう、ミアさん」と礼を口にした私に、ミアさんは笑顔で「ミアでいいよ」と答えた。

姉のような存在になった彼女は、私に「グラスも磨いておいて」と仕事を頼んでくれた。

私はこのお屋敷で必要にされて、居心地が良かった。

厨房で、彼女と打ち解けて話をしていると、ミアの子供が、ユリアに手を引かれてやってきた。

子供たちは寝巻き姿で、『おやすみ』を言いに来たみたいだ。

「おやすみ、ルド」

優しく息子を抱き締めて、彼女は柔らかいほっぺに頬ずりした。

「ユリア、いつもありがとう」と、ミアは、世話をしてくれるお姉さん役のユリアに息子を預けた。

「うん。ミアとメリッサもお仕事早く終わるといいね」

「頑張るよ」と彼女はユリアの応援に応えた。

こんな幸せそうなお屋敷があるんだ、と夢でも見てるような気がした。

ともすれば、泡沫うたかたのように、この幸せな夢が醒めてしまうのではないかと不安が過ぎる。

全部夢だったと…

この夢が醒めてしまったら、低い天井の暗く狭い部屋で、湿った枕を抱いて目を覚ますのでは無いだろうか?

そんな事が頭を過ぎる…

「もうちょっと頑張ろう」と子供たちを見送って、ミアは笑顔を見せた。

「アーサーを待たせてるでしょ?」

彼女はそう言って悪戯っぽく笑った。

彼女の何気ない言葉に、《後で》と立ち去った彼の事を思い出した。

「アーサー様は、私の事…何て仰ってましたか?」

「アーサーが?

そうねぇ…強いて言うなら、『仲良くしてやって』って言われたわよ。メリッサの事、『天然で可愛い』って惚気けてたわ」

「他には?」と追求した私の姿に、ミアは少し表情を曇らせた。

「彼と何かあったの?」その核心に触れる言葉に口を噤んだ。

相談すべきか悩んだ。

もしかすると、私の勝手な勘違いかもしれない。

「悩んでたの、それ?」

ミアの質問に小さく頷いた。

私が頷いたのを見て、彼女はため息を吐いた。

「何か…夕方から、ちょっと避けられてる気がして…」

「酷いじゃん!何でって訊いた?」

首を横に振ると、彼女はまたため息を吐いた。怒ってるみたいなため息だ…

「メリッサ、いい?あんたが悪くないなら、アーサーの顔色を伺って黙ってる事ないんだよ?

ここでは、あんたも彼も《ロンメル家の使用人》だ。もう旦那様と召使いじゃないんだからね?

あんたがアーサーに遠慮することなんてないんだよ!」

「…でも」

「あんた可愛いんだから、自信持ちな?」と彼女は私を励ましてくれた。

まるで姉でもできたみたいだ。彼女の言葉は暖かくて、心強かった。

「ありがとう、ミア」と彼女に礼を言った。

「気のせいならいいなって思ってたけど、やっぱり、訊いてみないと分かんないもんね」

「あたしも着いて行ってあげようか?」

「いいよ、ありがとう」

「困ったら言いなよ?」

「うん」

「よし!」

彼女と子供みたいな会話をして笑い合った。

ぎこちなくても、ミアとのお喋りは楽しい時間だった。やっぱりここはいい所だ。
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