燕の軌跡

猫絵師

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失せ物

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カナルの本営では「報復すべし」という意見が飛び交っていた。

「閣下!なぜラッセルを処刑なさらないのですか?!」と詰め寄る幕僚らを抑えるのには難儀した。

「ラッセルの扱いについては、まだ決まっていない。侯爵より《殺すな》と命じられている」

「その侯爵閣下を手にかけたのですぞ!」

「軍旗を辱められた上、侯爵閣下まで…到底許せませぬ!」

「《鷹の目》に兄の死体を見せつけてやりましょう!このまま黙っていれば、フィーアの面目が立ちません!」

荒ぶる耳の痛い台詞に、頭痛を感じた。

あれを殺して、何が解決するというのだ?

早朝に届いた早馬で、兄上が《女神》の奇跡に与ったと聞いている。

殺気立つ諸卿は、稚拙な報復にと、ラッセルの死を望んでいた。

「南部の強兵が聞いて呆れる」

北風のように響いた静かな声に、その場の視線が集まった。

視線の先には冷たい目で諸卿を睥睨する弟の姿があった。

「兄上、カナルではこれが普通なのですか?」

「コンラート…」

「カナルの兵は、宮中のやかましい女性よりお喋りのようですな。

しかも短絡的で無益ときた…」と弟の冷ややかな言葉が放たれる。

熱くなっていた男たちも、その言葉で鼻白んだ。

「し、しかし、アレイスター子爵閣下!侯爵を討たれて黙っているなど…」

「卿らのヴェルフェル侯爵家への忠義は認めよう。結構な事だ。

しかし、その中途半端な忠義と義憤は誉めるに値しない。

ラッセルについては、その価値を最大限に引き出すために、我らの兄であるヴェルフェル侯爵が《保留》としている事だ。

侯爵は傷付いたとはいえ健在。すぐにお戻りになるであろう。

その侯爵の許可なしに、侯爵の決定を覆す事は南部侯への謀反と同等である。

卿らの発言は、このカナルの前線に混乱と無秩序を呼ぶ許し難い発言ではないか?

私の部下であれば罰を与えるところだ」

罰という強い言葉を使ったコンラートの言葉に、諸卿らも口を閉ざした。

全く…相変わらず手厳しい…

偉そうに足を組みかえたコンラートは、口元に失笑を浮かべた。

「全く、ここがラーチシュタットでなくて、私にとっても卿らにとっても幸いだったな…

意見とは、常に有益であるべきだ。

新たな意見を出すのであれば、それは現行のものより有益で、納得させられるものであるべきだろう?

卿らは何のためにこのカナルにいるのかね?

南部の未来を憂い、国を守る立場であるなら、よく考えてから発言すべきだろう?

少なくとも、卿らは手本となるべき立場で、その発言に責任があることを理解せよ」

皆、コンラートの厳しい言葉に、返す言葉もないようだ。

さっきまで熱を持っていた天幕の空気は一気に冷めた。

さすがに言い過ぎだ。これでは誰も発言できない。

重すぎる空気の中、コンラートの近侍が主人を諌めた。

「閣下。諸卿らの発言はこの国を憂う発言です。行き過ぎた発言もございますが、どうかお許しください。

事が事でしたので、皆動揺しているのです。

今は考える時間をお与えになられては?」

「そうだな…今よりは建設的な意見が出ると期待しよう…

リューデル伯爵、ご意見はございますか?」

首を横に振ってその場に居合わせた諸卿に解散を命じた。

「このへそ曲がりめ。もっと角の立たない言い方をすれば良いものを…」

私の苦言に、弟は悪びれた様子もなく答えた。

「いつもであれば声の大きな誰かさんが、困った顔で言いたいこともいえずにいたので、余計な口を挟んでしまいました」

コンラートはしれっと答えると、居合わせた小姓に飲み物を要求した。

「私は早くラーチシュタットに帰らねばならないというのに、兄上らがしっかりしないからここで無為に過ごしているのですよ?

全く…アレクの方が手がかからないですよ…」

「全く、耳が痛いな…」ため息混じりに苦い言葉で応えた。

確かに、コンラートの発言に救われたのも事実だ。それは感謝だが…

「言い方というものがあろう?」

「兄上の基準は知りませんが、先程も申し上げたように、意見具申というものは《最善》であるべきです。

徒に喚き立て、自分の意見を通すのは子供のやり方です。感心しません」

「やれやれ…ラーチシュタットは砦も堅いが、それ以上に城代の頭も堅いようだ」と皮肉を返した。

これは甥っ子も苦労してそうだ…

何やら言い返そうとしたコンラートの口を、幼い声が塞いだ。

紅茶の用意を持って戻ってきた小姓と一緒に、テントの外に待機していたゲリンが顔を出した。

「お話中失礼致します。

閣下に話があると、《燕の団》の隊長が来ております」

「なんの用だ?」

つまらない用向きであれば、ゲリンが取り次ぐこともなかっただろう。

ゲリンはコンラートに気を使うような様子を見せた。

「構わん、話せ」

「《鷹の目》の件で、少し気になる事があると言っていました。閣下に直接お伝えしたいと…」

「ふむ。分かった、通してやれ」と許すと、背の高い傭兵がテントに通された。彼はすぐにその場に膝を着いて頭を下げた。

「《燕の団》で団長補佐、隊長を拝命しております、カミル・ベルナーです」

「うむ」あの団にも一応まともな者も居るのだな、と少し感心した。

「そのままでは話しにくい。こちらに来て話したまえ」とコンラートがベルナーに勝手に声をかけた。

食い気味に話しかけるのは、ベルナーが偉丈夫だからだろう。コンラートはこういう男に目がない。

ベルナーは少し迷うような様子を見せたが、我々の前に立つと話を始めた。

「ウチの者が気になる事を言ってまして…

昔、《金百舌鳥》に居た者が言うには、侯爵閣下の負傷は対岸に伝わっていないのではないかと…」

「なぜそう思う?」

「《鷹の目》は考える力が弱いそうです。常に誰かの世話を必要としているそうです。

現状、対岸のオークランド兵が動く様子もありません。

《鷹の目》が勝手に動いて、それを他に伝えていない。もしくは、侯爵閣下と知らずに射ったのでは無いか?と言ってたので、一応お伝えに来た次第です」

「ふむ…確かにそういう考えもできるな…」

対岸がこの事態に気づいていないのであれば、過度に反応して動くのは良くないな…

「なかなか有益な情報だ」とコンラートはベルナーを褒めた。さっきまでの不機嫌はどこに行った?

お気に入りの近侍が怖い顔をしてるぞ…

「その情報はエインズワースか?」と情報源を確認すると、ベルナーは「えぇ、まぁ」と歯切れ悪く答えた。

エインズワースをよく知らないコンラートは首を傾げたが、教えたら教えたで噛み付くから、彼の視線を無視した。

「有益な情報だ。気付いたことが他にもあれば、すぐに私に報告するように」

ベルナーを労って、情報料として銀貨を与えた。

彼は感謝をして、用を済ますとすぐにテントを辞した。

「私には教えてくれないのですか?」と不機嫌になるコンラートに「お前は硬いからな」と意地悪く答えた。

「まぁ、いい事を聞いた。

慌ててラッセルを殺す必要も無さそうだ」

「殺したくなかったような言い方ですな」

「私だって無駄と悪手は嫌いなのだ」と苦笑しながら答えて、ゲリンに視線を向けた。

「少し様子を見る」と聞いたゲリンは、誰のためか分からない礼を言って頭を下げた。

✩.*˚

「お前らさ…何かあったの?」

昼過ぎにカナルに帰って来たスーとディルクは、妙によそよそしかった。

互いに口数が少ないし、顔も合わせようとしない。しかも何か機嫌が悪い。

一人になったのを見計らって声をかけたが、ディルクはうるさそうに俺を睨んだ。

「ない」と答える声は苛立っていた。

「何怒ってんだよ?」

「うるさいぞ、イザーク」

俺を追い払いたいのだろう。何があったか知らないが、こんな余裕のないディルクは初めて見た。

「そうかよ?じゃあスーに訊いてこようっと…」

「おい!」

踵を返そうとした俺に、ディルクは怖い声で吠えた。

素早く伸びた腕が、俺の胸ぐらを掴んで乱暴に引き寄せた。バランス崩してよろけた俺を、ディルクは怖い顔で見下ろした。

「面白半分でお節介焼いてんじゃねぇぞ!つまらねぇ真似したら許さねぇからな!」

「マジでどうしたんだよ?」

ディルクの余裕のない様子が気味悪く思えた。

「いいからほっとけ!俺は疲れてるんだ!」

「良くねぇよ!全然良くねぇ!」

負けじとディルクの胸ぐらをつかみ返して怒鳴りつけた。

「不満があるなら話せや!

お前が出てくとか!絶対認めねぇからな!絶対だ!」

そうだ。俺たちは《エッダ》だ…

気に入らない土地や場所に囚われて生きるような性分じゃない。

自分の居場所は自分で決める。

気に入らなきゃ、嫌んなったらおさらばだ。

今のディルクは《エッダ》に見えた…

胸ぐらをつかみ返されたディルクは、少し怯んで鼻白んだ表情を浮かべた。

「なぁ、ディルク…

《燕》にはお前が必要だろ?

スーにも、《犬》にも、お前は必要な存在なんだよ。

俺は馬鹿だし、お前みたいに人望もねぇよ。戦う事でしかスーの期待に応えられねぇ…

《犬》のリーダーはお前しかいねぇだろうがよ?」

「イザーク…俺は」何か言おうとしたディルクの胸ぐらを強く引いて黙らせた。口じゃ負けるって分かってる。

感情を言葉にしてディルクにぶつけた。

「俺はあんたが抜けるって言うから《赤鹿》を抜けたんだ。

今回だって、お前が抜けるならそういう奴が出てもおかしくないだろ?」

「…悪い…疲れてんだ」と呟いて、ディルクの方から手を離した。

「らしくねぇよ」と言いながら俺も手を引いた。

「お前に説教されるなんてな…」とディルクはため息混じりにボヤいた。

「付き合いだけは長いんだ。今のお前が普通じゃないってことくらいわかるさ」

そう答えながら煙草を出して咥えると、ディルクにも一本渡した。マッチを探したが、すぐに出てこなかった。

「お前って要領悪いよな…」

苦笑いするディルクはすぐにマッチを出して、煙草の代わりに火をくれた。

「でもこの方が俺ちゃんらしいだろ?」と笑って答えた。

「あぁ、手がかかる」と答えて、ディルクは煙草の煙を口に含んでため息のように吐き出した。

「で?なんなの?何が気に食わねぇんだよ?」

「まだその話か…」とディルクはうんざりしていたが、肝心の返事はまだだ。

「なんにも終わっちゃいねぇだろ?

スーと何があったんだよ?」

俺の質問に、ディルクは煙を吐き出して、「俺が勝手にへそ曲げてるだけだ」と答えた。

珍しい…

「いじけるようなことでもあったのか?」

「まぁ、な…」

「はっきりしねぇな?あんたらしくないよ、ディルク?」

「かもな…」ディルクはまた小さく呟いて、河原の石で煙草の火を消して捨てた。

「勝手に出て行ったりはしねぇよ。金も貰ってるしな…

ただ、少しここから離れたいと思っただけさ」

「はぁ?何で?」

「言わねぇ。お前はお喋りだからな」とディルクは意地悪い顔で笑った。

それでもその表情にどことなく影を見つけて、胸がざわついた。

「お前が出てくなら、俺も出てくからな」

俺の言葉にディルクは顔を上げて俺を見た。

「迷惑だろうが何だろうが知ったこっちゃねぇ。

必ず探して連れて帰る」

「…めんどくせぇ奴…」と言いながら、ディルクは笑っていた。

「何で腐ってんのか知らねぇけどよ、お前は《燕》に必要な男だ。分かったな?ちゃんと覚えとけ」

俺の説教に、ディルクの返事はなかった。

ただ、誤魔化すように寂しげに笑っていた。

「スーと仲直りしてこいよ」と言うと、ディルクは「そんなんじゃねぇよ」と答えた。

「お前と喋ってたら、悩んでたのが馬鹿馬鹿しくなっちまった…」

「そうかよ?俺ちゃんのおかげ?」

「かもな…」

ため息混じりに答えて、ディルクがポケットを探った。

「ん?」とディルクが不穏な声を出して、慌てた様子で他のポケットや、ポーチなどを探り始めた。

「ん?どったの?」

「…ない」

「何が?」

「妹の形見が無い…」とディルクが青い顔で答えた。ディルクがずっと大事に持っていた妹の遺髪の入った銀の薬入れを失くしたらしい。

慌てて二人で探したが、見つからなかった。

「何やってんだよ?」と俺たちを見つけたスーがやってきて訊ねた。

「ディルクが妹の形見を失くしたらしい」

「大事じゃんか?!何処で失くしたんだよ?!」

話を聞いたスーが食い気味にディルクに訊ねた。

「いや…今朝はあって…」

「じゃあ帰ってる時かも知れないだろ?!

大事なんだろ?!急いで取りに行けよ!カナルにあったら預かっておくから!早く!」

スーはディルクの腕を掴むと、馬を繋いである場所まで強引に引いて行った。

「イザーク、お前着いてってやれよ。ディルク疲れてるから馬から落ちないように見張ってろ!」

「わん!」と返事をして馬を借りた。

「すまん」と謝るディルクに、スーは「いいよ」と応えた。

「妹の形見なんだろ?大事なもんだ…」

スーはそう言って俺たちを送り出した。

仲直りなんて必要なかったか?

そう思いながらディルクの顔を盗み見た。

浮かない顔なのは、形見を失くしたからだろう…

そう思って、道に目を凝らしながら、ブルームバルトまでの道を急いだ。

✩.*˚

「ディルク?多分ウチの奴だけどよ、今ここにはいねぇよ?」

《燕の団》の拠点に足を運ぶと、残っていた男がそう教えてくれた。

なんか慌てて逃げるように帰って行った客は、小さな銀色の小物入れを落として行った。

呼び止めたけど、背の高い男は人混みに消えた。

古い細工で、凹んでボロボロの小物入れは金にはならなそうだった。

噛み合った金具を指先で捻ると、蓋は簡単に開いた。

『あ…』と中身を見て声が漏れた。

黒い、くるりと丸まって納まった柔らかそうな髪の毛…

誰のものか分からないけど、髪の毛を大事に持ってるなんて、これは大切な人の思い出はずだ…

中身が金目のものなら頂戴しても良いかと思ったけど、これはダメだ…

《燕の団》の《ディルク》と聞いていたから、彼らの出入りする建物に足を運んだけれど、無駄足だったようだ。

「さっき顔出してよ、着替え持って出てったから、多分ロンメルのお屋敷じゃないか?」

「え?何で?」

「団長はロンメルの屋敷に住んでんだよ。

またすぐにカナルに帰るって言ってたから、団長の所に戻ったはずだぜ」と教えてくれた。

あのお屋敷か…

近くに行ったことはあるけど、声をかけるのは気が引けた。

あたしなんかが行っても、追い払われるのが関の山だと思った。

だって相手はここの領主で貴族だし…

あたしはここで冬を越そうと流れて来た《エッダ》だ…

どうしようと思いながら、手のひらに握った銀色の小さな小物入れに目が行った。

あんた、誰か知らないけど、あたしと一緒にいても仕方ないよね…

「分かった。ありがと。行ってみるよ」

教えてくれた男に礼を言って、踵を返した。

寝不足だから、太陽が強く感じられた。

何でこんなことしてんだろ?さっさと帰って寝たいのに…

駄賃でも貰わないと割に合わないや…

そんな事を思いながら歩いていると、高い塀に囲まれたお屋敷が見えてきた。

いいなぁ…こんなところ、一生かかっても住めやしない…

綺麗なお屋敷の様子に気圧されて、少し離れたところで眺めていた。

お屋敷を前に、どうやって声をかけようか悩んだ。

あたしが外で呼んでも、取り次いでくれなさそうだ。それどころか、追い払われるのが関の山だ…

首が痛くなるほど見上げていると、塀の向こうから急に男の顔が出てきて焦った。

「おや?失礼、驚かせてしまいましたね?」

夕日みたいなオレンジの目をした男は、明るく笑いながらあたしを見下ろした。

「少し下がって頂けますか?枝が落ちてきますよ」と言って、彼は両手で使う大きな鋏を見せた。

剪定をするのに、あたしが邪魔らしい。

でも優しそうな明るい印象の人だったから、ダメ元で話しかけてみた。

「あ、あのさ…このお屋敷に《燕の団》の《ディルク》っている?」

「ディルクですか?さっきまでいたんですが、もうスーと一緒にカナルに帰りましたよ。

彼に用でしたか?」

彼は親切に教えてくれたが、またすれ違いになったと教えられただけだった…

「…そっか…ありがと」

はぁぁ…ため息しか出ない…やっぱりやめときゃ良かった…

疲れてその場にへたり込んだ。

「あ、ちょっと…大丈夫ですか?」男の心配してくれる声が聞こえたが、返事をする気にもならなかった。

蹲ってため息を吐き出していると、不意に目の前に影が落ちた。

目の前に、硬そうな男の手が差し出された。

「大丈夫ですか?家までお送りしましょうか?」と彼は親切にしてくれた。

「あたし娼婦だよ」と返すと、彼は「そうですか」と爽やかな顔で笑った。

こんな立派なお屋敷の人間なのに、あたしが娼婦と知っても、彼は親切だった。

「このブルームバルトにいらっしゃる人間は、皆が平等にロンメル男爵閣下の領民です。

私の親切は、ロンメル男爵閣下の望むことです。ロンメル家にお仕えする身として当然の事です」

そう言う彼はとても誇らしげだった。

前に一緒に行動してた娼婦の友達も、『あそこいいところだよ』って言ってたっけ…

「帰る家はありますか?」と彼はあたしに訊ねた。

帰る場所はある。寝るだけの安宿だ。大銅貨一枚でテントよりかは少しマシな場所で寝れる。

でも送って貰うような場所じゃない。

「いいよ、自分で帰る」と答えて立とうとしたら、疲れで足が縺れてよろけた。

「少し休んで行きますか?

庭のベンチくらいならお貸しできますよ」

「でも、勝手にしたら…」

「ご心配なく。こんなにフラフラな状態で送り出したら、私も仕事に集中できませんし、何より男爵閣下や奥様に叱られます」

そう言って、彼は軽々とあたしを抱えると、塀に向かって歩き出した。

彼が何か呟くと、ググッと盛り上がった土で階段が出来た。

さっき塀から顔が出たのもこれだったのだろうか?

驚いているあたしを他所目に、彼は庭に降り立った。

お屋敷の裏なのか、小さな小屋とお屋敷には不似合いな畑があった。

小屋の脇に置かれたベンチにあたしを降ろすと、彼は「おもてなし出来ませんが」と前置いて、水筒を差し出した。

それでもあたしにとっては十分なおもてなしだ。

喉が乾いていたから温い水でも嬉しかった。

空になった水筒を返すと、彼は嬉しそうに笑顔を見せた。

「ところで、ディルクには何の用でしたか?」

「そう、これを落として行ったの」と落し物を彼に渡した。彼は中身を確認すると、少し驚いた顔をしてあたしを見た。

「このために?これはご親切にありがとうございます」と丁寧にお礼を言ってくれた。

「私はアダムと申します。友人に代わってお礼申し上げます。

用事でカナルに行き来する者がおりますので、お預かりしてもよろしいでしょうか?」

「あ、うん。じゃぁお願いしようかな」

この男が引き取ってくれるなら安心できる気がした。あたしもその方が助かる。

ひと仕事終えた気になって、疲れと眠気が一気に来た。

もう限界…

欠伸をして、一言断ってからベンチに寝転んだ。

ちょっと寝てから宿屋に戻ろう…

優しい男の声で、「おやすみなさい」が聞こえた。

茂った木陰から漏れる陽だまりが心地よくて、そのまま寝入ってしまった。

✩.*˚

旦那様に彼女のことを伝えに行った。

勝手をした事を詫びて、彼女を少し休ませて貰えるように伝えると、旦那様は思っていた通りのお返事を下さった。

「いいよ、そのくらい。お前のいいようにしてやんな。

こいつはディルクの妹の形見でな、届けてもらえて良かったよ。

その姐さんには俺からも礼をさせてくれ」

「かしこまりました。起きたら連れてきます」

「これは俺が預かっとく。いいか?」

「よろしくお願いします」と、銀色の小物入れを預けて、旦那様のお部屋を後にした。

旦那様のお許しは頂けたので、とりあえず問題は無いだろう。

そういえば、ベンチにそのまま寝かせた状態で置いてきてしまった。

陽の当たる暖かい場所だが、少し空気も冬に近づいてきた。

風邪をひくと可哀想だ、と思って、自分の部屋にあった毛布を手に戻ると、彼女はベンチで爆睡していた。

ちょっとやそっとで起きそうにはないな…

そう思いながら、そっと毛布をかけた。

フィーアはオークランドよりも街角に立つ娼婦が多い。

そもそも、性に対して考え方が緩いのだ。

オークランドでは、規定の場所以外での商売は違法であり、性を売る商売をする人々の多くは《非人》の扱いを受ける事も少なくない。

それでも、危険を承知で女性たちがその道を選ぶのは、それでしか生活できないからだ。

金持ちが一定数いるのと同じように、底辺になる人間も無くなることはない。

私もそうだったのだ…

《奴隷》として売られたのは、私が望んだことでは無い。そうでなければ、自分も家族もとっくに死んでいただろう。

自分は運が良かったのだと、割り切るより他なかった。

私に出来ることは、自分に施された優しさを他人に分け与える事くらいだ…

やりかけの仕事を片付けようと、木の脇に置いていた鋏を手に取ったが、枝を払うのはやめた。寝ている彼女に落ちる。

馬の世話をするか…

馬房に行って、1頭ずつ運動場に連れ出した。

いつもならアーサーが世話をしているが、アーサーはカナルだ。

馬の世話をしていると、生ゴミのバケツを持ったルド坊やがケヴィンと一緒にやってきた。

「アダム、手伝いに来たよ」

「ルド、アルマに餌持ってきたの!」

ルド坊やの元気な声に気付いた飛竜が、小屋の中から甘えた声で鳴いた。

「腹ぺこみたいですよ」

「うん!あげてくる!」

バケツを抱えた子供は、危なっかしい足取りで馬小屋の隣にある小屋に入って行った。

「僕もザラに挨拶しよう」と言って、ケヴィンも馬小屋に入って行った。

しばらくして、空になったバケツを持って出てきたルド坊やは、アルマの紐を握っていた。

「お散歩してくる」と言って、ちょこちょこと歩くアルマを連れて小屋の脇を通り過ぎようとした。

ルド坊やはベンチで寝ていた彼女を見つけて、「だれ?」と私に訊ねた。

「ディルクの落し物を届けてくれた親切な方ですよ。

疲れてたそうなので、少しおやすみ頂いてます」

「じゃあ、シーだね」

口元に指を立てて笑う幼い少年の気遣いに嬉しくなる。

小さな紳士の気遣いに「ありがとうございます」とお礼を言って、その小さな背中を見送った。
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