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レプシウス師
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フィリーネの誕生会から一週間経つが、グスタフはまだロンメルの屋敷にいた。
彼は《雷神の拳》のご隠居だし、フリッツがいるから傭兵団には影響はないかもしれないが、今回は随分長居するんだな、と思っていた。
「グスタフは誕生会以外にも何か用事あるのか?」と、ワルターに訊ねたが、「ちょっとな」と話をぼかして教えてくれない。
グスタフにも直接訊いてみたが、彼は「手紙の返事を待ってるんだ」とだけしか教えてくれなかった。
何の手紙か気になったが、話してくれないところを見ると、俺があれこれ詮索するべきじゃないだろう。
そんな折にロンメルの屋敷にレプシウス師から手紙が届いた。
「スーに急ぎでだって」と、ミアがわざわざ《燕の団》に届けてくれた。いつもはアショフが届けてくれていたのに、今回はラーチシュタットの飛竜で届いたから、ミアもおかしいと思ったようだ。
すぐに手紙を開いて確認すると、手紙の文字は読みやすい綺麗な字だが、レプシウス師のものでは無かった。その時点で嫌なものを感じたが、手紙を読み進めてその予想が間違っていないと知った。
「…スー…レプシウス様はなんて?」
「…もう…長くないって…」
レプシウス師は自分の命が長くないと悟って俺に手紙を寄越したらしい。アショフが届けてくれなかった理由もそれで納得した。レプシウス師が危篤であるなら、手紙を届けている場合ではないだろう。
『この手紙が届く頃には、私は《ニクセの船》に乗っているかもしれません』と寂しい言葉に続いたのは、俺を気遣うような優しい言葉だ。
『私の親愛なる弟子のスペース』との呼びかけに胸が熱くなった。
レプシウス師は、俺の《望み》を叶える術を見つけられなかったと詫びていた。彼は最後まで俺とミアの願いが叶うようにと手を尽くしてくれていたのだ。
手紙を読んで聞かせると、ミアもレプシウス師を思って泣いてくれた。
「スー、すぐにラーチシュタットに行きなよ!もしかしたら…今だったら間に合うかも…」
「…でも」
今の《燕の団》には、今までまとめ役だったゲルトもカミルもいない。
馬を飛ばしても、ラーチシュタットまで一日半はかかる。往復なら単純に三日かかるし、用事もすぐに済ませられるか分からない。
少なくとも数日は団を離れることになるだろう。
「行けよ。あの爺さん死にそうなんだろ?」
ラーチ行きを渋る俺の背を押したのはディルクだった。
「お前の留守の間は俺たちで何とかする。お前は爺さんに会いに行け」
「何とかするって…」
「勝手にデカい仕事は受けねぇよ。旦那にも話せば分かってくれるはずだ。細々した仕事なら俺たちでも問題ねぇだろ?
お前は爺さんの心配だけしてろ」
わざと突き放すような言い方をしてるのは、俺に気を使わせないためだろう。
「スー。ディルクが引き受けてくれるなら大丈夫だよ。旦那様にも話しておけば、あとは心配しなくていいからさ。急いでレプシウス様に会いに行って…
会えなかったら、きっと後悔するから…」
「悪い…できるだけ早く戻る」
そう約束して、ディルクに後を任せ、《燕の団》を後にした。
ロンメルの屋敷に戻ってすぐワルターに事情を話すと、彼も「行ってこい」と言ってくれた。
「俺もあの爺さんには何度か助けられた。俺の分も頼む」と、口添えの手紙を書いて持たせてくれた。
万が一の時はロンメル男爵の名前を出していいとまで言ってくれた。
急いで支度を済ませて、一人でラーチシュタットに向かった。
道中のことはあまり覚えていない。とにかく、気持ちばかりが急いて、何も頭に入ってこなかった。
何度か休憩を挟んだが、馬にもかなり無理をさせてしまった。途中から乗ることさえできなくなり、一緒に歩いて宿に入った。
ディルクがいれば止めてくれたかもとも思ったが、ディルクは二人いない。しかも、俺の代わりに《燕の団》に残ってくれたのだ。冷静に動けない自分が恥ずかしかった。
「ごめんな…リコリス」
ぐったりと蹲った白馬の足は熱を持っていた。治癒魔法をかけると少しだけ楽になったようだったが、明日は無理させないようにと肝に銘じた。
親友が譲ってくれた馬だ。大切にするって約束したくせに、こんな姿を見たら俺に贈ったことを後悔するだろう。
とりあえず、その日は馬房で寝て朝を迎えた。
太陽が朝焼けを広げる頃に、リコリスが鼻先でつついて起こしてくれた。
彼は俺が離れると立ち上がって力強く足踏みして見せた。
自分はもう大丈夫、と伝えたいのだろうか?
支度をしてまたラーチシュタットに向けて出発した。昨日の事もあり、少しだけ冷静になれた。
リコリスの背に揺られながら、手紙を取り出して目の前に広げた。
死期を悟った老人の手紙に綴られた優しい言葉は、どうしようもない侘しさを俺に与えた。
心配させないようにとの気遣いすら、二度と会えない事を暗示しているようで、それを思うと胸の中が苦しくなる。
レプシウス師との出会いも、今でも昨日の事のようにはっきりと思い出せる。今思えば、世間知らずだったとはいえ、無礼だった俺にも優しく接してくれた。
悪いことに打ちのめされた俺を励まして、立ち上がれるようにしてくれたのもレプシウス師だ。
彼との出会いがあったからこそ、大切なものを失っても俺はまた自分の足で立って、ワルターと肩を並べる事ができるようになったんだ。
今があるのはレプシウス師あっての事だ…
最後に会って、直接感謝を伝えたい。後は心配ないと、彼に伝えて《ニクセの船》に見送りたい。
そんな気持ちを胸に、街道を進んで、太陽が沈む頃にラーチシュタットの高い外廓を目にすることができた。
リコリスも疲れている様子だったが頑張ってくれた。早く休ませてやりたい。
焦る俺の気持ちとは裏腹に、街道に面したラーチシュタットの堀にかかる跳ね橋は容赦なく今日の役目を終えていた。
「日が落ちたら跳ね橋は使えない決まりだ」と守衛は俺たちを冷たく拒絶した。
他の出入り口も同じで、余程でない限り例外は無いという。その場合は城代のアレイスター子爵の許可が必要とのことだった。
「ロンメル男爵から書状を預かって来てる。レプシウス師の見舞いだ。俺はレプシウス師の弟子でスペース・クラインという。確認してもらって構わないから、城代に取り継いでほしい」と守衛に頼んだが、すぐには信用してもらえなかった。
酷く草臥れた格好で、とても貴人に目通りするような姿じゃなかったからだろう。
「明日の朝出直せ」と言われたが、時間が惜しくてここまで馬を飛ばしてきたのだ。それに、リコリスももう限界で、彼を連れて最寄りの村にまで戻るのは無理だ。
俺も譲れずに守衛と言い合いになっていると、不審に思った別の守衛らも加勢に来た。俺はすっかり不審者扱いだ。その理不尽な扱いにさらに苛立ちを募った。
「なんの騒ぎだ?」と、ついには彼らの上司らしい甲冑姿の騎士が現れた。
彼は守衛らに状況を確認して、俺に向き直ると険しい顔で俺の方に歩いて来た。
向こうの話だけ一方的に容れたのかと思ったが、彼は俺の言い分も確認してくれた。
「ロンメル男爵家からの使者とのことだが、誠か?」
「本当だ。ロンメル男爵からの書状もあるし、レプシウス師からの手紙もある」と答えて、隊長っぽい騎士にワルターとレプシウス師の手紙を見せた。
彼は手紙の紋章を確認して、「預かってもいいか?」と訊ねた。この男は話ができる相手のようだ。
「私はこの門を預かる守衛隊長のゲッフェルトだ。私も怪我をした折、レプシウス老師には世話になった恩がある。まだ、老師はご存命だ。もし、老師が希望されるなら便宜を図ってやる。しばしここで待て」
まだ、レプシウス師が生きていると聞いて少しだけ安堵した。
「分かった…ここで大人しく待つ。馬に水をやってもいいか?ここまで走って疲れてるんだ」
ゲッフェルトは疲れて項垂れているリコリスを不憫に思ったようであっさりと許可してくれた。
「なるほど、そのぐらいなら良いだろう。世話をしてやれ」と言って部下に水を用意するように命じた。
「良い馬だ。大事にしてやれ」と言い残してゲッフェルトは手紙を手に、連絡用の小さな石橋を渡ってラーチシュタットに入って行った。
喉が渇いていたリコリスはすごい勢いで水を飲み切ると、その辺に生えていた草を食んで小腹を満たしていた。
随分待たされたが、大人しく待った甲斐はあった。
守衛に呼ばれて跳ね橋の前に戻ると、大きな軋む音と金属のこすれる響いて、巨大な橋は人を受け入れる姿になった。
やっと渡れると思っていると、ラーチシュタット側から騎馬の一団が雪崩れるように城門から出てきた。まるで捕り物だ。
ワルターの手紙もレプシウス師の手紙も見せたのに何で?と思っていると、リコリスが甘えるような声で鳴いた。
先頭を駆け抜けてきた白馬がリコリスの前で足を止めた。その背中に乗っている金髪の青年の姿を見て驚いた。
「スーか?!」と誰何する声に聞き覚えがあった。
大人になって姿が変わっても、彼の輝くような青い瞳はあの時と変わっていなかった。
「…アレク?」
「スー!本当にスーだな?!」俺の呼びかけに確信を持った青年は馬から飛び降りて俺の手を握った。そのまま手繰り寄せるように、アレクは汚れた俺を気にせず抱きしめた。
「やっと会えた!会いたかった!」と周りが見えない様子で喜ぶアレクに圧倒されて、言葉が出なかった。
最後に見たときの彼はもっと細くて少年らしい顔立ちだったけど、見ない間に背が高くなり、大人っぽく成長してパウル様にそっくりになっていた。きっと若い頃のパウル様はこんな感じだっただろう。
「アレクシス様、少し落ち着いてください。スーが驚いてますよ」と苦笑いを浮かべた赤毛の青年がやって来てアレクと俺を引き離した。
周りの目に気付いて、アレクは恥ずかしそうに顔を真っ赤にして離れたが、手は相変わらす握ったままだ。赤毛の青年はその様子を優しい顔で眺めていた。
「クラウス?」
「はい。覚えていてくれたんですね」と答えるクラウスは嬉しそうだ。
「忘れたりしないよ。でも…二人ともだいぶ変わったね?」
「君も変わった。あの頃より大人っぽくなった」と、アレクが少し照れたような嬉しそうな顔で言った。
照れた顔はあの頃のままだ。それが懐かしかった。
会えない間に、俺たちの上には長い時間が過ぎていたようだ。
「アレクシス様。早くスーをラーチシュタットに入れてあげてください」
「あ、あぁ、そうだったな…
スー、とりあえず一緒に来てくれ。レプシウス師も君が会いに来るのを待ってる」
そう言って、アレクは俺を連れてラーチシュタットの中に案内してくれた。
アレクらに会えて安心してしまったからか、急に足元がふらついた。
「大丈夫か、スー?馬車を用意させようか?」とアレクは気を使ってくれた。
「大丈夫…疲れてるだけだから」
「馬には乗れますか?
君の乗ってきた子はもう無理そうですから私の馬を使ってください」と、クラウスが自分の馬を譲ってくれた。
「前にもクラウスには馬を譲ってもらった」
「ふふっ。あの時ですか?懐かしいですね」
クラウスはそう言って懐かしむように微笑みながら、俺が馬に乗るのを手伝って辺りを見回した。俺が一人だったという事に気付いて彼は首を傾げていた。
「スー、一人でブルームバルトから来たのですか?傭兵団の団長が伴もなしに?」
「急ぎだったから…一人の方が早いし、ちょっと団の方もごたごたしてたからさ。後の事任せて出てきたんだ」
「それでも一人なんて不用心ですよ。ラーチシュタットの周りは街道の商人を狙った賊が後を絶たないのです。帰るときは護衛を付けますから、一声かけて下さい」
「それを許すロンメル男爵も男爵だ!あの男は相変わらず気が利かないのだな!」
アレクはワルターを悪く言ったが、彼は俺がラーチシュタットに行くのを後押ししてくれた。
ラーチシュタットへの手紙も用意してくれたし、取り継いでもらったのはヴェルフェル侯爵の縁者としてロンメル男爵の手紙があったからだろう。
「ワルターが手紙を持たせてくれたから取り継いでもらえたんだ。君にも会えた。
それに彼はレプシウス師に会いに行くのを迷ってた俺に、『行って来い』って言ってくれたんだ。だからワルターは悪くないよ」
俺がワルターを庇うと、アレクは少し拗ねたような顔をしたが、それ以上ワルターの事を悪く言う事は無かった。
「大丈夫。アレクシス様はちゃんと分かってますよ。でも、君が心配だったからあんな言い方になっただけです」
「クラウス!」
「ほらね。当たってるみたいです」
二人とも相変わらず仲が良い。クラウスはあの頃と変わらず、アレクの足りない部分を補ってくれているようだ。
変わらない彼らの関係に安堵して、俺にも変わらずに接してくれる二人が嬉しかった。
心のどこかで、流れた時間と同じく、会えない間に彼らが変わってしまってるのではないかと心配していたが、そんな事は無かったようだ。
アレクはクラウスに俺の着替えや宿を用意するように指示して、俺と一緒にレプシウス師の屋敷に向かった。
アレクにレプシウス師の容態を聞くと、彼は深刻そうに眉を寄せた。それを見て、やはりレプシウス師の容態が深刻なのだと察した。
「もうご高齢だから、持ち直すのは難しいだろう…
私たちも覚悟していたことだが、やはりあの方を失うと思うと辛いな…」
残念そうに語るアレクの言葉に口を噤んだ。
泣きそうになる俺に、アレクは優しく慰めてくれた。
「でも、君が間に合ってよかった。
私が出てくる時には、まだレプシウス師も意識がはっきりしていたし、弟子たちが少しでも長く延命できるようにと懸命に治療を続けていた。きっとまだ間に合うはずだ」
「…うん」
「私にとってもレプシウス師は大切な恩人だ。
一番大変な時に君を癒してくれた人だ。本当に感謝しているし、君と同じくらい大切に思っている。
レプシウス師は君のこともずっと気にかけていた。だから、君が顔を見せるだけでも、きっと喜んでくれるはずだ」
アレクの言葉に頷いて、ともすれば溢れそうになる涙を堪えた。
「ありがとう、アレク…」
「礼なんて要らない。私はあの時、君の慰めにはなれなかった。今、少しでも君の支えになれるなら、私もようやく自分を許すことができる」
馬を並べてアレクは柔らかい笑顔を俺に向けた。
「スー、君は今でも私の特別な友達だ」
ずっと聞きたかった彼の言葉に頷いて、「ありがとう」と答える声は震えていた。
✩.*˚
残さねばならない言葉ももう無くなった…
満たされたような気持ちで、自らの死を受け入れることができるとは、何と幸せな事だろう…
「もういいですよ、リリィ…」自分の命を繋いでくれている愛弟子に声を掛けたが、彼女は大粒の涙を流しながら首を横に振った。
彼女は寿命の無い老人の《延命治療》までできる優秀な治癒魔導師になっていた。
《延命治療》は遺言などを残す必要のある貴人に施す難しい治癒魔法で、術者の負担も大きい。魔力や生命力の高いエルフのリリィでも、消耗が激しく辛そうだ。
リリィの傍らには、リリィに魔力を分け与えて補助するベスの姿があった。
師として、成長した二人の姿を誇らしく思う。
「これ以上続ければ、君たちの命にもかかわります…もう充分ですよ」と、命を流し込む彼女の手を離そうとしたが、彼女はしっかりと乾いた老人の手を握って離そうとはしなかった。
「やだ…だって…レプシウス様が…」
「ありがとう、リリィ…ベスも…二人のおかげで、残さなければならない言葉はもうなくなりました。だからもう本当に十分なのですよ」
自分の役目はもう無いのだ。
残す言葉はアショフが全て記録してくれたし、私の遺言が果たされるように、城代であるアレイスター子爵やヴェルフェル公子が力を尽くしてくれると約束してくれた。
一つだけ心残りなのは、彼を待つことができなかったことぐらいだ…
きっと、彼はこの国にとって特別な存在になる…
直接会って、彼にこの国の行く末を託したかったが、それももう難しいだろう…
穏やかに死を迎えるだけの老人に、一報が舞い込んだ。
「失礼いたします。レプシウス師、ヴェルフェル公子様がお見舞いにいらっしゃいましたが…いかが致しましょうか?」
「…ふむ…アショフ、お通しして下さい」
最後の来客になるはずだった青年は、私の病床に膝を折って顔を近付けた。
「レプシウス師。お加減はいかがでしょうか?」
「上々ですよ。可愛い妻と娘がこの粗末な老人を看取ってくれるのですから」と答えると、若者は私のジョークに苦く笑った。
本当はそんな気は無かったのだが、リリィとベスが望んだのは、私の家族になることだった。
結局、病床に臥しても彼女らは熱心に私を口説き続けて、最後には私が折れた。
公平な籤の結果、リリィが私の妻に、ベスが私たちの養女になった。
自ら望んだ結果ではないが、私の死後も彼女らがラーチシュタットに残ることになるなら、この選択は悪いものでは無いだろう。妻子の無い孤独な老人の財産を彼女らに合法的に残すことができるし、私が死んだ後も彼女らが生活に困ることもないはずだ。
フィーアに残るも、アーケイイックに戻るも、後は二人の気持ち次第だろう。
「今日のラーチシュタットはどうでしたか?」と私の知らないラーチシュタットの一日を訊ねると、公子は私の問いに答えてくれた。
彼の語るラーチシュタットの様子は穏やかそのもので、時の満ちた老人が一人いなくなったところで、さして変化は無いのだろう…
益々穏やかな気持ちで、安心して《ニクセの船》に乗ることができる気がした。
公子の話を聞いている間に、窓の外は日が落ちて暗くなっていた。
そろそろ頃合いだろう…
名残惜しいがそろそろリリィに手を離してもらおうと思っていると、また別の来客の一報が届いた。
慌てた様子のアショフの案内で部屋を訪ねてきたのは、以前治療をしたことのあるゲッフェルト卿という騎士だった。
彼は居合わせた公子の姿を見て少し気まずそうにしていたが、私が用事を訊ねると、二つの手紙を取り出して私に見えるように掲げて見せた。
見覚えのある封蝋を押した手紙は、確かに私が出したものだ…
「これを持った青年がラーチシュタットの外に来ています。
ロンメル男爵の使いで、スペース・クラインと名乗っております。お心当たりはございますか?」
その名前を聞いて、弱っていた心臓が強く脈打つのを感じた。温度を失いつつある身体に熱が戻るような感覚を覚え、恋焦がれるように心が震えた。
ゲッフェルト卿の言葉に心を奪われたのは私だけでは無かった。
「スーが!?スペースが来てるのか!?」
跳ねるように立った公子の動作で椅子が床に転がり、大きな音を立てた。
公子は驚いて固まっているゲッフェルト卿から手紙をひったくって、慌てて手紙の中身を検めた。
普段の彼からは想像できないような姿に、ゲッフェルト卿もあっけに取られて言葉を発するのも忘れている様子だ。
手紙を検めた公子はゲッフェルト卿の腕を掴むと「案内しろ!」と怒鳴りながら部屋を出て行こうとした。
「て、手紙!」とベスが慌てて公子を引き留めた。公子は慌てて手紙を返すために病床に引き返してきた。
彼の顔は心ここにあらずといった様子だ。
「失礼しました。私はすぐにスーを連れて戻ります。それまでしばしお待ちください」
取り繕うようにそう言い残して、公子は踵を返して足早に部屋を後にした。廊下で怒鳴るような声が聞こえがすぐにそれも小さくなって消えてしまった。
私の返事も聞かずに随分勝手ですね…まぁ、返事は決まっていますが…
「…リリィ、ベス、お願いがあります」
疲れた顔の二人は私の呼びかけに応えて、まっすぐな視線を私にくれた。
「私の最後の我儘です。あと少し…あともう少しだけ頑張ってください」
私の酷い我儘を聞いて、二人の疲れていた表情に一瞬輝きが戻った。
「お任せください」と、リリィが答えると、ベスの大きな声がリリィの声をかき消すようにかぶさった。
「大丈夫レプシウス様!私頑張る!」
「…ベス…耳痛い」ベスの大きな声が辛かったようで、リリィは少し怒った様子で苦情を言った。さっきまでの暗かった二人の様子が、いつもの様子に近いものになる。
やっぱり、彼女らにはそういう掛け合いが似合っている。
私はまだ《ニクセの船》に乗るのは早いらしい。
どうせ、急いで乗らなければならないものでは無い。すべての人の辿り着く場所だ…
女神を待たせるのは気が引けるが、雲雀の女神にとって、私の延命の時間など船の手休めになる程度の短い時間だ。目を瞑ってくれるだろう。
ともすれば手放しそうになる意識を集中させて、リリィから流れ込む温もりを大切に身体にとどめた。
リリィの手から流れ込む温もりに混ざって、ベスの少し高い温度も感じる。
本当に、二人とも立派になりましたね…
治療に集中する二人の顔を交互に眺めて、応援する気持ちを込めて、少しだけ強くリリィの手を握り返した。
✩.*˚
アレクの案内で、前にも来たことのあるレプシウス師の屋敷に到着した。ここまで誰にも止められなかったのはアレクが迎えに来てくれたからだ。
俺たちが来た一報を受けて、すぐにアショフが出迎えに来てくれた。
「スー!来てくれたんですね!」
「アショフ、レプシウス師は?」
「リリィとベスが頑張ってくれています。さぁ、早くお師匠様に顔を見せてあげてください」
挨拶もそこそこに、俺を急かすアショフの姿は珍しく、その彼らしくない姿がレプシウス師の容体の悪さを物語っていた。
柄にもなく緊張しながら、案内されたレプシウス師の寝室に向かった。
ノックの音を響かせたドアを押すと、寝室を隔てる役割の木の板は来客を招き入れるように軽い感触を残して開いた。
部屋から溢れ出た匂いに混ざって、死を連想させるような独特の空気を感じて足が重くなった。
部屋に配された在り来りなベッドには、見知った二人の少女が寄り添っている。彼女らの先にはベッドに横になっている誰かの姿があった。
「よく来てくれました」という、かすれるような弱々しい声が鼓膜を震わせた。その懐かしい声はベッドのほうから聞こえてきた。
痛々しいほど弱った声に、胸が潰されるような感覚を覚えて、ここまで叱咤して動かし続けていた足がそれ以上前に出るのを拒絶した。
彼のこんな姿は見たくなかった…
心のどこかで、実はまだ元気そうな姿をしているはずだと、期待していた自分がいた。
部屋に入ってすぐに足を止めてしまった俺の肩に、アレクの手が添えられた。
俺の支えになると約束してくれた親友は力強く俺の肩を抱いて、レプシウス師の横たわるベッドの傍に俺を立たせた。
ベッドに横に立ち、目の前にした痩せた老人の姿にショックを受け、声を掛けることも忘れていた。
枯れ木を思わせるような乾燥した肌は生気を失い、かさついた唇は血色の悪い色をしていた。
浅い呼吸を繰り返す薄い胸はゆっくりとした動作で上下しながら命を繋いでいるが、その弱い呼吸はいつ止まってもおかしくは無いだろう。
その姿を拒否するように、俺の視界はぼやけて涙が溢れた。
「いらっしゃい、スー…君を待っていました…どうぞ近くに…」
眠そうなかすれた声は、優しい響きで俺を歓迎してくれた。
レプシウス師に望まれるまま、その場に膝を折って、ベッドに横になったままの彼に視線を合わせた。
近くで見たレプシウス師の表情は、かすかに微笑んでいるように見えた。
「君に、お願いがあります…もう、私には同じことを二度言う時間はありません…一方的ですが…聞いてください」
悲しい前置きを告げて、レプシウス師は俺の返事を待たずに、ぼそぼそとかすれた声で言葉を続けた。
「君が…どのような使命を持って生まれたのか…何故この国に来たのか…何故私と出会ったのか…それは分かりません…
その使命は神のみぞ知ることでしょう…私はそう思っています…
しかし…以前言ったように、君は特別な存在だという私の考えは変わっていません…おそらく、神の降ろした特別な命なのです…
そうでなければ、人でもなく、妖精でもない君の存在は説明がつきません…
私はそう思っています…
だから…私は…君に未来を預けたいと…そう思っています…」
かすれた声は一度途切れて、乱れた呼吸を整えると言葉を続けた。
「…私の…この老いぼれの代わりに…未来を見てくれませんか?
貴方の目で、貴方の命の続く限り…この国を見守り続けてほしいのです…
決して…簡単な話ではないでしょう…こんなお願いで、君を縛るのは本意ではありませんが…それでも、私は君に未来を託したいのです…
君はきっと…私の寿命を軽く追い越してしまうでしょう…
この場の誰よりも…長く生き、私の意思を…継いでくれる…そう信じてます…」
願いを込めるような一つ一つの言葉に、遮ることを忘れて聞き入ってしまう。
今、彼の言葉を聞き漏らしたら、おそらく俺は一生この事を公開するだろう…
父さんと別れたあの日のように…
ぽつぽつと続く言葉は、さらに聞き取りづらくなっていった。
それはまるで、薪を食い尽くした炎が、最後の輝きを閃かせて消える様に似ていた。
誰よりも長く生きた老人は、その最後の瞬間まで師として振舞い、人生の幕を降ろそうとしている。
彼の言葉を遮ろうとする者はここにはいなかった。
「君が…私の死後に来てくれた時のため…アショフに手紙を預けています…後で読んで下さい…
忘れないでください…私は…君の師として…君を、愛しています…
もっと…君と話したかった…私に時間があれば…そう悔やまれてなりません…
君と話すこの時間を…作ってくれた二人に…感謝しています…」
レプシウス師はそう言って、手を握り続けている少女とその傍らに立つ少女に感謝を伝えた。
「リリィ…繊細な君には…治癒魔導師は辛い仕事です…それでも…私の期待に応えようとしてくれた…その気持ちは…私にとって尊い宝物です…ありがとう…
ベス…君に明るさは…私にも、リリィにも、支えになっていましたよ…君から元気をもらって…私も癒されてました…魔法は、相性があります…治癒魔導師になるのは難しくとも…君には君のやり方があります…リリィを…これからも支えてあげて下さい…
アショフ…君には苦労を…かけました…誰よりも、長く…この我儘な老人に付き合ってくれました…ありがとう…後は…最も信頼する君に…任せます…二人を…頼みます…
ありがとう…私は…幸せです…これほど…恵まれた最後は…想像していませんでした…ありがとう…」
掠れた声の最後の方はほとんど言葉になっていなかった。最後の力を振り絞って、感謝を伝えた老人の目は焦点を失って、震えた瞼からは瞬きすらなくなった。
俺たちの目の前で、彼の身体からスゥっと何かが抜け落ちたのを感じた。
「…レプシウス様…レプシウス様?!」
手を握っていたリリィが声を上げた。小さな悲鳴を上げて、ベスがその場に崩れ落ちた。
「レプシウス様!リリィは…リリィはまだ大丈夫です…大丈夫だから…受け取って…まだ…待って…」
リリィにはレプシウス師に注いでいた魔力の流れが止まってしまったと分かったのだろう。それがレプシウス師の意思かどうかは判別できない。
ただ、その場の全員が、彼は《ニクセの船》に乗ったのだと理解した…
フィーアは偉大な治癒魔導師を失った…
老人の遺体に縋って泣く少女らの背を優しく撫でて、アショフはレプシウス師の遺体を整えた。
レプシウス師から直々に頼まれたのだ。その気持ちに応えるように、彼は気丈にふるまっていたが、その声は悲しく震えていた。
「皆様…師の最後に立ち会ってくださり、ありがとうございます…
師は満足して安らかな気持ちで《ニクセの船》に向かいました…どうぞ、師の魂を…お見送り下さい」
聞き取りづらい、その震える声を咎める者はいなかった。
✩.*˚
フィーア王国で最も名の知られた治癒魔導師であるオリバー・テオ・フォン・レプシウスは97歳という超高齢でその長い生涯を終えた。
彼は貴族に生まれ、高名な治癒魔導師を師事し、宮廷でも名の知れた治癒魔導師であったが、王室で流行した流行病をきっかけにその地位を追われた。
その後、彼は宮廷治癒魔導師の職を辞し、前ヴェルフェル侯爵の求めに応じる形でフィーア南部に移り住んだ。事実上の隠居であるが、彼はそれから残りの人生を南部に捧げた。
彼が無ければ、フィーア南部はこの後の戦乱で失われていたことだろう…
彼の遺志を継いだ弟子たちは、彼の死後も長くフィーア南部を支えることとなる。
特に、後に《南部の壁》と呼ばれる《飛燕の騎士》と、ラーチシュタットの《癒しのリリィ》の二人はレプシウスの死後、彼の寿命を超える時間を南部に捧げた。
《癒しのリリィ》はレプシウス師の死後、ラーチシュタットで治癒魔導師として留まり、彼の遺志を引き継いだ。
彼女の傍らには姉のようなエルフが寄り添っていたが、それもいつしか消え、彼女の通う白い墓石が増えた。
《癒しのリリィ》が何者なのか、どこから来たのか、なぜここにいるのか、いつしか誰もそんなことを気にしなくなっていた。
彼女はラーチシュタットの一部になった。
彼女は毎日|《夫》と《娘》の墓に花を供えて、治癒魔導師として仕事に向かう。
それが《癒しのリリィ》の《レプシウス》としての使命なのだから…
彼は《雷神の拳》のご隠居だし、フリッツがいるから傭兵団には影響はないかもしれないが、今回は随分長居するんだな、と思っていた。
「グスタフは誕生会以外にも何か用事あるのか?」と、ワルターに訊ねたが、「ちょっとな」と話をぼかして教えてくれない。
グスタフにも直接訊いてみたが、彼は「手紙の返事を待ってるんだ」とだけしか教えてくれなかった。
何の手紙か気になったが、話してくれないところを見ると、俺があれこれ詮索するべきじゃないだろう。
そんな折にロンメルの屋敷にレプシウス師から手紙が届いた。
「スーに急ぎでだって」と、ミアがわざわざ《燕の団》に届けてくれた。いつもはアショフが届けてくれていたのに、今回はラーチシュタットの飛竜で届いたから、ミアもおかしいと思ったようだ。
すぐに手紙を開いて確認すると、手紙の文字は読みやすい綺麗な字だが、レプシウス師のものでは無かった。その時点で嫌なものを感じたが、手紙を読み進めてその予想が間違っていないと知った。
「…スー…レプシウス様はなんて?」
「…もう…長くないって…」
レプシウス師は自分の命が長くないと悟って俺に手紙を寄越したらしい。アショフが届けてくれなかった理由もそれで納得した。レプシウス師が危篤であるなら、手紙を届けている場合ではないだろう。
『この手紙が届く頃には、私は《ニクセの船》に乗っているかもしれません』と寂しい言葉に続いたのは、俺を気遣うような優しい言葉だ。
『私の親愛なる弟子のスペース』との呼びかけに胸が熱くなった。
レプシウス師は、俺の《望み》を叶える術を見つけられなかったと詫びていた。彼は最後まで俺とミアの願いが叶うようにと手を尽くしてくれていたのだ。
手紙を読んで聞かせると、ミアもレプシウス師を思って泣いてくれた。
「スー、すぐにラーチシュタットに行きなよ!もしかしたら…今だったら間に合うかも…」
「…でも」
今の《燕の団》には、今までまとめ役だったゲルトもカミルもいない。
馬を飛ばしても、ラーチシュタットまで一日半はかかる。往復なら単純に三日かかるし、用事もすぐに済ませられるか分からない。
少なくとも数日は団を離れることになるだろう。
「行けよ。あの爺さん死にそうなんだろ?」
ラーチ行きを渋る俺の背を押したのはディルクだった。
「お前の留守の間は俺たちで何とかする。お前は爺さんに会いに行け」
「何とかするって…」
「勝手にデカい仕事は受けねぇよ。旦那にも話せば分かってくれるはずだ。細々した仕事なら俺たちでも問題ねぇだろ?
お前は爺さんの心配だけしてろ」
わざと突き放すような言い方をしてるのは、俺に気を使わせないためだろう。
「スー。ディルクが引き受けてくれるなら大丈夫だよ。旦那様にも話しておけば、あとは心配しなくていいからさ。急いでレプシウス様に会いに行って…
会えなかったら、きっと後悔するから…」
「悪い…できるだけ早く戻る」
そう約束して、ディルクに後を任せ、《燕の団》を後にした。
ロンメルの屋敷に戻ってすぐワルターに事情を話すと、彼も「行ってこい」と言ってくれた。
「俺もあの爺さんには何度か助けられた。俺の分も頼む」と、口添えの手紙を書いて持たせてくれた。
万が一の時はロンメル男爵の名前を出していいとまで言ってくれた。
急いで支度を済ませて、一人でラーチシュタットに向かった。
道中のことはあまり覚えていない。とにかく、気持ちばかりが急いて、何も頭に入ってこなかった。
何度か休憩を挟んだが、馬にもかなり無理をさせてしまった。途中から乗ることさえできなくなり、一緒に歩いて宿に入った。
ディルクがいれば止めてくれたかもとも思ったが、ディルクは二人いない。しかも、俺の代わりに《燕の団》に残ってくれたのだ。冷静に動けない自分が恥ずかしかった。
「ごめんな…リコリス」
ぐったりと蹲った白馬の足は熱を持っていた。治癒魔法をかけると少しだけ楽になったようだったが、明日は無理させないようにと肝に銘じた。
親友が譲ってくれた馬だ。大切にするって約束したくせに、こんな姿を見たら俺に贈ったことを後悔するだろう。
とりあえず、その日は馬房で寝て朝を迎えた。
太陽が朝焼けを広げる頃に、リコリスが鼻先でつついて起こしてくれた。
彼は俺が離れると立ち上がって力強く足踏みして見せた。
自分はもう大丈夫、と伝えたいのだろうか?
支度をしてまたラーチシュタットに向けて出発した。昨日の事もあり、少しだけ冷静になれた。
リコリスの背に揺られながら、手紙を取り出して目の前に広げた。
死期を悟った老人の手紙に綴られた優しい言葉は、どうしようもない侘しさを俺に与えた。
心配させないようにとの気遣いすら、二度と会えない事を暗示しているようで、それを思うと胸の中が苦しくなる。
レプシウス師との出会いも、今でも昨日の事のようにはっきりと思い出せる。今思えば、世間知らずだったとはいえ、無礼だった俺にも優しく接してくれた。
悪いことに打ちのめされた俺を励まして、立ち上がれるようにしてくれたのもレプシウス師だ。
彼との出会いがあったからこそ、大切なものを失っても俺はまた自分の足で立って、ワルターと肩を並べる事ができるようになったんだ。
今があるのはレプシウス師あっての事だ…
最後に会って、直接感謝を伝えたい。後は心配ないと、彼に伝えて《ニクセの船》に見送りたい。
そんな気持ちを胸に、街道を進んで、太陽が沈む頃にラーチシュタットの高い外廓を目にすることができた。
リコリスも疲れている様子だったが頑張ってくれた。早く休ませてやりたい。
焦る俺の気持ちとは裏腹に、街道に面したラーチシュタットの堀にかかる跳ね橋は容赦なく今日の役目を終えていた。
「日が落ちたら跳ね橋は使えない決まりだ」と守衛は俺たちを冷たく拒絶した。
他の出入り口も同じで、余程でない限り例外は無いという。その場合は城代のアレイスター子爵の許可が必要とのことだった。
「ロンメル男爵から書状を預かって来てる。レプシウス師の見舞いだ。俺はレプシウス師の弟子でスペース・クラインという。確認してもらって構わないから、城代に取り継いでほしい」と守衛に頼んだが、すぐには信用してもらえなかった。
酷く草臥れた格好で、とても貴人に目通りするような姿じゃなかったからだろう。
「明日の朝出直せ」と言われたが、時間が惜しくてここまで馬を飛ばしてきたのだ。それに、リコリスももう限界で、彼を連れて最寄りの村にまで戻るのは無理だ。
俺も譲れずに守衛と言い合いになっていると、不審に思った別の守衛らも加勢に来た。俺はすっかり不審者扱いだ。その理不尽な扱いにさらに苛立ちを募った。
「なんの騒ぎだ?」と、ついには彼らの上司らしい甲冑姿の騎士が現れた。
彼は守衛らに状況を確認して、俺に向き直ると険しい顔で俺の方に歩いて来た。
向こうの話だけ一方的に容れたのかと思ったが、彼は俺の言い分も確認してくれた。
「ロンメル男爵家からの使者とのことだが、誠か?」
「本当だ。ロンメル男爵からの書状もあるし、レプシウス師からの手紙もある」と答えて、隊長っぽい騎士にワルターとレプシウス師の手紙を見せた。
彼は手紙の紋章を確認して、「預かってもいいか?」と訊ねた。この男は話ができる相手のようだ。
「私はこの門を預かる守衛隊長のゲッフェルトだ。私も怪我をした折、レプシウス老師には世話になった恩がある。まだ、老師はご存命だ。もし、老師が希望されるなら便宜を図ってやる。しばしここで待て」
まだ、レプシウス師が生きていると聞いて少しだけ安堵した。
「分かった…ここで大人しく待つ。馬に水をやってもいいか?ここまで走って疲れてるんだ」
ゲッフェルトは疲れて項垂れているリコリスを不憫に思ったようであっさりと許可してくれた。
「なるほど、そのぐらいなら良いだろう。世話をしてやれ」と言って部下に水を用意するように命じた。
「良い馬だ。大事にしてやれ」と言い残してゲッフェルトは手紙を手に、連絡用の小さな石橋を渡ってラーチシュタットに入って行った。
喉が渇いていたリコリスはすごい勢いで水を飲み切ると、その辺に生えていた草を食んで小腹を満たしていた。
随分待たされたが、大人しく待った甲斐はあった。
守衛に呼ばれて跳ね橋の前に戻ると、大きな軋む音と金属のこすれる響いて、巨大な橋は人を受け入れる姿になった。
やっと渡れると思っていると、ラーチシュタット側から騎馬の一団が雪崩れるように城門から出てきた。まるで捕り物だ。
ワルターの手紙もレプシウス師の手紙も見せたのに何で?と思っていると、リコリスが甘えるような声で鳴いた。
先頭を駆け抜けてきた白馬がリコリスの前で足を止めた。その背中に乗っている金髪の青年の姿を見て驚いた。
「スーか?!」と誰何する声に聞き覚えがあった。
大人になって姿が変わっても、彼の輝くような青い瞳はあの時と変わっていなかった。
「…アレク?」
「スー!本当にスーだな?!」俺の呼びかけに確信を持った青年は馬から飛び降りて俺の手を握った。そのまま手繰り寄せるように、アレクは汚れた俺を気にせず抱きしめた。
「やっと会えた!会いたかった!」と周りが見えない様子で喜ぶアレクに圧倒されて、言葉が出なかった。
最後に見たときの彼はもっと細くて少年らしい顔立ちだったけど、見ない間に背が高くなり、大人っぽく成長してパウル様にそっくりになっていた。きっと若い頃のパウル様はこんな感じだっただろう。
「アレクシス様、少し落ち着いてください。スーが驚いてますよ」と苦笑いを浮かべた赤毛の青年がやって来てアレクと俺を引き離した。
周りの目に気付いて、アレクは恥ずかしそうに顔を真っ赤にして離れたが、手は相変わらす握ったままだ。赤毛の青年はその様子を優しい顔で眺めていた。
「クラウス?」
「はい。覚えていてくれたんですね」と答えるクラウスは嬉しそうだ。
「忘れたりしないよ。でも…二人ともだいぶ変わったね?」
「君も変わった。あの頃より大人っぽくなった」と、アレクが少し照れたような嬉しそうな顔で言った。
照れた顔はあの頃のままだ。それが懐かしかった。
会えない間に、俺たちの上には長い時間が過ぎていたようだ。
「アレクシス様。早くスーをラーチシュタットに入れてあげてください」
「あ、あぁ、そうだったな…
スー、とりあえず一緒に来てくれ。レプシウス師も君が会いに来るのを待ってる」
そう言って、アレクは俺を連れてラーチシュタットの中に案内してくれた。
アレクらに会えて安心してしまったからか、急に足元がふらついた。
「大丈夫か、スー?馬車を用意させようか?」とアレクは気を使ってくれた。
「大丈夫…疲れてるだけだから」
「馬には乗れますか?
君の乗ってきた子はもう無理そうですから私の馬を使ってください」と、クラウスが自分の馬を譲ってくれた。
「前にもクラウスには馬を譲ってもらった」
「ふふっ。あの時ですか?懐かしいですね」
クラウスはそう言って懐かしむように微笑みながら、俺が馬に乗るのを手伝って辺りを見回した。俺が一人だったという事に気付いて彼は首を傾げていた。
「スー、一人でブルームバルトから来たのですか?傭兵団の団長が伴もなしに?」
「急ぎだったから…一人の方が早いし、ちょっと団の方もごたごたしてたからさ。後の事任せて出てきたんだ」
「それでも一人なんて不用心ですよ。ラーチシュタットの周りは街道の商人を狙った賊が後を絶たないのです。帰るときは護衛を付けますから、一声かけて下さい」
「それを許すロンメル男爵も男爵だ!あの男は相変わらず気が利かないのだな!」
アレクはワルターを悪く言ったが、彼は俺がラーチシュタットに行くのを後押ししてくれた。
ラーチシュタットへの手紙も用意してくれたし、取り継いでもらったのはヴェルフェル侯爵の縁者としてロンメル男爵の手紙があったからだろう。
「ワルターが手紙を持たせてくれたから取り継いでもらえたんだ。君にも会えた。
それに彼はレプシウス師に会いに行くのを迷ってた俺に、『行って来い』って言ってくれたんだ。だからワルターは悪くないよ」
俺がワルターを庇うと、アレクは少し拗ねたような顔をしたが、それ以上ワルターの事を悪く言う事は無かった。
「大丈夫。アレクシス様はちゃんと分かってますよ。でも、君が心配だったからあんな言い方になっただけです」
「クラウス!」
「ほらね。当たってるみたいです」
二人とも相変わらず仲が良い。クラウスはあの頃と変わらず、アレクの足りない部分を補ってくれているようだ。
変わらない彼らの関係に安堵して、俺にも変わらずに接してくれる二人が嬉しかった。
心のどこかで、流れた時間と同じく、会えない間に彼らが変わってしまってるのではないかと心配していたが、そんな事は無かったようだ。
アレクはクラウスに俺の着替えや宿を用意するように指示して、俺と一緒にレプシウス師の屋敷に向かった。
アレクにレプシウス師の容態を聞くと、彼は深刻そうに眉を寄せた。それを見て、やはりレプシウス師の容態が深刻なのだと察した。
「もうご高齢だから、持ち直すのは難しいだろう…
私たちも覚悟していたことだが、やはりあの方を失うと思うと辛いな…」
残念そうに語るアレクの言葉に口を噤んだ。
泣きそうになる俺に、アレクは優しく慰めてくれた。
「でも、君が間に合ってよかった。
私が出てくる時には、まだレプシウス師も意識がはっきりしていたし、弟子たちが少しでも長く延命できるようにと懸命に治療を続けていた。きっとまだ間に合うはずだ」
「…うん」
「私にとってもレプシウス師は大切な恩人だ。
一番大変な時に君を癒してくれた人だ。本当に感謝しているし、君と同じくらい大切に思っている。
レプシウス師は君のこともずっと気にかけていた。だから、君が顔を見せるだけでも、きっと喜んでくれるはずだ」
アレクの言葉に頷いて、ともすれば溢れそうになる涙を堪えた。
「ありがとう、アレク…」
「礼なんて要らない。私はあの時、君の慰めにはなれなかった。今、少しでも君の支えになれるなら、私もようやく自分を許すことができる」
馬を並べてアレクは柔らかい笑顔を俺に向けた。
「スー、君は今でも私の特別な友達だ」
ずっと聞きたかった彼の言葉に頷いて、「ありがとう」と答える声は震えていた。
✩.*˚
残さねばならない言葉ももう無くなった…
満たされたような気持ちで、自らの死を受け入れることができるとは、何と幸せな事だろう…
「もういいですよ、リリィ…」自分の命を繋いでくれている愛弟子に声を掛けたが、彼女は大粒の涙を流しながら首を横に振った。
彼女は寿命の無い老人の《延命治療》までできる優秀な治癒魔導師になっていた。
《延命治療》は遺言などを残す必要のある貴人に施す難しい治癒魔法で、術者の負担も大きい。魔力や生命力の高いエルフのリリィでも、消耗が激しく辛そうだ。
リリィの傍らには、リリィに魔力を分け与えて補助するベスの姿があった。
師として、成長した二人の姿を誇らしく思う。
「これ以上続ければ、君たちの命にもかかわります…もう充分ですよ」と、命を流し込む彼女の手を離そうとしたが、彼女はしっかりと乾いた老人の手を握って離そうとはしなかった。
「やだ…だって…レプシウス様が…」
「ありがとう、リリィ…ベスも…二人のおかげで、残さなければならない言葉はもうなくなりました。だからもう本当に十分なのですよ」
自分の役目はもう無いのだ。
残す言葉はアショフが全て記録してくれたし、私の遺言が果たされるように、城代であるアレイスター子爵やヴェルフェル公子が力を尽くしてくれると約束してくれた。
一つだけ心残りなのは、彼を待つことができなかったことぐらいだ…
きっと、彼はこの国にとって特別な存在になる…
直接会って、彼にこの国の行く末を託したかったが、それももう難しいだろう…
穏やかに死を迎えるだけの老人に、一報が舞い込んだ。
「失礼いたします。レプシウス師、ヴェルフェル公子様がお見舞いにいらっしゃいましたが…いかが致しましょうか?」
「…ふむ…アショフ、お通しして下さい」
最後の来客になるはずだった青年は、私の病床に膝を折って顔を近付けた。
「レプシウス師。お加減はいかがでしょうか?」
「上々ですよ。可愛い妻と娘がこの粗末な老人を看取ってくれるのですから」と答えると、若者は私のジョークに苦く笑った。
本当はそんな気は無かったのだが、リリィとベスが望んだのは、私の家族になることだった。
結局、病床に臥しても彼女らは熱心に私を口説き続けて、最後には私が折れた。
公平な籤の結果、リリィが私の妻に、ベスが私たちの養女になった。
自ら望んだ結果ではないが、私の死後も彼女らがラーチシュタットに残ることになるなら、この選択は悪いものでは無いだろう。妻子の無い孤独な老人の財産を彼女らに合法的に残すことができるし、私が死んだ後も彼女らが生活に困ることもないはずだ。
フィーアに残るも、アーケイイックに戻るも、後は二人の気持ち次第だろう。
「今日のラーチシュタットはどうでしたか?」と私の知らないラーチシュタットの一日を訊ねると、公子は私の問いに答えてくれた。
彼の語るラーチシュタットの様子は穏やかそのもので、時の満ちた老人が一人いなくなったところで、さして変化は無いのだろう…
益々穏やかな気持ちで、安心して《ニクセの船》に乗ることができる気がした。
公子の話を聞いている間に、窓の外は日が落ちて暗くなっていた。
そろそろ頃合いだろう…
名残惜しいがそろそろリリィに手を離してもらおうと思っていると、また別の来客の一報が届いた。
慌てた様子のアショフの案内で部屋を訪ねてきたのは、以前治療をしたことのあるゲッフェルト卿という騎士だった。
彼は居合わせた公子の姿を見て少し気まずそうにしていたが、私が用事を訊ねると、二つの手紙を取り出して私に見えるように掲げて見せた。
見覚えのある封蝋を押した手紙は、確かに私が出したものだ…
「これを持った青年がラーチシュタットの外に来ています。
ロンメル男爵の使いで、スペース・クラインと名乗っております。お心当たりはございますか?」
その名前を聞いて、弱っていた心臓が強く脈打つのを感じた。温度を失いつつある身体に熱が戻るような感覚を覚え、恋焦がれるように心が震えた。
ゲッフェルト卿の言葉に心を奪われたのは私だけでは無かった。
「スーが!?スペースが来てるのか!?」
跳ねるように立った公子の動作で椅子が床に転がり、大きな音を立てた。
公子は驚いて固まっているゲッフェルト卿から手紙をひったくって、慌てて手紙の中身を検めた。
普段の彼からは想像できないような姿に、ゲッフェルト卿もあっけに取られて言葉を発するのも忘れている様子だ。
手紙を検めた公子はゲッフェルト卿の腕を掴むと「案内しろ!」と怒鳴りながら部屋を出て行こうとした。
「て、手紙!」とベスが慌てて公子を引き留めた。公子は慌てて手紙を返すために病床に引き返してきた。
彼の顔は心ここにあらずといった様子だ。
「失礼しました。私はすぐにスーを連れて戻ります。それまでしばしお待ちください」
取り繕うようにそう言い残して、公子は踵を返して足早に部屋を後にした。廊下で怒鳴るような声が聞こえがすぐにそれも小さくなって消えてしまった。
私の返事も聞かずに随分勝手ですね…まぁ、返事は決まっていますが…
「…リリィ、ベス、お願いがあります」
疲れた顔の二人は私の呼びかけに応えて、まっすぐな視線を私にくれた。
「私の最後の我儘です。あと少し…あともう少しだけ頑張ってください」
私の酷い我儘を聞いて、二人の疲れていた表情に一瞬輝きが戻った。
「お任せください」と、リリィが答えると、ベスの大きな声がリリィの声をかき消すようにかぶさった。
「大丈夫レプシウス様!私頑張る!」
「…ベス…耳痛い」ベスの大きな声が辛かったようで、リリィは少し怒った様子で苦情を言った。さっきまでの暗かった二人の様子が、いつもの様子に近いものになる。
やっぱり、彼女らにはそういう掛け合いが似合っている。
私はまだ《ニクセの船》に乗るのは早いらしい。
どうせ、急いで乗らなければならないものでは無い。すべての人の辿り着く場所だ…
女神を待たせるのは気が引けるが、雲雀の女神にとって、私の延命の時間など船の手休めになる程度の短い時間だ。目を瞑ってくれるだろう。
ともすれば手放しそうになる意識を集中させて、リリィから流れ込む温もりを大切に身体にとどめた。
リリィの手から流れ込む温もりに混ざって、ベスの少し高い温度も感じる。
本当に、二人とも立派になりましたね…
治療に集中する二人の顔を交互に眺めて、応援する気持ちを込めて、少しだけ強くリリィの手を握り返した。
✩.*˚
アレクの案内で、前にも来たことのあるレプシウス師の屋敷に到着した。ここまで誰にも止められなかったのはアレクが迎えに来てくれたからだ。
俺たちが来た一報を受けて、すぐにアショフが出迎えに来てくれた。
「スー!来てくれたんですね!」
「アショフ、レプシウス師は?」
「リリィとベスが頑張ってくれています。さぁ、早くお師匠様に顔を見せてあげてください」
挨拶もそこそこに、俺を急かすアショフの姿は珍しく、その彼らしくない姿がレプシウス師の容体の悪さを物語っていた。
柄にもなく緊張しながら、案内されたレプシウス師の寝室に向かった。
ノックの音を響かせたドアを押すと、寝室を隔てる役割の木の板は来客を招き入れるように軽い感触を残して開いた。
部屋から溢れ出た匂いに混ざって、死を連想させるような独特の空気を感じて足が重くなった。
部屋に配された在り来りなベッドには、見知った二人の少女が寄り添っている。彼女らの先にはベッドに横になっている誰かの姿があった。
「よく来てくれました」という、かすれるような弱々しい声が鼓膜を震わせた。その懐かしい声はベッドのほうから聞こえてきた。
痛々しいほど弱った声に、胸が潰されるような感覚を覚えて、ここまで叱咤して動かし続けていた足がそれ以上前に出るのを拒絶した。
彼のこんな姿は見たくなかった…
心のどこかで、実はまだ元気そうな姿をしているはずだと、期待していた自分がいた。
部屋に入ってすぐに足を止めてしまった俺の肩に、アレクの手が添えられた。
俺の支えになると約束してくれた親友は力強く俺の肩を抱いて、レプシウス師の横たわるベッドの傍に俺を立たせた。
ベッドに横に立ち、目の前にした痩せた老人の姿にショックを受け、声を掛けることも忘れていた。
枯れ木を思わせるような乾燥した肌は生気を失い、かさついた唇は血色の悪い色をしていた。
浅い呼吸を繰り返す薄い胸はゆっくりとした動作で上下しながら命を繋いでいるが、その弱い呼吸はいつ止まってもおかしくは無いだろう。
その姿を拒否するように、俺の視界はぼやけて涙が溢れた。
「いらっしゃい、スー…君を待っていました…どうぞ近くに…」
眠そうなかすれた声は、優しい響きで俺を歓迎してくれた。
レプシウス師に望まれるまま、その場に膝を折って、ベッドに横になったままの彼に視線を合わせた。
近くで見たレプシウス師の表情は、かすかに微笑んでいるように見えた。
「君に、お願いがあります…もう、私には同じことを二度言う時間はありません…一方的ですが…聞いてください」
悲しい前置きを告げて、レプシウス師は俺の返事を待たずに、ぼそぼそとかすれた声で言葉を続けた。
「君が…どのような使命を持って生まれたのか…何故この国に来たのか…何故私と出会ったのか…それは分かりません…
その使命は神のみぞ知ることでしょう…私はそう思っています…
しかし…以前言ったように、君は特別な存在だという私の考えは変わっていません…おそらく、神の降ろした特別な命なのです…
そうでなければ、人でもなく、妖精でもない君の存在は説明がつきません…
私はそう思っています…
だから…私は…君に未来を預けたいと…そう思っています…」
かすれた声は一度途切れて、乱れた呼吸を整えると言葉を続けた。
「…私の…この老いぼれの代わりに…未来を見てくれませんか?
貴方の目で、貴方の命の続く限り…この国を見守り続けてほしいのです…
決して…簡単な話ではないでしょう…こんなお願いで、君を縛るのは本意ではありませんが…それでも、私は君に未来を託したいのです…
君はきっと…私の寿命を軽く追い越してしまうでしょう…
この場の誰よりも…長く生き、私の意思を…継いでくれる…そう信じてます…」
願いを込めるような一つ一つの言葉に、遮ることを忘れて聞き入ってしまう。
今、彼の言葉を聞き漏らしたら、おそらく俺は一生この事を公開するだろう…
父さんと別れたあの日のように…
ぽつぽつと続く言葉は、さらに聞き取りづらくなっていった。
それはまるで、薪を食い尽くした炎が、最後の輝きを閃かせて消える様に似ていた。
誰よりも長く生きた老人は、その最後の瞬間まで師として振舞い、人生の幕を降ろそうとしている。
彼の言葉を遮ろうとする者はここにはいなかった。
「君が…私の死後に来てくれた時のため…アショフに手紙を預けています…後で読んで下さい…
忘れないでください…私は…君の師として…君を、愛しています…
もっと…君と話したかった…私に時間があれば…そう悔やまれてなりません…
君と話すこの時間を…作ってくれた二人に…感謝しています…」
レプシウス師はそう言って、手を握り続けている少女とその傍らに立つ少女に感謝を伝えた。
「リリィ…繊細な君には…治癒魔導師は辛い仕事です…それでも…私の期待に応えようとしてくれた…その気持ちは…私にとって尊い宝物です…ありがとう…
ベス…君に明るさは…私にも、リリィにも、支えになっていましたよ…君から元気をもらって…私も癒されてました…魔法は、相性があります…治癒魔導師になるのは難しくとも…君には君のやり方があります…リリィを…これからも支えてあげて下さい…
アショフ…君には苦労を…かけました…誰よりも、長く…この我儘な老人に付き合ってくれました…ありがとう…後は…最も信頼する君に…任せます…二人を…頼みます…
ありがとう…私は…幸せです…これほど…恵まれた最後は…想像していませんでした…ありがとう…」
掠れた声の最後の方はほとんど言葉になっていなかった。最後の力を振り絞って、感謝を伝えた老人の目は焦点を失って、震えた瞼からは瞬きすらなくなった。
俺たちの目の前で、彼の身体からスゥっと何かが抜け落ちたのを感じた。
「…レプシウス様…レプシウス様?!」
手を握っていたリリィが声を上げた。小さな悲鳴を上げて、ベスがその場に崩れ落ちた。
「レプシウス様!リリィは…リリィはまだ大丈夫です…大丈夫だから…受け取って…まだ…待って…」
リリィにはレプシウス師に注いでいた魔力の流れが止まってしまったと分かったのだろう。それがレプシウス師の意思かどうかは判別できない。
ただ、その場の全員が、彼は《ニクセの船》に乗ったのだと理解した…
フィーアは偉大な治癒魔導師を失った…
老人の遺体に縋って泣く少女らの背を優しく撫でて、アショフはレプシウス師の遺体を整えた。
レプシウス師から直々に頼まれたのだ。その気持ちに応えるように、彼は気丈にふるまっていたが、その声は悲しく震えていた。
「皆様…師の最後に立ち会ってくださり、ありがとうございます…
師は満足して安らかな気持ちで《ニクセの船》に向かいました…どうぞ、師の魂を…お見送り下さい」
聞き取りづらい、その震える声を咎める者はいなかった。
✩.*˚
フィーア王国で最も名の知られた治癒魔導師であるオリバー・テオ・フォン・レプシウスは97歳という超高齢でその長い生涯を終えた。
彼は貴族に生まれ、高名な治癒魔導師を師事し、宮廷でも名の知れた治癒魔導師であったが、王室で流行した流行病をきっかけにその地位を追われた。
その後、彼は宮廷治癒魔導師の職を辞し、前ヴェルフェル侯爵の求めに応じる形でフィーア南部に移り住んだ。事実上の隠居であるが、彼はそれから残りの人生を南部に捧げた。
彼が無ければ、フィーア南部はこの後の戦乱で失われていたことだろう…
彼の遺志を継いだ弟子たちは、彼の死後も長くフィーア南部を支えることとなる。
特に、後に《南部の壁》と呼ばれる《飛燕の騎士》と、ラーチシュタットの《癒しのリリィ》の二人はレプシウスの死後、彼の寿命を超える時間を南部に捧げた。
《癒しのリリィ》はレプシウス師の死後、ラーチシュタットで治癒魔導師として留まり、彼の遺志を引き継いだ。
彼女の傍らには姉のようなエルフが寄り添っていたが、それもいつしか消え、彼女の通う白い墓石が増えた。
《癒しのリリィ》が何者なのか、どこから来たのか、なぜここにいるのか、いつしか誰もそんなことを気にしなくなっていた。
彼女はラーチシュタットの一部になった。
彼女は毎日|《夫》と《娘》の墓に花を供えて、治癒魔導師として仕事に向かう。
それが《癒しのリリィ》の《レプシウス》としての使命なのだから…
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怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
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