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雲の裂け目
雲の裂け目(2)
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精神科病棟の個室。モニターの電子音がリズムを刻み、外光は白いカーテンに遮られ淡くゆらいでいる。
ベッドサイドの椅子に腰かけた七虹は、擦れた背表紙の絵本『ぐんじょうりょこう』を両腕で抱え込み、そっと声を落とした。
「ずっとずっと空の上、雲より高いところに──」
ページをめくるたび、紙が微かに鳴る。七虹は担当看護師である静の娘で、光也の従姉妹でもある。その縁で家族扱いとなり、特別に入室を許されていた。
横たわる光也の瞼は閉じたままだ。それでも七虹には、彼が幼い頃から向けてくれた穏やかな笑顔の記憶が息づいている。互いにひとりっ子の二人にとって、光也は七虹の“兄”のような存在だった。だからこそ七虹は、もう一度その笑顔を見たいという祈りを胸に、朗読を続けている。
「ルクスは塔のてっぺんへ登り、そっと鐘を鳴らしました。ごーん……と遠くへ届く音が響きます」
その一節を声に乗せた瞬間、ベッド上の青年・光也の右手の指がピクリと屈伸した。
「今……!」
椅子が軋む音。側で見守っていた静が立ち上がった。静は目線を下げてモニターを確認し、次いで甥のまぶたを覗き込んだ。
心拍数が一点、緩やかに上昇している。浅い呼吸は安定しているが、脳波には微細な波が走った。無動化状態が続く光也にとってこれは稀有な変化だった。
「……呼吸は落ち着いてる。大丈夫」
静は囁くように言いながら、光也の右手を包み込む。手のひらにはまだ緊張が残るが、確かに温度が戻りつつあった。
「先生を呼んでくるね」
静が出て行った後、病室には再び機械のリズムだけが残る。七虹は光也の手を握った。
「聞こえたの? ルクスの鐘の音が」
静かな問いかけに、光也の睫毛がかすかに揺れた。返事はない。それでも、そこには明らかな“反応”がある。
絵本の最後のページには、七虹が描いた小さな虹の落書きがある。それはまだ乾ききらない絵の具の匂いを放ち、病室の空気に淡い彩りを添えていた。
ベッドサイドの椅子に腰かけた七虹は、擦れた背表紙の絵本『ぐんじょうりょこう』を両腕で抱え込み、そっと声を落とした。
「ずっとずっと空の上、雲より高いところに──」
ページをめくるたび、紙が微かに鳴る。七虹は担当看護師である静の娘で、光也の従姉妹でもある。その縁で家族扱いとなり、特別に入室を許されていた。
横たわる光也の瞼は閉じたままだ。それでも七虹には、彼が幼い頃から向けてくれた穏やかな笑顔の記憶が息づいている。互いにひとりっ子の二人にとって、光也は七虹の“兄”のような存在だった。だからこそ七虹は、もう一度その笑顔を見たいという祈りを胸に、朗読を続けている。
「ルクスは塔のてっぺんへ登り、そっと鐘を鳴らしました。ごーん……と遠くへ届く音が響きます」
その一節を声に乗せた瞬間、ベッド上の青年・光也の右手の指がピクリと屈伸した。
「今……!」
椅子が軋む音。側で見守っていた静が立ち上がった。静は目線を下げてモニターを確認し、次いで甥のまぶたを覗き込んだ。
心拍数が一点、緩やかに上昇している。浅い呼吸は安定しているが、脳波には微細な波が走った。無動化状態が続く光也にとってこれは稀有な変化だった。
「……呼吸は落ち着いてる。大丈夫」
静は囁くように言いながら、光也の右手を包み込む。手のひらにはまだ緊張が残るが、確かに温度が戻りつつあった。
「先生を呼んでくるね」
静が出て行った後、病室には再び機械のリズムだけが残る。七虹は光也の手を握った。
「聞こえたの? ルクスの鐘の音が」
静かな問いかけに、光也の睫毛がかすかに揺れた。返事はない。それでも、そこには明らかな“反応”がある。
絵本の最後のページには、七虹が描いた小さな虹の落書きがある。それはまだ乾ききらない絵の具の匂いを放ち、病室の空気に淡い彩りを添えていた。
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