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2話 悪評だらけの主
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作業が終わり、ジェシカは仕事の出来を確認する。ひとつも手を抜かず、丁寧に行えたと満足しながらジェシカはベネディクトに声をかけた。
「ベネディクト様、お待たせいたしました。掃除が終わりました」
「……ああ」
ドア付近の壁にもたれ読書をしていたベネディクトが本を閉じる。無表情だった彼は顔を上げると、すぐに渋面を作った。
「窓」
「……え」
「窓が開いたままになってる」
ジェシカは振り返り、開け放たれた窓に目をやった。埃が立つため、掃除の前にジェシカはこの窓を開けた。
掃除を終えても換気のためにしばらく開けておくのが一般的だったが、ベネディクトはそれが気に入らないらしい。
部屋に入った時は明かり取りのために窓はほんの僅かに開いているだけだったことを思い出す。ベネディクトは陽を浴びるのが好きではないのだろう。
「申し訳ございません、すぐに閉めます」
この塔は王宮から離れた位置にある。人寂しい場所ではあるが、辺りを森に囲まれているため、窓の外には花をつけた木々が色鮮やだ。夜には月や星がよく見えると聞いている。
つい見入ってしまう光景だが、見慣れたベネディクトにとってはたいしたものではないのだろう。
ジェシカは来た時と同じようにほんの僅かに窓を開けた状態にする。
満足したのか、ベネディクトはようやく定位置となる椅子に座った。
「では、私は控え室に待機しておりますので、何かありましたらお呼びください」
そう言いながらも、おそらく呼ばれることはないだろうとジェシカは思った。
予想通り、その日ジェシカがベネディクトに呼ばれることはなかった。
「やっぱり警戒されてるわね」
侍女となってまだ日が浅い。悪魔憑きと敬遠されてきた彼の立場を考えれば、よく知らないジェシカを警戒するのも当然だ。慣れぬ気配は居心地が悪いものだろう。
だから、まずはジェシカという人間に慣れてもらわなければならない。信用されずとも、そこにいるのが当たり前の存在にならなければ。
ジェシカはそれからただ淡々と職務をこなすことだけに努めた。
ベネディクトは相変わらず口を利こうともせず、ジェシカに壁を作っていたが、気にしなかった。
任務に期限はない。長期戦だと最初から覚悟はしていた。
気がつけば、あっという間にひと月が経過していた。
「もういらない。下げて」
ベネディクトはジェシカを見ずに、カトラリーを置いた。
ベネディクトの食事量は少ない。成人男性どころか、成人女性よりも食べていないのではないだろうか。
同僚が舞踏会前に雀がついばむ程度の食事をしていたが、それと同等に思える。
もっと食べたほうがいいのではないかと言いたくなる気持ちを抑える。心を許せない人間の忠告など、彼にとっては耳障りなだけだろう。
ジェシカは最低限の挨拶だけを口にし、お盆を手に塔を後にした。
「あら。ジェシカ、久しぶりじゃない」
食器を下げに厨房を訪れると聞き覚えのある声がした。顔を上げると見知った顔があり、ジェシカは笑顔を浮かべた。
「アネット。こんな時間に会うとは思わなかったわ。殿下、昨日は遅くまで起きていらっしゃったの?」
アネットはつい先日まで共に同じ主に仕えていた同僚であり、友人だ。侍女の仕事を丁寧に教えてくれた先生でもある。
「ええ。寝室にまで書類を持ち込んでらして……先程目を覚まされたところなの」
「……そう。殿下は相変わらずお忙しいのね」
「休まれることも滅多にないの。私達がいくら休憩するように提案しても聞き流されてしまって。いつか倒れられるんじゃないかとハラハラしてるのよ。ジェシカ、殿下にお会いしたらたまには休憩をとるようにお伝えして。あなたの言葉なら殿下はお聞きするだろうから」
絶対に近いうちに顔を出してとアネットはジェシカに頼んだ。
「みんな、寂しがってるわ。職場は遠くなっても毎朝ここでは会えると思ったのに、全く会えないんだもの」
「ベネディクト様、朝は遅いの。いつもこのくらいに朝食を取られてるから」
「そうだったの。これほど遅い方は珍しいわね。……ねえ、仕事は順調?」
「今のところ、問題なくこなせているわ。きっと、教えてくれた教師の腕が良かったおかげね」
ジェシカの返答にアネットは表情を和らげたが、すぐに心配そうに声を顰めた。
「もし、きついことがあったら、すぐに配置転換を希望してもいいと思うわ。今回のことは殿下の命だそうだけれど、きっと殿下だってお許しになると思うの。あんな恐ろしい悪魔憑きの侍女なんて、半年も続けばいい方だって聞くし」
「アネット。心配してくれるのはありがたいけれど、不敬よ。あの方をそんな風に言うなんて」
「あ……そうよね。でも、あの方に仕えた侍女は、だんだんと心身ともに不安定になって辞めていくのよ。十数人の侍女がついたけれど、誰ひとり、この城には残っていない。だから、あなたも気をつけたほうがいいわ」
ベネディクトの侍女が定着しないことは知っていた。
元々悪魔憑きだと恐れられているうえに、ベネディクトの侍女の扱いも良いとは言えないからだろう。
与えられた仕事は食事の配膳と掃除のみ。彼は給仕などを一切必要としなかった。
仕事がない時は控室で待機となる。仕事の終わる夕方までひとりあのじめじめとした部屋で過ごさなければならない。
会話は仕事に関することだけ。それ以外は無視されてしまう。
普通の侍女であれば、半年持てばいい方ではないだろうか。
「最近では悪魔憑きはただの迷信だとか言う人もいるけど、信じられないわ。過去に何度も問題を起こしたから、そう呼ばれるようになったんでしょうし」
悪魔憑きとは、呼吸が止まった状態で生まれ、息を吹き返した者のことを指す。邪悪な心を持ち、人に仇をなす存在だと言われていた。
平民の悪魔憑きは脆弱でその場で殺めても害はないが、高貴な血が流れる王族や貴族では下手に危害を加えたらその家は呪われるとまことしやかに囁かれている。
二十七年前に生まれたベネディクトが悪魔憑きとなった時、大きな騒ぎになったらしい。ベネディクトの母であった前王妃はその心痛から儚くなり、彼はますます忌み嫌われるようになった。
ジェシカが生まれる前の話だから当時の様子は知らないが、仕える王家に関する話なのだからと父によく聞かされた。
王族に生まれた初めての悪魔憑き。第一子の男子ではあったが、王子と認めることも殺めることもできず、ベネディクトは塔に幽閉された。
彼は寿命が尽きるまで外に出ることは叶わない。
「あ……ごめんなさい、また言い過ぎてしまったわね。だから、そんなに暗い顔しないで。……そうだ、これあげようと思ってたのよ」
口数の少なくなったジェシカに、アネットは綺麗な包を差し出す。中には美味しそうな焼き菓子が入っていた。
「昨日、殿下がくださったの。すごく美味しいから、あなたにもって思って」
焼き菓子はジェシカの好物だ。不穏な噂ばかりの職場で働くジェシカを励まそうと、取っておいてくれたのだろう。
侍女の特訓をしていた頃、失敗に落ち込むジェシカに、アネットは時々こうしてお菓子をくれて励ましてくれた。
同じ主に仕える侍女仲間は皆気の良い者たちばかりで結束も堅かったが、中でもアネットは特に優しく、ジェシカとも一番親しかった。
「ありがとう。ありがたくいただくわ」
「いいのよ。私だってあなたにたくさん助けてもらってきたもの。……ジェシカ、何かあったらすぐに言うのよ。あなたは無理しがちだから……」
アネットは心配そうにジェシカを見やる。
彼女はただ暇つぶしの噂話でベネディクトの話をしたわけではないだろう。あまり危機感を抱いていないジェシカに、親切心でベネディクトの危険性を告げて警告しているのだ。
ベネディクトの侍女につくことを知った時、ジェシカの家族も同じような反応をした。父は悪魔憑きがどれほど恐ろしいのか、関わると不幸になるのかを丁寧にジェシカに説いた。
自暴自棄になっているのかと母に真剣な顔で言われた時などは、ジェシカはどう反応すればいいのか困ってしまったくらいだ。
彼らが心配してくれるのはありがたいが、ジェシカは使命を果たすまで、ベネディクト付きを辞する気はなかった。
「ええ。ありがとう。近いうちに顔を見せるわね」
アネットと別れ、ジェシカは再びベネディクトのいる塔へと向かった。
塔は鬱蒼とした木々に囲まれていた。苔と蔦に覆われた外観は不気味としか言いようがなく、皆がこの場所を倦厭するのも理解できる。
「戻りました」
塔の入口に立っている見張りの騎士に告げる。騎士は当番制なので日によって違う者がつくが、ひと月もすれば顔なじみとなっていた。
騎士は頷くと、扉の前から退いた。
ジェシカは塔の入口の鍵を取り出す。
王家は男をベネディクトに近づけるのを嫌った。見張りの騎士が無断でベネディクトに近づけないように、鍵は常に侍女が持つことになっていた。
慣れた手つきで鍵を開けていると、騎士がひとりごとのようにつぶやいた。
「余計なお世話かもしれないが、ベネディクト様には気をつけろよ」
「ベネディクト様、お待たせいたしました。掃除が終わりました」
「……ああ」
ドア付近の壁にもたれ読書をしていたベネディクトが本を閉じる。無表情だった彼は顔を上げると、すぐに渋面を作った。
「窓」
「……え」
「窓が開いたままになってる」
ジェシカは振り返り、開け放たれた窓に目をやった。埃が立つため、掃除の前にジェシカはこの窓を開けた。
掃除を終えても換気のためにしばらく開けておくのが一般的だったが、ベネディクトはそれが気に入らないらしい。
部屋に入った時は明かり取りのために窓はほんの僅かに開いているだけだったことを思い出す。ベネディクトは陽を浴びるのが好きではないのだろう。
「申し訳ございません、すぐに閉めます」
この塔は王宮から離れた位置にある。人寂しい場所ではあるが、辺りを森に囲まれているため、窓の外には花をつけた木々が色鮮やだ。夜には月や星がよく見えると聞いている。
つい見入ってしまう光景だが、見慣れたベネディクトにとってはたいしたものではないのだろう。
ジェシカは来た時と同じようにほんの僅かに窓を開けた状態にする。
満足したのか、ベネディクトはようやく定位置となる椅子に座った。
「では、私は控え室に待機しておりますので、何かありましたらお呼びください」
そう言いながらも、おそらく呼ばれることはないだろうとジェシカは思った。
予想通り、その日ジェシカがベネディクトに呼ばれることはなかった。
「やっぱり警戒されてるわね」
侍女となってまだ日が浅い。悪魔憑きと敬遠されてきた彼の立場を考えれば、よく知らないジェシカを警戒するのも当然だ。慣れぬ気配は居心地が悪いものだろう。
だから、まずはジェシカという人間に慣れてもらわなければならない。信用されずとも、そこにいるのが当たり前の存在にならなければ。
ジェシカはそれからただ淡々と職務をこなすことだけに努めた。
ベネディクトは相変わらず口を利こうともせず、ジェシカに壁を作っていたが、気にしなかった。
任務に期限はない。長期戦だと最初から覚悟はしていた。
気がつけば、あっという間にひと月が経過していた。
「もういらない。下げて」
ベネディクトはジェシカを見ずに、カトラリーを置いた。
ベネディクトの食事量は少ない。成人男性どころか、成人女性よりも食べていないのではないだろうか。
同僚が舞踏会前に雀がついばむ程度の食事をしていたが、それと同等に思える。
もっと食べたほうがいいのではないかと言いたくなる気持ちを抑える。心を許せない人間の忠告など、彼にとっては耳障りなだけだろう。
ジェシカは最低限の挨拶だけを口にし、お盆を手に塔を後にした。
「あら。ジェシカ、久しぶりじゃない」
食器を下げに厨房を訪れると聞き覚えのある声がした。顔を上げると見知った顔があり、ジェシカは笑顔を浮かべた。
「アネット。こんな時間に会うとは思わなかったわ。殿下、昨日は遅くまで起きていらっしゃったの?」
アネットはつい先日まで共に同じ主に仕えていた同僚であり、友人だ。侍女の仕事を丁寧に教えてくれた先生でもある。
「ええ。寝室にまで書類を持ち込んでらして……先程目を覚まされたところなの」
「……そう。殿下は相変わらずお忙しいのね」
「休まれることも滅多にないの。私達がいくら休憩するように提案しても聞き流されてしまって。いつか倒れられるんじゃないかとハラハラしてるのよ。ジェシカ、殿下にお会いしたらたまには休憩をとるようにお伝えして。あなたの言葉なら殿下はお聞きするだろうから」
絶対に近いうちに顔を出してとアネットはジェシカに頼んだ。
「みんな、寂しがってるわ。職場は遠くなっても毎朝ここでは会えると思ったのに、全く会えないんだもの」
「ベネディクト様、朝は遅いの。いつもこのくらいに朝食を取られてるから」
「そうだったの。これほど遅い方は珍しいわね。……ねえ、仕事は順調?」
「今のところ、問題なくこなせているわ。きっと、教えてくれた教師の腕が良かったおかげね」
ジェシカの返答にアネットは表情を和らげたが、すぐに心配そうに声を顰めた。
「もし、きついことがあったら、すぐに配置転換を希望してもいいと思うわ。今回のことは殿下の命だそうだけれど、きっと殿下だってお許しになると思うの。あんな恐ろしい悪魔憑きの侍女なんて、半年も続けばいい方だって聞くし」
「アネット。心配してくれるのはありがたいけれど、不敬よ。あの方をそんな風に言うなんて」
「あ……そうよね。でも、あの方に仕えた侍女は、だんだんと心身ともに不安定になって辞めていくのよ。十数人の侍女がついたけれど、誰ひとり、この城には残っていない。だから、あなたも気をつけたほうがいいわ」
ベネディクトの侍女が定着しないことは知っていた。
元々悪魔憑きだと恐れられているうえに、ベネディクトの侍女の扱いも良いとは言えないからだろう。
与えられた仕事は食事の配膳と掃除のみ。彼は給仕などを一切必要としなかった。
仕事がない時は控室で待機となる。仕事の終わる夕方までひとりあのじめじめとした部屋で過ごさなければならない。
会話は仕事に関することだけ。それ以外は無視されてしまう。
普通の侍女であれば、半年持てばいい方ではないだろうか。
「最近では悪魔憑きはただの迷信だとか言う人もいるけど、信じられないわ。過去に何度も問題を起こしたから、そう呼ばれるようになったんでしょうし」
悪魔憑きとは、呼吸が止まった状態で生まれ、息を吹き返した者のことを指す。邪悪な心を持ち、人に仇をなす存在だと言われていた。
平民の悪魔憑きは脆弱でその場で殺めても害はないが、高貴な血が流れる王族や貴族では下手に危害を加えたらその家は呪われるとまことしやかに囁かれている。
二十七年前に生まれたベネディクトが悪魔憑きとなった時、大きな騒ぎになったらしい。ベネディクトの母であった前王妃はその心痛から儚くなり、彼はますます忌み嫌われるようになった。
ジェシカが生まれる前の話だから当時の様子は知らないが、仕える王家に関する話なのだからと父によく聞かされた。
王族に生まれた初めての悪魔憑き。第一子の男子ではあったが、王子と認めることも殺めることもできず、ベネディクトは塔に幽閉された。
彼は寿命が尽きるまで外に出ることは叶わない。
「あ……ごめんなさい、また言い過ぎてしまったわね。だから、そんなに暗い顔しないで。……そうだ、これあげようと思ってたのよ」
口数の少なくなったジェシカに、アネットは綺麗な包を差し出す。中には美味しそうな焼き菓子が入っていた。
「昨日、殿下がくださったの。すごく美味しいから、あなたにもって思って」
焼き菓子はジェシカの好物だ。不穏な噂ばかりの職場で働くジェシカを励まそうと、取っておいてくれたのだろう。
侍女の特訓をしていた頃、失敗に落ち込むジェシカに、アネットは時々こうしてお菓子をくれて励ましてくれた。
同じ主に仕える侍女仲間は皆気の良い者たちばかりで結束も堅かったが、中でもアネットは特に優しく、ジェシカとも一番親しかった。
「ありがとう。ありがたくいただくわ」
「いいのよ。私だってあなたにたくさん助けてもらってきたもの。……ジェシカ、何かあったらすぐに言うのよ。あなたは無理しがちだから……」
アネットは心配そうにジェシカを見やる。
彼女はただ暇つぶしの噂話でベネディクトの話をしたわけではないだろう。あまり危機感を抱いていないジェシカに、親切心でベネディクトの危険性を告げて警告しているのだ。
ベネディクトの侍女につくことを知った時、ジェシカの家族も同じような反応をした。父は悪魔憑きがどれほど恐ろしいのか、関わると不幸になるのかを丁寧にジェシカに説いた。
自暴自棄になっているのかと母に真剣な顔で言われた時などは、ジェシカはどう反応すればいいのか困ってしまったくらいだ。
彼らが心配してくれるのはありがたいが、ジェシカは使命を果たすまで、ベネディクト付きを辞する気はなかった。
「ええ。ありがとう。近いうちに顔を見せるわね」
アネットと別れ、ジェシカは再びベネディクトのいる塔へと向かった。
塔は鬱蒼とした木々に囲まれていた。苔と蔦に覆われた外観は不気味としか言いようがなく、皆がこの場所を倦厭するのも理解できる。
「戻りました」
塔の入口に立っている見張りの騎士に告げる。騎士は当番制なので日によって違う者がつくが、ひと月もすれば顔なじみとなっていた。
騎士は頷くと、扉の前から退いた。
ジェシカは塔の入口の鍵を取り出す。
王家は男をベネディクトに近づけるのを嫌った。見張りの騎士が無断でベネディクトに近づけないように、鍵は常に侍女が持つことになっていた。
慣れた手つきで鍵を開けていると、騎士がひとりごとのようにつぶやいた。
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