忘れたふりのスプモーニ

Nuit et Verre

文字の大きさ
15 / 20
第3章 氷が溶ける音

第15話 君が飲んでいたカクテル

しおりを挟む
週明けの月曜、尚也はいつもより早く出社した。
社内はまだ静かで、複合機の低い駆動音が唯一の生活音だった。
志穂の席もまだ空いている。

彼は手元のマグカップにコーヒーを注ぎながら、週末の夜を思い出していた。

あの静かなバーでの志穂の言葉。
「スプモーニを飲みながら、笑えるようになったの」――
そのひとことが、何度も頭の中を反芻されていた。


昼休み、ふたりは自然な流れで近くのカフェへと足を運んだ。

「あのさ」と尚也が切り出す。

「志穂さん、あの夜……最初に注文したのって、ほんとにスプモーニだったんですか?」

志穂は少し驚いたように笑ってから、アイスコーヒーのストローを回した。

「なんで?」

「いや……なんとなく。あの時、グラス越しに見たあなたが、あまりにも落ち着いてて。もし、あれが初めてのスプモーニじゃなかったらって、ふと思って」

志穂は少しだけ目を細めて、尚也を見た。

「水島くん、よく見てたんだね。……正直に言うと、最初は別のカクテルを頼もうとしてた。でも、注文の直前で変えたの」

「なんで?」

「その場にいた、あなたの目線が、グラスに向いてたから。なんとなく、そういうのに敏感になってた時期で」

「それって……俺がスプモーニを見てたってこと?」

「うん。たぶん、誰かが頼んだのを見てて、その赤い色が印象に残ってたんだと思う」

尚也は驚きと戸惑いの混じる表情で、彼女の言葉を追った。

「つまり、それって……俺が飲んでたのを見て、注文したってことですか?」

志穂は小さく笑って、頷いた。

「だから、実は“君が飲んでたカクテル”なの。わたしが、じゃなくて」

静かな沈黙が流れた。

尚也は不意に、自分の胸の奥が熱くなるのを感じていた。
あの夜。赤いグラスに目を向け、口には出せなかった言葉の数々。
自分はただ、視線を向けただけだと思っていた。
けれど、その視線が、誰かの記憶を変えていたのだ。

「スプモーニって、ほんとはそういう味なのかもしれませんね」

「どんな味?」

「誰かのために、少しだけ背伸びする味。自分のためじゃなく、誰かの記憶のために飲むカクテル」

志穂は何も言わず、再びストローをくるくると回した。
その手の動きはどこか落ち着いていて、けれどどこか、照れ隠しのようにも見えた。

「……もう一度、飲みに行きませんか」

そう尚也が言ったとき、彼女は迷いなく頷いた。

「次は、君のおすすめを聞かせて?」

その笑顔は、忘れたふりをしていたあの日とは違う。
ちゃんと、記憶に根を下ろした笑顔だった。


スプモーニは、ただのカクテルじゃなかった。
それは、ふたりが選び合った、ささやかな合図のようなものだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

処理中です...