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第4章:グラスの底にあるもの
第17話 忘れたくなかったのは
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「今日、少しだけ話せますか?」
金曜の退勤間際、志穂がそう言った。
声は静かで、いつものように整っていたけれど、その奥にはどこかためらいのような気配があった。
「もちろん。あの店でいいですか?」
「うん。……いつもの、スプモーニ」
•
バーの灯りは、夜の帳に吸い込まれるように控えめだった。
週末の始まりを告げるようなざわめきが、遠くからかすかに聞こえる。
ふたりは黙ってスプモーニを待った。
氷の音が、静かに、けれど確かにふたりの間を埋めるように響く。
グラスが運ばれてきて、志穂は一口だけ飲む。
そのあと、グラスを両手で包み込むようにしながら、ぽつりと言った。
「ねえ、水島くん。あの夜のこと、まだちゃんとは話してなかったよね」
尚也はうなずいた。
何も急かさず、ただ聞く姿勢でいる。
「わたし、あの夜、合コンに行く予定じゃなかったの。本当は……その日、婚約が破談になったの」
グラスの中の氷が、ごくわずかに揺れた。
「結婚までいくと思ってた。でも最後に“君とはうまくやっていけない気がする”って言われて。それまでの全部が、空っぽになった」
尚也は言葉を挟まなかった。
「行くはずのなかった飲み会に、勢いで参加した。誰かと話して、自分が“ひとりじゃない”って錯覚したかった」
「……あのとき、泣いてたって言ってましたね」
「そう。泣いた直後だった。でも、誰にもバレたくなかった。強い自分でいたかった。だから、知らない人の前でだけ、ちょっと笑えたのかもしれない」
志穂の目はグラスの縁を見つめたまま、尚也とは合わない。
「でもね、不思議だったの。あなたと話してると、少しだけ、ちゃんと息ができるような気がして」
「僕も……同じでしたよ。あの日のあなたの笑顔、ずっと忘れられなかった」
志穂がゆっくりと視線をこちらに向ける。
「ねえ、水島くん。わたしが“忘れたふり”をしていたのは、あの夜の記憶じゃないの」
「……じゃあ、何を?」
「“また誰かを信じてもいいかもしれない”って思えた、その気持ちを。怖くて、見ないふりしてたの。忘れたことにしてたの」
沈黙が落ちる。
だがそれは、もはや気まずい空白ではなかった。
ふたりの間にしか流れない、透明で穏やかな時間だった。
尚也はグラスを傾けた。
スプモーニの苦味が、喉をすっと通っていく。
•
忘れたくなかったのは、あの夜のことでも、カクテルの味でもない。
――それは、ほんの少しだけ心がほどけた、その感情だった。
金曜の退勤間際、志穂がそう言った。
声は静かで、いつものように整っていたけれど、その奥にはどこかためらいのような気配があった。
「もちろん。あの店でいいですか?」
「うん。……いつもの、スプモーニ」
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バーの灯りは、夜の帳に吸い込まれるように控えめだった。
週末の始まりを告げるようなざわめきが、遠くからかすかに聞こえる。
ふたりは黙ってスプモーニを待った。
氷の音が、静かに、けれど確かにふたりの間を埋めるように響く。
グラスが運ばれてきて、志穂は一口だけ飲む。
そのあと、グラスを両手で包み込むようにしながら、ぽつりと言った。
「ねえ、水島くん。あの夜のこと、まだちゃんとは話してなかったよね」
尚也はうなずいた。
何も急かさず、ただ聞く姿勢でいる。
「わたし、あの夜、合コンに行く予定じゃなかったの。本当は……その日、婚約が破談になったの」
グラスの中の氷が、ごくわずかに揺れた。
「結婚までいくと思ってた。でも最後に“君とはうまくやっていけない気がする”って言われて。それまでの全部が、空っぽになった」
尚也は言葉を挟まなかった。
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「……あのとき、泣いてたって言ってましたね」
「そう。泣いた直後だった。でも、誰にもバレたくなかった。強い自分でいたかった。だから、知らない人の前でだけ、ちょっと笑えたのかもしれない」
志穂の目はグラスの縁を見つめたまま、尚也とは合わない。
「でもね、不思議だったの。あなたと話してると、少しだけ、ちゃんと息ができるような気がして」
「僕も……同じでしたよ。あの日のあなたの笑顔、ずっと忘れられなかった」
志穂がゆっくりと視線をこちらに向ける。
「ねえ、水島くん。わたしが“忘れたふり”をしていたのは、あの夜の記憶じゃないの」
「……じゃあ、何を?」
「“また誰かを信じてもいいかもしれない”って思えた、その気持ちを。怖くて、見ないふりしてたの。忘れたことにしてたの」
沈黙が落ちる。
だがそれは、もはや気まずい空白ではなかった。
ふたりの間にしか流れない、透明で穏やかな時間だった。
尚也はグラスを傾けた。
スプモーニの苦味が、喉をすっと通っていく。
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忘れたくなかったのは、あの夜のことでも、カクテルの味でもない。
――それは、ほんの少しだけ心がほどけた、その感情だった。
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