忘れたふりのスプモーニ

Nuit et Verre

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第4章:グラスの底にあるもの

第19話 グラスの底の気泡

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翌週、プロジェクトの佳境を迎えた尚也は、仕事の波に飲まれていた。
会議と調整の連続で、昼食もままならず、帰宅は連日終電間際。
その忙しさに紛れて、ふと気づけば、志穂とゆっくり話す時間が数日間なかった。

そんな水曜の夜、オフィスのエレベーターでたまたまふたりきりになった。

「最近……お互い余裕ないね」

志穂が先に口を開いた。

「そうですね。でも、志穂さんのほうが大変じゃないですか?」

「そうでもないよ。慣れてるから。……ひとりで抱え込むの」

軽く笑ってみせるその口調は、どこか昔の志穂に戻っていた。
それが、尚也には少しだけ苦しかった。

「慣れないでほしいです。そういうの」

「……どうして?」

「だって、それって“誰にも頼らない”っていう強がりじゃないですか。俺、見てるだけなの、もう嫌なんです」

志穂はしばらく沈黙し、それから小さく頷いた。

「そうだね……。強がるの、癖になってた。誰かが隣にいても、結局自分で処理して、気づかないふりされて、そうしてるうちに、いつしか誰にも見せなくなった」

「でも、今は違う」

尚也の言葉に、志穂の目がわずかに揺れた。


ふたりは駅まで一緒に歩いた。

途中の交差点、赤信号の前で立ち止まったとき、尚也がふと口を開く。

「この間、自分で作ってみたんです。スプモーニ」

「……どうだった?」

「苦かった。思ったよりも、ずっと。でも、氷が溶けてきたあたりで、少しだけ甘くなった気がしました」

「そういうものだよ。最初は構えて飲むけど、少し時間が経つと、じわって味が変わる」

志穂はそう言って、尚也の顔を見上げた。

「ねえ、水島くん。私、気づいてたよ。あの夜、あなたが見てたってこと」

「……え?」

「目が合ったとき、ちょっとだけ安心したの。誰にも見られたくない夜だったのに、不思議とあなただけは、見ててもいいって思えた」

その言葉に、尚也は息を呑んだ。

グラスの底に残る小さな気泡のような、気づかれないまま浮かび続けていた感情。
それが今、ひとつひとつ音を立てて浮上してくるような感覚だった。


信号が青に変わり、ふたりは歩き出す。

街の灯りが足元を照らす中で、尚也は心の中にあったもうひとつの気持ちを、そっと確かめていた。

それは、これまで見ないふりをしてきた想い。
そして、ようやく言葉になり始めた感情。


あと一歩――その距離が、今にも届きそうだった。
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