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第4章:グラスの底にあるもの
第20話 名前のない感情
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土曜の夜。
いつものバーには、ふたりの姿だけがあった。
週末の喧騒から一歩離れたその空間で、尚也と志穂は静かに向かい合っていた。
店内にはスローテンポのピアノが流れ、バーテンダーは離れた場所で静かにグラスを拭いている。
「今夜は、いつものを」
尚也がそう言い、バーテンダーはうなずいてスプモーニを2杯、手際よく作り始めた。
志穂は黙って、カウンターに置かれたグラスを見つめている。
その赤が、まるでこの数ヶ月の記憶を溶かしているかのように、じわりと心に染み込んでくる。
「……このカクテル、最初に飲んだときはただ苦くて、どうして女の人がこれを好むのか、わからなかったんです」
尚也の言葉に、志穂はわずかに笑った。
「慣れると、その苦さがちょうどよくなるの。不思議だよね。最初は拒んでた味が、いちばん落ち着くなんて」
「苦いけど、どこか安心する味。あなたとの関係に似てると思いました」
志穂がグラスを持ち上げる手を止める。
「志穂さん。……俺、あの夜から、あなたのことをずっと忘れられなかった」
「……うん、知ってた」
「最初はただの記憶だった。でも今は、確かにここにある。ちゃんと今のあなたとして、ここにいる」
尚也はグラスを片手に、志穂の瞳を見つめた。
「だから、伝えたいんです。あなたに出会えてよかった。スプモーニに、あの夜に、そして……今に、感謝してるって」
志穂の瞳が、少し潤んだ。
それは酔いのせいではなかった。
「……ねえ、水島くん。それって、名前のないままの気持ちでもいいの?」
「はい。まだ名前がなくても、確かにここにある。俺はそれで、充分です」
彼女はそっと笑って、グラスを尚也のグラスに合わせるように掲げた。
「じゃあ、乾杯。名前のない感情に」
「乾杯」
静かに触れ合ったグラスの音は、今までにないほど澄んで聞こえた。
•
帰り道。
街の明かりが淡く照らす中、ふたりは並んで歩いていた。
言葉はなかったけれど、そこに漂っていたのは――
スプモーニのように、ほろ苦く、そして爽やかな温度を持つ、ふたりだけの気配だった。
忘れたふりをしていた想いは、もうどこにもなかった。
ただ、確かにここにある。
【あとがき】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、ひとつのカクテル「スプモーニ」をきっかけに、忘れたふりをしていた記憶や感情がゆっくり溶けていく、そんな時間を描きたいと思って綴ったものです。
ほろ苦さの中に、ほんの少しの甘さがあるように――
大切な誰かと交わした言葉も、静かに積み重ねていけば、確かなぬくもりになるのかもしれません。
読んでくださったあなたの心にも、何かがふっと届いていたら幸いです。
次回作予告
―――――――――――――
夜の帳が静かに下り、
ひとつの物語がグラスの底に沈むころ、
遠く、風の匂いが届きはじめます。
次にお届けするのは――
ミントとライムが香る、新しい季節の一篇。
すこし乱れて、すこし澄んだ、
心の奥の風景をなぞるような物語。
『モヒート』
11月9日(土)より、連載開始。
また、新しい一杯の物語で
あなたとめぐり逢えますように。
―――――――――――――
いつものバーには、ふたりの姿だけがあった。
週末の喧騒から一歩離れたその空間で、尚也と志穂は静かに向かい合っていた。
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「今夜は、いつものを」
尚也がそう言い、バーテンダーはうなずいてスプモーニを2杯、手際よく作り始めた。
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その赤が、まるでこの数ヶ月の記憶を溶かしているかのように、じわりと心に染み込んでくる。
「……このカクテル、最初に飲んだときはただ苦くて、どうして女の人がこれを好むのか、わからなかったんです」
尚也の言葉に、志穂はわずかに笑った。
「慣れると、その苦さがちょうどよくなるの。不思議だよね。最初は拒んでた味が、いちばん落ち着くなんて」
「苦いけど、どこか安心する味。あなたとの関係に似てると思いました」
志穂がグラスを持ち上げる手を止める。
「志穂さん。……俺、あの夜から、あなたのことをずっと忘れられなかった」
「……うん、知ってた」
「最初はただの記憶だった。でも今は、確かにここにある。ちゃんと今のあなたとして、ここにいる」
尚也はグラスを片手に、志穂の瞳を見つめた。
「だから、伝えたいんです。あなたに出会えてよかった。スプモーニに、あの夜に、そして……今に、感謝してるって」
志穂の瞳が、少し潤んだ。
それは酔いのせいではなかった。
「……ねえ、水島くん。それって、名前のないままの気持ちでもいいの?」
「はい。まだ名前がなくても、確かにここにある。俺はそれで、充分です」
彼女はそっと笑って、グラスを尚也のグラスに合わせるように掲げた。
「じゃあ、乾杯。名前のない感情に」
「乾杯」
静かに触れ合ったグラスの音は、今までにないほど澄んで聞こえた。
•
帰り道。
街の明かりが淡く照らす中、ふたりは並んで歩いていた。
言葉はなかったけれど、そこに漂っていたのは――
スプモーニのように、ほろ苦く、そして爽やかな温度を持つ、ふたりだけの気配だった。
忘れたふりをしていた想いは、もうどこにもなかった。
ただ、確かにここにある。
【あとがき】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、ひとつのカクテル「スプモーニ」をきっかけに、忘れたふりをしていた記憶や感情がゆっくり溶けていく、そんな時間を描きたいと思って綴ったものです。
ほろ苦さの中に、ほんの少しの甘さがあるように――
大切な誰かと交わした言葉も、静かに積み重ねていけば、確かなぬくもりになるのかもしれません。
読んでくださったあなたの心にも、何かがふっと届いていたら幸いです。
次回作予告
―――――――――――――
夜の帳が静かに下り、
ひとつの物語がグラスの底に沈むころ、
遠く、風の匂いが届きはじめます。
次にお届けするのは――
ミントとライムが香る、新しい季節の一篇。
すこし乱れて、すこし澄んだ、
心の奥の風景をなぞるような物語。
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