失われた歌

有馬 礼

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 その日はよく晴れて、気持ちの良い日になった。
バルクは塔の前の広場に出てみた。
「よう、体はもういいのかい」
 地鳴りのような声が頭の上から降ってきた。
 バルクは上を見る。
 塔の壁に、巨大なトカゲが張り付いていた。いや、金属のような硬い鱗で覆われた表皮、鋭い爪と牙。ドラゴンだ。
「おかげさまで」
「あんたとはずっと話したいと思ってたんだ。ひとっ走りしようぜ。いいとこ知ってんだよ」
「もちろん」
「おっ、そうだ。リコも誘ってやろう」
 ドラゴンは壁の上でぐるりと上下方向転換すると、壁を登っていった。
(この建物はドラゴンの爪に耐えられるようにできてるのかな…)
「おおーい、リコ、たまには出かけようぜ! ずっと部屋で本ばっか読んでると、骨が弱くなっちまうぞ!」
 ドラゴンの声が轟く。
 上の方からぱらぱらと小石が降ってくる。
「うわっ!?」
 ふと気配を感じて横を見たバルクは、驚いて飛び退いた。
 いつのまにか隣に土が立っていて、バルクと同じように上を見ていた。
「この建物はドラゴンの爪に耐えうるの?」
「…いや」
 ドラゴンがリコの部屋のバルコニーから飛び降りてきた。
「来るってよ」
「…塔に優しく」
 土がドラゴンに苦言を呈する。
「あんたがいるんだから、並の建物みたいに簡単には壊れねえだろ。カリカリすんなって」
 一撃で人間を2、3人潰せそうな尾をぶんぶん振る。
「…俺の仕事が増える」
「たまに働いたってバチは当たらねーぞ」
 ドラゴンと土の精霊が揉めているところに、リコが降りてきた。鞍を肩に担いだジャイアントも一緒だ。
「おう、乗れよ」
 ジャイアントがドラゴンの首の付け根に鞍を乗せると、リコは身軽にそこにまたがった。
「行くぞバルク! ついてこいよ!」
 ドラゴンは猛然と駆け出した。物凄いスピードだ。人間の足では到底ついていけない。つまりはそういうことだ。
「じゃあまた」
 バルクは土に言うと、狼になり、ドラゴンの後を追った。
 ドラゴンは薄暗い森の中を猛スピードで駆けていく。バルクは必死に後を追った。相手は巨大なドラゴンとはいえ、森の中では背景に紛れてしまう。また、他の動物とは違って、ドラゴンは臭いの痕跡を残さなかった。目で追うしかない。木の枝が揺れ、鳥や驚いて飛び立っているのを目印に追いかける。
 ドラゴンは小川沿いの獣道に出た。川の流れに逆らう方向に走っていく。見通しがきく場所に出て、ようやく周りを見る余裕が出てくる。小川の先に泉が見えた。ドラゴンが目指しているのはそこだ。
 ドラゴンは少しずつスピードを落とし、泉のほとりで止まった。リコは 軽い身のこなしでさっとドラゴンの背から降りると、靴を脱いで泉に足を浸した。地下から無限に湧いてくる水は冷たく透き通っていた。
 少し遅れてバルクが駆けてきた。
 人を背に乗せられそうな巨大な狼は、舌を垂らして息を吐いていた。仕草は狼そのものだ。狼はリコの隣で水を飲むと、草の上に肢を投げ出してドサリと横たわった。腹部が大きく上下していたが、それもすぐにおさまる。
「おう、リコ。俺、ひと泳ぎしてくっからよ、ちょっとこれ外してくれねえか」
 ドラゴンがリコの方に首を伸ばす。リコが鞍を外すと、ドラゴンはほとんど水しぶきを立てずにするりと水に入った。
 バルクは草の上に横になったままそのやりとりを見ていた。
 リコは、しばらく立ったままドラゴンの静かな泳ぎを見てから、バルクの方にやってきた。
 そっとバルクの脇腹を撫でる。彼女がいつも塔の魔物たちにしているのと同じだ。バルクは大きな尻尾をぽたぽたと振った。リコは傍に腰を下ろすと、腹にもたれて目を閉じた。
 投げ出された裸足の足を見て、小さな足だ、とバルクは思う。精霊使いの守護者と呼ばれ、魔物とドラゴンに愛され、強力な精霊を従えているとはとても思えない。ごく普通の少女だ。ただ、本物のごく普通の少女はこの姿を恐れるだろうが、リコにとってはこちらの方が親しみが湧くようだ、とバルクは複雑な気持ちで思う。リコはバルクの毛並みを撫でていたが、その手が不意にぽとりと地面に落ちた。眠ったようだった。
 ドラゴンは十分に泳ぎを楽しんだ後で水から上がってきた。
「まったく、目ぇ瞑るとすぐ寝るな、相変わらず」
 ドラゴンはリコを覗き込んで言った。
「ずっと狼でいろよ。かわいがってもらえるぜ」
「人間に戻る方法を忘れそうだ」
 その言葉はくぐもった唸り声でしかなかったが、ドラゴンには通じた。
「それで何か差し支えがあるのか?」
「いや、まあ…ないけど」
 狼として毎日自由に森を駆け回る生活は、おそらく何の憂いも悩みもないことだろう。バルクは一瞬そのユートピアに心を奪われそうになる。
「でも、僕は人間として生きることに決めてるんだよ」
「ふうん」
 ドラゴンは、興味なさそうに返事をした。この、地上で最も高貴な生物にとっては、人間の決意など瑣末なことなのだ。
「ドラゴンと話したのは、初めてだよ」
「そうか。まあ、そうだな。人間と付き合ってる変わり者は俺くらいしかいないからな」
「変わり者なんだ」
 狼はニッと口を曲げて笑う。鋭い牙が覗いた。
「人間の研究なんかしたところで何になる、ってのが身内の評価だよ。無粋な奴らだぜ」
「人間に興味を持ったのはなぜ?」
「俺が興味を持ってるのは、人間が着てる服のことだ」
「服?」
 予想外の答えだった。
「人間はドラゴンのような硬い鱗は持たないし、他の動物のような毛皮もない。皮膚を覆って保護する必要があることは認める。魔物狩りに出かける時は金属の鎧を着ていたりするしな。しかしそれなら、用途の違う、せいぜい2、3種類の服で事足りるし、皆で共通の服を着ていれば効率がいいのに、その日によって服を変えたり、また、場面によっても服を変える。俺には理解しがたい。いろいろな人間に尋ねてみたが、納得のいく回答は得られてない。人間にとって服を着るのは、当然のことだからだろう。自然の与えた肉体以上に美しいものがこの世にあるだろうか?いや、ない、というのが俺の持論なんだが、人間にとってはどうもそうではないらしい。なぜだ。それが知りたい」
「なる…ほど…?」
「例えば、この前、精霊使いどもに森を追い回されてた時、あんたは狼から人間に戻ると、ちゃんと服を着ていた。死にそうになりながら、そんな些細なことに力を割いて、魔術を使ってそうしていた。なぜだ」
 確かにそうだった。無意識でもそうできるように訓練を積んだ成果なのだが、それは求められている答えではないのだろう。
「うーん…。僕も一応社会的な体裁を気にするからというか、何というか…」
「体裁は命より重要なのか? だからあの場面でもそうしたのか? 攻撃の意思がないことを示すためには、裸の方が都合が良かったんじゃないのか?」
「え、えーと…」
「人間から狼になる時はわかる。人間と狼では体型が違いすぎるし、人間の服をそのままにして狼に変身したら、自分で自分を縛るのと同じことになる。いちいち脱いでたらその間に殺されちまうしな。だが、逆はどうなんだ? そこがわからない」
 矢継ぎ早に繰り出される質問にバルクが面食らってうろたえていると、リコが目を覚ました。体を起こして、手足を伸ばす。
「俺はもうちょっと泳ぐんで、あんたら先に帰ってな。遅くなるとまた塔の奴らが総出で探しに来て面倒だしな」
 そういうとドラゴンはまたするりと水に入った。
「じゃあ、帰ろうか。背中に乗って。人間の足で歩くと、多分日暮れに間に合わない」
 リコもバルクの言葉を理解した。ひらりと背中に乗る。
 帰り道は、自分の臭いを辿るだけなので、迷う心配はなかった。バルクは背中のリコを振り落とさないように、出来るだけ静かに走った。

 塔が近づくと、広場に魔物たちが出ているのが見えた。
「何だろう…」
 バルクは徐々にスピードを落として、魔物たちの前で止まった。リコが降りやすいように地面に腹をつけて伏せる。魔物たちが一斉に集まってきた。
「リコ、どこまで行ってたの」
「やっぱりバルクだった」
「良かった」
「だから言ったろ」
 リコはあっという間に魔物たちに取り囲まれ、バルクを振り返りながら塔に戻っていった。バルクはしばらく火照った体を地面につけて冷やした。時間は夕方に近かったが、まだ午後の遅い時間、といったところだ。夕焼けの気配もない。
(この時間でこれなんだから、確かに、日が暮れたら総出で探されかねないな)
 ドラゴンの言ったとおりだ、危ないところだった、とバルクは思う。
(そういえば、狼だと、魔物の言葉がわかるんだな。今気づいた)
 リコが魔物と意思疎通しているらしきことはバルクも気づいていた。リコは、魔物の言葉がわかるのだ。意思を伝える方法も持っているのだろう。
 呼吸が落ち着くと、バルクは人間に戻る。
 もう体は十分に回復した。それを確かめることができた。
 聖域の神獣と戦えるか?と自問する。
「もちろん。いつでも」
 バルクはひとり、声に出して言った。

 シャワーを浴びて部屋にいると、ドアがノックされた。
「バルク、入るよ」
 入ってきたのは、いつも身の回りのことをしてくれる、右耳の欠けたファミリアだった。バルクは驚いて目を見開く。
「いま、今、『バルク入るよ』って言った?」
「言ったけど? あ、僕の言うことわかるようになってる!」
「そう、そうなんだ。何でだろう。さっき、狼だと君たちの言葉がわかるな、とは思ってたんだけど。理由はわからないけど、何かが『繋がった』んだ」
「そうかあ。直接話せるなら、ジュイユに通訳頼まなくていいから手間が省けるよ。ちょっとこれ着てみて」
 ファミリアが持ってきたのは、深緑の、魔術師用のコートだった。羽織ってみると驚くほど軽いのに、造りはしっかりしている。
「君たちが作ってくれたの? ぴったりだよ」
「良かった! ヘアーワームの毛を織り込んで作ってるから、軽いのにものすごく丈夫だよ。魔術師は物理攻撃に弱いことが多いから、属性攻撃を防ぐというよりは、物理攻撃を軽減する方がいいだろうってみんなと話し合ったんだ」
 ヘアーワームというのは、長い毛に覆われた毛虫型の魔物だ。防御力が高く、物理攻撃しか持たない者は倒すのに苦労する。この塔でも見たことがある。
「すごい。ありがとう」
「すごいでしょー? 防具にもなる服を作ったのは初めてだったから、難しかったけどすごく楽しかったよ! 気に入ってくれて嬉しい。仲間にも伝えるね!」
 ファミリアは誇らしげに答えた。
「あ、洗濯あるよね。持っていくね!」
「ありがとう、何から何まで。君たちは本当に優しいんだね」
「優しいのはリコだよ。リコの力を感じるところにいると、僕らはリコと同じように、優しい気持ちでいられるんだ」
 ファミリアは目を細めた。
「僕らはみんな、リコを愛してる。リコが愛するものは、僕らも愛してる。リコがバルクのことを好きだから、僕らもみんなバルクのことが好きだよ」
「ありがとう。嬉しいよ。そうだ、きみには名前ってあるの? あるなら教えてよ」
「僕はルーだよ」
 ルーはぴょんぴょん跳ねた。
 バルクは家を持たなかった。強いて言えば、物心ついた時住んでいた、あの孤児院がそうだったかもしれない。優しい大人たち、楽しさや哀しさを共有できる仲間たち。あれはあれで幸せだった。でも、師に見出され、キャラバンと一緒に旅をすることを選んだのは、心のどこかで納得できていなかったのだろうと思う。自分だけの家族を求めていたからかもしれない。キャラバンを飛び出してからも、概ね仲間には恵まれていたと思う。騙されたり酷い目に遭ったこともないではなかったけれども、金と力だけで結ばれた仲間ばかりではなかった。打算を超えた友情があったし、恋人がいたこともあった(パーティー内で恋愛関係になると、最後は酷い別れ方をすることになり、バルクのこれまでの恋愛も例外ではなかった)。
 家も家族も持ったことがないが、もし自分にそういったものがあれば、こんな風だろうか、とバルクは思う。愛で強く結ばれた共同体。なんて優しい場所だろう。
「バルク、死なないで。僕はきみのことも、リコと同じくらい大好きなんだ」
 バルクは床に膝をついて、ルーと目線を合わせて、その手を握った。
「大丈夫。死なない」
 ルーはバルクに抱きついた。
 バルクは小さな背中を優しく撫でた。
 ルーの耳がピクッと動く。
「何だろう?」
「どうしたの?」
 バルクは腕を解いた。
「みんなが集まってる。リコの部屋だ」
「行ってみよう」

 リコの部屋には大勢の、おそらく塔にいる魔物のほとんどが集まっていた。廊下にまで魔物が溢れている。
「どうしたの?」
 ルーは近くにいた骸骨に聞いた。
「リコが、リコが、俺たちは聖域に連れて行けないって言うんだよ」
 骸骨が体を揺すると、骨同士がカラカラと乾いた音を立ててぶつかった。
「そんな!」
 ルーは群衆の隙間を縫って前の方に行ってしまった。

「リコ、そんなこと言わないで」
「そうだよ」
「俺たちも連れて行ってくれ」
 魔物たちが口ぐちに言う。
 リコは悲しげに首を振ると、椅子から立ち上がった。魔物たちは道を開けた。
 リコは居室を出ると、向かいの食堂に移動した。魔物たちもぞろぞろと後に続く。バルクは魔物の群衆の一番後ろで様子を見守った。
「リコ」
「リコ」
「リコ」
 食堂は喧騒で満たされる。リコの姿は見えなかった。
〈みんな、聞いて〉
 食堂は水を打ったように静まり帰った。
 バルクは驚いて顔を上げた。
〈わたしと一緒に行きたいっていう気持ち、すごく嬉しい。本当に。でも、あなたたちを聖域に連れていくことはできないの。ごめんね。あなたたちはいつも、十分にわたしを助けてくれてる。どうお礼を言えばいいのかもわからないほど。あなたたちの希望を叶えられないこと、本当にごめんなさい。愛してるわ。あなたたちみんなを。そして、1人ひとりを。わたしがいない間、あなたたちはここを守ってほしいの。わたしの大好きな場所を〉
 リコは魔物たちを1体ずつ抱きしめた。魔物たちはそれぞれの場所に戻っていった。
 魔物たちがいなくなり、食堂に最後に残ったのはバルク1人だった。リコはバルクに気がつくと視線を落とした。
「こんなことができるなんて」
 バルクはただただ感心して言った。
〈あの…黙っていたことは、ごめんなさい〉
「いや、違うんだ」バルクは慌てて言う。「皮肉で言ったんじゃない。体験したのは初めてだったから、ちょっと感動してしまって」
 リコの顔がぱっと輝く。
〈良かった。嘘をついてるみたいで、ずっと苦しかったの〉
 リコは口を動かさなかった。不思議な感覚だった。
「魔物たちを連れて行かないのは、正しい選択だと思うよ」
 リコはうなずいた。
〈神獣が目を覚ましたこと、あなたたちだけが原因じゃない。多分だけど。わたしの予感が正しいなら、あなたも、危ないことに巻き込むことになってしまうんだけれど…〉
「それは気にしないで。というより、むしろきみたちを巻き込んだのは僕の方だ」
 リコは目をぎゅっと瞑って、何度も強く首を横に振った。
「いずれにせよ…」
 バルクは掃き出し窓からバルコニーに出た。空は夕方から夜へのグラデーションを描いていた。正面には、精霊使いの山が真っ黒く浮かび上がっている。
 バルクはバルコニーのベンチに腰を下ろした。
「仲間たちを探してやりたい。精霊使いたちにとっては聖域破りをするようなロクでもない人間だけど、僕にとってはかけがえのない仲間だった。何か、仲間の持ち物でもいいから、残っていれば」
〈あなたには、彼らのほかに仲間とか、友だちとか、家族はいないの?〉
 リコはバルクの隣に腰かけた。
「いない」バルクは正面を向いたまま言った。「僕は施設で育った。親の顔は知らない。6歳の時、魔術を教えてくれた師匠について施設を出て、それからはキャラバンで暮らしてた」
〈キャラバンを離れたのはどうして?〉
 バルクはリコの顔を見て、再び正面を向いた。
「…キャラバンが盗賊団に襲われたんだ。魔物じゃなく、人間にね。師匠と僕はキャラバンを守ろうとしたけど、数が多すぎた。それで僕は狼になって…。気づいたときには、周りは死体の山だった。その日から、キャラバンの人たちの、僕を見る目は変わってしまった。師匠が、人に狼の力を見せちゃいけないって言ったのはこういうことだったのかって、わかったときには遅かった。耐えきれずに僕はキャラバンを逃げだして、ジェムハンターになった。彼らは単なる仕事仲間というより、友だちだったんだ。でもそれも、失われてしまった」
 リコはバルクの横顔を見つめていたが、何も言わずに立ち上がると、バルクの正面に立った。
「?」
 バルクは、身長差が逆転したリコの顔を見上げた。
 リコはゆっくりと体をかがめると、バルクの唇にそっとくちづけた。
「…」
 そのキスの意図は図りかねた。恋人にするキスというよりは、母親が子どもにするようなキスだ、とバルクは思う。あるいは、啓示か、恩寵のようにも感じる。
 長いのか短いのかよくわからない時間が流れた後、リコはそっと唇を離した。二人の視線が至近距離で交わる。
 リコは目を見開いてはっと小さく息を飲んだ。食堂から漏れてくる光だけでもそうとわかるくらいに、みるみる真っ赤になると、何も言わずに逃げだした。
 バルクも弾かれたように立ち上がったが、突然のことに声が出ない。そもそも何を言えばいいのかよくわからなかった。
 リコの居室のドアが閉まる音が聞こえた。
 それと入れ違いにガラガラとワゴンの音が入ってくる。
「遅くなって悪りぃ。食事だぞ、ってあれ? リコは?」
「部屋に…」
 バルクはなんとかそれだけ声を絞り出す。骸骨のシェフはバルクの様子がおかしいことには気づかなかったようだった。
「ちょっと呼んできてやってくれねぇ?」
 シェフは配膳しながら言う。
(この空気で)
 しかし魔物に心配をかけるわけにもいかなかった。
 バルクはリコの部屋をノックする。
 少し時間を置いて、リコがドアを開けた。
〈あの…、ごめんなさい、わたし…あんなこと〉
 横を向いて、目をそらしたまま言う。言うそばから、頬が赤く染まってくる。
「いいんだよ。いや、それが正しい答えなのかもわからないけど。『気にしてない』って言った方がいい? それとも『気にしないで』って言った方がいい?」
〈気にしないで、って、言って…〉
 リコの顔はどんどん赤くなって、胸元まで赤くなっていた。
「いいんだよ。気にしないで」
 リコはようやくバルクを見た。
〈ありがとう〉
「何してんだー? せっかくの料理が冷めっちまうぞ!」
 骸骨シェフが痺れを切らして呼びにきた。彼は「温かいものは温かいうちに」「冷たいものは冷たいうちに」食べないと許してくれなかった。
 しばしば、人間の死体にジェムが結合し、魔物になることがある。きっと彼は、実際にシェフだったんだろう、とバルクは思っている。骨にも人間だった時の記憶が染み付いているのかと思うと興味深い。
 食事の間、二人は何も話さなかった。それは昨日までは普通のことだったし、不思議に思う者は誰もいなかった。

「じゃーな! おやすみ!」
 骸骨シェフがガラガラとワゴンを押して出ていくと、バルクとリコも別れるのがこれまでだった。
 しかし今日は違った。
〈バルク、まだ、話したい〉
「いいよ、もちろん」
 二人はまたバルコニーのベンチに座った。
「もし構わないのなら、今度は君のことが聞きたいな。ジュイユ師から聞いた話だと、精霊使いの族長は、君の実のお祖父さんなんだよね。離れて暮らしているのは、君が精霊使いの守護者だからなの?」
〈それは…そう。守護者はこの塔に住んで、世間との関わりを絶つことが決まりなの〉
「いつから?」
〈9歳の誕生日から。本当は、守護者がこの塔に入るのは12歳らしいんだけど、力がどんどん強くなっていって、村にはいられなくなって、それで…〉
 バルクは黙ってその言葉の続きを待った。
 リコは肩で大きく息をした。
〈ごめんなさい、自分のことを話すの、慣れてなくて〉
「いや、いいんだ。僕の方こそごめん」
〈いいの。わたしがうまく話せないだけなの…〉
 リコはかぶりを振った。
「じゃあ君は、もう10年くらいこの塔で魔物たちと暮らしてるんだね」
 リコはうなずく。
〈もうすぐ19歳の誕生日がくるから、それでちょうど10年〉
「そうか…」
9歳の頃は何をしていたっけ?とバルクは自分のこれまでを振り返る。師匠に守られながら、魔術の修行をしていたころだ。魔術師として未熟だっただけでなく、大人に守られながら、それに気づいてすらいない子どもだった。そんな頃から。
 実際にどういうやり取りがあったかはわからない。しかし、社会的には全く無力な子どもをひとり塔に置き去りにした村の大人たちに、バルクは静かな怒りを感じた。どれほどの力を持っていようと、彼女は守られなければならなかった。
〈塔のみんなには、本当に感謝してるの。わたしのこと、ずっと助けて、励ましてくれる。時々わたしも、世界の誰からも忘れられてる気分になっちゃうから。実際に、そうなんだけど〉
 リコは笑った。もうすぐ19歳になる少女が浮かべるには相応しくない、哀しい笑顔だった。
「…」
 バルクは何も言わずにリコを抱き寄せると、額にキスした。
 リコは驚いた表情で、キスされた場所に触れる。その頬が見る間に赤く染まっていく。
 ぎゅっと目を瞑ると、リコは勢いよくバルクに抱きついた。不意を突かれたバルクは手をついて体を支える。
〈ジュイユには、あなたは仲間を喪って悲しんでるから、気持ちを押しつけちゃいけないって、言われてた。少なくとも今じゃないって。でも、もう、だめ。胸が、いっぱいになって…〉
 リコはバルクの胸から顔を上げた。その目は涙を溜めてきらきらと光っている。
〈好きなの。バルクのことが〉
 両目から、涙の粒が転がり落ちた。
 バルクは驚いて、リコの目を見つめ返した。

 リコが愛するものは、僕らも愛してる。

(文字どおりの意味である可能性について、全く考えてなかったな…)
 女性としてリコのことを愛しているか?と自問する。バルクはよくわからなかった。時々見せるあどけなさを可愛らしく感じていたけれど、それは恋愛感情とは違っていると思う。
 人が聞いたら非難するだろう。それは単なる同情か、憐みだと。少女の恋慕を、大人が搾取しているだけだと。
 しかし今、バルクは、彼女の気持ちに応えてやりたかった。世界の誰からも忘れられていると感じている、守られるべきだった少女の気持ちに。
 バルクはリコの頬にそっと指を添わせると、そのまま引き寄せて、唇を重ねる。リコの唇が小さく震えているのを感じる。バルクは両腕でしっかりリコを抱いた。
 唇を離しても、リコはそのことに気づいていないようにしばらく目を閉じていた。ゆっくり目を開くと、潤んだ瞳でバルクをじっと見つめた。
「僕も、リコのことが好きだよ」
 リコの顔が、眩しいくらいにぱっと輝く。二人はもう一度抱き合った。
〈嬉しい。好き。好き…〉
 非難したい者はするがいい、とバルクは思う。守られるべき者を、守らなかったくせに。
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