失われた歌

有馬 礼

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第2部 帝都ローグ篇

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 夕方になり、魔物たちが片付けを始めたことに気づき、せめて片付けだけでもと塔の裏の農園に出る。街道を行き来している人々は、まさか塔の裏にこんなに立派な農園があるとは気づかないだろう。
「戻ってこなくてよかったのに」
 水に声をかけられる。
「でも、土に頼まれてた仕事を途中で放り出してきちゃったし、片付けだけでも手伝いたい」
「真面目ですねぇ」
 水は呆れたように言う。
「せっかく気を利かせてあげたのに」
「え?」
 バルクは笑顔を顔に貼り付けたまま固まる。
「いやいや、何トボけてんですかあなた。あんなギラついた目でリコのこと見ておいて」
「…見られてた?」
 とりあえず笑って誤魔化す。
「ま、土の仕事を手伝ってあげてください。仕事が減って喜びますよ」
 水は片手を挙げて去っていった。
 
気がつくと、寝室は薄暮の雰囲気に包まれていた。バルクの姿はない。
 着るものがないので、仕方なく裸のままベッドを抜け出す。喉が渇いた。とりあえず下着を身につけて、水を飲む。
 思えば人生の半分以上をこの塔で、魔物たちと生きてきた。魔物たちがいることは当然で、あまり深く考えたことはなかったけれど、バルクには辛かったのかもしれない。キャラバンの次はジェムハンターで、ひとつところに長くとどまる生活をしてこなかったことも関係あるのかもしれない。
(2人きりの時間が必要なのかも…。魔物たちも、わたしの精霊たちもいない、2人きりの時間が)
 グラスに口をつけたまま考える。
 前、帝都ローグに行った時、バルクは2人で帝都に住むかと訊いて、リコは家族である魔物たちがいる塔にいたいと答えた。
(バルクには、負担だったのかな。いや、少し考えればわかる。そうだよ。わたしと同じようにリラックスして暮らすには期間が短すぎるし、そもそも、ひとつところにとどまる生活がしたいのかもわからない…)
 正面切って負担なのかと訊けば、「そんなことない」とバルクは答えるだろう。その言葉を額面どおり受け取っちゃいけない。
 リコはグラスを置き、手早く服を着ると部屋を出た。

 ジュイユの部屋は地下墓地の一角だった。もともと、アイナの「棺」があった場所を部屋として使っている。塔にはいくつも部屋があり、どれでも使えばいいものを、ここが良いと言って居座っていた。
〈ジュイユ、入ってもいい?〉
 入り口から覗くと、ジュイユは手を止めてリコを見た。
「塔の主が入っていけない場所などあるものか」
 そう言って、荷物置きにしていた椅子から本の山をどけて、リコに勧めた。
「どうしたね? 改まって」
〈あのね、わたし、しばらく出かけてきてもいいかな。旅に行きたいの〉
 椅子に腰掛ける。
「守護者はお前さんだ。私にいいも悪いもないよ。行きたければ、行ってくるがいい」
〈ありがとう。どれくらい、ここを空けててもいいのかな〉
「精霊たちをここに置いておいてくれるのなら、いつまででも。お前さんの手が必要なら、精霊を通じて呼ぶよ。バルクが一緒なら、世界中どこにいてもすぐに戻ってこられる」
 それを聞いて、ほっとしたような、少し寂しいような気持ちになる。
〈そっか…。魔物たちは、わたしがいなくても大丈夫かな〉
「そりゃあ、魔物どもは寂しがるだろうよ。この塔で、お前さんを愛さない者はいない。だがな、お前さんはまず、自分のことを第一に考えればいい。イダがそう言っていたようにな」
 リコはため息をついた。
〈でも…〉
「心配なら、時々帰ってきてやればいいさ。魔物どもはわかっているよ。見捨てられたなどと思うものか」
〈ありがとう〉
 一番心配していたことを力強く否定してもらい、少しほっとする。
〈そうだジュイユ、レイフの絵、知ってる? 北側の書庫の一番奥にあるの〉
「北側の書庫は知らなかったな。他は知ってる」
〈他にもあるの? 見たい〉
「ある。イダはそれを、お前さんだとずっと主張していてな。こっちだ」
 ジュイユは立ち上がった。
 墓地の一室を出る。墓地からさらに階段を降りる。この先は地下水路だ。
 かつて守護者の森の泉からラシルラの町へ、生活用水を引いていた水路の遺構だ。現在ラシルラの町は生活用水を別の水源から取るようになったため、守護者の塔の住人しか利用する者はいない。
 ジュイユが手を挙げると、水路が昼間のように明るくなった。
 石造りの、アーチ型の水路を進む。こんな奥まで初めて来た。
「これだ」
 それは、水路の壁として使われている、とびきり大きな岩をキャンバスにして描かれていた。この岩を迂回するために、水路は大きくカーブしている。
 裸で抱き合い、唇を重ねる男女の腰から上が抽象的に描かれている。女の方はリコかと言われればそうとも見えるし、違うようにも見える。ただ、女は黒で、男は目の覚めるような鮮やかな青で描かれている。書庫の狼と同じ色だ。しかし、リコの目を引きつけたのはそこではなかった。絵の女が男の肩にそっと沿わせている左手。その薬指には指輪が描かれている。抽象的な絵画の中、それだけがくっきりと浮かび上がるように存在を主張していた。真鍮の細い指輪に、内部に青い靄の見える乳白色の小さな半球の石が取り付けられている。青い靄は男の身体と同じ色で表現されている。
 リコは自分の左手の指輪を見た。ぞっとする。全く同じだった。
「イダの言うとおりだったな」
 リコを横目で見て言う。
〈…暇なのはわかるけど、覗きはやめてほしい。趣味悪い〉
 リコは急に気温が下がったように感じているのを隠すために、精一杯の悪態をついた。
「覗きでもしなけりゃやってられないくらい暇だったんだろう。いずれにせよもう死んだ人間だ。許してやれ」
 ジュイユが笑いながら言う。
「イダがこれを見てな、これは絶対にリコだ、魔術師から贈られた指輪をつけているからには、彼は将来を誓い合う相手に違いない、その日が来たら快く送り出してやれ、と口を酸っぱくして言っていた」
〈魔術師から贈られた指輪? なんでわかるの?〉
「なんだ、何も知らずにつけてるのか」ジュイユは呆れる。「その石は、魔術師が自分の魔力を封じ込めたものだ。自分の魂を贈る、という意味だよ。内部が青く光るのは、バルクの基本属性が水だからだ」
〈そうだったんだ…〉
 知ってから見ると、より美しく見える。
〈じゃあどうして、はじめバルクに心を見せるなって言ってたの?〉
 指輪から目を上げてジュイユを見る。
 ジュイユはしばらく絵を見上げたまま沈黙していた。
「深く愛し合っていたはずの者同士が、最終的には憎み合って別れるところを何度も見てきた。バルクがこの塔に運びこまれた時、この絵を思い出して、本当に面倒なことになったと思ったよ。お前さんの心を弄ぶようなことをするなら殺そうと、本気で思った。彼がお前さんに会いたいと言い出したら、私の方で拒否しよう、できることなら、傷を癒してすぐに去ってくれないものかと」
〈だけど、最後にはわたしのために折れてくれたのね?〉
「まあな。結局は私もお前さんには弱いのさ、麗しき娘よ」
〈ありがとうジュイユ、心配してくれて。嬉しい〉
「暗い目をして泣くこともできず、それでいて口許だけはいつも曖昧に笑っている子どもだったお前さんが、彼のことを尋ねる時の顔と言ったら。やれやれ…」ジュイユはかぶりを振った。「お前さんが悲しんでいる姿を見るかもしれないと思うと、耐えられない。最早私には、悲しませないでくれと祈るほかない。…ハッ、祈るだと。あらゆることを己の才覚ひとつで切り抜けてきたこの私が、なす術なく祈るハメになるとはな。ヤキが回ったもんだ」
 ジュイユは自嘲した。
〈でも、その祈りは届いた。そしてわたしはもっと幸せになった。そうでしょ?〉
 リコは笑った。花が咲きこぼれるような笑顔だった。魔物たちでは、与えられなかった笑顔。暗い目の子どもは、輝く春の花のように美しい女になった。こんな日が来るなんて。ジュイユは微かな笑みを浮かべてうなずいた。このままずっと幸せであってくれ。
〈…レイフは、光の来訪者だったんだよね?〉
 リコは改めて絵を見る。
「おそらくな。精霊使いの守護者たちがほとんど闇属性なのは、そこが、人間という存在の限界なんじゃないかと私は考えている。人間で光属性を持つ者は、光の来訪者だけだろう」
〈光の属性を持つためには、ドラゴンにならなきゃいけないのね?〉
「うむ。人間の身体に宿るには、光のエネルギーは強すぎるのかもしれんな。実際、レイフも比較的若くして亡くなっている。それが原因かは不明だが」
〈…ねえ、レイフは、絵を遺すことで何を伝えたかったんだと思う?〉
 バルクの代わりに尋ねる。
「さあな。単なる暇つぶしとも思えるし。わからん。死者は何も語らない。他の絵が見つかるとしても、それは、全て計算されたタイミングだろう。バルクが書庫でレイフの絵を見つけたように。我々が気づかず、バルクが見つけたということは、偶然ではない。バルクに見つけさせたはずだ」
 ジュイユはリコに向き直る。
「リコよ。精霊使いの守護者よ。光の来訪者を探せ。あの闇の来訪者とは、おそらくもう一度対峙せねばならんだろう。光の来訪者の手助けが必要だ」
〈どこを探せばいい?〉
「わからん。しかし、帝都を歩き回るのは、手始めとしてはいいかもしれんな。光の来訪者が出現する確率がどこでも一定だと仮定すると、母数は多い方がいいだろう」
 リコは黙ってうなずいた。
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