失われた歌

有馬 礼

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第4部 帝都地下神殿篇

10 癒されざる渇き

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 その客は、訪問するには常識はずれな時間にやってきた。今日行くとは言われていたが、もう日付が変わろうとする時間だ。今日といえば今日だが、とバルクは思う。

「遅くに悪りぃ。サインだけくれ」

 今日も事件対応があったのか、ヒューゴは明らかに疲れていた。
 差し出された書類は、帝都警察に協力するための契約書だ。協力者の契約期間はそれほど長くなく、前の契約期間が満了してしまったので新しく契約をしておきたいというのが、ヒューゴが訪問した理由だった。

「立ち話もなんだから、とりあえず上がって」

 バルクに言われてリビングに入ると、リコは待ちくたびれたのかソファでうたた寝していた。

「食事は? それとも何か飲む? 酒はないけど」

「いや、いい。書類もらってすぐ帰る」

「そう」

 ソファのリコがもぞ……と動いて、のろのろと起きあがった。目を擦りながら伸びをする。

〈ヒューゴ来たの……?〉

「おう、書類にサインだけくれ」

〈わかった……ヒューゴが急に来るって言うから、頑張って待ってたんだよ……〉

 リコはほとんど目を瞑ったままダイニングテーブルについて、ヒューゴから差し出されたペンを取る。

「待ててはなかっただろ」

〈待ってたよ、ちゃんと〉

 リコはサインをしながら唇を尖らせる。しかしその上瞼と下瞼は、くっつきたがって仕方がない。

「そうか」

 ヒューゴはそれを見て笑った。
 リコからペンを受け取り、バルクも書類にサインする。

「早速で悪りぃけど、明日から協力要請することになると思う。前に集中化を解除してくれたラウエだけど、もうヤバいんだ。あと、新種の魔物がいるって情報も入ってる」

「新種? どんな」

「カニとパリピがくっついていいとこ取りしたみたいな奴らしい。俺はまだ見てねえけど」

「厄介だね……」

 半端な物理攻撃も属性攻撃も通用しないとあっては、帝都の警察官たちでは太刀打ちできないだろう。

〈ヒューゴ、疲れてる。大丈夫なの?〉

「大丈夫じゃねえな。大丈夫じゃねえけど、まあ、仕方ない」

「……まったく気は進まないんだけどさ」

 バルクがサインを終えた書類をヒューゴに返す。

「ん?」

 ヒューゴは受け取った書類をファイルに挟んでバッグにしまった。

「きみもうちに来たら? きみと、セスト。部屋はある」

「いや、リコもいるのに、さすがに悪い」

〈わたしのことは気にしないで〉

「ヴィラントが帝都に来るって言うんだけど、その時、シェフと、他に何体か来てもらえば、日常のあれこれに使う時間を節約できるでしょ。ボッチがいるから、問題ないと思う。……身体を休めるのも仕事のうちだよ。ジェムハンターとして言わせてもらうけど」

「俺、バルクにそんな心配されなきゃならないくらい疲れてるか?」

〈疲れてる〉

「疲れてるね」

 2人に力強く言い切られて、ヒューゴは天井を仰いだ。体力には自信があるが、確かに、ここのところ身体の重さが抜けない。

「……じゃあ、しばらく世話になるかも。いいか?」

〈うん、もちろんだよ〉

「言っとくけど、気は進まないんだよ」

 バルクは脚を組んで、椅子の背もたれに身体を預ける。

「わかってるって。ありがとよ」

 ヒューゴは歯を見せて笑った。

「明日、メトロが終わった後、ラウエに来てもらいたいんだけど、大丈夫か?」

「いいよ。それまでにこちらも準備しておくから」

「助かる」

 じゃな、と軽く言って、ヒューゴは帰っていった。

〈……意外〉

 バタン、と閉じられた玄関ドアを見たままリコが言う。

「僕が、ヒューゴに親切にしてることが?」

〈そう〉

「別に親切にしたくてしてるわけじゃないよ。仕方なくだよ」

〈ふうん〉

 リコは笑いながらバルクの手を取った。バルクはその手を引きよせると腰をかがめ、キスする。

「僕らも休もう。明日から忙しくなる」


***


 ドアを開けると灯りがついていて、部屋の奥からセストが汗を拭きながら顔を出した。どうやらトレーニングをしていたようだ。

「お疲れさま」

「おう、ただいま」

 ヒューゴは返事をすると、定位置にバッグを置いてジャケットを脱いだ。

「……っ、ははは」

 堪えきれない、といった様子で声を上げて笑い始めたヒューゴを、セストは不思議そうに見る。

「はは、いや、悪りぃ、待ってたのが汗だくの筋肉坊主だってのに、明るい家に帰るっていいな、と思っちまった。俺としたことが。天罰だな」

「そう思うなら、決まった相手を見つければいいのに……」

 セストは呆れながら言う。

「……諦めなきゃいけないってことは、わかってるんだ」

「……」

 声のトーンを変えた友人の顔を見る。

「なあ。この執着は、どうやったら消せるんだ。喉が渇いてどうしようもなくて、でも、代わりの誰かを抱くと、ますます喉が渇くんだ。神のありがてえお言葉とか、何か聞かせてくれよ」

 普段は冗談めかしたことばかり言って本心を隠している友人の、珍しい本音だった。

「ないよ。聞いただけで悩みが解決するような、そんな都合のいいものは」

「坊主がそんな本当のこと言っていいのかよ」

 ヒューゴはセストを振り返って笑った。

「今は僧侶としてじゃなく、友だちとして言ってる」

「多分俺は、一生このままなんだろう」

 ヒューゴは洗面所で念入りに手を洗った。セストは、内に孤独を隠したこの友人を救いたいと常々思ってきたが、彼はいつも軽口でセストを煙に巻いてしまうのだった。その彼が、珍しく本心を見せようとしている。

「どうしてそう思うんだ?」

「どうして……難しいな。俺と兄貴とレーナは、同い年で家も近所で、よく3人で遊んでたんだよな。そんで、まだ子どもの頃、いくつだったのかなぁ、10歳くらいかな、ギターを習い始めたレーナが、歌を聞かせてくれてさ。その時『見つけた』って、思ったんだよ。何でなのか、何を『見つけた』のかはわからないけど」

「見つけた」

「そう。そっからだな。でももう、その時にはレーナは兄貴が好きだって、わかってたから」

「……レーナさんには?」

「何も。答えが分かりきったこと言って困らせたくなかったし、それで気まずくなるより、何も言わないことを選んだんだ」

「そうか……」

「そうなんだよ」

 ヒューゴは保冷庫のドアを開けると、エールの瓶を取り出して栓を開け、瓶に口をつけてあおった。

「何も食べずに酒飲んじゃいけない。寺院のまかない風しか作れないけど、食事作ったから。今、温める」

 セストはもう一度汗をタオルで拭うと、最低限の道具しかないキッチンに立った。

「お前、もう俺の嫁さんじゃねーかよ」

 ヒューゴは注意されたにもかかわらず、エールを瓶半分ほど一気に飲む。

「あ、そだ。バルクがさ、あいつらんちに来てもいいってよ。メシだけでも食わせてもらおう。田舎から骸骨のシェフ連れてくるって」

「でも……」

 あの、クールなのにヒューゴに対する警戒心を隠さないバルクが、そんなことを提案するのは意外だった。

「彼らはそんなに社交的なカップルには見えなかったけど」

「俺があんまり疲れきってるんで、心配してくれたらしい。バルクはさ、なんか、俺がリコがレーナにどことなく似てるなって思ってるのを、勘づいてるみたいなんだよな」

「えっ、そうなの……?」

 セストはヒューゴの前に、温めた豆のスープと、鳥肉と根菜のソテーを並べる。

「顔は全然似てないんだけどな。なんつうか、雰囲気?」

 いただきます、とヒューゴは、作り甲斐があったと思わせる勢いで食事を平げ始めた。
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