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愛しい君へ

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 10年越しの片想いを告白したあの日、私にキスしたのはなんでだったんだろう。

 私と君の出会いは10年前。
 初めて王宮に来た私の目の前に、君は現れた。
 私はメイドとして、君は料理人として。

「俺はウィル。よろしく」
「私はエリザ。こちらこそよろしくお願いします」

 他愛もない挨拶、他愛もない世間話。
 特に君を意識することもなかった。
 だがそれは、ある日突然覆る。

「す、すみません……! 申し訳ございませんでした!」

 私が犯した過ち。それは、王に出す料理の順番を間違えたこと。何故間違えたのかはわからない。渡されたときに気づかない程呆けていたとしか思えない。
 もう私の人生は終わりだ。そう思った。
 その時に、彼の声が降ってきたのだ。

「申し訳ございません。私のせいです。彼女は料理の確認をしておりました。我々料理人側の過ちです」

 彼が隣で頭を下げていた。信じられないものを見るように、暫く口も閉めることを忘れて見つめていた。
 王は私と彼を交互に見やると、確かに出された料理を運んだだけ、と納得し、その場で彼が謹慎処分になった。
 王の部屋からの帰り、部屋を出てすぐ私は彼を呼び止めた。

「待ってください、ウィルさん。すみません。貴方のミスではないのに……それに私は確認なんて!」
「料理長を今失うわけにはいかないし、俺はまだ下っ端。どうとでもなる。お前こそ、自分のミスではないだろ」
「だけど!」
「もう処分は下ったし、命を取られるわけでもない。この話は終わり。いいな」

 言葉に詰まる私の前から去っていく君は、落ち込むでもなく、悔やむでもなく、いつもどおりの彼だった。彼の謹慎期間中、私は無我夢中で働いた。誰よりも早く起きて仕事につき、いつも以上に注意深く確認し、ミスが起きないよう過ごした。
 彼に同じ迷惑をかけたくなかった。
 しばらくして謹慎が終わった彼は、いつもどおりの無表情で現れた。久々に見た彼は、少し髪型が変わったようにも見えたが、痩せも太りもせず、思った以上に健康そうだった。

「ウィルさん! おかえりなさい!」
「ああ、迷惑かけた。またよろしく」
「いえ、こちらこそ……またよろしくお願いします!」

 久しぶりに顔を見れたことを自分がこんなに喜ぶなんて、と驚いている自分がいる。自然と笑顔になるのを堪えつつ、彼の迷惑にはならないと再度心に刻んだ。
 そして、自分の仕事に邁進する日々が続いたある日、少し遅くなった帰りに彼と出くわした。

「お疲れ様」
「ウィルさん、お疲れ様です! 今終わりですか?」
「ああ。もし良ければ、このあと少し付き合ってくれないか?」

 思いもよらぬ誘いに胸が高鳴る。
 なにか期待しているわけでもなく、純粋に嬉しかった。

「はい!」

 二つ返事で答え、私達は王宮の外にある飲み屋へと移動した。思えば一緒に出かけることなどない。食事さえともにしたことはない。なのに何故誘ってくれたのか、などと野暮なことばかり考えていた。

「マスター」
「よお、いらっしゃい」
「いつもの」
「あいよ」

 慣れたやり取りから常連であることを察する。促されるまま席に付き、同時に出されるワインの揺れる水面を見つめた。

「とりあえず、今日もお疲れ様。付き合ってくれてありがとう」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございます」

 こじんまりとしたお店ながら、ワインの味も料理の味も確かだ。人も少なく、居心地がいい。

「ここ、俺が修行させてもらってた店なんだ」
「修行……王宮に来る前に既に料理人だったんですか?」
「ああ、王宮の料理人は実務経験がないとなれないからな」
「そうなんですね……知らなかった」

 メイドは実務経験などなくてもなれるため、意識したことがなかった。だが、何故君は私を今日誘ってくれたのだろう。聞いてもいいものかとやきもきしていると、心を読まれたかのように彼が口を開いた。

「今日は、迷惑をかけたお詫び」
「えっ……そんな!」
「ずっと気に病んでたんだろ。料理長から聞いた。やたら早くから一人で掃除したり、料理も運ぶ前に必ず指差し確認したり」
「当たり前のことをしていたまでです! 私ができていたら、ウィルさんが謹慎することなんてなかったわけですし」

 彼は私の返答にため息を漏らす。
 私はすぐに口を噤んだ。俯く私の顔を覗き込むように、見つめられると、目線をどこにやったらいいのか迷ってしまう。

「だから、気にするなって言ったんだよ」
「気にしますよ、そんな……」
「俺は自分で良くて謹慎処分を受けたんだ。エリザがなにか気にすることじゃない」

 彼の回答に、あの時のことを思い返す。
 何故彼はあの時現れたのだろう。
 視線を上げて彼を見つめると、彼は少しだけ微笑んだ。

「俺は、自分で気がついたんだよ。出した料理が次の料理だったって。それをお前が持って行った後だったから追いかけた。俺は俺の仕事をしただけ。だから気に病むな」
「そうだったんですか」

 彼は、自分でミスに気づき、私が怒られると思って来てくれたのだろうか。勿論自分のミスだと言いに来てくれたのは、彼の誠実さだ。なのに、どこかで自分のために来てくれたのかと期待する自分がいる。

「……ありがとうございます、ウィルさん」
「礼を言うのは俺の方。今日は、ちゃんとそれ話したくて連れてきた。来てくれてありがとうな」
「いえ、私も教えてもらえて嬉しかったです」

 彼は素敵な人だ。誠実で、優しくて、真面目だ。
 私はいつの間にか、彼のことが好きだったのかもしれない。
 それからと言うもの、私達は度々行動を共にした。
 彼が私のことをどう思っていたのかはわからないままだが、私は彼への恋心を育てていた。
 ある日、いつものように飲みへでかけた日に、私の恋心は見事に破壊されることになる。

「俺、結婚するんだ」
「……え?」
「実は幼馴染と婚約した」
「あ、そうなんですか……おめでとうございます!」

 絞り出した祝福の言葉は、ちゃんと笑顔で言えただろうか。
 彼に、最高の笑顔を向けられただろうか。
 私の好きは溢れていなかっただろうか。

「ありがとう、お前には最初に伝えたくて」
「そんな……嬉しいです!」

 嘘だ。
 私は今、笑顔で嘘をついている。
 気づかれてはいけない。彼には、彼にだけは。
 私の恋心は、私だけのものにしなくては。
 その後のことはよく覚えていない。いつもより飲みすぎた自覚もある。翌日二日酔いになった自分が情けなかった。
 まもなくして彼は結婚し、数年経って子どもも生まれていた。

 私はといえば、親のつてで紹介してもらった人と結婚し、優しい夫と絵に書いたような幸せな家庭を築いていた。
 たまたま、ある日彼とすれ違った。
 彼が結婚してからというもの、あまり話すことはなくなっていたし、会わないようにしていた時期もあった。会ってしまうと、辛かったから。

「お、久しぶりだな。元気か?」
「ウィルさん! お久しぶりです。元気ですよ」

 久々の再開に、胸が高鳴る。私はもう人妻で、相手は誰かの夫なのに。

「あ、今日飲みに行かないか? もし良ければ」
「夫に確認してみます、また後で連絡しますね」

 私は半ば逃げ去るようにその場を後にした。数年振りの誘いが嬉しすぎて、にやけてしまいそうだったから。夫には悪いと思いつつも、急な飲み会だと連絡して許可をもらった。
 早く仕事が終わらないか、そればかり考えていた。足取りは軽く羽が生えたようで、夕方が近づくにつれ心が踊った。

「ウィルさん!」
「お疲れ様。悪いな、突然」
「いえ、どうしたんですか?」
「お前の結婚祝い、してなかったと思って」

 胸にちくりと棘が刺さる。
 私は人妻だ。だが、今日はどこかでそれを忘れたかった。昔のようなひと時を期待した。
 彼は純粋に私のお祝いをしてくれようとしているのに、私はどうして期待してしまっていたのだろう。

「あ……ありがとうございます! そんな、気にしなくて良かったのに」
「何言ってる、俺とお前の間で無粋な遠慮はやめろよ」
「そうですね、嬉しいです」

 私はまた笑顔を作る。
 苦しい。苦しいのに、一緒にいられるこの時間が少しでも長く続けばいい、そればかり考えていた。
 私は、もしかして。
 気がつけば飲み始めて数時間経ち、そろそろ帰る時間になった。街はもう眠りにつき始めていて、電気が消えている。

「今日は、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ。末永くお幸せに」
「はい! ……あの、少し散歩しませんか?」
「ん? いいけど」

 彼と並んで歩く夜の道は、初めてじゃない。
 人っ子一人いない道を進むと、暗い公園にたどり着いた。雨上がりの公園は涼しく、すり抜けていく風が心地よかった。
 二人でベンチに座り、近くの店で購入した瓶の酒で乾杯する。

「珍しいな」
「え? そうかもしれませんね」
「なんかあったのか?」
「ありました。……聞いてくれますか?」

 私はズルい女だ。
 心配かけたいわけでも、迷惑かけたいわけでもない。
 ただ、もう終わらせたかったのだ、報われない恋をずっと大切に抱え続けてきた幼い恋心を。

「私、昔ウィルさんが好きだったんです」
「……ああ」
「報われないとわかってて、それでも好きだったんです」
「うん」

 彼の顔が見れない。
 真っ暗なら私の情けない顔を見られる心配もないのに、静かな夜を照らす月が顔を出す時間になった。

「俺は、エリザのことは好きだけど、妻が一番なんだ」
「はい、知ってます」
「ああ、だから、ごめん」
「ええ、私も夫がいますから、今更どうにかなりたいわけではないです」

 情けなくなってくる。
 笑顔で嘘を重ねるのだ。今私は、あわよくば、と思ってる。本当は、一度でいいから彼の手を取りたかった。どんなに望んでも、手に入ることがない相手。

「うん、ありがとう」
「いえ! さて、遅いし帰りますか」

 立ち上がり、公園のゴミ箱に瓶を投げる。深夜だからか、静かな住宅街に瓶の落ちる音が少しこだまして響いた。
 彼と話しながら歩いていく道は、こんなに切なかったのだ。
 ふと彼を見上げると、彼も切ない顔をしていた。
 目があって、時が止まる。
 どちらかだったかは、定かではない。
 彼の唇が触れた。僅かに、だがしっかりと。
 離したくなかった唇が、離れていくのが切なくて、私は彼の腕を掴んだ。間違っているのはわかっている。
 私が間違っている。

「……もう一回」

 眉間に皺を寄せた彼が、荒っぽく噛み付いてくる。
 お互いに貪るように唇を奪い合った。何度も。彼の首に手を回して、一瞬でも長く、少しも逃さないように。
 少しだけ上がった息を整えながら、視線を地面に落とした。

「……帰ります」
「ああ」

 何も言わないでくれることが、有り難かった。
 わかっていた。間違っていると。
 それでも、今彼と重ねた唇だけは、私の気持ちを肯定しているようだった。

 それからも、彼とは普段通り過ごしている。大切な仕事仲間として。
 なにかあるわけでもない。お互いの家庭をどうするわけでもない。何か進展がある関係ではないし、なるつもりもない。

 それでも、あの瞬間、あの気持ちだけは。
 貴方の顔も、声も、息も、私だけのものだった。過ちだとしても。
 これから先、何かを望むことはない。
 だから一つだけ、神に祈りを捧げる。

「あのキスを、忘れたくない」

 今日も祈る。
 彼と、彼の家族の幸せを、自分の家族の平穏を。
 隠された私の、幼い恋心が報われた瞬間を頭の隅で反芻しながら。
 私は今日も、彼と仕事をする。キスの意味は、彼しか知らない。
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