四季彩カタルシス

深水千世

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雨、ひと雫の涙

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 私は桜の木です。
 山間の小さな村にある、神社の境内に立っています。いつからここにいたのか、あまりよく覚えていません。私たちの寿命は途方もなく長いのですから時間の流れなど意識していたらきりがないのです。
 ただ、無人駅に向かって走る電車を見送るときだけは、ガタンゴトンという音が時を刻んでいるような気になるのでした。
 私の立つ神社は侘しい佇まいをしています。桜が花咲く時期だけは、ふらりと立ち寄って私を見上げる人も幾人かいるのですが、普段は参拝者も殆どないのでした。
 ただただ季節と天気が移ろう毎日を過ごしていた、ある日のことでした。
 朝から小雨がしとしとと降り続け、いつもなら明るい陽射しで輝く境内も少しくすんで見える昼下がり。傘をさした一人の女性がふらりと現れたのです。
 白と黒の水玉模様の傘をさしていて顔は見えませんでしたが、女性はしなやかな足取りで境内を進んできました。肩にさげたバッグから財布を取り出し、「あ、100円玉と1円玉しかないや」とぶつぶつ言い、少し迷ってから1円玉を賽銭箱に放りました。
 彼女はガラガラと鈴を鳴らしてから拝礼し、「引っ越してきました。よろしくお願いします」と頭を下げました。
 この神社に祀られている神様はいつも退屈そうに寝ているのですが、このときは久しぶりの参拝者に喜んだようで、すぐに彼女にささやかな贈り物をしたようでした。さっきまで降り続いていた小雨がぴたりと止んだのです。

「あら。神様は1円の私にも優しいのね」

 そう言って笑った女性が傘を下ろして空を見上げました。
 年の頃は三十を過ぎたあたりでしょうか。どこにでもいそうな風貌の女性でしたが、私は思わず見蕩れてしまいました。空を見上げて、目元に笑みを浮かべている表情はとても柔らかく、まるで春の陽射しを思わせる雰囲気をまとっていたからです。
 傘をたたもうとした彼女の頬に、一粒の雨が飛びました。すっと肌を垂れる雨粒を、彼女の白い指が拭き取ります。
 私は桜の木に生まれながら、その雨粒を羨ましく思いました。あの肌をそっと撫で、あの指に触れられてみたい、と。
 それ以来、神社の脇を彼女が通るたびに、私は目で追うようになりました。どんなに寒い日でも、彼女を見るとまるで春が来たようで、枝先が疼くのでした。

 この辺りの住人の多くが車で移動しているにもかかわらず、彼女は神社の脇を通って食料品を買いにいくようでした。それを見るたびに「あぁ、大根が袋から出ている。今夜はふろふき大根でも作るのかな」とか「おや、髪を切ったね。うん、短いほうが似合う」などと遠くから微笑んでいたものです。
 彼女はいつもお参りするわけではなく、時々ふらりと立ち寄っては、自分の人生の節目を報告していくのでした。

 菖蒲が咲き始めた頃、彼女は満面の笑みを浮かべ、拝礼しました。

「神様。結婚でこの地に参りましたが、初めてこちらに友達ができました」

 そうかと思えば、夕闇の中で泣いていたこともありました。

「夫と喧嘩しました。故郷に帰りたいです」

 私はそよ風を送り、そっと彼女を慰めることしかできませんでした。ちゃんと家まで帰ったか、コウモリに見てきてもらいましたっけ。
 紅葉が赤く染まり行く頃になると、彼女はこぼれんばかりの笑みでこう囁きました。

「神様、やっと子を授かりました。ありがとうございます」

 礼を言われても、神様なぞ何もしていません。けれど、世界中の誰にでも「ありがとう」と言いたい気分だったのかもしれません。

 それから数年は彼女の姿を見かけない時期が続きました。
 私は彼女がどうしているかやきもきしながら、毎年春にはいつも以上に多くの桜の花を咲かせました。この見事な桜吹雪につられて、彼女が訪れやしないかと願ったのです。
 そして三年後の桜吹雪の中、とうとう彼女がやってきました。けれど、彼女は一人ではありませんでした。彼女にそっくりな幼い女の子と手を繋ぎながら境内に現れたのです。
 女の子は柔らかそうな手で私の花びらをぎゅっと掴んではしゃぎました。

「この桜の木、おっきいねぇ」

 母親となった彼女は、私の梢を見上げて微笑みます。その笑顔は前にも増して柔らかく、そして慈愛に満ちたものでありました。
 誰もが私の花をうっとりと見つめてきます。けれど、私が同じような視線で見つめるのは、彼女の笑みだけでした。

 やがてその女の子が小学生になると、あの女性の物腰も落ち着いたものになってきました。夫と喧嘩したくらいでは神社にも来なくなり、その目尻に微かな皺も刻まれていきます。
 けれど、四季が巡るたびに出会う花々や明るい陽射しに向ける眼差し、鳥のさえずりに耳を傾けながら歩く姿はあの頃と同じように、私を和ませるのです。

 ところが、出会ったときと同じ小雨の続く日のことでした。
 せっかく咲いた私の花びらは冷たい雨に落とされ、無惨にも境内にびしょ濡れで貼り付いていました。
 そんな中、一人の女性が水色の傘を持って参拝しに来たのです。泣きはらした目で、神社に参拝します。

「……母が事故で他界しました」

 それは、あの幼い娘が成長した姿だったのです。そのときの私の中に浮かんだ気持ちをなんといいましょうか。人の命は儚く、そして無常なものだと知っていたはずなのに、それでも愕然としました。もう、あの笑顔はないのだと思うと、散り行く花びらが人の命の落とす様に思えてきます。

「母がよくここに参っていたので、ご報告にあがりました。母を見守ってくださり、ありがとうございました」

 神様は返事のつもりだったのでしょうか。あのときと同じようにすぐに雨雲に雨を止めるよう伝えてくれました。
 雨がやんだことに気づいた娘が、傘をおろし、空を見上げました。私は餞別のつもりで身を震わせ、彼女に桜吹雪を送ります。
 私はハッとしました。そのときの笑みまでもが、あの女性にそっくりだったのです。少し疲れたような顔に浮かんだ束の間の笑みに、あの女性が宿っているかのようでした。
 ぴたりと顔に貼り付いた湿った花びらを、娘はそっと手に取ります。その手はもう幼子のものではなく、すっと伸びたしなやかな指先をしていました。

 小さくなりゆく背中を見届けながら、私は枝を震わせました。
 願わくば、あのときの雨粒のように、今の桜の花びらのように、彼女の頬を優しく撫でてあげる手が欲しかった。遠くから見つめるだけではなく、その手をとって励ましてやりたかった。
 私にできたことといえば、この花を咲かせて笑みを誘うことしかなかったのです。それこそが私の全てでありましたが、このときばかりはなんとも自分をもどかしく思いました。
 私の寿命が尽きるまであと何百年かはあるでしょう。そして彼女の魂が彷徨い、痛みや哀しみを忘れてまた人に宿るのも、何百年かかかるかもしれません。
 そのときは、どうぞ彼女のそばでその手をとれる存在になれますように。そう願ったとき、この幹をしたたり落ちた雨粒が自分の初めての涙のように思えました。誰かのために泣くということは、なんと哀しくも愛おしいのか。
 神様が雲の切れ間に、声もなく笑った気がしました。
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