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秋
茶色い卵焼き
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ある日、小学生になる娘の文音が、ふくれっ面をして帰ってきた。髪の毛や服に落ち葉がくっついているところを見ると、気の強い彼女は、取っ組み合いの喧嘩をしてきたらしい。
「あらあら、泣きそうな顔ね」
私はしゃがんで彼女の顔を正面から見据え、微笑んだ。
「どうしたの?」
「……あのね、澪と喧嘩したの」
澪というのは、文音の大好きな幼なじみの男の子だった。喧嘩の原因を訊いてみると、実に子どもらしいもので、文音が澪を大好きだからこその喧嘩だったようだ。
「ごめんなさいって言い出しにくいのね? 文音はお父さんと一緒で、怒るとだんまりだものね。変なところが似たわね」
私の夫である大地も、自分から謝るのは苦手だ。よほどの喧嘩でない限りは素直になれない。
「お母さんもお父さんと喧嘩することあった?」
肩についたままの落ち葉を取り除きながら、私は頷く。
「時々はね。どうやって謝るか教えてあげようか?」
「うん」
「じゃあ、話してあげるね」
そして、私は娘にある話を聞かせたのだった。
あれは娘が三歳になった頃だ。夫の大地と派手に喧嘩をしたことがあった。
原因は職場に復帰したいと言った私に、彼が猛反対したことだった。
「千里、頼むから文音のために家にいてくれ」
そう言われたけれど、私は司書の仕事が好きだった。
本が好きなのはもちろん、誰かと本が出逢うのを助ける仕事は私にとってライフワークのようなもの。
それに娘のためにというのは建前で、本当の反対した理由は彼の嫉妬だった。勤務中に何度もラブレターをもらった過去のせいで、やきもちやきの大地は不安になったのだろう。
意見は食い違い、私もつい感情的になって喧嘩になってしまったのだ。
大地は怒ったら何も話さなくなる。ただじっと自分の中に閉じこもってしまうのだ。
「おはよう」の一言がないだけで、一日が夜から始まった気分なのに、それが三日も続いた。
そんなとき、大地がいない昼間に、義母が遊びにきてくれた。
「どうしたの? 千里ちゃん、元気ないわね」
平静を装っていたのに、彼女は一目見て私の沈んだ気持ちを見抜いた。素直に『大地と喧嘩しました』と答えると、義母は理由を聞いてから笑った。
「じゃあ、私がとっておきの仲直りの方法を教えてあげる。あの子はお父さんに似ているところもあるし、なによりおばあちゃんっ子だから」
「仲直りの方法?」
「そう、秘伝の卵焼きの作り方よ」
「三木家の味付けと違うんですか?」
私は既に義母から大地の好物である卵焼きの味付けを教わったことがある。三木家の味付けは塩と胡椒だけだ。
卵をボウルに割り入れながら、義母が笑う。
「うちの卵焼きは塩と胡椒だけだから、黄色いでしょう? でも秘伝の卵焼きは茶色いの」
「茶色?」
首を傾げた私に、彼女は小さく微笑んだ。
「ねぇ、あの子って今でこそチェロ教室を経営しているけれど、その前は音楽教室に雇われていたじゃない?」
義母はフライパンを取り出しながら、突然話を変えた。
大地は小料理屋の息子で、高校卒業後に店を手伝っていたけれど、チェロを弾く夢を諦められずに遅まきながら音大を出た。
音楽教室に就職して『教える』ということを研鑽してから、自分の教室を持ったのだった。
「あの子のおばあちゃんがバイオリン教室を経営していたから、その影響が強かったんでしょうけれど」
夫は自他ともに認める『おばあちゃんっ子』だ。バイオリン教師をしていた凛々子さんは名前の通り凛とした人で、私も大好きだった。大地の音大受験を手助けしたのも彼女だった。
「私はね、夫が銀行員を辞めて小料理屋を始めるって言い出したときに大反対したの。定期収入は家計の要だもの。でも、結局は夫のロマンを応援したけれど」
彼女はそう言って、フライパンに油を敷く。
「大地が自分でチェロ教室をやるって言い出したときも、同じ理由で反対したの。千里ちゃんと結婚するっていうのに、ちゃんと養っていけるのかって」
それは覚えている。大地はかえって、負けん気を発揮していたけれど。
「それで、そのまま大喧嘩になってね。あの子、怒ったときの態度がお父さんそっくり。だんまりしちゃって。とりあえず夕食だけは食べていきなさいって言ったのよ」
彼女は卵を菜箸で軽くほぐし、話を続ける。
「私ね、夕食を作りながら思ったの。夫が店を持ちたいって言い出したとき、凛々子さんは我が子の夢に反対しなかったなぁって。凛々子さんは『お前の人生だから』って言ってたの。同じ母親なら、そう言って見守ってあげてもいいような気がしたわ。でも、さっき反対したばかりで言い出しにくくなって。それで、こっそりこの卵焼きを夕食に出したのよ」
「どうして、卵焼きなんですか?」
すると、彼女は含み笑いをしてこう言ったのだ。
「これが我が家の『ごめんなさい』だからよ。私が夫と大喧嘩したときもね、やっぱり『わかった、応援するよ』って言い出しにくくて。それで、こっそり凛々子さんに電話したの」
「なんて?」
「お袋の味を教えてくださいって」
くすくすと笑い、彼女が卵をほぐす手を止めた。そして、冷蔵庫から調味料を取り出した。
「まずは、お出汁。あとは砂糖と、ちょっとの塩。そして……お醤油」
たらりと醤油が垂れて、卵液は茶色に染まった。
「これが、夫の食べてきた味なの。夫の転職で喧嘩したときね、これを焼いて、黙って夫に出したの」
そのときのことを思い出したのか、フライパンを火にかける義母は柔らかい顔つきになった。
「あのときの夫の顔ったら」
彼女の夫、つまり大地の父親は卵焼きを見るなり、ハッとしたそうだ。すぐに、それがお袋の味のする卵焼きだとわかったらしい。彼はそっと一口味わうと、なんとも言えぬ顔になったそうだ。
「なんていうのかしらね、懐かしむようで嬉しそうで、なんともいえない柔らかい顔だった。初めて見たのよ、そんな彼」
フライパンに卵液を流し込むと、じゅわっと卵が踊る音がした。
「まったく、敵わないと思った。母は偉大だってね。それ以来、私は喧嘩したら凛々子さんにお袋の味を教えてもらって食卓にあげたのよ。大地と喧嘩したとき、なんとなく、この茶色い卵焼きを出したの。彼は私の黄色い卵焼きで育っているのに」
器用に菜箸が操られ、卵がどんどん巻かれていく。
「ところがね、大地ったら卵焼きを見た途端、目をまん丸にしてね。その顔が本当に夫にそっくりで。黙ったまま卵焼きをじっと見て、一口食べたの」
そして、大地は「ばあちゃんの味って、これか」と、呟いたそうだ。
「きっと、凛々子さんから茶色い卵焼きの意味を聞いていたのね。あの子、帰り際に私に『ありがとう。大丈夫だよ。俺は親父の背中を見て育ったんだから』って言ったわ。生意気言うわよね。でもね、ほっとしたわ」
辺りに卵と醤油の焦げたいい匂いがふわりと漂うのを嗅ぎながら、私はじっと聞き入っていた。
「夫の血筋だなぁって嬉しくなった。卵焼きと同じように受け継がれているんだもの」
そう言うと、ぽんと皿に茶色い卵焼きをあげる。私はそれを見ながら、彼女に訊いた。
「お義母さん、大地もそのとき『なんともいえない顔』になってたんですか?」
彼女はふっと笑みを浮かべ、こう言った。
「今夜、これを出してごらんなさい。そうすれば、わかるわよ」
私はじっと茶色い卵焼きを見つめた。素直になれないけれど、心から応援するよと伝えたいときにだけ登場する卵焼きだ。凛々子さんから、義母へ、そして私へと受け継がれたお袋の味は、ほんのり甘く出汁がきいて、醤油の香ばしい匂いのする卵焼きだった。
これが、いつか娘にも伝わるのかしら? そう思うと、くすぐったい気がした。
そうね、職場復帰はもう少し待って、しばらく文音と一緒にいてもいいかもしれない。あの子が卵焼きを一人で作れる歳になるくらいまで。そう思った。
その夜、仕事から帰ってきた大地は相変わらず、むすっとしたまま食卓に座った。けれど、湯気のたつ卵焼きを見つけて、彼は息を呑んだ。いつもと違う色をした卵焼きを目を丸くして見つめている。
彼は私にちらりと視線を走らせたあと、ゆっくり箸をとった。いつもはお味噌汁から手をつけるのに、真っ先に卵焼きを口に運ぶ。
噛み締めるその顔が途端に柔らかくなった。その目に、穏やかな光が走る。そこに浮かぶのは追憶だろう。ほんの少し微笑みを滲ませた唇が「参ったな」と、小さく呟いたのだ。
「ずるいよ。ばあちゃんの卵焼きを持ち出すなんて」
そう呟くと、久しぶりの笑顔を見せてくれた。
「……ごめんな。俺ばっかり好きなことやってるのもフェアじゃないよな。千里も好きな仕事をしていいよ」
思わず駆け寄り、横から彼を包むように抱きしめた。
「ありがとう、大地。私ね、また司書の仕事ができて嬉しい。本当よ。でも……」
ぎゅっと彼をかき抱く。
「あなたが笑ってくれたほうがもっと、ずっと嬉しい」
彼が口の中で「敵わないや」と笑い、私にキスをした。
キスを返し、「敵うわけないわよ。だって私は三木家の嫁だもの」と、おどけて見せた。凛々子さんにも義母にも、そして私にも卵焼きというとっておきがあるのだから。
受け継がれる味は、受け継がれる愛だ。私もいつか、この卵焼きの話を娘にしてあげられるわ。そう心から笑った。
そして今、私は小学生の娘にこの話をしている。文音は「卵焼きが嬉しいの? そういうものなの?」と首を可愛らしく傾けているけれど。
「そうね、あなたがもう少し大きくなって、澪君に卵焼きを作れるようになったら、ためしてごらんなさい」
焼き上がりの形なんて不格好でもいいから、一生懸命、想いをこめて作ってごらん。
「でも、今の文音にはちょっと早いから、素直に『ごめん』って言ってごらん。きっと、澪君も待ってるわ」
「だって……でも……」
戸惑う彼女に、私は囁く。
「澪君が大好きでしょ?」
「うん」
彼女は頬を染めて、力一杯頷く。それはとても、眩しく見えた。
「その気持ちがあれば、大丈夫よ。きっと、いつか卵焼きを作ってあげられる。でも、それまでは女同士の内緒よ」
交わされる小さな小指との指切りげんまん。そうして、私たちは卵焼きのような色をした落ち葉が舞う中、手をつないで帰った。
彼女が大好きな人に卵焼きを作るのはもう少しあとのお話。澪君の実家の味付けをした卵焼きを作るのは、ね。
「あらあら、泣きそうな顔ね」
私はしゃがんで彼女の顔を正面から見据え、微笑んだ。
「どうしたの?」
「……あのね、澪と喧嘩したの」
澪というのは、文音の大好きな幼なじみの男の子だった。喧嘩の原因を訊いてみると、実に子どもらしいもので、文音が澪を大好きだからこその喧嘩だったようだ。
「ごめんなさいって言い出しにくいのね? 文音はお父さんと一緒で、怒るとだんまりだものね。変なところが似たわね」
私の夫である大地も、自分から謝るのは苦手だ。よほどの喧嘩でない限りは素直になれない。
「お母さんもお父さんと喧嘩することあった?」
肩についたままの落ち葉を取り除きながら、私は頷く。
「時々はね。どうやって謝るか教えてあげようか?」
「うん」
「じゃあ、話してあげるね」
そして、私は娘にある話を聞かせたのだった。
あれは娘が三歳になった頃だ。夫の大地と派手に喧嘩をしたことがあった。
原因は職場に復帰したいと言った私に、彼が猛反対したことだった。
「千里、頼むから文音のために家にいてくれ」
そう言われたけれど、私は司書の仕事が好きだった。
本が好きなのはもちろん、誰かと本が出逢うのを助ける仕事は私にとってライフワークのようなもの。
それに娘のためにというのは建前で、本当の反対した理由は彼の嫉妬だった。勤務中に何度もラブレターをもらった過去のせいで、やきもちやきの大地は不安になったのだろう。
意見は食い違い、私もつい感情的になって喧嘩になってしまったのだ。
大地は怒ったら何も話さなくなる。ただじっと自分の中に閉じこもってしまうのだ。
「おはよう」の一言がないだけで、一日が夜から始まった気分なのに、それが三日も続いた。
そんなとき、大地がいない昼間に、義母が遊びにきてくれた。
「どうしたの? 千里ちゃん、元気ないわね」
平静を装っていたのに、彼女は一目見て私の沈んだ気持ちを見抜いた。素直に『大地と喧嘩しました』と答えると、義母は理由を聞いてから笑った。
「じゃあ、私がとっておきの仲直りの方法を教えてあげる。あの子はお父さんに似ているところもあるし、なによりおばあちゃんっ子だから」
「仲直りの方法?」
「そう、秘伝の卵焼きの作り方よ」
「三木家の味付けと違うんですか?」
私は既に義母から大地の好物である卵焼きの味付けを教わったことがある。三木家の味付けは塩と胡椒だけだ。
卵をボウルに割り入れながら、義母が笑う。
「うちの卵焼きは塩と胡椒だけだから、黄色いでしょう? でも秘伝の卵焼きは茶色いの」
「茶色?」
首を傾げた私に、彼女は小さく微笑んだ。
「ねぇ、あの子って今でこそチェロ教室を経営しているけれど、その前は音楽教室に雇われていたじゃない?」
義母はフライパンを取り出しながら、突然話を変えた。
大地は小料理屋の息子で、高校卒業後に店を手伝っていたけれど、チェロを弾く夢を諦められずに遅まきながら音大を出た。
音楽教室に就職して『教える』ということを研鑽してから、自分の教室を持ったのだった。
「あの子のおばあちゃんがバイオリン教室を経営していたから、その影響が強かったんでしょうけれど」
夫は自他ともに認める『おばあちゃんっ子』だ。バイオリン教師をしていた凛々子さんは名前の通り凛とした人で、私も大好きだった。大地の音大受験を手助けしたのも彼女だった。
「私はね、夫が銀行員を辞めて小料理屋を始めるって言い出したときに大反対したの。定期収入は家計の要だもの。でも、結局は夫のロマンを応援したけれど」
彼女はそう言って、フライパンに油を敷く。
「大地が自分でチェロ教室をやるって言い出したときも、同じ理由で反対したの。千里ちゃんと結婚するっていうのに、ちゃんと養っていけるのかって」
それは覚えている。大地はかえって、負けん気を発揮していたけれど。
「それで、そのまま大喧嘩になってね。あの子、怒ったときの態度がお父さんそっくり。だんまりしちゃって。とりあえず夕食だけは食べていきなさいって言ったのよ」
彼女は卵を菜箸で軽くほぐし、話を続ける。
「私ね、夕食を作りながら思ったの。夫が店を持ちたいって言い出したとき、凛々子さんは我が子の夢に反対しなかったなぁって。凛々子さんは『お前の人生だから』って言ってたの。同じ母親なら、そう言って見守ってあげてもいいような気がしたわ。でも、さっき反対したばかりで言い出しにくくなって。それで、こっそりこの卵焼きを夕食に出したのよ」
「どうして、卵焼きなんですか?」
すると、彼女は含み笑いをしてこう言ったのだ。
「これが我が家の『ごめんなさい』だからよ。私が夫と大喧嘩したときもね、やっぱり『わかった、応援するよ』って言い出しにくくて。それで、こっそり凛々子さんに電話したの」
「なんて?」
「お袋の味を教えてくださいって」
くすくすと笑い、彼女が卵をほぐす手を止めた。そして、冷蔵庫から調味料を取り出した。
「まずは、お出汁。あとは砂糖と、ちょっとの塩。そして……お醤油」
たらりと醤油が垂れて、卵液は茶色に染まった。
「これが、夫の食べてきた味なの。夫の転職で喧嘩したときね、これを焼いて、黙って夫に出したの」
そのときのことを思い出したのか、フライパンを火にかける義母は柔らかい顔つきになった。
「あのときの夫の顔ったら」
彼女の夫、つまり大地の父親は卵焼きを見るなり、ハッとしたそうだ。すぐに、それがお袋の味のする卵焼きだとわかったらしい。彼はそっと一口味わうと、なんとも言えぬ顔になったそうだ。
「なんていうのかしらね、懐かしむようで嬉しそうで、なんともいえない柔らかい顔だった。初めて見たのよ、そんな彼」
フライパンに卵液を流し込むと、じゅわっと卵が踊る音がした。
「まったく、敵わないと思った。母は偉大だってね。それ以来、私は喧嘩したら凛々子さんにお袋の味を教えてもらって食卓にあげたのよ。大地と喧嘩したとき、なんとなく、この茶色い卵焼きを出したの。彼は私の黄色い卵焼きで育っているのに」
器用に菜箸が操られ、卵がどんどん巻かれていく。
「ところがね、大地ったら卵焼きを見た途端、目をまん丸にしてね。その顔が本当に夫にそっくりで。黙ったまま卵焼きをじっと見て、一口食べたの」
そして、大地は「ばあちゃんの味って、これか」と、呟いたそうだ。
「きっと、凛々子さんから茶色い卵焼きの意味を聞いていたのね。あの子、帰り際に私に『ありがとう。大丈夫だよ。俺は親父の背中を見て育ったんだから』って言ったわ。生意気言うわよね。でもね、ほっとしたわ」
辺りに卵と醤油の焦げたいい匂いがふわりと漂うのを嗅ぎながら、私はじっと聞き入っていた。
「夫の血筋だなぁって嬉しくなった。卵焼きと同じように受け継がれているんだもの」
そう言うと、ぽんと皿に茶色い卵焼きをあげる。私はそれを見ながら、彼女に訊いた。
「お義母さん、大地もそのとき『なんともいえない顔』になってたんですか?」
彼女はふっと笑みを浮かべ、こう言った。
「今夜、これを出してごらんなさい。そうすれば、わかるわよ」
私はじっと茶色い卵焼きを見つめた。素直になれないけれど、心から応援するよと伝えたいときにだけ登場する卵焼きだ。凛々子さんから、義母へ、そして私へと受け継がれたお袋の味は、ほんのり甘く出汁がきいて、醤油の香ばしい匂いのする卵焼きだった。
これが、いつか娘にも伝わるのかしら? そう思うと、くすぐったい気がした。
そうね、職場復帰はもう少し待って、しばらく文音と一緒にいてもいいかもしれない。あの子が卵焼きを一人で作れる歳になるくらいまで。そう思った。
その夜、仕事から帰ってきた大地は相変わらず、むすっとしたまま食卓に座った。けれど、湯気のたつ卵焼きを見つけて、彼は息を呑んだ。いつもと違う色をした卵焼きを目を丸くして見つめている。
彼は私にちらりと視線を走らせたあと、ゆっくり箸をとった。いつもはお味噌汁から手をつけるのに、真っ先に卵焼きを口に運ぶ。
噛み締めるその顔が途端に柔らかくなった。その目に、穏やかな光が走る。そこに浮かぶのは追憶だろう。ほんの少し微笑みを滲ませた唇が「参ったな」と、小さく呟いたのだ。
「ずるいよ。ばあちゃんの卵焼きを持ち出すなんて」
そう呟くと、久しぶりの笑顔を見せてくれた。
「……ごめんな。俺ばっかり好きなことやってるのもフェアじゃないよな。千里も好きな仕事をしていいよ」
思わず駆け寄り、横から彼を包むように抱きしめた。
「ありがとう、大地。私ね、また司書の仕事ができて嬉しい。本当よ。でも……」
ぎゅっと彼をかき抱く。
「あなたが笑ってくれたほうがもっと、ずっと嬉しい」
彼が口の中で「敵わないや」と笑い、私にキスをした。
キスを返し、「敵うわけないわよ。だって私は三木家の嫁だもの」と、おどけて見せた。凛々子さんにも義母にも、そして私にも卵焼きというとっておきがあるのだから。
受け継がれる味は、受け継がれる愛だ。私もいつか、この卵焼きの話を娘にしてあげられるわ。そう心から笑った。
そして今、私は小学生の娘にこの話をしている。文音は「卵焼きが嬉しいの? そういうものなの?」と首を可愛らしく傾けているけれど。
「そうね、あなたがもう少し大きくなって、澪君に卵焼きを作れるようになったら、ためしてごらんなさい」
焼き上がりの形なんて不格好でもいいから、一生懸命、想いをこめて作ってごらん。
「でも、今の文音にはちょっと早いから、素直に『ごめん』って言ってごらん。きっと、澪君も待ってるわ」
「だって……でも……」
戸惑う彼女に、私は囁く。
「澪君が大好きでしょ?」
「うん」
彼女は頬を染めて、力一杯頷く。それはとても、眩しく見えた。
「その気持ちがあれば、大丈夫よ。きっと、いつか卵焼きを作ってあげられる。でも、それまでは女同士の内緒よ」
交わされる小さな小指との指切りげんまん。そうして、私たちは卵焼きのような色をした落ち葉が舞う中、手をつないで帰った。
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