千津の道

深水千世

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五匹の子豚

好きだと思ううちはしょうがない

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 翌朝、ベッドに正臣の姿はなかった。窓から外をうかがうと、中川の車もない。
 身支度をした千津はどぎまぎしながら、正臣の家に続く小道を行く。歩き慣れた道なのに、今朝は輝いて見えた。

「あれ」

 思わず、歩みを止めた。正臣の駐車場に車がないのだ。彼がこんなに早く出かけるのは稀なことだった。

「出張レッスンかな?」

 顔を合わせなくてホッとするような、拍子抜けするような、複雑な気分で呟く。
 玄関に入ると、いつものようにセルジュが尻尾を振って出てきた。リビングにはいつもの通り千津の朝食が用意されている。だが、置き手紙のようなものはなかった。

「どこに行ったんだろ?」

 セルジュの散歩を終えても、正臣が戻ってきた気配はなかった。朝食のサンドイッチにかけられたラップを外し、一口かじる。しかし、どうにも味気ない。

「責任とってほしいわ」

 正臣と出会う前は、独りの食事など当たり前だった。何を食べても味がした。それなのに、今ではこの有様だ。
 自分はきちんと地に足がついているのだろうか。正臣によりかかっているだけじゃないのか。そんな気がしたものの、どうしようもなかった。走り出した想いを止められる器用さがあるなら、すでに違う人生を歩んでいるはずだ。

 食器を洗い、家を出た千津はそのままハローワークへ向かった。せめて仕事が見つかれば、少しは自分の足で立てる気がしたのだった。

「ありがとうございました」

 窓口の担当者に礼をした千津の顔には、少し笑みが戻っていた。
 この日は幾つか興味のある求人があり、面接を受けることになった。進展があると、少しは足取りも軽くなる。

 ロビーから出口へ向かったとき、一人の女性が入ってくるところだった。その顔を見て、千津の足が思わず止まる。相手もぎょっとした顔になった。鉢合わせしたのは、同じ課にいた広瀬涼子だった。

「……広瀬さん」

 思わず名を呼ぶと、彼女は今まで見せたことがないほど険しい顔をし、素通りしようとした。

「広瀬さん! どうしてあんなことを?」

 巻き毛が弾む背中に向かって、声を張り上げた。

「ねぇ、係長とはどうなったの?」

 涼子が振り向き、苛立たしげに駆け戻ってきた。

「大きな声出さないでもらえます? すごい恥ずかしいんですけど」

「恥ずかしいのはあなたのしたことでしょう? どうして私を告発するようなことをしたの?」

 涼子は押し黙り、深いため息を漏らした。

「外でいいですか?」

 そう言うと、彼女は駐車場に千津を連れ出し、停めていた車のドアを開けた。

「助手席に乗ってください」

「どこ行くの?」

「どこも行きません。ただ、煙草が吸いたいんです」

 涼子が喫煙者だったことに驚きながら、車に乗り込む。煙草に火をつけ、紫煙を勢い良く吐き出す横顔は、まるで知らない人のようだった。

「煙草、吸ってたんだね」

「家でしか吸わないんです。けど、先輩と二人きりで話すなんて煙草でも吸わなきゃ、やってらんないですからね」

「どうして?」

「嫌いだからです」

 苛立ちに満ちた声だった。
 会社での顔とのギャップに驚き呆れ、千津はしげしげと涼子を見た。いつもの媚びるような目と可愛らしい話し方ではなく、つっけんどんで早口な調子だった。煙草の吸い方も手馴れている。
 彼女は白い指に紫煙をからませながら、口を開いた。

「私、永井先輩に嫉妬したんです」

「係長のことなら、なんでもないんだけど」

「それは知ってます」

 苦々しく吐き出すように言う。

「あの人がいろんな女にちょっかいを出すのは、もう病気みたいなもんだから。先輩とは何もなかったって見ればわかるし、私だって人のこと責められる立場じゃないし」

「じゃあ、どうして?」

「私ね、先輩のそういう顔見るとイライラするんですよ」

 どんな顔だろうと思った瞬間、涼子がうんざりしながら口を開いた。

「どんな顔だろうって思いました? そういう顔ですよ。鈍いところもイラッとします」

「それじゃわからないわよ。はっきり言って」

「一歩後ろに隠れてばかりで、黙って誰かが優しくしてくれるのを待ってる顔です」

 自覚はある。ぐっと言葉に詰まっていると、涼子は次々にまくしたてた。

「たいして仕事ができるわけでもないし、特別美人でもない。スタイルだってガリガリでお世辞にもいいとは言えないのに、上司も手堅い男も同僚も永井先輩を悪く言う人っていなかった。私、それが気に入らなかったんです」

「あの、手堅い男ってなに?」

「顔も平均より良くて、これから出世する見込みがあるか、もう地位があるか、一途か、とりあえず背中に幸せを背負ってそうな男って意味ですよ。たとえば、そうですね、先輩の同期の中川さんとか」

 不意に出てきた中川の名前にぎくりとしたものの、涼子は二人の関係を知らないらしく、そのまま話を続けた。

「イラっとするんですよね。手を伸ばせば欲しいものがいくらでも手に入るのに、先輩って口を開けて待つばっかりで、そのくせ何かあるとすぐ落ち込むばかりで被害者ぶってうざかったんです」

「散々な言われようね」

 ここまで言われると腹が立つより、圧倒されてしまう。おまけに身に覚えがありすぎて刺さるようだった。

「あの告発文を出せば、先輩に悪い噂もたつし、係長に釘もさせるし、一石二鳥かなって思ったんです」

 そう言って、彼女は千津を見た。

「さっき係長のことを聞いてきたってことは、知ってるんですよね?」

「まぁ、会社の人から噂で聞いたくらいだけど」

「係長の奥さん、精神的に追い詰められてたみたいなんです。私のせいだから自業自得かもしれないけど、自分が告発されるなんて思ってもいなかった。いい気味って思うでしょ?」

「いや、正直、別に。これからどうするんだろうって心配にはなるけど」

「はぁ? いい人ぶってるんですか?」

「そういうわけじゃないけど」

 涼子は短くなった煙草を灰皿に押し付けながら呟いた。

「本当、嫌になっちゃう」

「へっ?」

「私がどんなに妬んでも、嫌いになっても、先輩ってどこ吹く風で、逆に私に優しくしてくれる。調子狂うったらないです」

 その横顔がまるで拗ねた子どものようで、思わず、千津が噴き出した。

「調子狂うのはこっちだわ」

「怒らないんですか? 私、さっきから好き勝手言ってるし、会社をクビになったのも私のせいなんですよ?」

「怒らない。だって、私が怒ったらあなたは楽になるでしょう? それが私のやり方よ。謝る機会もあげないわ。そのほうが忘れられないでしょう」

 押し黙る涼子に、千津が笑う。

「それにね、あのとき会社を辞めて正解だった。私、もう次のステップに進めたの。でも、あなたがいなかったら、いつまでも同じところをぐるぐる回っていたかもしれないから。だから、ありがとう」

「やめてください。どれだけお人好しですか」

「私、あなたがそういう性格だってもっと早く知りたかったわ。下手に猫かぶるより、そのキャラのほうがいいんじゃない?」

「私は私のやり方で幸せを掴むんですから、ほっといてください。私の本性は係長だって知りません。二度と会わない人にしか見せないことにしてます」

「じゃあ、係長とはずっと一緒にいるの?」

「捨てないでくれって泣くんです。どうしようもない男だってわかってるけど、好きだと思ううちはしょうがないです」

 そう言うと、涼子は車を降りた。千津も慌てて出る。

「まぁ、いい男つかまえたら、さっさと係長なんて捨てると思いますけどね」

「そのタフさがあれば、あなた一人でも幸せをつかめると思うけど。というより、一人のほうが早いと思う。私、その本性を知ってたら、友達になれてたかもしれないわ」

「冗談でしょ」

 涼子が吐き捨てるように言い、ふんと鼻を鳴らした。

「願い下げですね。それじゃ」

 そして、彼女は高らかにヒールを鳴らし、ハローワークに戻っていく。
 だが、ふと立ち止まり、ゆっくり振り向いた。

「これだけは言っておきます。先輩って、私が欲しいものを持ってる人でした」

「えっ?」

「先輩が思うより、先輩は男からも女からも好かれてました。私みたいに自分を偽りもせず、何もしなくても、笑って過ごせるのがうらやましかった。それなのにいつも自信なさそうにしてて、もどかしかったんです」

 そう言う涼子の顔は、さっきまでの毒々しさが消え、どこか泣きそうだった。

「私はこんなに先輩を妬んでるのに、優しくしてくれるから、すごく惨めだった。だから、先輩には、頑張ってなんて言いません」

「うん、それでいいよ」

 千津が頷く。

「私、あなたって歪んでると思ってた。けど、そういうまっすぐなところがあるって見抜けなかったのは、私が悪いわ。それに、私にもあなたの欲望に正直なところを見習うくらいの勢いがあればよかったのにって思うから」

 涼子が顔を歪ませた。

「先輩も結構、言いますね。先輩が今みたいにちゃんと自分の意見を持てる人だって知ってたら、私だって何か違ったかもしれません」

 そして、彼女は踵を返しながら、吐き捨てるように漏らした。

「今更ですよね。もう別の道を歩き出したんですから」

 風になびいた髪から煙草の移り香がしたような気がして、千津の胸を締め付けた。

「好きだと思ううちはしょうがない、か」

 グノシエンヌの彼女を思い出し、もう一度呟く。

「そうね、しょうがないのよ」

 きゅっと唇を結び、千津は歩き出した。
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