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第一章:新しい人生

思い出した

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「――リオ、起きなさい」
「んぇ?」

 優しくて、柔らかい。人肌の熱を伴う女性の声音。初めて聴く声のはずなのに、どこか懐かしい。不思議な感覚だった。
 とん、とん。肩を優しく叩かれ、闇の底から意識が引っ張り上げられていく。次に感じたのは、これまた記憶を刺激する規則的な揺れ。列車の揺れだ。忌まわしい記憶が蘇り、鋭い痛みが脳を刺した。

「ぐっすり眠っていたのね。ほら、よだれがついているわ」

 ハンカチで私の口元を拭う女性。綺麗な人だった。海外の映画、あるいは最新ゲームのティザームービーなどに登場しそうな。ひどく現実味のない、作り物的な美しさ。
 いや、それより。私は三十代も中盤に突入している。こんなに美しい女性から女児のような扱いを受けるのは絶対におかしい、羞恥心が強過ぎる。

「あ、ありがとうございます。あの、どちら様で……?」
「ふふ、おかしなこと言うのね。ママの顔、忘れちゃった?」
「……ママ? お母さん? ということですか?」
「他にどんな意味があるの? 寝惚けているのかしら」

 ウフフ。という笑い方がとてもよく似合う。現実にそんな笑い方をする人を見たことがない。目の前の女性は実在するフィクションとでも言うべきか。驚くほど馴染まない字面だと苦笑する。
 私に対してママを自称しているが、髪は真っ白。鳥肌が立つほど美しい輝きを放ち、老いよりも神秘性が遥かに勝る白髪。快晴の空をそのまま流し込んだような瞳。これが天然由来の瞳なら、純正の日本人である私とは血の繋がりを証明できない。
 おまけに若い。私と同じくらいか、下手をすれば年下に見える。肌がつやつやだし、しわなんて一つもない。

「あなたが、ママ?」
「そうよ。どうしちゃったのかしらね、この子」

 微笑みの破壊力がすごい。たっぷりの愛情と、スパイス程度の困惑が混ざった笑顔。洋画でだって見たことがない。私は漫画の世界に迷い込んでしまったのか?

 ……あれ? っていうか、ここ、どこ?

 辺りを見回せば、等間隔で並ぶ二人掛けの椅子。窓の外は一定の速度で景色を変えており、列車に乗っていることはわかる。
 ただ、おかしい。見たことがない田舎の景色だ。なんなら畑すらない、田舎かどうかすら怪しい。重たい雲がかかっていることもあり、いまにも雨が降り出しそうな天気だ。
 おまけに、窓に映る私だ。髪色は可愛らしいピンク色。二つのおさげを三つ編みにしており、瞳はママ由来の空色。ゆったりとしたワンピースに身を包んでおり、お人形さんのような愛らしさがある。誰だ、これは本当に私なのか?

 ひとまず状況を整理しよう。いつまでも動揺していては怪しまれる可能性がある。

「あの……じゃなかった。ねえママ、ここはどこ? 私たち、どこに行こうとしてるの?」
「ここはレッドフォード帝国ね。いま向かっているのは帝都ミカエリアよ」

 うん、間違いない。迷い込んでる、幻想に。
 日本はおろか海外でもそんな名前聞いたことがない。レッドフォード帝国、世界地図のどこに載っているのだろう。帝国というからにはあまり小さな国ではないだろう。小さくなければ地図には載るはずだ。
 夢でも見ている? だとしたらどこから? 寝る前のことを思い出し――

「……違う」
「え?」
「あ、いえ、ううん。なんでもない」

 思い出した。ベッドで寝てなんていない。私が寝転んだのはベッドなんかじゃない。固いコンクリート。車に撥ねられて、死んで……霊魂案内所? に連れて行かれて、いまだ。
 これは夢じゃない。二度目の人生。地球とは異なる世界の、牧野理央とは異なる人生なんだ。にわかには信じ難いが、現に知らないママが目の前にいるのだ。多少強引にでもいまの私を知っておく必要がある。世界についてはその後でいい。

「ねえママ、私って誰?」
「あら、哲学みたいなこと言うのね。あなたはリオ・ターナー。私とパパの可愛い娘よ」

 リオ・ターナー。これが私の名前。誰だ、本当に私か? 牧野理央とはお別れしないといけないのだが、うっかり前世を名乗らないようにしなければ。

「私って何歳?」
「今日で五歳になりました。おめでとう」

 思っていたよりキッズだ。赤ちゃんの頃から理央わたしが覚醒するよりはマシだったのかもしれない。このくらいの年齢なら少しくらいおかしな言動をしても笑われる程度に留めてくれるだろう。

「どうして私たちはミカエリアに行くの?」
「うーん……パパの気紛れ、かな?」

 パパ。そりゃそうだ。特別な事情がなければ、ママがいるならパパもいるだろう。
 しかし、パパ。どんな人なのか。この美しい女性を射止めることができたのだからさぞかし眉目秀麗な男性に違いない。ファンタジー世界ならエルフとか、そういう種族なのかもしれない。

「ああほら、パパたち戻ってきたわよ」
「え、どこ?」
「ほら、あっち」

 ママの指が向く先にはそれらしい男性は見当たらない。強いて言えば、筋骨隆々の逞しい男性がファンシーなぬいぐるみを抱き抱えているだけだ。
 あのぬいぐるみ、見覚えがある。女児向けアニメのマスコットキャラにいそう。両耳は垂れており、その気になれば耳で羽ばたけそうなほど大きい。ぷっくりとした体で毛並みはよく、お目目もぱっちりキラキラで随分機嫌がいいようだ。

 それにしても、パパはどこ? 馬鹿には見えないパパなのか? などと思っていると、屈強な男性が私を見るなり満面の笑顔を見せた。え、嘘でしょう?

「リオ、起きたんだな! パパのお帰りでちゅよ~!」
「えええええっ!? パパ!? なの!?」

 思っていたのと全然違う。
 ここが地球、その小さな島国日本であれば「ゴリラ」なんて呼ばれてもおかしくないような体格。体毛も濃く、短く刈り上げた短髪は炎のように真っ赤だ。
 着ている服は動きやすさを重視しているもののパツパツで、はちきれんばかりの筋肉をより強調している。年齢は三十代、下手をすれば四十代にも見えなくはない。
 どうしてこの二人が結婚して、あまつさえ私を生んだ? ママの遺伝子が強過ぎる気がする。いやそれはそれでありがたい話ではあるのだが。

「ん~、やっぱり愛娘はなににも代えがたい愛らしさがあるなぁ。可愛いでちゅね~」
「ぐえぇえぇ、じょりじょりしないでくだ……しないで!」
「ハハハ、パパ嫌われちゃったかな~?」

 違うんです、あなたのことを好きにも嫌いにもなれていない。だって初めましてだから。
 気持ちが三十代半ばなんです。こんなに愛らしい姿なのに、中身がこれだからパパの愛情表現を受け入れられないだけなんです。許してください、リオわたしはあなたが大好きだったと思います。

「こーら、二人とも。列車の中よ? 静かにね」
「おっとそうだった、ごめんねリオ。驚かせちゃったねぇ」
「いえ、じゃなかった。ううん、ごめんねパパ。嫌がっちゃって」

 あなたの知るリオじゃなくてごめんなさい。
 そんな意味も含めているが、当然伝わるはずもない。伝わらなくていいのだが。
 ひとまずパパが席に着いたところで、ハイと手を挙げる。

「パパ、質問があります。どうしてミカエリアに行くの?」
「ミカエリアに友人がいるんだ。リオも知ってるケネットさんのところ。帝国に来たから顔見せに行こうと思ってな」
「ケネットさん」

 当然知るはずはない。
 友人とのことだが、いったいどういう繋がりなのだろう。日本にいた頃は同じものを好きな人同士でコミュニティが形成されていたりするものだが、異世界ではどういう繋がり方をするのだろうか。
 まさか芸能関係が発達している世界ではなさそうだし、ファンタジー世界ならモンスターとかもいそう。モンスターと戦う組合の人とかだろうか。
 思考は加速していたのだが、ママから見ればぽかんとしていたようで、くすと穏やかな笑みを浮かべた。いちいち仕草が綺麗だな、うちのママ。

「覚えていなくても仕方ないわ。あの頃のリオはまだ歩けるようになったばかりだもの」
「それもそうか。最後に会ったのはアリスを預かってもらう前だったか?」
「そうね。アリスちゃん、元気かしら」
「元気にやってるだろう。アレンくんとも気が合うみたいだったしな」

 アリスちゃんもまた知らない名前。ただ、会話の流れから察するに姉妹……姉にあたる人物なのだろう。預かってもらう理由があったのだろうか。
 二人の声音から察するに、私と同じくらい愛情を持っているようだ。やむを得ず、というわけではなくお互い合意の上で預けていると考えるのが妥当だろう。
 いずれにしても家族に会えるのは楽しみだ。そんな折、パパの抱えたぬいぐるみが耳をピンと跳ねさせた。

「もうすぐトウチャク!」

 たどたどしい喋りながらもハッキリとした高い声。マスコットキャラクター、というのがぴったりだ。
 程なくして車内にアナウンスが流れる。

『間もなく、帝都に到着します。お忘れ物のないようご注意ください』
「わあ、本当だ。すごいね」
「チグサは優秀ね。よしよし」
「エへヘー、アリガトウ!」

 見た目の愛くるしさも相俟って心がぎゅっと掴まれる感覚を覚えた。年下のアイドルも可愛かったけど、こういう類いに癒しを求めるのもこの人生ではありかもしれない。
 チグサと呼ばれたぬいぐるみはパパの腕を振り解き、私の胸に飛び込んでくる。ずし、とそれなりの重みを感じた。犬、猫と似たような感覚かもしれない。
 緩やかに速度を落とし始める列車。パパとママが立ち上がり、私もそれに続こうとした矢先、チグサが声を上げた。

「もうちょっとオシャベリ!」
「あら? ふふ、リオともう少しお喋りしてたいのね?」
「だったらゆっくり出ておいで。帝都は終点だからな。駅員さんを困らせないように、気を付けるんだぞ」
「ハーイ!」
「はーい、ありがとう」

 パパとママが先に出ていく。他の乗客も降りていく中、私とチグサだけがぽつりと残された。
 どうして私とお喋りしたいのだろう? リオは意外と好かれていた? 不思議な生物にじゃれつかれるのもいいものだ。

「……牧野様、聴こえますか」
「ん、え? その呼び方、え? ミチクサさん? いったいどこに?」
「ここです、ここ」

 チグサのぱたぱたと耳が動き、私の腕を叩く。
 ……え? まさか、これ?

「ミチクサさん!? どうしたんですかその姿!?」
「しーっ! 牧野様、お静かに!」
「いやいや、は? え、なんでミチクサさんもここに? っていうかあんな雑に扱っといてよく顔出せましたね!?」
「ああっ! すみません、すみません! あの後、さらに上からフィードバックをいただいて……!」

 * * *

『ミチクサくん、幾ら彼に怒鳴られたとしても目の前のお客様を蔑ろにするのは感心しませんね』
『申し訳ございません、申し訳ございません……』
『彼にもそれなりの処分は言い渡します。あなたが安心して働けるようにね。それよりも、牧野様を蔑ろにしたことに対して、申し訳ないとは思うんですね?』
『当然です』
『であれば、あなたの誠意を証明していただきます』
『証明? いったいどのように……』
『簡単なことです、牧野様の二度目の人生に寄り添ってきてください。無論、彼女が天寿を全うするまで。定期的な報告も欠かさないよう、よろしくお願いしますね』
『え、えええええっ!?』
『では早速、行ってらっしゃい』
『アッ、オワァァァァァ……――』

 * * *

「……というわけですね」
「大変ですね、お互い」
「いえいえ、牧野様に比べれば私なんて……」

 しょぼん。としわくちゃの顔になるチグサ、もといミチクサさん。不満げな顔に見えるものの、どこが最大の不満なのかが判断できかねる。
 とはいえ、霊魂案内所の対応も悪くはない。上司の横暴な振る舞いを見逃さず、しっかり処罰を下す姿勢を見せるのは評価に値する。ミチクサさんにも挽回のチャンスを与えているわけだし。

「苦労話はなんの実りもありませんし、この辺りにしましょう。さ、行きますよ。パパとママが待ってますし」
「その、いいのですか?」

 機嫌を窺うような声音。なんの許可を得ようとしているのかわからず面食らってしまう。

「なにがですか?」
「至らない対応をした私をお傍に置いていただけるのかと」
「勿論です。一人ぼっちで始めるより二人で始める方が気楽ですしね。異世界のこととか転生のこととか、聞きたいこともたくさんありますから」
「ありがとうございます、お供いたします」

 仰々しく腰を折るミチクサさん。礼を言うのは私も同じだ。
 頼りになるかはともかくとして、事情を知っている人も傍にいてくれるのだ。不安は少し和らいだ。せっかく新たな人生の門出を迎えられたことだし、悲観する時間も勿体ない。
 前向きに生きていこう。弊社のことは忘れて、やりたいことも見つけて、臆せず歩く。この人生くらい、自分を優先して生きていったっていいじゃない。

「やり直すんだ、今日から」

 新しい世界、新しい人生はどんなものにしようか。
 跳ねるような足取りで、軽やかに。期待に胸を膨らませて最初の一歩を踏み出した。
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