九月のセミに感情移入してる場合じゃない

はなまる

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第一話 九月のセミに感情移入してる場合じゃない

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 八月で夏が終わらなくなったのはいつの頃からだろう。

 九月に入ってもいつまでもだらだらと暑い日が続く。日本がもう亜熱帯気候だという説もあながち大袈裟じゃないかも知れない。

 力尽きたように途切れ途切れに鳴くセミの声に乾いた笑いが込み上げた。この時期まで鳴いているということは、まだ本懐をとげてはいないのだろう。セミの鳴き声はパートナーを求めるシグナルだ。

 ジジ……ジジジ……と、断末魔のような声の後が途切れたまま続かない。その薄ら寂しい様子と、三十路半ばを過ぎて片想いの相手すらいない自分の境遇が重なる。

 諦めるなよ。頑張れよ!

 ついそんな声をかけたくなる。さっきまでもう、セミの声にはうんざりだよなぁなんて思っていたくせに。


 ようやく取れた遅めの夏休みを過ごすために、俺は帰省の途にあった。
 新幹線と在来線を乗り継ぐ二時間半は驚くほど熟睡してしまい、降りるひとつ手前の駅で飛び起きた。夏の疲れは若さに陰りの見えはじめた身体の内側に、ヌメりのようにこびりついている。

 実家の最寄りの駅から徒歩三十分の距離を歩く。『駅に着いたら迎えに行くから連絡しなさいよ』という姉からのLINEには、久しぶりだから歩いて帰ると返信した。久しぶりの故郷の街を、少し歩いてみたかった。
 だが乗用車という密室に姉と二人きりという状況から、逃げたかったのが本心かも知れない。最近はもらう小言もバリエーションが乏しくなってきた。

『こっちで就職すれば?』『婚活とかやった方がいいんじゃない?』『職場にいい人いないの?』

 へいへい。

「こんなに暑いなら、やっぱ迎え頼めばよかったかな……」

 人気のない平日の幹線道路を歩きながら、声に出して呟く。長い一人暮らしで身についたのは、それなりに自分のことをこなせる家事スキルと、口をついて出る独りごとだ。

 十分ほども歩くと、すぐに寂れた商店街を抜けた。片側一車線の広くもない国道をれて、市内を縦断する大きな川の河川敷へと登る。
 変わらない、懐かしい景色だ。河川敷の上に延びるこの道を三年間自転車で走った。高校生の頃の通学路だ。

 立ち止まって顔を上げると、意外なほどに涼しい風が吹いた。流れる水と、昼間の熱に蒸れた植物の匂い。

 途端に、甦った記憶の鮮やかさに目が眩んだ。ペダルを踏むスニーカーの蒸れた感触、汗で肌に張り付くワイシャツ。ペダルで感じる君の重さと、風に混じる甘い髪の匂い。

 あの日の、土砂降りの生あたたかい雨の音が耳をかすめ、あまりの生々しさに気が遠くなる。
 勢いよく顔を流れる雨と、それよりも少しだけ温度の高い君のくちびるの柔らかさ。ぬるりと逃げる舌の感触に頭が沸騰しそうになり、噛みつくように不器用に追いかけた。


 この河川敷で君と初めてキスをした。雨粒が痛いほどに肌を打つ、ゲリラ豪雨の真っ只中。全身ずぶ濡れになりながら、何度も何度も口づけた。

 あれは俺も君も、十六になったばかりの夏だった。

 君が事故にあったと聞いたのは、俺たちがケンカ別れしてからたった二日後の、夏祭りの晩だった。祭囃子まつりばやしと人混みの喧騒の中、それを知らせるクラスメイトからの電話を受けた。

「なん……だよ、それ。面白くねー。へんな冗談言ってんじゃねぇよ!」

 怒鳴りつけてしまった相手は、電話口で涙声になった。

 俺はケンカしたことも、勢いで別れの言葉を口にしたことも忘れて、人づてに聞いた病院へと走った。走っても走っても、現実感なんてカケラも湧いて来なかった。

 ケンカの原因はなんだったっけ? 

 俺が夏休み中の部活が終わったあと、君を待たずに帰ってしまったとか、そんな些細なことだった。俺たちがくっついたり別れたりするのはもう三、四回目のことで、周りも自分たちも『まただよ!』と軽く考えていた。
 祭りの最終日あたりに、どちらからともなく誘い、一緒に出かけて元の鞘に収まる。

 そうして誰よりも近くで、なんてことはない高校生活を一緒に送ってゆく。俺は何の根拠もなく、そう思い込んでいた。

『何かの間違いだよな? 人違いとか……』『あっ! 俺を騙して笑い話にしようとか、そういうこと?』『人間、そう簡単に死なねぇよ!』

 とっ散らかった思考のまま、ざわついた病院へと駆け込んだ。

 何かの間違いでも、人違いでも、俺を騙して笑おうという話でもなかった。人は、思ったよりも簡単に死んでしまう。

 祭りからの帰り道で、酔っ払い運転のバイクに跳ね飛ばされた。地面に叩きつけられて、頭を強く打った。やっと少し伸びたはずの髪の毛が短くなっていて、頭には包帯がグルグルと巻かれていた。

『髪の毛伸ばそうかなぁ』

 不意に、そう呟いていた君の声が聞こえた。俺はなんと応えたのだろう。

 付き合っていたのは一年と少しの短い期間だった。何もかも初めてで、不器用さだけが記憶に残る幼い恋だった。

 ケンカしたまま、意地を張り合ったまま……終わらないまま、止まってしまった。



 あれからニ十年。

 あの年の夏休みがどう終わったのか。俺はよく覚えていない。夏祭りのあと部活の合宿があったはずだし、宿題なんかはどうしたのだろう? やった覚えも提出した覚えもないが、提出しなくて先生に叱られた覚えもない。
 ニ十年も昔のことだから忘れてしまったのか。それとも、記憶に支障をきたすほどの悲しみの中にいたのか。

 あれから恋をしなかったわけじゃない。何人かの女性とつき合ったし、結婚話が進んだこともある。


 けれど、胸の奥のどうしようもない後悔と喪失感は、消えることなく今も居座り続けている。



 ずいぶんと長い時間、俺は立ち尽くしていたらしい。河川敷からは、大きな夕陽が対岸の山へと沈んでいくのが見えた。この景色も懐かしい。ダラダラと自宅を目指して歩きはじめる。

 しばらく行くと、見覚えのある制服の女子高生が、サックスの練習をしていた。ブラスバンド部だろうか。そういえば彼女もブラバンだった。
 楽器も同じサックスで、下手くそな彼女の練習につき合って、何度もこの河川敷へ足を運んだ。

 対岸からの夕陽にオレンジ色に染まるその女子高生の後ろ姿に、既視感が溢れる。気のせいか立ち姿まで似ている。髪型もあんな感じだった。夕方の風に揺れるスカートの長さ、彼女が奏でる下手くそな時代遅れのポップス。

 そんなバカな。気のせいに決まってる。あり得ない。夢でも見ているのか。

 定型文のような否定の言葉が頭を埋め尽くす。熱にうかされたように、ふらふらと彼女に近づいてしまう。ヤバイ、これでは不審者だ。女子高生と冴えない中年男の相性は最悪だ。通報されても文句は言えない。

 無造作に置かれた、懐かしい母校指定の通学バッグが半分草に埋もれていた。持ち手部分には、当時の俺がお揃いで待たされていたのと同じマスコットが付いている。

「美咲……なのか?」

 声をかけずには、いられなかった。サックスの音が止み、彼女が振り返った。俺の顔を見て不思議そうに首を傾げる。
 死んだというのは俺の記憶違いだったのか? 美咲は生きていたのか? 頭が混乱する。例えそうだとしても、二十年が過ぎているのだ。美咲が未だに高校生のはずがない。

「美咲、だよな?」

 もう一度声をかける。

「そう……ですけど……。おじさん、誰ですか?」
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