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第十六話 浴衣の女性が嫌いなわけがない
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三時間ほど仮眠して、熱いシャワーで眠気を飛ばしてから、ネットカフェへと向かう。確か駅前に一軒あったはずだ。必要な画像や地図をプリントアウトする必要がある。
手早く済ませて克哉に電話する。例の薬は手に入っただろうか?
「うん、見つかったよ。どうやって飲ませるの?」
「ああ、まぁなんとかするよ」
曖昧に誤魔化して受け取りの約束をする。さすがに一服盛りに行くのに、克哉を関わらせるわけにはいかない。
克哉と美咲は、俺たちが出会った河川敷にいるという。夜中からバタバタし通しだったので、少しのんびりしたくて歩いて行くことにした。
明日からの七夕祭りの準備で、商店街はすでに通行止めになっていた。やぐらを組む業者や、屋台の準備をする人たちが行き交っていて忙しない。なんとなくソワソワとしてしまう、祭り前の独特の熱気がそこかしこに漂っている。
明日からの七夕祭りは、それなりに大きな祭りだ。いくつものやぐらが立ち、そのやぐらを何重もに取り囲んだ老若男女が、ホイッスルを吹きながら何時間もぶっ続けで八木節を踊る。うちの地元の八木節は北関東一の速さを誇っていて、振り付けも飛び跳ねるような独特のものに変化している。
俺はほとんど踊ったことはないが、姉貴は毎年若者の集まるやぐらで暴れていたな。今年は参加するんだろうか?
金魚すくいの水槽や、焼きとうもろこし屋の下ごしらえを覗きながら、のんびりと祭りの雰囲気を味わう。
俺は二十年間ずっと、浴衣姿の女性や祭りを避けて生きてきた。どうしたって美咲のことを思い出してしまうからだ。なのになぜ、そのトラウマになった出来事の真っ只中にいる今、こんなにも楽に息が出来るのだろう。
たぶん、この時代の美咲が生きているから……だろうな。克哉を自分に見立てて、すっかり許された気分になっている。美咲の事故が起きるのはこれからだっていうのに。
寝不足の頭を振って、密かに気合いを入れ直す。
明日をなんとか無事に乗り切って、二十年ぶりの祭りを楽しみたい。克哉と美咲のためだけじゃなく、俺自身のために。
* * * *
国道を逸れると、途端に祭りの空気が霧散する。日常の穏やかな夕暮れ刻だ。河川敷の自転車道をゆっくりと歩くと、下手くそなサックスの音色が風に流れて来る。
ああ、懐かしいな。美咲はあの夏、この曲ばかりを練習していた。確かなんとか行進曲。吹奏楽コンクールの課題曲だと言っていた。
毎日部活で飽きるほど演奏しているくせに、二人して河川敷を走っていると、必ず『とめて』と言う。そして、川向こうの山に沈んでゆく夕陽に向かってサックスを吹く。
おかげで俺は今でも、夕陽を見ると自然にこの曲が頭の中に聞こえてくる。まさか、生演奏をもう一度聞けるとは思わなかったな。相変わらず、上手くはない。でも、俺は美咲のサックスの音が好きだった。
夕焼け空に溶けてゆく音色は、どこか寂しそうで切なく響く。美咲の、ハの字の眉の笑い顔に似ている。
なんとなく声を掛けそびれて、土手の草むらに腰掛けている克哉の隣に黙って座る。
克哉は俺を上目使いに睨むように見て、そのあと頭を両膝の上に落とし、ポツリと溢すように言った。
「イチさん。俺、怖えーよ。今すぐ美咲を連れて逃げ出したい」
それもありだよなぁ。
「美咲と早川連れて、一泊旅行にでも行くか?」
いよいよ明日は事故の当日だ。見れば目の下に隈が出来ている。克哉も俺と同じように、非日常のプレッシャーに耐えているのだ。
萎れた克哉の横顔が、どうにもいじらしく見えてしまう。ナルシズムとは、とうにかけ離れている。今の俺の克哉に対する感情は、歳の離れた弟や息子に対するものに近い。
「ごめんな、克哉。巻き込むべきじゃ、なかったかも知れない」
だけど、どう考えても俺ひとりじゃ無理だった。
「いいよ、そんなの。イチさんが来てくれなかったらの方が、今より全然怖い。俺に話してくれたのも、感謝してるよ。普通、突然起きる交通事故になんて、対処のしようがない。あり得ないチャンスをもらったって、わかってる」
抱えた膝に顔を押しつけて、くぐもった声を出す。
「それに、教えてもらったとしても、俺ひとりじゃ何にも出来なかった。俺、役立たずで、ごめん」
「バーカ! おまえがいてくれて、俺がどんなに心強く思ってるか……わかるだろ?」
後頭部をつかみ、髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回す。また『子供扱いすんな!』と怒るかと思ったら、克哉は顔を上げなかった。耳とうなじが、赤く色づいていく。
「俺ひとりだって、何にも出来なかったさ」
夕陽が山に隠れて河川敷に吹く風に、夜の匂いが混じる。美咲が演奏を切り上げて、サックスを片付けはじめた。
「大丈夫! 二人なら、何とかなるさ!」
俺の知らない場所で消えてしまった美咲の未来を、克哉には手離さないで欲しいと、心の底から思った。
「あれー、イチさん、来てたんだ! えへへ、あたしのサックスどうだった? もうすぐコンクールの予選があるんだよー」
美咲が未来の話を、嬉しそうにする。明日のその先を、疑うことなく口にする。
明日は祭りの初日。
俺の知る未来では、美咲の命日だ。
手早く済ませて克哉に電話する。例の薬は手に入っただろうか?
「うん、見つかったよ。どうやって飲ませるの?」
「ああ、まぁなんとかするよ」
曖昧に誤魔化して受け取りの約束をする。さすがに一服盛りに行くのに、克哉を関わらせるわけにはいかない。
克哉と美咲は、俺たちが出会った河川敷にいるという。夜中からバタバタし通しだったので、少しのんびりしたくて歩いて行くことにした。
明日からの七夕祭りの準備で、商店街はすでに通行止めになっていた。やぐらを組む業者や、屋台の準備をする人たちが行き交っていて忙しない。なんとなくソワソワとしてしまう、祭り前の独特の熱気がそこかしこに漂っている。
明日からの七夕祭りは、それなりに大きな祭りだ。いくつものやぐらが立ち、そのやぐらを何重もに取り囲んだ老若男女が、ホイッスルを吹きながら何時間もぶっ続けで八木節を踊る。うちの地元の八木節は北関東一の速さを誇っていて、振り付けも飛び跳ねるような独特のものに変化している。
俺はほとんど踊ったことはないが、姉貴は毎年若者の集まるやぐらで暴れていたな。今年は参加するんだろうか?
金魚すくいの水槽や、焼きとうもろこし屋の下ごしらえを覗きながら、のんびりと祭りの雰囲気を味わう。
俺は二十年間ずっと、浴衣姿の女性や祭りを避けて生きてきた。どうしたって美咲のことを思い出してしまうからだ。なのになぜ、そのトラウマになった出来事の真っ只中にいる今、こんなにも楽に息が出来るのだろう。
たぶん、この時代の美咲が生きているから……だろうな。克哉を自分に見立てて、すっかり許された気分になっている。美咲の事故が起きるのはこれからだっていうのに。
寝不足の頭を振って、密かに気合いを入れ直す。
明日をなんとか無事に乗り切って、二十年ぶりの祭りを楽しみたい。克哉と美咲のためだけじゃなく、俺自身のために。
* * * *
国道を逸れると、途端に祭りの空気が霧散する。日常の穏やかな夕暮れ刻だ。河川敷の自転車道をゆっくりと歩くと、下手くそなサックスの音色が風に流れて来る。
ああ、懐かしいな。美咲はあの夏、この曲ばかりを練習していた。確かなんとか行進曲。吹奏楽コンクールの課題曲だと言っていた。
毎日部活で飽きるほど演奏しているくせに、二人して河川敷を走っていると、必ず『とめて』と言う。そして、川向こうの山に沈んでゆく夕陽に向かってサックスを吹く。
おかげで俺は今でも、夕陽を見ると自然にこの曲が頭の中に聞こえてくる。まさか、生演奏をもう一度聞けるとは思わなかったな。相変わらず、上手くはない。でも、俺は美咲のサックスの音が好きだった。
夕焼け空に溶けてゆく音色は、どこか寂しそうで切なく響く。美咲の、ハの字の眉の笑い顔に似ている。
なんとなく声を掛けそびれて、土手の草むらに腰掛けている克哉の隣に黙って座る。
克哉は俺を上目使いに睨むように見て、そのあと頭を両膝の上に落とし、ポツリと溢すように言った。
「イチさん。俺、怖えーよ。今すぐ美咲を連れて逃げ出したい」
それもありだよなぁ。
「美咲と早川連れて、一泊旅行にでも行くか?」
いよいよ明日は事故の当日だ。見れば目の下に隈が出来ている。克哉も俺と同じように、非日常のプレッシャーに耐えているのだ。
萎れた克哉の横顔が、どうにもいじらしく見えてしまう。ナルシズムとは、とうにかけ離れている。今の俺の克哉に対する感情は、歳の離れた弟や息子に対するものに近い。
「ごめんな、克哉。巻き込むべきじゃ、なかったかも知れない」
だけど、どう考えても俺ひとりじゃ無理だった。
「いいよ、そんなの。イチさんが来てくれなかったらの方が、今より全然怖い。俺に話してくれたのも、感謝してるよ。普通、突然起きる交通事故になんて、対処のしようがない。あり得ないチャンスをもらったって、わかってる」
抱えた膝に顔を押しつけて、くぐもった声を出す。
「それに、教えてもらったとしても、俺ひとりじゃ何にも出来なかった。俺、役立たずで、ごめん」
「バーカ! おまえがいてくれて、俺がどんなに心強く思ってるか……わかるだろ?」
後頭部をつかみ、髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回す。また『子供扱いすんな!』と怒るかと思ったら、克哉は顔を上げなかった。耳とうなじが、赤く色づいていく。
「俺ひとりだって、何にも出来なかったさ」
夕陽が山に隠れて河川敷に吹く風に、夜の匂いが混じる。美咲が演奏を切り上げて、サックスを片付けはじめた。
「大丈夫! 二人なら、何とかなるさ!」
俺の知らない場所で消えてしまった美咲の未来を、克哉には手離さないで欲しいと、心の底から思った。
「あれー、イチさん、来てたんだ! えへへ、あたしのサックスどうだった? もうすぐコンクールの予選があるんだよー」
美咲が未来の話を、嬉しそうにする。明日のその先を、疑うことなく口にする。
明日は祭りの初日。
俺の知る未来では、美咲の命日だ。
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