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夢は語らない side
夢は語らない side:長窪
しおりを挟む与乃が遺した悠々庵旅館は、紆余曲折を経て食事処はなまる亭となった。
今でもこれが正しい選択だったのかと考える時があるが、此処で働いてくれる従業員や来てくれるお客さんの顔を見ると、間違いではなかったと思わせてくれる。
——僕は幸せ者だ。
親戚の文恵くんとまどかくんも、僕みたいなおじさんにとても良くしてくれる。
ただ、文恵くんは顔の表情が乏しいせいで誤解される事が多かった。
本人は気にしていないようだが、僕は優しい文恵くんが他人に傷付けられるのはどうしても避けたかった。しかしそんな僕の心配をよそに、文恵くんはマイペースだった。
最近は若い子達同士でそこそこ交流しているようで、微笑ましい。
笠くんと北島くんも元気いっぱいだ。
たまに喧嘩もしているようだが、基本的には仲が良く、福田くんを中心にいつも楽しそうにしている。
文恵くんと香賀くんもあの子達が一緒だとよく笑っているから、福田くんが皆のムードメーカーとなっているのだろう。
今日は持ち込みのお客さんが貸切で一件入っている。
まだ時間はあるため、僕は厨房でラテアートを練習に作る事にした。
ラテアートの基本の模様はハートやリーフだ。これらはフリーポアという技法を使うが、僕は既にそれを習得しているため、今回はエッチングという技法に挑戦した。
エッチングはフリーポアより難易度が高い。しかしその分自由度が高く、表現の幅が広い。
模様だけではなく、文字や絵が描けるのだ。
僕はペンギンを描いた後、立体的なあざらしを作った。
完成したラテアートの出来を確認していると、ノックの音と共に福田くんが入ってきた。
「おはよーございます長窪さん! 試作どんな感じすか?」
「ああ、おはよう。試作品は今のところこんな感じだよ」
作ったラテアートを見せると、福田くんは目を輝かせた。
「うわスゲー!!」
「ちょっヒロ先輩邪魔! 見えない!」
笠くんは福田くんを押し退けて前に出ると、僕の手元を見て目を見開いた。
「かっ……!! かんわいい~~!!!! 長窪さん天才では!?」
「いやいや、そんな事ないよ」
「ありますって!」
二人の後ろから香賀くんが顔を出す。
もう一回エッチングで立体的な兎と熊を作ると、福田くんと笠くんが興奮気味にすごいと口にした。
メニューに加えるのかと香賀くんに尋ねられて、もう少し上手になったらと答える。
福田くんと笠くんは皆に僕がすごいと伝えに行くと、足早に厨房から出ていった。
香賀くんが騒がしくしてすみませんと謝ったが、僕は笑って元気な事はいい事だからと返事をした。
あとでよろしくねと厨房を出ていく香賀くんを見送る。
出勤したスタッフには早速ラテアートを飲んで貰って、片付けをした後、僕は開店準備を始めた。
笠くんには写真を撮りたかったと残念がられたため、また今度と約束をした。
♢
営業時間になると持ち込みのお客さんがすぐに来店されたが、持ち込みの魚がなんとマグロだった。
まな板からはみ出しそうな塊を見て、福田くんははしゃいでいる。反対に香賀くんは圧倒されていて、どうやって切るのかと僕に尋ねた。
僕は二人に手順とレシピを教えると、マグロを調理した。
刺身、漬け、カルパッチョ、サラダ、ステーキ、竜田揚げ、照り焼き。最後は締めにお茶漬けを提供した。
文恵くんからお客さんが喜んでいたという話を聞いて、僕も嬉しくなった。
閉店作業を終えて定時退勤のスタッフを送り出すと、まかないのマグロ丼を香賀くんと作って休憩室へ運んだ。
わさびはどうするか皆に尋ねると、笠くんと文恵くんはわさび抜きを希望した。
福田くんは文恵くんがわさび抜きにするのが意外だったようで、少し驚いていた。
僕はすり下ろしたわさびを四人分マグロ丼の上に載せると、椅子に座った。
箸とお茶が皆に行き渡ったところで手を合わせる。
マグロはかなり新鮮なもので、とても美味しかった。
食べていると福田くんがお茶漬けが欲しいと言ったため、僕はこれに合う出汁に思考を巡らせた。
ちょっと待っててと返事をして厨房に行こうとすると、僕が席を立つより早く文恵くんが出ていった。
「文恵くん!」
声をかけるのが遅く、扉は既に閉まった後だった。
怒ったかと焦る福田くんを笠くんと北島くんが責める。
僕は苦笑すると、文恵くんは怒っていないと訂正を入れた。
本当かと言う笠くんに感情表現がわかりづらいだけだと説明すると、北島くんが納得の声を上げた。
歳の近い皆といる時は文恵くんは楽しそうにしているから、ありがとうといつも思っている事を伝えると北島くんは頭を下げて、笠くんは自分も楽しいと口にした。
福田くんはさっき僕が言った同じ言葉を返して笑う。
——きっと皆のこういうところが、文恵くんの笑顔を引き出したのだろう。
何も言わない香賀くんは福田くんに何か言えと無茶振りされていたけど、文恵くんは長窪さんに休んでほしいから席を立っただけだと淡々と言った。
僕は八重野くんが誤解されたらと心配していたが、身近な所に理解者はいたらしい。
何の色眼鏡もなく人を見る純粋さを少し羨ましく思った。
馬鹿と発言した香賀くんに福田くんは馬鹿と言うなと箸の先を向ける。
香賀くんが真顔で注意すると、便乗して笠くんが行儀が悪いとからかった。
福田くんは肘を付くなと笠くんに言い返したが、笠くんは浮いていると反論する。
それにどっちもどっちだと返した北島くんは、二人から反感を買っていた。
「福田くんも笠くんもその辺で……」
仲裁に入ろうとすると、八重野くんがちょうど戻ってきた。
鍋敷きの上に作りたての出汁の入った鍋が置かれると、いい匂いで部屋がいっぱいになった。
文恵くんが福田くんのどんぶりを手に取って、おたまで出汁を注ぐと、皆出汁の方に気を取られていた。
謝る福田くんに、自分も食べたかったからと文恵くんは平然と返事をする。
怒っている様子は微塵も見られなかった。
出汁の匂いにつられて皆お茶漬けを食べたくなったみたいで、香賀くんがどんぶりに出汁を注いで貰うと、笠くんも北島くんも出汁を欲しがった。僕も同じだった。
結局皆でお茶漬けを食べる事になると福田くんは唇を尖らせて不満を口にしたが、笠くんと北島くんに即座に反論されていた。
楽しそうで何よりだ。
お茶漬けのマグロ丼もまた美味しくて、僕は幸せな気持ちになった。
食べ終わってふとスマホを確認すると、着信履歴があった。
トークアプリにも何件かメッセージが入っている。
内容を見てみると、居酒屋の場所と遅刻を心配している言葉が並んでいた。
……飲みに行く約束、忘れてた。
タイミングよく鳴る電話に慌ててポケットからスマホを取り出して、通話ボタンを押す。
耳に当てると慣れ親しんだ友人の声が聞こえた。
『おお、遅いぞ~! 無事だったか!』
「いや、ごめん、仕事ですっかり忘れてたんだ」
『いいよいいよ。今から来れそうか?』
「あー……それなんだけど……」
片付けが残っていたため今回は断ろうとしたが、文恵くんが早く行けとばかりに目で訴えた。
「す、すぐ行くよ。ごめんね」
『ほーい、んじゃあ待ってるわ~』
僕はつい了承して電話を切ってしまった。
文恵くんは嬉しそうにニコニコしている。
「いってらっしゃい長窪さん」
「……うん。皆遅くならないようにね」
「「はーい」」
手伝えないのは心苦しいが、僕は片付けを文恵くんに任せて居酒屋へと急いだ。
居酒屋へ着くとほろ酔いの友人達が僕を出迎えた。
「えいちゃん忘れてたんか~!」
「まあそんな時もあらァな」
ガハハと陽気に笑う友人達は楽しそうだ。
遅刻した事と約束を忘れていた事を謝ると、彼らはまた笑い声を上げた。
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