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変化の兆し side
変化の兆し side:シェルア
しおりを挟むサンはあれからすっかりEMANONに馴染んだ。
事務仕事も慣れたもので、簡単な報告書も作成出来るようになった。
きっとサンは学習能力が高いのだろう。
だがそうなると、サンが“凡人”という説は限りなく薄かった。
本人の言う事を信用していない訳ではないが、これだけ条件が揃っていれば頭を打った衝撃で記憶喪失になったと考えるのが妥当である。
ただ、最下層の出入名簿にサンの名前が載っていないのは不可思議な点だった。
今日の依頼は久しぶりの猫捜しだ。
昨日飼い主のベラさんから、飼い猫のアイリスが三日も家に帰らないと電話がかかってきたのだ。
元々放浪癖のある子だが、三日も姿を見せないのは初めてらしい。
ベラさんはアイリスの特徴を言った後、捜すのを手伝いたいがどうしても抜けられない仕事があるため手伝えないと、申し訳なさそうに謝ってきた。
事情があるなら仕方のない事なのに、律儀な人である。
私はベラさんにお願いすると、事務所のメールアドレス宛に猫の写真をいくつか送って貰った。
今日のメンバーにも情報共有としてトークアプリに写真を何枚か送信した。
猫のアイリスの捜索は二手に分かれて捜す事にした。
サンと一緒に外に出ると、私はサンに猫がいそうな場所から捜そうと提案した。
会話の中でサンの疑問に答えていくと、物知りだと言われたため、専門家やロジェの方が物知りだと伝える。
ついでにロジェが猫好きな事を教えると、好きなら飼わないのかと聞かれた。
怪我をした猫をロジェが保護して懐かれた話は聞いたと言うと、サンは目を丸くした後、優しいですねという言葉を口にした。
ロジェはああ見えて正義感が強いが、わかりにくい性格だからサンに誤解を生じさせた面もあるのだろう。
私は少し申し訳ない気持ちになった。
記憶の手掛かりとなる情報もまだ掴めていない事を謝罪すると、サンは元は自分が悪いのだと言った。
私に気を遣わせまいとするサンの優しさに、私は無意識の内にサンの頭を撫でていた。
しばらく歩くと、猫の集会が行われている空き地へと到着した。
ボス猫くんにアイリスの写真を見せて居場所を聞くと、あっちだと尻尾で方向を示してくれた。
次に会った時は報酬の猫缶を渡そう。
集会の邪魔をしてごめんねと言って、猫達に手を振る。
本当に道が合っているのか聞くサンに、さっきの猫がこの辺りのボス猫で、縄張りに知らない猫がいればそれに気付く事を説明した。
まっすぐ行って右に曲がると、廃墟の家が見えてきた。
私達はまず手前の家に入って、アイリスを捜した。
しかしそこにいたのはヤモリやトカゲだった。
次に物置小屋に入って捜索したが、やはりそこにもアイリスはいなかった。
隣の家に入ると、ネズミが結構いた。
猫の餌となりそうなネズミがいるなら、アイリスがこの近くにいる可能性はゼロではない。
希望を持って四階建てのビルに入ると、床には資料らしき紙が散乱していた。
倒れそうな棚の間を通って部屋を見て回ると、サンに猫の鳴き声がしなかったかと聞かれた。
聞こえなかったと私が答えている最中に猫の鳴き声がして、サンと辺りを見回す。
捜しても一階にはいなかったため、二階を捜す事にした。
すると行く途中の階段の踊り場で一匹の猫を見つけた。
猫は薄汚れていたが、間違いなくアイリスだった。
アイリスはこちらを警戒しているのか、上の階へ逃げていった。
サンの挟み撃ちの提案に乗って、階段を上る。
天井は老朽化のせいで骨組みの部分が露出していた。
薄暗い部屋の中を捜していくと、こちらの様子を窺うアイリスを見つけた。
サンがゆっくりとアイリスに近付く。
私は逃げるルートを予想してそちらに回ると、アイリスを待った。
そうしてアイリスを捕まえたが、アイリスは私の腕をすり抜けると、屋根裏へと上ってしまった。
捕獲を失敗した事をサンに謝って、私達を見下ろすアイリスを観察する。
待っていたら降りてこないかというサンの言葉に同意すると、アイリスの様子が段々おかしくなっていった。
どう見ても降りられなくて困っているように見える。
アイリスはか細い声でニャアと鳴いた。
私はちょっと上ると言って、サンに下で待機するよう指示した。
屋根裏へ上ってアイリスとの距離を縮めると、優しく名前を呼ぶ。
「おいで、帰ろう」
「ニャア~」
両手を伸ばすと、アイリスがゆっくりとこちらに近付いてきた。
私はアイリスを逃がさないように腕の中へ閉じ込めた。
——その瞬間、足場となっていた骨組み部分が折れた。
落下すると同時に床に穴が空いて砂埃を起こす。
私はアイリスを抱いたまま片手を離すと、三階の柱の部分に掴まった。
腕の中にいるアイリスが不安そうに鳴き声を上げる。
駆け寄るサンに大丈夫だと返事をして、ひとまずサンとアイリスの安全確保が優先だろうとサンにアイリスを預かるように頼んだが、サンは私ごと引っ張り上げると言ってきた。
サンの考えはわからなくはない。
だがこの状況下となれば私とアイリスの体重分だけではなく、真上に引き上げるエネルギーが必要になるため、腕にかかる負担は相当なものとなる。
鍛えられた人間がそれを行うのであれば可能性はあるが、サンは一般的な筋力である。
下手したらサンも落下する危険性も考えられた。
私はサンになんとか納得してアイリスを預かって貰おうと思っていた。私一人なら反動をつけて上に上がれるし、落ちたとしても軽い怪我で済むからだ。
でもサンは私の言う事を拒否すると、私ごとアイリスを引っ張り上げようとした。
サンの気持ちは嬉しいが、何かすれ違っているような気がしてならなかった。
マリアかブラッドに連絡するよう言うと、サンは今にも泣き出しそうな顔をした。
サンは今度は私の提案を素直に聞き入れると、二人に連絡をしてくれた。
そうしてサンは役に立たなかったと、申し訳なさそうな顔で謝った。
どうもサンは私とアイリスを一人で助けられなかった事に思うところがあるらしかった。
気持ちは充分伝わっていると言うとサンは頷いたが、手を離してもいいと言うと断固拒否されてまった。
ギシギシと木が軋む音がする。
掴んでいるそこが下へと傾いて、アイリスが鳴き声を上げた。
名前を呼ばれて初めて、掴むつもりのなかったサンの腕を掴む。
そのせいで私の体重をサンに預ける事になってしまった。
サンは苦しそうに呻いていたが、アイリスが小さく鳴くと、大丈夫だと言ってわざと明るい顔を見せた。
サンの額には汗が滲んでいる。
私はもう一度手を離すよう伝えようとしたが、途中で言葉を遮られた。
サンは絶対に駄目だと言う。
アイリスが腕の中で動いて、私は強く身体を抱きしめた。
まっすぐ私を見つめて絶対に駄目だともう一度繰り返し言うサンに、いつかの彼を重ねて胸が痛くなった。
「ごめん」
小さく謝ると、ちょうどブラッドが現れた。
ブラッドは私達を引き上げると、大丈夫かと尋ねた。
私は平静を装って返事をすると、サンにも御礼を言った。
サンは何も出来なかったと言ったが、何も出来なかった訳がない。
充分助けてくれたと説明して、もう一度感謝を述べて頭を撫でた。
ブラッドに怪我の有無を聞かれて、サンとブラッドのおかげでないと答える。
するとマリアがやって来て、サンから連絡が来てびっくりしたと眉を下げて言った。
謝ると呆れたような声を出されたが、マリアのこれはまだ可愛いものである。
小言になる前に猫を抱え直して誤魔化すと、マリアの意識がサンに逸れて少しホッとした。
マリアはサンをよく頑張りましたと褒めて、額の汗を拭った。
ニャアニャア鳴き出すアイリスをあやして、マリアに飼い主のベラさんに連絡を頼む。
アイリスは通話相手がベラさんだとわかっているのか、大人しかった。
「お仕事を早めに切り上げて来てくれるそうです」
「そっか。連絡ありがとう」
「いいえ。私もアイリスちゃん抱っこしていいですか?」
「ん」
そっとアイリスを渡すと、アイリスはマリアの腕の中で欠伸をした。
あの騒動で少し疲れたようだ。
「可愛いですね~」
「そうだな」
相槌を打っていると、マリアがサン達に目を向けて、また意地悪をしているのかとブラッドに問いかけた。
聞き返すと、ブラッドが早口で明日の天気を話していたと言う。
真意を測ろうと近付いてじっと見つめると、ブラッドは目を泳がせてわかりやすく動揺した。
更に追及しようとしたが、サンが意地悪はされていないと必死に言うものだから、私は本当かと聞き返した。
サンによると本当に意地悪はされていないらしい。とはいえマリアが嘘をつくはずもないため、以前に何かしらの出来事があっての、あの発言だったのだろう。
色々言いたい気持ちを抑えていると、ブラッドが観念したように両手を挙げた。
両頬を軽くつねって忠告すると、ブラッドは短い返事をした。
……少しは反省してくれるといいんだが。
アイリスが間延びした鳴き声を上げると、マリアはそろそろ事務所に帰ろうと言った。
事務所に帰って汚れたアイリスを洗おうか考えていたが、事務所に着く前に飼い主のベラさんが迎えに来ていた。
泣くベラさんにアイリスはなんとも言えない顔をしていたが、心配させた自覚はあるようで、されるがままになっていた。
ベラさんは私達に何度も御礼を言うと、帰っていった。
事務所に戻ると、私は改めて飼い主のベラさんに連絡を入れた。
返信メッセージには御礼と今元気にご飯を食べている旨が記されていた。
報告書はサンが書いてくれたようで、マリアが点検してくれた。
仕事が終わって家に帰ると、早速ルイスに今日の出来事を伝えた。
マリアと一緒になってサンを褒めるとサンは謙遜していたが、これで少しはサンの自己肯定感が上がればいいなと思った。
そうしてこの日を境に、ブラッドがサンに優しくなった。
ルイスは気味悪がっていたが、人間関係が良い方に向かうなら多少の変化は良い事である。
事務所でサンの笑顔が多く見られるようになって、私は安堵感に浸った。
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