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第3話 純粋エモーション
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アレクシス課長との秘密の関係が始まって、一ヶ月が過ぎた。
日中は、あくまで上司と部下の関係。私たちは完璧にその役割を演じきっていた。けれど、書類を受け渡す瞬間に触れる指先 や、誰にも気づかれないように一瞬だけ交わされる視線。そんな些細なことで、私の心は簡単に浮き足立ってしまう。
週に一度、彼の仕事が早く終わる日。私たちは決まってあの隠れ家のようなバーで会った。そこで他愛もない話をして、彼が仕事用に借りている部屋へ向かう。それは甘美で、背徳的な時間だった。
(だめよ。これは、恋じゃない)
何度も自分に言い聞かせた。これは割り切った関係なのだと。
相手の家庭を壊す気などない、大人の火遊び。そう思えば思うほど、ダメだと思うほどに……彼がふとした瞬間に見せる優しさや、仕事で見せる厳しい横顔に、どうしようもない位に心が囚われていくのを感じていた。
そんなある日、私たちの部署に新しい職員が配属されてきた。
「今日からここで働くことになりました、ルカ・ハインツです! 分からないことばかりですが、一日も早く皆さんの力になれるよう、精一杯頑張ります!」
穢れを知らない明るい笑顔で、深々と頭を下げる青年。歳は私より2つか3つ下だと思う。少し癖のある栗色の髪を揺らし、その瞳は希望に満ちてキラキラと輝いていた。私とは縁遠いほどの真っ直ぐな人だなと思っていたのに……。
なぜか私が彼の教育係に任命されてしまった。
「ミリアさん、ですね! よろしくお願いします!」
「え、ええ。よろしくね、ルカ君」
ぐいっと差し出された手を、思わず握り返す。それはとても力強い握手だった。
ルカ君は、見た目通りの裏表のない真っ直ぐな青年だった。仕事の覚えは決して早いとは言えなかったけど、それをカバーして有り余るほどに真面目で、ひたむきに打ち込んでいた。私が教えたことを一言一句聞き漏らすまいと、必死にメモを取る姿も好感が持てる。
「ミリアさんって、すごいですね! こんなにたくさんの書類を、どうやったらそんなに早く正確に処理できるんですか?」
「え? ……慣れよ、慣れ」
「すごい……尊敬しちゃいます! 俺も早くミリアさんみたいになりたいです!」
彼の言葉には、お世辞や下心といったものが一切感じられなかった。ただ純粋な尊敬と好意。そのあまりの眩しさに、 私はどう反応していいのか分からなかった。
(私みたいに、なんてならない方がいい。ううん、なっちゃいけないのよ……)
心の中で毒づく。私は上司と不倫関係を続け、その背徳感に浸っているような女。いったいどこを尊敬しろというの?
彼の純粋な眼差しは、時として鋭い刃物のように私の胸に突き刺さる。
ある日の昼休み、中庭のベンチで一人、サンドイッチを頬張っていると、ルカ君が隣にやってきた。
「こんなところにいたんですねミリアさん。やっと見つけましたよ!」
「……何か用?」
「いえ! ただ、ミリアさんの隣でご飯が食べたかっただけです!」
にかっと笑う彼に、私は思わず言葉を失ってしまう。なんてストレートな物言いだろう。
正直に言って、私には眩しすぎる。
「ミリアさんって、いつも一人でいますよね。もっと、みんなと話したりしないんですか?」
「うーん……別に。1人の方が気楽だから」
「もったいないですよ! ミリアさん、そんなに綺麗なんだから。笑ったら、もっと可愛いと思いますよ!」
どうやらルカ君は、思ったことをそのまま口に出してしまうタイプらしい。でも……その無邪気な言葉に、顔がわずかに熱くなるのを感じた。
「なっ……! からかわないで」
「からかってなんかないです! 本当のことです!」
真っ直ぐに見つめられて、私はたまらず視線を逸らした。
その時だった。中庭を挟んだ向こう側の渡り廊下を、アレクシス課長が歩いていくのが見えた。彼は一瞬だけこちらに目を向け、すぐに興味を失ったかのように前を向いて歩き去っていった。
けれど、私には分かってしまった。彼の目が、ほんの一瞬だけ、冷たく細められたのを。
途端に、心臓が冷水を浴びせられたように冷たくなるのを感じた。まるで、浮気をしている現場を見られたかのような、激しい罪悪感。
(違うわよ、浮気じゃない……。そもそも、私と課長は付き合っているわけじゃないのよ)
そう頭では理解しているのに、なぜか胸がずきりと痛んだ。
隣では、ルカ君がまだ何か楽しそうに話している。彼の明るい声が、やけに遠くに聞こえた。
純粋な好意。私のような罪を犯した心には少しだけ痛い。私は、彼の眩しい笑顔から逃れたかったのだろうか……曖昧に微笑み返すことしかできなかった。
日中は、あくまで上司と部下の関係。私たちは完璧にその役割を演じきっていた。けれど、書類を受け渡す瞬間に触れる指先 や、誰にも気づかれないように一瞬だけ交わされる視線。そんな些細なことで、私の心は簡単に浮き足立ってしまう。
週に一度、彼の仕事が早く終わる日。私たちは決まってあの隠れ家のようなバーで会った。そこで他愛もない話をして、彼が仕事用に借りている部屋へ向かう。それは甘美で、背徳的な時間だった。
(だめよ。これは、恋じゃない)
何度も自分に言い聞かせた。これは割り切った関係なのだと。
相手の家庭を壊す気などない、大人の火遊び。そう思えば思うほど、ダメだと思うほどに……彼がふとした瞬間に見せる優しさや、仕事で見せる厳しい横顔に、どうしようもない位に心が囚われていくのを感じていた。
そんなある日、私たちの部署に新しい職員が配属されてきた。
「今日からここで働くことになりました、ルカ・ハインツです! 分からないことばかりですが、一日も早く皆さんの力になれるよう、精一杯頑張ります!」
穢れを知らない明るい笑顔で、深々と頭を下げる青年。歳は私より2つか3つ下だと思う。少し癖のある栗色の髪を揺らし、その瞳は希望に満ちてキラキラと輝いていた。私とは縁遠いほどの真っ直ぐな人だなと思っていたのに……。
なぜか私が彼の教育係に任命されてしまった。
「ミリアさん、ですね! よろしくお願いします!」
「え、ええ。よろしくね、ルカ君」
ぐいっと差し出された手を、思わず握り返す。それはとても力強い握手だった。
ルカ君は、見た目通りの裏表のない真っ直ぐな青年だった。仕事の覚えは決して早いとは言えなかったけど、それをカバーして有り余るほどに真面目で、ひたむきに打ち込んでいた。私が教えたことを一言一句聞き漏らすまいと、必死にメモを取る姿も好感が持てる。
「ミリアさんって、すごいですね! こんなにたくさんの書類を、どうやったらそんなに早く正確に処理できるんですか?」
「え? ……慣れよ、慣れ」
「すごい……尊敬しちゃいます! 俺も早くミリアさんみたいになりたいです!」
彼の言葉には、お世辞や下心といったものが一切感じられなかった。ただ純粋な尊敬と好意。そのあまりの眩しさに、 私はどう反応していいのか分からなかった。
(私みたいに、なんてならない方がいい。ううん、なっちゃいけないのよ……)
心の中で毒づく。私は上司と不倫関係を続け、その背徳感に浸っているような女。いったいどこを尊敬しろというの?
彼の純粋な眼差しは、時として鋭い刃物のように私の胸に突き刺さる。
ある日の昼休み、中庭のベンチで一人、サンドイッチを頬張っていると、ルカ君が隣にやってきた。
「こんなところにいたんですねミリアさん。やっと見つけましたよ!」
「……何か用?」
「いえ! ただ、ミリアさんの隣でご飯が食べたかっただけです!」
にかっと笑う彼に、私は思わず言葉を失ってしまう。なんてストレートな物言いだろう。
正直に言って、私には眩しすぎる。
「ミリアさんって、いつも一人でいますよね。もっと、みんなと話したりしないんですか?」
「うーん……別に。1人の方が気楽だから」
「もったいないですよ! ミリアさん、そんなに綺麗なんだから。笑ったら、もっと可愛いと思いますよ!」
どうやらルカ君は、思ったことをそのまま口に出してしまうタイプらしい。でも……その無邪気な言葉に、顔がわずかに熱くなるのを感じた。
「なっ……! からかわないで」
「からかってなんかないです! 本当のことです!」
真っ直ぐに見つめられて、私はたまらず視線を逸らした。
その時だった。中庭を挟んだ向こう側の渡り廊下を、アレクシス課長が歩いていくのが見えた。彼は一瞬だけこちらに目を向け、すぐに興味を失ったかのように前を向いて歩き去っていった。
けれど、私には分かってしまった。彼の目が、ほんの一瞬だけ、冷たく細められたのを。
途端に、心臓が冷水を浴びせられたように冷たくなるのを感じた。まるで、浮気をしている現場を見られたかのような、激しい罪悪感。
(違うわよ、浮気じゃない……。そもそも、私と課長は付き合っているわけじゃないのよ)
そう頭では理解しているのに、なぜか胸がずきりと痛んだ。
隣では、ルカ君がまだ何か楽しそうに話している。彼の明るい声が、やけに遠くに聞こえた。
純粋な好意。私のような罪を犯した心には少しだけ痛い。私は、彼の眩しい笑顔から逃れたかったのだろうか……曖昧に微笑み返すことしかできなかった。
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