3 / 12
第3話 純粋エモーション
しおりを挟む
アレクシス課長との秘密の関係が始まって、一ヶ月が過ぎた。
日中は、あくまで上司と部下の関係。私たちは完璧にその役割を演じきっていた。けれど、書類を受け渡す瞬間に触れる指先 や、誰にも気づかれないように一瞬だけ交わされる視線。そんな些細なことで、私の心は簡単に浮き足立ってしまう。
週に一度、彼の仕事が早く終わる日。私たちは決まってあの隠れ家のようなバーで会った。そこで他愛もない話をして、彼が仕事用に借りている部屋へ向かう。それは甘美で、背徳的な時間だった。
(だめよ。これは、恋じゃない)
何度も自分に言い聞かせた。これは割り切った関係なのだと。
相手の家庭を壊す気などない、大人の火遊び。そう思えば思うほど、ダメだと思うほどに……彼がふとした瞬間に見せる優しさや、仕事で見せる厳しい横顔に、どうしようもない位に心が囚われていくのを感じていた。
そんなある日、私たちの部署に新しい職員が配属されてきた。
「今日からここで働くことになりました、ルカ・ハインツです! 分からないことばかりですが、一日も早く皆さんの力になれるよう、精一杯頑張ります!」
穢れを知らない明るい笑顔で、深々と頭を下げる青年。歳は私より2つか3つ下だと思う。少し癖のある栗色の髪を揺らし、その瞳は希望に満ちてキラキラと輝いていた。私とは縁遠いほどの真っ直ぐな人だなと思っていたのに……。
なぜか私が彼の教育係に任命されてしまった。
「ミリアさん、ですね! よろしくお願いします!」
「え、ええ。よろしくね、ルカ君」
ぐいっと差し出された手を、思わず握り返す。それはとても力強い握手だった。
ルカ君は、見た目通りの裏表のない真っ直ぐな青年だった。仕事の覚えは決して早いとは言えなかったけど、それをカバーして有り余るほどに真面目で、ひたむきに打ち込んでいた。私が教えたことを一言一句聞き漏らすまいと、必死にメモを取る姿も好感が持てる。
「ミリアさんって、すごいですね! こんなにたくさんの書類を、どうやったらそんなに早く正確に処理できるんですか?」
「え? ……慣れよ、慣れ」
「すごい……尊敬しちゃいます! 俺も早くミリアさんみたいになりたいです!」
彼の言葉には、お世辞や下心といったものが一切感じられなかった。ただ純粋な尊敬と好意。そのあまりの眩しさに、 私はどう反応していいのか分からなかった。
(私みたいに、なんてならない方がいい。ううん、なっちゃいけないのよ……)
心の中で毒づく。私は上司と不倫関係を続け、その背徳感に浸っているような女。いったいどこを尊敬しろというの?
彼の純粋な眼差しは、時として鋭い刃物のように私の胸に突き刺さる。
ある日の昼休み、中庭のベンチで一人、サンドイッチを頬張っていると、ルカ君が隣にやってきた。
「こんなところにいたんですねミリアさん。やっと見つけましたよ!」
「……何か用?」
「いえ! ただ、ミリアさんの隣でご飯が食べたかっただけです!」
にかっと笑う彼に、私は思わず言葉を失ってしまう。なんてストレートな物言いだろう。
正直に言って、私には眩しすぎる。
「ミリアさんって、いつも一人でいますよね。もっと、みんなと話したりしないんですか?」
「うーん……別に。1人の方が気楽だから」
「もったいないですよ! ミリアさん、そんなに綺麗なんだから。笑ったら、もっと可愛いと思いますよ!」
どうやらルカ君は、思ったことをそのまま口に出してしまうタイプらしい。でも……その無邪気な言葉に、顔がわずかに熱くなるのを感じた。
「なっ……! からかわないで」
「からかってなんかないです! 本当のことです!」
真っ直ぐに見つめられて、私はたまらず視線を逸らした。
その時だった。中庭を挟んだ向こう側の渡り廊下を、アレクシス課長が歩いていくのが見えた。彼は一瞬だけこちらに目を向け、すぐに興味を失ったかのように前を向いて歩き去っていった。
けれど、私には分かってしまった。彼の目が、ほんの一瞬だけ、冷たく細められたのを。
途端に、心臓が冷水を浴びせられたように冷たくなるのを感じた。まるで、浮気をしている現場を見られたかのような、激しい罪悪感。
(違うわよ、浮気じゃない……。そもそも、私と課長は付き合っているわけじゃないのよ)
そう頭では理解しているのに、なぜか胸がずきりと痛んだ。
隣では、ルカ君がまだ何か楽しそうに話している。彼の明るい声が、やけに遠くに聞こえた。
純粋な好意。私のような罪を犯した心には少しだけ痛い。私は、彼の眩しい笑顔から逃れたかったのだろうか……曖昧に微笑み返すことしかできなかった。
日中は、あくまで上司と部下の関係。私たちは完璧にその役割を演じきっていた。けれど、書類を受け渡す瞬間に触れる指先 や、誰にも気づかれないように一瞬だけ交わされる視線。そんな些細なことで、私の心は簡単に浮き足立ってしまう。
週に一度、彼の仕事が早く終わる日。私たちは決まってあの隠れ家のようなバーで会った。そこで他愛もない話をして、彼が仕事用に借りている部屋へ向かう。それは甘美で、背徳的な時間だった。
(だめよ。これは、恋じゃない)
何度も自分に言い聞かせた。これは割り切った関係なのだと。
相手の家庭を壊す気などない、大人の火遊び。そう思えば思うほど、ダメだと思うほどに……彼がふとした瞬間に見せる優しさや、仕事で見せる厳しい横顔に、どうしようもない位に心が囚われていくのを感じていた。
そんなある日、私たちの部署に新しい職員が配属されてきた。
「今日からここで働くことになりました、ルカ・ハインツです! 分からないことばかりですが、一日も早く皆さんの力になれるよう、精一杯頑張ります!」
穢れを知らない明るい笑顔で、深々と頭を下げる青年。歳は私より2つか3つ下だと思う。少し癖のある栗色の髪を揺らし、その瞳は希望に満ちてキラキラと輝いていた。私とは縁遠いほどの真っ直ぐな人だなと思っていたのに……。
なぜか私が彼の教育係に任命されてしまった。
「ミリアさん、ですね! よろしくお願いします!」
「え、ええ。よろしくね、ルカ君」
ぐいっと差し出された手を、思わず握り返す。それはとても力強い握手だった。
ルカ君は、見た目通りの裏表のない真っ直ぐな青年だった。仕事の覚えは決して早いとは言えなかったけど、それをカバーして有り余るほどに真面目で、ひたむきに打ち込んでいた。私が教えたことを一言一句聞き漏らすまいと、必死にメモを取る姿も好感が持てる。
「ミリアさんって、すごいですね! こんなにたくさんの書類を、どうやったらそんなに早く正確に処理できるんですか?」
「え? ……慣れよ、慣れ」
「すごい……尊敬しちゃいます! 俺も早くミリアさんみたいになりたいです!」
彼の言葉には、お世辞や下心といったものが一切感じられなかった。ただ純粋な尊敬と好意。そのあまりの眩しさに、 私はどう反応していいのか分からなかった。
(私みたいに、なんてならない方がいい。ううん、なっちゃいけないのよ……)
心の中で毒づく。私は上司と不倫関係を続け、その背徳感に浸っているような女。いったいどこを尊敬しろというの?
彼の純粋な眼差しは、時として鋭い刃物のように私の胸に突き刺さる。
ある日の昼休み、中庭のベンチで一人、サンドイッチを頬張っていると、ルカ君が隣にやってきた。
「こんなところにいたんですねミリアさん。やっと見つけましたよ!」
「……何か用?」
「いえ! ただ、ミリアさんの隣でご飯が食べたかっただけです!」
にかっと笑う彼に、私は思わず言葉を失ってしまう。なんてストレートな物言いだろう。
正直に言って、私には眩しすぎる。
「ミリアさんって、いつも一人でいますよね。もっと、みんなと話したりしないんですか?」
「うーん……別に。1人の方が気楽だから」
「もったいないですよ! ミリアさん、そんなに綺麗なんだから。笑ったら、もっと可愛いと思いますよ!」
どうやらルカ君は、思ったことをそのまま口に出してしまうタイプらしい。でも……その無邪気な言葉に、顔がわずかに熱くなるのを感じた。
「なっ……! からかわないで」
「からかってなんかないです! 本当のことです!」
真っ直ぐに見つめられて、私はたまらず視線を逸らした。
その時だった。中庭を挟んだ向こう側の渡り廊下を、アレクシス課長が歩いていくのが見えた。彼は一瞬だけこちらに目を向け、すぐに興味を失ったかのように前を向いて歩き去っていった。
けれど、私には分かってしまった。彼の目が、ほんの一瞬だけ、冷たく細められたのを。
途端に、心臓が冷水を浴びせられたように冷たくなるのを感じた。まるで、浮気をしている現場を見られたかのような、激しい罪悪感。
(違うわよ、浮気じゃない……。そもそも、私と課長は付き合っているわけじゃないのよ)
そう頭では理解しているのに、なぜか胸がずきりと痛んだ。
隣では、ルカ君がまだ何か楽しそうに話している。彼の明るい声が、やけに遠くに聞こえた。
純粋な好意。私のような罪を犯した心には少しだけ痛い。私は、彼の眩しい笑顔から逃れたかったのだろうか……曖昧に微笑み返すことしかできなかった。
0
あなたにおすすめの小説
最強魔術師の歪んだ初恋
る
恋愛
伯爵家の養子であるアリスは親戚のおじさまが大好きだ。
けれどアリスに妹が産まれ、アリスは虐げれるようになる。そのまま成長したアリスは、男爵家のおじさんの元に嫁ぐことになるが、初夜で破瓜の血が流れず……?
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
10 sweet wedding
國樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる