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第2話 甘美デセプション
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あの日以来、私はアレクシス課長を意識せずにはいられなくなってしまった。
廊下ですれ違うだけで心臓が妙なリズムを刻み、遠くから彼の声が聞こえるだけで耳が熱くなる。ダメだと分かっているのに、目で追ってしまう。そして、目が合えば慌てて逸らす。
そんな自分が馬鹿みたいで、自己嫌悪に陥る日々。
(落ち着きなさい、ミリア。相手は既婚者なの。しかも、あの完璧なアレクシス課長よ)
彼はきっと、あの日のことなど覚えてもいない。私のような地味な新人職員のことなど、気にも留めていないはずだ 。そう自分に言い聞かせることで、どうにか平静を保っていた。
そんなある日の夜。
年度末の繁忙期も佳境に入り、私は一人で山のような書類と格闘していた。窓の外はとっぷりと日が暮れている。 静まり返ったオフィスには、羊皮紙をめくる音とペンを走らせる音だけが響いている。
「……まだ、残っていたのか」
不意にかけられた声に、びくりと肩が震えた。
振り返ると、そこに立っていたのはアレクシス課長だった。彼は上着を脱ぎ、シャツの袖を無造作にまくり上げている。日中の隙のない姿とは違う、残業時間特有の少しだけ気の抜けた雰囲気が、妙に色っぽかった。
「か、課長こそ。お疲れ様です」
「ああ。君も、あまり無理はするなよ」
彼はそう言うと、私の机の前に立ち、私が処理していた書類を何枚か手に取った。
「なるほど。これは骨が折れるな。……手伝おう」
「えっ!? いえ、そんな、課長のお手を煩わせるわけには……!」
「大丈夫だ。2人でやった方が早いだろう?」
そう言って、彼は私の向かいの席に腰を下ろした。断る隙も与えない、スマートな強引さ。それからしばらく、私達はほとんど会話もせずに黙々と作業を続けた。
時折、彼が書類の書き方についてアドバイスをくれる。その声が、静かなオフィスに心地よく響くだけ……。
ようやく最後の書類を片付け終えた頃には、時計の針はとっくに深夜を指していた。
「……終わったな。ありがとう、助かったよ」
「いえ、そんな。それは私が言わないといけないことで……」
彼がふっと息をついて、優しい笑みを浮かべた。その不意打ちの笑顔に、私の心臓が大きく音を立てる。
「礼と言っては何だが、何か飲みに行かないか。もう遅いし、食事もまだだろう?」
ああ……やっぱり来た。
分かっていたの。それに、こうなることを心のどこかで期待していた。
(ダメよ、ミリア。これは罠だわ)
前世で幾度となく経験した、甘い罠。
この誘いに乗ってしまえば、もう後戻りはできない。平穏な日常は終わりを告げ、またあの泥沼に足を踏み入れることになる。
――断らなければ行けない。今、ここで。
「……でも」
続く私の口から漏れたのは、拒絶の言葉ではなかった。
「……よろしい、のでしょうか」
アレクシス課長は、私の答えを聞くと、満足そうに目を細めた。
連れて行かれたのは、王宮から少し離れた、隠れ家のような小さなバーだった。落ち着いた照明と、楽士が静かに奏でる音楽。彼は慣れた様子で酒を注文し、私にはノンアルコールのカクテルを勧めてくれた。
「君は、仕事が丁寧でさ。いつも感心していたんだ」
「そ、そんな……恐縮です」
「本当だよ。君のような職員がいると、俺としても助かる」
褒め言葉のひとつひとつが、私の心をじんわりと溶かしていく。彼は仕事の話をしながらも、時折、ふと遠い目をした。
「家に帰っても、安らぐことができないからさ……」
ぽつりと漏らされた言葉。評判の愛妻家であるはずのその一言に、彼の家庭が必ずしも円満ではないことを察してしまった。
(そう……なんだ……)
この人も、何かを抱えている。私と同じように、満たされない何かを。そう思った瞬間、彼との間にあったはずの壁が、すっと音もなく消えていくような気がした。
しばらく飲んだあと店を出て、夜風に当たりながら2人で並んで歩いていた。ノンアルしか飲んでない私は酔っていないはずなのに……足元が少しだけふわふわしていた。
「もう遅いから……送るよ」
そう言って、彼が私の肩をそっと抱いた。びくりと体を強張らせる私に、彼は囁くように言った。
「実は……初めて会った時から、気になっていた」
嘘……。そんなはずはない。社交辞令に決まっている。
そう思うのに、彼の熱っぽい視線と、肩に置かれた手の暖かさに、体が彼を拒めない。
(これじゃ……また、いつものパターンなのに)
心の奥で、冷静な自分が呟いた。分かっている。これは恋じゃない。ただの火遊びだ。それでも、この甘い痺れからは、もう逃れられそうになかった。
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。私は、固く閉じていたはずの瞼を、そっと下ろした。
割り切った関係。そう、それでいい。
今度こそ上手くやれるはず。だって……傷つく前に、終わらせればいいのだから。
夜の闇に紛れて重なった唇は、甘く、そして少しだけ、お酒の味がした。
廊下ですれ違うだけで心臓が妙なリズムを刻み、遠くから彼の声が聞こえるだけで耳が熱くなる。ダメだと分かっているのに、目で追ってしまう。そして、目が合えば慌てて逸らす。
そんな自分が馬鹿みたいで、自己嫌悪に陥る日々。
(落ち着きなさい、ミリア。相手は既婚者なの。しかも、あの完璧なアレクシス課長よ)
彼はきっと、あの日のことなど覚えてもいない。私のような地味な新人職員のことなど、気にも留めていないはずだ 。そう自分に言い聞かせることで、どうにか平静を保っていた。
そんなある日の夜。
年度末の繁忙期も佳境に入り、私は一人で山のような書類と格闘していた。窓の外はとっぷりと日が暮れている。 静まり返ったオフィスには、羊皮紙をめくる音とペンを走らせる音だけが響いている。
「……まだ、残っていたのか」
不意にかけられた声に、びくりと肩が震えた。
振り返ると、そこに立っていたのはアレクシス課長だった。彼は上着を脱ぎ、シャツの袖を無造作にまくり上げている。日中の隙のない姿とは違う、残業時間特有の少しだけ気の抜けた雰囲気が、妙に色っぽかった。
「か、課長こそ。お疲れ様です」
「ああ。君も、あまり無理はするなよ」
彼はそう言うと、私の机の前に立ち、私が処理していた書類を何枚か手に取った。
「なるほど。これは骨が折れるな。……手伝おう」
「えっ!? いえ、そんな、課長のお手を煩わせるわけには……!」
「大丈夫だ。2人でやった方が早いだろう?」
そう言って、彼は私の向かいの席に腰を下ろした。断る隙も与えない、スマートな強引さ。それからしばらく、私達はほとんど会話もせずに黙々と作業を続けた。
時折、彼が書類の書き方についてアドバイスをくれる。その声が、静かなオフィスに心地よく響くだけ……。
ようやく最後の書類を片付け終えた頃には、時計の針はとっくに深夜を指していた。
「……終わったな。ありがとう、助かったよ」
「いえ、そんな。それは私が言わないといけないことで……」
彼がふっと息をついて、優しい笑みを浮かべた。その不意打ちの笑顔に、私の心臓が大きく音を立てる。
「礼と言っては何だが、何か飲みに行かないか。もう遅いし、食事もまだだろう?」
ああ……やっぱり来た。
分かっていたの。それに、こうなることを心のどこかで期待していた。
(ダメよ、ミリア。これは罠だわ)
前世で幾度となく経験した、甘い罠。
この誘いに乗ってしまえば、もう後戻りはできない。平穏な日常は終わりを告げ、またあの泥沼に足を踏み入れることになる。
――断らなければ行けない。今、ここで。
「……でも」
続く私の口から漏れたのは、拒絶の言葉ではなかった。
「……よろしい、のでしょうか」
アレクシス課長は、私の答えを聞くと、満足そうに目を細めた。
連れて行かれたのは、王宮から少し離れた、隠れ家のような小さなバーだった。落ち着いた照明と、楽士が静かに奏でる音楽。彼は慣れた様子で酒を注文し、私にはノンアルコールのカクテルを勧めてくれた。
「君は、仕事が丁寧でさ。いつも感心していたんだ」
「そ、そんな……恐縮です」
「本当だよ。君のような職員がいると、俺としても助かる」
褒め言葉のひとつひとつが、私の心をじんわりと溶かしていく。彼は仕事の話をしながらも、時折、ふと遠い目をした。
「家に帰っても、安らぐことができないからさ……」
ぽつりと漏らされた言葉。評判の愛妻家であるはずのその一言に、彼の家庭が必ずしも円満ではないことを察してしまった。
(そう……なんだ……)
この人も、何かを抱えている。私と同じように、満たされない何かを。そう思った瞬間、彼との間にあったはずの壁が、すっと音もなく消えていくような気がした。
しばらく飲んだあと店を出て、夜風に当たりながら2人で並んで歩いていた。ノンアルしか飲んでない私は酔っていないはずなのに……足元が少しだけふわふわしていた。
「もう遅いから……送るよ」
そう言って、彼が私の肩をそっと抱いた。びくりと体を強張らせる私に、彼は囁くように言った。
「実は……初めて会った時から、気になっていた」
嘘……。そんなはずはない。社交辞令に決まっている。
そう思うのに、彼の熱っぽい視線と、肩に置かれた手の暖かさに、体が彼を拒めない。
(これじゃ……また、いつものパターンなのに)
心の奥で、冷静な自分が呟いた。分かっている。これは恋じゃない。ただの火遊びだ。それでも、この甘い痺れからは、もう逃れられそうになかった。
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。私は、固く閉じていたはずの瞼を、そっと下ろした。
割り切った関係。そう、それでいい。
今度こそ上手くやれるはず。だって……傷つく前に、終わらせればいいのだから。
夜の闇に紛れて重なった唇は、甘く、そして少しだけ、お酒の味がした。
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