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人魚の卵【完結】
序、父と子
しおりを挟む彼は探していた。あの日と同じように。今度は妻ではなく、最愛の息子を。
彼が目覚めたとき、息子はどこにもいなかった。様子がおかしいことに気付いていながら、疲れて寝入ってしまった自分を何度も責めた。
直感的に、海に引き寄せられていた。
いつも彼ら親子に付きまとってきたのは、この広すぎる海原。魅入られるほど美しい海面。
けれど、消えることのない深い海底への畏れ。
震える心は、二度と思い出したくないと願った、辛く哀しい遠い日の記憶をたぐり寄せていた。
海で亡くした最愛の妻を。自分だけが助かり、妻を救えなかった、自らを呪った日々を。
十六年前の惨劇が、再び彼の心を締め付けていく。
狂ってしまうかと思った。いや、すでに狂っていた。
毎日のように、妻の亡骸が流れ着かないかと、砂浜を血眼になって探し歩いた、あの絶望と哀しみを、もう二度と味わいたくなかった。
(お願いだ。連れて行かないでくれ。どうか……どうかあの子を)
祈るように浜辺をふらふらと歩いていると、昇り始めた朝日に照らされる人影を見つけた。
咄嗟に、息子かと思った。背格好がよく似ていた。だが、まとっている空気が息子と違うように感じられた。
立ち止まっている彼に気が付くと、人影が振り向いた。
やはり、息子によく似ていると思ったその少年は、静かに片腕を上げると、どこかを指差す。
導かれるようにその先に目をやると、一隻の小舟が打ち上げられているのが見て取れた。
なぜだか分からなかったが、確信があった。
(――あそこに……)
砂に足を取られながら、小舟に近づいていく。気持ちばかりが先走り、足がふらついた。
あと少しというところで、ふと、彼は立ち止まった。
音がした方を振り返る。さざ波とは違う、ぱしゃんと水の跳ねる音が確かに聞こえた気がしたのだ。
けれどそこには何もなかった。
そして、さっきの少年も、どこにもいなかった―――
おぎゃぁおぎゃぁと生まれたばかりの赤ん坊の声が響く。新しい生命の誕生に、彼は微笑んだ。
「父さん」と呼ばれた彼が振り向く。
「とても可愛い男の子だ。お前にそっくりだね」
ガラス越しの向こうに見える赤子の顔などよく見えないでしょうと、彼の息子は苦笑する。
「名前はもう、決めたのかい?」
父親になった息子に、彼は尋ねた。
「えぇ、十年も前に。もし、男の子が生まれたら、カインと名付けようと」
その名を聞き、彼は驚いた顔を息子に向けた。
「十年も前に? なぜ、カインと?」
「それが、僕もよく覚えていなくて。でも、なぜだか分からないけれど、とても大切な名前の気がして」
「しかし、それは……」
彼は信じられないというように、もう一度息子の顔をじっと見つめると、おもむろに口を開いた。
「その名は、私の妻が、産まれてくるはずだった赤子に付けた名だ」
「……赤子に?」
二人はしばらく、お互いの顔を見つめ合った。
それから、何かを察した彼は、震える声で静かに告げる。
「一人が、カイン。もう一人が、お前の名前……。私たちの、産まれてくるはずだった子供は、双生児だったんだよ。どこで、その名を?」
彼の言葉に、息子は言葉を失ったように立ち尽くすと、その目から涙をこぼした。
♢ ♢ ♢
パリンッと頭の片隅で何かが砕け散った音がした。過去の閉ざされた記憶が、鮮明に蘇ってくる。
十年前のあの日、小舟の中で目が覚めたとき、なにも覚えていなかった。なぜ自分がそこに行ったのかすらも。
青年の目から涙がこぼれ、身体が震えだす。
「どうしたんだい?」
心配そうな父親に、青年は必死に声を出して告げる。
「あっ……。あぁ、父さん。僕……僕はあの日、父さんの願いを、叶えてあげたかったんだ。幼いころに、教えてくれた、あの〈卵〉を、手に入れて……。
父さんの、本当の家族に、会わせてあげたいって……。そうすれば……、だけど、僕はっ」
涙が止まらず、両手で顔を覆ったまま、青年は頽れるように床に膝を付いた。
寄り添う父親にそっと肩を抱かれながら、青年はすべてを思い出していた。
十六歳の夏。あの海で、出逢った〈彼〉のことを。自分が何者で、なにを望み、なにを失ったのかを……
* * *
これは、始まりの物語。
人魚の〈卵〉にまつわる、お伽噺のような、そんな物語――
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