65 / 80
5巻
5-1
しおりを挟む序章 彼岸にて
『ティーシシングォディエス――グォッジョーシャノオキャッサマニハ、グォッメイワクオォ、オカケイタシャァス』
スピーカー越しのダミ声が、列車の車内に――藤重佐保の耳に響く。鉄道会社の職員の、この独特の発声と喋り方はなんなのだろうか。そういうものだからそうしているのか、あるいはそのような教育を受けているのか。いや、今は車掌の喋り方や発声について問題にしている場合ではなかろう。問題はアナウンスの中身――ですらなく、停車した原因の方である。
地震だ。
「結構、揺れたわね」
外出しているとき、特に移動中は「揺れている」と体感しにくいものである。元々、南関東は地震の多い方だ。元来肝の据わっている藤重佐保は多少の揺れで焦るようなタマではないが、それでも今度の揺れには驚いた。震度四といったところか。
「ここ最近、随分多いな」
叔父の梓馬がそう言った。確かに、地震が増えた気がする。ニュースでは毎日のようにこの事実が取り上げられ、大地震の前触れではないかと不安を煽っている。ペットボトルの水、保存食などの防災グッズは、ここ最近品薄らしい。メーカーのマッチポンプなのではないか、と疑いたくなるくらいだ。
とはいえ、不安にもなる。世界が滅ぶとか滅ばないとか、そういう話を神様本人から聞いた矢先のことなのだ。
ちなみに、その『予兆』とも言える存在である異世界からの来訪者――サイは、三人のうち誰よりも平然としていた。
「こんなもんなんじゃないんスか? エルナトには地震なんてなかったから、最初は面食らいましたけど、この国じゃよくあることだって」
確かに、日本は地震大国で云々といった話を、梓馬は以前したが、順応性が高すぎやしないだろうか。あるいは、そういう人間が『選ばれて』この世界に来ているのかもしれないけれど。
「まあ、そりゃ火山のない国に比べりゃ遥かに多いさ。それにしたって異常だな、最近は」
梓馬が軽く首を捻る。小刻みに起きる中規模の地震は、大きな災害の前触れ、と言われることが少なくない。マスコミが連日煽っているのも、あながち的外れではないのだ。
「異常と言えば、総理大臣もよね」
天変地異のことなど、いくら推測したところでどうにもならない。佐保がさっさと話を変える。
「自分で言うのもなんだけど、辺鄙な神社の宮司と会談してさ、それで、異世界人の受け入れの法整備を検討しているとかさ。意味不明すぎない? この国大丈夫?」
呆れたように言うと、梓馬がふむ、と唸る。
そもそもこの三人が、西武新宿線から東京メトロを乗り継いで、わざわざ霞が関まで行っていたのは、内閣総理大臣に面会するためである。
二度言うが、内閣総理大臣に会うためである。
当たり前と言えば当たり前だが、梓馬は総理大臣と面識などない。それがなぜか、スマートフォンの電話帳の「ア行」の項目に、彼の御仁のプライベートな連絡先が登録されていたのである。
神の思し召しも、随分ハイテクになったものだ。いやそれにしたって――
「神様が色々と手を回してるんだろうな――かなり強引な気はするが」
実際に面会した総理大臣は、異常なほどあっさり状況を理解した。あるいは、同じような現象が他の場所でも起きているのかもしれないが、人の認識を都合よく捻じ曲げてしまう神の干渉能力には、ぞくりと肌が粟立つのを抑えられなかった。今はこちらに都合よく働いているからいいが――その気になれば爽悟や雷矢、透子がいたことすら『なかったこと』にできてしまうのではないか。そういった考えが頭を過る。
そんな梓馬の考えなど露知らず、サイの方は呑気なものだ。
「よく分かんないッスけど、オレ当分はこの国に住めるんスね?」
のほほんとした様子のサイに、望郷の思いはないのだろうか。
「みたいよ」
「やった!」
サイは無邪気に喜んでいる。根が明るいというか、考え方がとても前向きだ。良くも悪くも後ろを顧みない性格なのだろう。佐保も彼のそういうところに好感を抱いているのか、若干対応が優しくなっている。
「そんなに嬉しいもん?」
「そりゃそうッスよ!」
周囲を気にせず騒ぐサイの頭を、佐保が「声がデカい」と叩く。こうしていると、東洋系と西欧系でまるで違う人種なのだが、姉と弟のようだ。実際、サイは爽悟と同じくらいか、やや下くらいだろう。
サイは周囲をぐるりと見渡すと、少し声を落として(うるさいのはあまり変わらないが)言った。
「この電車ってやつにしてもそうッスけど、魔法よりすごい道具が山ほどあるし」
電車や自動車など、大型の機械類を見ても、サイは想定より驚いていなかった。「テレビの中に! 人が!」くらい言いそうなものだが、魔法のある世界からやってきたならむしろ道理ではある。魔法と科学、技術のもとが違うだけで、起きている事象は似たようなものなのだろう。とはいえ、口ぶりからすると魔法の方が不便らしい。
「何より建物ッスよ! 城よりも高いのがいっぱいあるし」
サイは窓の外に乱立するビル群を指さした。中世ヨーロッパ程度の建築技術で考えると――百メートルもあれば「かなり巨大」だろう。日本にある建物はといえば、それくらいなら珍しくもなく、高いもので六百メートルを超えている。
「建築学に興味があるのか?」
「ん、いや、建築? 設計? そういうのはあんまりッスね。オレ、大工なんで!」
梓馬が尋ねると、サイは腕を組んで、首を捻った。建物に感動はしているようだが、それを作る、設計する方には興味がないようだった。
「土木作業員にでもなるつもり? わざわざ異世界まで来てそんなことしなくても」
佐保が言う。別にそうした仕事を馬鹿にするわけではないが、わざわざ異世界に来てまで学ぶようなことでもないだろう。確かに魔法の世界と違う工程はあるかもしれないが、先ほどの発言からも窺える通り、サイに「魔法で再現できそうな技術」への関心がないことは分かる。
「そういうんじゃないッスよ! あんなでっかいもの、作り方教わっても、向こうの世界じゃ、再現するための道具ないし」
「あら、意外と冷静」
実際のところ、魔法のあるエルナト王国で高層ビルが作れるか作れないかというと、分からないとしか言えない。ただサイは大した魔法を使えなかった。彼のおぼつかない説明によると、魔法は個人の資質に大きく左右される側面があるのだそうだ。
この世界に存在する重機を向こうの世界で再現しようと思ったら、相当な年月がかかるだろう。サイは馬鹿そうに見えて案外そういうところは現実的で、自分が生きている内に再現できそうにない技術にもやはり興味はないらしかった。
「それより、写真とか、色々見せてくれたじゃないスか。木だけで作った建物!」
「サイくん、君、宮大工とかに興味があるのかい」
梓馬が聞いたように、サイが興味を持っているのは、むしろ日本古来の建築物とその技法らしい。確かに建築に興味を持っていたサイに色々見せはしたし、熱弁をふるいもしたので、その甲斐があったと思えば嬉しくはある。
「ッス! エルナトって材木はたくさんあるんで!」
つまり、そういうことらしい。ごくごくシンプルな理由である。
また、石を用いた建築物には、それはそれで利点はあるだろうが、気候風土によっては木造建築の方がいいこともあるだろう。
いずれにしても、学ぶ意欲があるのはいいことだ。
「まあ、本気で勉強するつもりなら、学費は国が支援してくれるらしいよ」
「いくらなんでも都合よすぎない?」
さすがに胡散臭そうに、佐保が梓馬に指摘する。奨学金の審査だって今時分そう簡単ではないし、あれは基本的に、返済の必要がある。なのに、いつか異世界に帰ってしまう人間に対してあっさり与えてしまうとは、どういう判断なのか分からない。
「この世界の学問を勉強させて、魔法への依存をなくしたいんだろうな、神様としては。そのために色々、都合を合わせたってところか」
かといって直接手を下せないから、こういうやり方になるようだ。この強引なやり方からして、神様も焦っているのかもしれない。
「こういう、好奇心と適応力の強い子が選ばれてるのかな」
「図太いのは確かね」
佐保は、異世界に放り込まれてもホームシックの気配すらないサイを見て、わざとらしく肩を竦める。
「てか、色々勉強するのはいいけど、あんたは先に読み書きからでしょ」
佐保はそう釘を刺す。サイは、元の世界にいた頃から読み書きができなかった。彼の暮らしていたエルナト王国では、平民は読み書きができなくて普通なんだそうだ。それで魔法は使えるのだから、日本の常識に照らし合わせると矛盾しているとも言えるが、まあ、そういうものなのだろう。
「そうだった……」
指摘されたサイはがっくりと肩を落とす。勘はいいし根は真面目なのだが、勉強は不得手らしい。というより、読み書きができない以上、勉強をしたことすらないのかもしれないが。
「向こうで読み書きできないと、こっちでも読み書きできないのね。言葉は通じるのに――法律とか捻じ曲げられるんなら、それくらいやってくれてもいいのに」
法律や人の認識を書き換えられるなら、読み書きぐらい覚えさせられそうなものだ。言葉が通じているだけでも儲けものだと分かってはいるが、どうせだったら読み書きも教えておいてほしい。この国で読み書きができないと、まともに生活できない。
「自分で努力しないで得た知識に意味はないよってことじゃないか」
神様にできることと、できないことの基準が分からない。まあ、大枠としての『世界』はどうとでもなるが『個人』はどうにもならない、というところなのだろう。
だからこそ、向こうの世界で文明が誤った方向に進んでしまったとき、神なる存在には何もできないのだ。人間が自ら身につけた技術を、神の力で封じることはできない。臓器の働きを、自在に制御できないのと似たようなものだ。どこからが臓器で、どこまでが筋肉なのかは、分からないが。
「――爽悟たちは無事なのかしら」
佐保も、サイと話すことで気が紛れているものの、文明があまり進んでおらず、もめごとの絶えない場所にいるらしい弟や仲の良かった姉のような女性の身を案じている。
「どう、だろうな。ここ最近、地震が多いのを思うと、向こうでも何か起きている可能性は高い。というか、普通に考えてまず巻き込まれている」
何しろ建物ごとの移動だ。サイにしたって、総理大臣なんて大物と面会している。平穏に済んでいるのは、ここが日本という呑気な土地だからに他ならない。
サイからざっくり事情を聞いただけだが、向こうの世界の人々に、手放しでの歓迎はされていないだろう。それに対して、負けん気の強い爽悟ならなおさら、売られた喧嘩を買うのに釣りはいらねえ、くらいの対応はしていそうだ。
「やめてよ。そういうの」
梓馬の言う通りだが、口にしてほしい話でもない。実際、その通りなのだが。想像がつくだけに気が気ではない。佐保は無意識に耳をいじっていた。心配事があるときの、彼女の癖である。
「いずれにしても――神様の言ってたことに間違いがなきゃあ、だが。向こうで文明が滅びることになれば、当然この世界にも影響は出るだろう」
梓馬は声を低くしてそう言った。二つの世界の間を、魂は循環する。文明が滅び、大量の人死にが出れば、その魂は全てこの世界にやってくることになる。
「釣り合いを取るために、俺らもついでで口減らし、なんてことにならなきゃいいんだがねえ」
今でさえ三割の陸地に人が溢れかえっている。日本にいては何も感じないが、世界的に見れば水も食糧も不足しているのだ。
第一章 聖ジョゼットの受難
この部屋に閉じ込められてから、どれほどの時が経っただろうか。
窓のない地下牢に日の光は差さない。時間の経過を判断し得る基準は、毎日決まった時間にかび臭い水と石のように固いパンを運んでくる看守だけだ。
メリッサが飲みくだしたパンの数は合わせて六つ。少なくとも六日間は経過している……のだろう。それ以上のことは分からないし、考える気にもならなかった。
(あんなパンでもありがたいと思えないわたくしは、やはり未熟者なのでしょうね)
あんな固いパンですら口にできない人々はいる。それを思えば、異端の嫌疑をかけられた罪人になんと慈悲深いことか。真に信心深いものならそう思うのだろう。
(そう思えないのが、きっとわたくしの限界)
メリッサはベッドに腰かけ、膝を抱え、じっとうずくまっていた。波紋ほどの起伏さえない静寂は、ゆっくりと、だが確実にメリッサの精神を蝕んでいく。メリッサは内省的な人間だった。あの日、あのとき、ああしていれば、こうしていれば。自分はなんて愚かで、価値のない人間なのか。一人でじっとしていると、そんな悪い考えばかりが頭を過る。
「まずいものはまずい。それでいいと、わたくしなどは思いますけれど」
突然背後から女の声。そっと体重のかかる気配。ただ闇が広がっているだけと知りながら、メリッサはそちらに顔を向け、ぎょっとする。
女がいた。漆黒のドレスに身を纏った女が。
整ってはいるが――特徴のあるような、ないような顔の――どこかで見た覚えのあるような、ないような――。限られた自分の半生の、限られた行動範囲の、一体どこで、自分は彼女を知っているのか、出会ったことがあるのか。故郷の村――ではない――ベネトナシュ修道院――でもない――なら――王都アル=ナスル――
「ごきげんよう、シスター・メリッサ。あるいはミス・ジョゼット」
メリッサのたぐる記憶の糸を断ち切るかのように、女はそうはにかんだ。
「あなたは?」
メリッサは眉根を寄せ、不審に思っていることを隠さずに誰何する。
「わたくしが誰か?」
ふふ、と女は笑った。
「それはどうでも良いことです。名が必要なら、ミス・メアリー・スーとでも、ミセス・ジェーン・スミスとでも。ただそうですねえ、もし叶うことなら」
女はそっとメリッサに顔を寄せ、耳たぶを甘く噛んだ。
「ナタリ、と呼んでくださいな。その呼び名には、格別の思い入れがありますの」
彼女――ナタリの熱っぽい声の潤みに、メリッサは思わず身震いする。メリッサは奥歯をくっと噛みしめ、もう一度問う。
「わたくしはあなたの名を問うているのではありません。あなたが一体何者なのかを問うているのです」
真剣な問いかけに、ナタリはしばし目を瞬かせていたが、しばらくするとそれがおかしくてたまらなかったようで、ころころと口元を隠して笑った。
「何がおかしいというのですか」
さすがにむっとして、メリッサがナタリを睨みつける。
「失礼、お気を悪くなさらないで。だってあなたがあまりにも、自明のことをお尋ねになるから」
一体いつから手にしていたのか。ご覧なさいな、とナタリが閉じた黒い日傘で、部屋の隅にある壺をさした。固いパンと水だけとはいえ、何かしら口にしている以上、出るものは出る。それはそういう用途のものだった。不快極まるので見るのも避けていたメリッサは、思わず目を背ける。
「ああ、いやだこと。これではお茶も楽しめませんわね。こんな掃き溜めみたいな場所で、異端者の前に現れるのが何者かだなんて、相場が決まっているというものでしょう?」
「《悪魔》――」
メリッサは固い声でその名を口にした。混沌たる《魂の質量》の塊に全ての境界線を定めることで、世界を創造した審判者アルティス。その御使い《使徒》に反目する存在として俗信されるのが《悪魔》なる《霊質的存在》――人ならざる者たちだ。
かつては、それが邪悪な存在であるとメリッサも信じていた。だが、審判者の導きにより、異界の神殿――神社とともに訪れた《迷い子》、藤重爽悟たちと一緒に、幾度か《悪魔》に接触した結果、必ずしも彼らは邪悪な存在とは言いきれない――という結論に、彼女は至った。審判者アルティスを信奉する聖職者の中では、珍しい解釈ではあるが、これ自体は異端ではない。そもそも《悪魔》の存在自体、聖典にはなんら記載のないものなのだから。
「お恥ずかしい話ですが《色欲》を司るアスモデウス――そう呼ばれることもございますわ」
そう言ってナタリは身を軽くくねらせた。
「《七大悪魔》ではないですか!」
ナタリの発言に、メリッサはぎょっとして身を引く。《七大悪魔》と言えば、歴史に名を遺すような大聖人が命と魂を懸けてどうにか封じられるかどうかといった領域の存在である。まっとうな人間が抗しうる存在ではない。
メリッサはごくりと生唾を呑む。
どうせ自分の行く末などとうに決まっている。《悪魔》ごとき、何を恐れることがあるだろう。
「その――大《悪魔》が、わたくしに何用です。異端審問――火刑にかけられる審判者の手先を嗤いにでも来たのですか」
「嗤うだなんて」
闇の中でナタリが大仰に肩を竦める。
「人聞きの悪いことをおっしゃるわ」
「《悪魔》がそんなことを気にするなんて」
「気にもなりますわ。わたくしはこれでも、人を愛しておりますのよ」
「どこまで本気かしら」
「あなたが信じようと信じまいと、どうでもいいことですわ」
そう言うと、ナタリはぐっとメリッサに身を寄せる。
「汚らわしい」
「この部屋ほどではないでしょう? ねえシスター・メリッサ。いえ、この場ではミス・ジョゼットが適切?」
「ミス・ジョゼットは死にました。教皇聖下の故郷の村ともども」
メリッサの硬い声にふうん、とナタリは笑う。
「あなたは異端審問を甘んじて受け入れるつもりでいる。自ら教皇聖下の前で焼かれるつもりでいる。それでどうなさるおつもりかしら?」
「なぜ《悪魔》にそんなことを?」
「まあ、いいではありませんか。どうせあなたは死ぬのだから」
その言葉に、メリッサは俯いて、しばし黙り込んだ。それから静かに口を開く。
「姉であるわたくしが、目の前で火と煙に悶え苦しんで死ぬ様を見れば――教皇聖下のお心も、少しは動くでしょう。人の魂は死の瞬間、肉体を離れ、レサトの大河を渡って彼岸へと至るべく丸裸の《霊質的存在》になる。わたくしはその一瞬の隙に、教皇聖下の魂の隙間に入り込み、守護者となるつもりです」
メリッサは淀みなく、はっきりとそう言った。
メリッサ――彼女の本当の名は、ジョゼットと言う。彼女の妹――アレクシアは、普通の信徒には見ることの叶わない《使徒》の姿を見ることができた。それは、教皇となるために必要な、唯一であり絶対の資質であった。不幸なことに、アルレシャ大陸にこの資質の持ち主は、彼女一人だけだった。
故郷の村に駐在していた司祭を通して、アレクシアの存在は教皇庁の知るところとなり、迎えがやって来た。
そして、教皇たるべき少女を俗世と切り離すために――
村は焼かれた。
奇跡的に逃げ延びたメリッサは妹を救い出す機会を、自ら聖職者になるという形で窺ってきた。だが、隠し続けてきた正体を教皇庁に悟られ、彼女はこうして追い詰められた。
人は死ぬ。死んだ人の魂は審判者の現身たるレサトの大河を通ってもう一つの世界へ渡り、新たな生を受ける。この流れに逆らうには、誰かに取り憑くしかない。こちらの世界に『メリッサ』としてとどまっていれば、まだ機会はあるはず。彼女はそんなわずかな光明にすがるより他なかった。
「無謀ですわね」
ナタリは呆れたようにため息をつく。
「教皇聖下も自死の口実にされては不本意でしょう」
いかに彼女の精神が強靭であったとしても、最期を迎える瞬間まで理性を保っていられる保証などどこにもない。生きたまま全身を焼かれる苦痛はメリッサの想像を絶するだろう。
「無謀であったとしても」
「まあ、お聞きなさいな」
ナタリはそっとメリッサの耳元に唇を寄せる。
「どの道あなたには《悪魔》のささやきに耳を傾けるより他に道はございませんでしょう?」
そう言われて、メリッサは観念したように目を閉じる。確かにもう彼女は詰んでいる。何か手があるのなら、《悪魔》にだって縋りたい気分だった。
「わたくしに何をさせようと?」
「雷矢さんに体を貸してもらいなさいな」
メリッサの答えに、ナタリは満足げに微笑んだ。
「雷矢さんに、ですか――?」
意外な名前だった。だが確かに、藤重爽悟の弟であり、同じく異世界からの《迷い子》である藤重雷矢には、死者の声を聴くかのような不思議な異能がある。
「ええ。死後の《魂の質量》の保持くらいはわたくしがいたしましょう。すでに雷矢さんと教皇聖下の面通しは済んでおりますから、事情を話せば体の一つや二つ、すぐに貸していただけるはずです。わたくしにできるのはそれくらいですわ。この世界では色々と制約があるものですから」
そこまで言ったところで、ナタリは突然、ふっと消えた。その理由をメリッサはすぐに理解した。こつ、こつ、こつ。石の床を靴が叩く音。看守がやって来た。しかし彼が持ってきたのは、いつもの硬いパンとかび臭い水ではなかった。
「シスター・メリッサ」
ランタンに照らし出された表情は無機質だが、どこか悲しげだった。彼はこうして何度も聖職者を火刑台に送り出してきたのだろう。
老いた看守は静かに宣告した。
「審問のお時間です」
「お待ちしておりました」
メリッサは立ち上がり、へらりと笑ってみせた。
* * *
メリッサは、数名の聖騎士とともに審問の間に通された。いや、引っ立てられたと言った方が適切だろうか。七夜もの間まともに動かさずにいた足はろくに動かない。半ば引きずられるようにして、メリッサは中央の檻に放り込まれた。ご丁寧に手枷を嵌めたままだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。
☆ほしい
ファンタジー
アークライト子爵家の四歳の末娘リリアは、家族から存在しないものとして扱われていた。食事は厨房の残飯、衣服は兄姉のお下がりを更に継ぎ接ぎしたもの。冷たい床で眠る日々の中、彼女は高熱を出したことをきっかけに前世の記憶を取り戻す。
前世の彼女は、ブラック企業で過労死した経理担当のOLだった。
ある日、父の書斎に忍び込んだリリアは、ずさんな管理の家計簿を発見する。前世の知識でそれを読み解くと、父による悪質な横領と、家の財産がすでに破綻寸前であることが判明した。
「この家は、もうすぐ潰れます」
家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。
手切れ金代わりの銅貨数枚を握りしめ、自由を手に入れたリリア。これからは誰にも縛られず、前世で夢見た美味しいものをたくさん食べる生活を目指す。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
