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5巻
5-2
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顔を上げる。審問の間には、裁かれる異端者を囲うように、陪審員の席が設けられていた。そこには八人の枢機卿が座っていた。そして正面、始祖ラーネイヤを描いたステンドグラスの目前には――
教皇コンスタンツェ三世が、静かにこちらを見下ろしていた。
そこには悲哀も憐憫もなく。ただ、無だけがある。
傀儡。
思うことを、感じる心を奪われた、無惨なヒトの、成れの果て。
メリッサは思わず祈りの常套句を口にしていた。
「あなたに審判者の祝福があらんことを」
数多の悲鳴を吸ってきたであろう壁が、虚しくメリッサの祈りも吸っていく。
「そなたはまず、その死の安らかであることを祈るべきであろう――チェレスティアノ」
コンスタンツェはメリッサの真意を図りかね、一瞬眉をひそめたが、あっさり疑念を切り捨て、隣に座す枢機卿、チェレスティアノに声をかける。
「なんなりと」
教皇に名を呼ばれた若き枢機卿、チェレスティアノはゆるく笑みをつくる。
「審問はそなたに任せよう」
コンスタンツェは視線だけを向け、そう命じた。
「心得ました。――係官!」
チェレスティアノは微笑みを浮かべたまま一礼すると、眼下に控える係官に厳しい声を投げかける。係官は素早く火のついた松明を手にする。これを今から、たっぷりと炭の載った火台にくべていくのだろう。
異端審問というのは、要するに拷問であり、とびきり残酷な処刑であった。色々な手法があったが、ここ最近用いられているのは主に火刑である。
異端の嫌疑をかけられた者を鉄の檻に閉じ込め、燃料をたっぷり載せた火台で囲む。陪審員の代表と異端者の間で質疑応答が行われる。問いが一つ行われるごとに、火が一つくべられる。火と煙に巻かれて異端者が死んだら、それは普通の異端者、全ての問いが終わってもなお生き残っていたら《悪魔》憑きの異端者。そう認定される。
これほど理不尽な法廷というのもそうそうないだろう。枢機卿の中に苦い顔をしている者がいるのも、なんら不思議なことではない。
「ではシスター・メリッサ。異端審問を始めましょう」
「はい」
メリッサは静かに頷いた。唾を呑み込もうとして、できなかった。口の中がからからだった。これから身の上に起こることを、理解し、覚悟していたつもりでも、自分は想像していた以上に恐れていたらしい。
「あなたは、審判者の存在を信じますか」
「はい」
「あなたは、始祖ラーネイヤを尊い存在と感じますか」
「はい」
「あなたは、レサトの大河の向こう側にある、もう一つの世界を信じますか」
「はい」
「《迷い子》は教会の手によって丁重に保護されるべきと思いますか」
ボッ。四つ目の火がくべられる。暑い。メリッサの顎の先から汗が滴った。
「そうは思いません。《迷い子》の来訪は、審判者の尊い思し召し。その在り様は、彼らの意思に委ねられるべきです。王都アル=ナスルを襲った三度にわたる危難、エルフの里の異変、エルナト北西部へのドラゴンの襲撃――いずれも、あなたがたの魔手を逃れた《迷い子》の手によって解決されたもの。これらの事実を踏まえた上でなお、《迷い子》に対して保護という名目の拉致監禁を行おうというおつもりなのであれば、異端者はあなたたちの方でしょう」
きっぱりと言い切ったメリッサに、枢機卿たちが息を呑む。
別に口を噤んだところで罪が減じられるわけではない。言ったもの勝ちだろう。
「ははは、それを言われると辛いところですな」
だがチェレスティアノは、メリッサの言葉を笑って受け流した。
「しかしながら、法術、政治、経済――教会の権威はあまりに大きすぎますのでね。もしそれが崩れるようなことがあれば、アルレシャ大陸全土の情勢にどんな影響が出るか」
チェレスティアノは首を竦め、両の手の平を上に向けた。
「想像するだに恐ろしい。我々としても心苦しいところですが、現実と折り合いをつけねば、ね」
子供に言い聞かせるような口調だった。一つの国で起きた多少の変事を持ち出されたところで、広いアルレシャの大地においては些事にすぎない――ということなのだろう。
「次の問いに移りましょう、シスター・メリッサ」
火が、新たにくべられる。灰色の煙が徐々に檻のあたりまで満ちてきた。
「あなたは、ご自身が教皇聖下の実姉であると吹聴しておられたと。そのような情報が我々の耳に入っておりますが、これは事実ですか?」
チェレスティアノのこの問いこそが核心であった。
傀儡とはいえ、アルレシャ大陸においてもっとも大きな権力を持つ教皇に血縁がいる。枢機卿たちは、彼らが教会の内部政治に干渉することを大いに恐れた。だからこそ、コンスタンツェを俗世から完全に切り離すべく、彼女の故郷を焼き払い、そこに住まう人々を根絶やしにした。
メリッサの存在を知ったとき、しかも彼女が聖職者であると知ったとき、枢機卿たちは震えあがったことだろう。彼らはこう思ったはずだ。復讐の芽を潰さねば。教皇の姉を殺さねば。今度は自分が殺される。
立ちのぼる熱い煙に巻かれながら、メリッサは嗤った。
「吹聴? ごほっ、わたくしが? それがあなたがたのお耳に入ったと?」
煙が気管を焼き、メリッサは激しくせき込む。
「ふふふ、ごほっ、これはこれは! 語るに落ちるとは、ごほっ、このことではありませんか!」
それでも若い女司祭は、ふてぶてしく胸を張った。
「確かにわたくしには、ごほっ、教皇聖下と同じ年頃の妹がおります。それがどこの誰なのかも、マザー・クレアに一度告白いたしました。っ、ごほっ、ですがそのことは、そのマザー・クレアに口外を禁じられているのです。ひゅっ、ええ、言えるはずがありません! あちらにおわす教皇聖下が、わたくしの妹だなんて!」
メリッサは両手を伸ばして、コンスタンツェを、無表情に自分を見下ろす教皇の顔を仰ぎ見た。
「仮に血の繋がりがあったとしても! ごほっ、教皇聖下はもはや俗世と無縁の尊きお方! そのお方を妹だなんて吹聴してまわる、そんな恐ろしいことがどうしてできましょう!」
メリッサとコンスタンツェ。
ジョゼットとアレクシア。
互いに名を偽った姉妹は、その真意を語ることなく、まっすぐに視線をかわす。
しばしのち。
メリッサはそっと目を伏せたかと思えばすぐにあげ、ぐるりと枢機卿たちの顔へと視線を巡らせた。
「それよりも! 枢機卿のお歴々、あなた方はどうして、わたくしとマザー・クレアしか知らぬはずのことを知っておられるのでしょう?」
「ひ、火だ! 火をくべろ! その女をそれ以上喋らせるな!」
唖然と見守っていた枢機卿の一人が、慌てて係官に指示をくだす。これ以上余計なことを話されて、教皇に心変わりなどされては困る。
係官が一斉に松明をくべる。
「あっ」
メリッサは目を見開いた。
「火っ、火が」
炎が、大きく燃え上がり、踊るように爆ぜた火の手は。
「あああああああああっ!」
メリッサのまとっていた襤褸布に移り、彼女の身を焦がしはじめる。
それでもなお。
「ええっ! ええっ! 知っていて当然でしょうとも!」
彼女は語るのをやめない。いや、死を目前にしたればこその狂気が、彼女をそうさせているのだろう。
「ああっ! 教皇聖下とわたくしの故郷の村を焼き払ったのは、他ならぬあなた方の手になるもの! ああ! されどあた、わたく、あたしが生きていた! 土の下でとうに骨になっているはずの小娘が! ごほっ! それを知ったとき、あなたがたの恐怖がいかほどであったか! ひゅっ、想像するに心が痛みます! ざまあみやがれっ! あは、あははっ、あははは!」
熱傷の痛みに身を捩らせながら、メリッサは腹を抱えて笑った。狂気と正気の狭間で、空気を求める淡水魚のように、彼女は言葉を発し続ける。
「わたくしは、異端者として生きたまま灰になるんでしょうね! ああっ、熱い、痛いっ、苦しい! ねえ! なんでよ! なんで誰も助けてくれないの!? くそっ、なんであたしが! 俗世の権力に溺れた薄汚い保守派のブタどもめ! ごほっ! ごほっ! ぜえ、お前たちの魂は死後レサトの大河を渡ることなく、ひゅう、審判者の業火に焼かれることになるわ!」
彼女の言葉にはもはや脈絡などなかった。それでも彼女は、わずかに残された理性を振り絞って妹に語りかける。伝えるべきことを伝えるために。
「ご覧なさい、教皇聖下! そして、ふう、知りなさい! うう、熱い、あなたはあまりにも無垢だわ! わたくしは、ひゅう、一人の聖職者として、ぐう、姉として、ごほっ、あなたの過ちを正さねばなりません!」
ぎり、と歯を食いしばり、メリッサはコンスタンツェを睨みつける。
「あなたは知らねばならない!」
メリッサが吠えると、それに応じるかのように、炎がより強く燃え盛る。
「ああっ! なんでっ! どうしてあたしが! あんたたちがのうのうと、ごほっ、ぬくぬくと暮らしているのに! あたしたちばかりがっ、ごほっ、ごほっ、こんな目にっ、ごほっ、ひゅう、こんな目に遭わなければならないの!」
メリッサはどうにか逃れようと、枷を嵌められた手で鉄の檻を握る。だが、檻は熱く焼けていて、じゅう、と彼女の手の平を焼いた。
「あああああああっ!」
メリッサは悲鳴を上げた。
「呪ってやる! この身が灰になっても、ひゅう、魂が星に還っても、たとえ、ひゅう、審判者が、ひゅう、アルティスが、あたしを諌めてもっ!」
それでも彼女は檻を掴み、揺さぶるのをやめなかった。この炎の中に、やつらも引きずり込んでやる。怒りと憎しみが、彼女を突き動かしていた。
「おまえたちが地獄の業火に、ぜえ、焼かれて、許しを乞うても、ひゅう、あたしは絶対に、お前たちを、ひゅう、絶対に赦さない!」
ガタン。一人の枢機卿が、腰を抜かして椅子から滑り落ちた。
彼らは、他の異端者の死に立ち会ったことがないのだろうか。まさか今さら、メリッサごときの振る舞いを恐れているとでもいうのだろうか。とんだお笑い草だ。
それでも。この光景を前にしてなお、コンスタンツェの表情は動かなかった。
「見なさい!」
メリッサはすっかりしわがれた声を張り上げる。
「はあ……はあ、見なさい。この焼けただれた皮膚を」
メリッサは炎に巻かれながら、焼けただれた醜い手の平を教皇に向けてかざす。
「ぜえ、感じなさい、髪の焦げるにおいを。ひゅう、聴きなさい、今わの際の醜悪な喚きを!」
これを見てもなお、コンスタンツェが物言わぬ人形であり続けられるというのなら、それもまた一つの強さだろう。妹がその道を選ぶのなら、メリッサがあえて何か言うこともあるまい。
「これが、ひゅう、現実よ! あなたの、ぜえ、あたしたちの、はあ、教会の《罪》よ!」
メリッサは胸を張り、背筋を伸ばし、まっすぐに妹の目を見て言った。
「人が死ぬっていうのはねえ! こんなにむごいことなのよ!」
* * *
――ここはどこだろう。あれからどれくらい経ったのだろう。あの忌まわしい炎は? 妹は?
いや、そうだ。自分は死んだのだ。炎に焼かれ、煙に巻かれ、苦しみ悶えながら死んだのだ。
死はすべての終わりではない。彼女はそう教わってきた。
(嘘だ)
こんな気持ちで虚無をたゆたっている。
これが終わりでなくて、なんだというのか。
「そんな凪いだ気持ちであなた、このまま『向こう側』へ行ってしまうつもり?」
メリッサにかけられたその声は、どこからだろうか。遠くから? 近くから? 上から? 下から? 分からない。もはやどうでもよかった。
「まだやり残したことがあるんじゃないかしら」
「あなたは――」
メリッサはもう存在しないはずの目を開ける。
長い黒髪。優しげな眼差し。
会ったことがないはずなのに、どこかで見覚えのある――
「始祖、ラーネイヤ、様?」
「あなたがそう思うのなら、そうなんでしょうね」
女性はそう言うと、優しく微笑んだ。
「わたしは全にして一、一にして全なる存在、世界そのもの。それは全てを内包し、ヒトの認識し得る外にある。だからあなたたちにとってもっとも『それらしい』姿をとって現れるだけ――ううん、前にもこんな話をした覚えがあるわね――まあ別のわたしが、違う誰かに違うどこかでそういう話をしたんでしょう。どうでもいいことね」
「では、あなたは――審判者、アルティスなのですか……」
「あなたたちはそう呼んでるわね。でも審判者という属性もわたしの一つの側面に過ぎないわ。それより、チェレスティアノがずいぶんと迷惑をかけているみたいね」
「あの男をご存じなのですか?」
「ご存じも何も、愛弟子だもの。わたしの十二人の弟子。最後の弟子。アルティス聖教会の基盤を作った男。あなたには理解しにくいかもしれないけれど、わたしが生きていた頃、人の《魂の質量》は今よりずっと強かったの。それこそ死したのち、神になり得る程度にはね」
「人が、神に――」
「ええ。あの頃はさして珍しいことでもなかった。言ってみれば、今はナタリと名乗っているのだったかしら? あの娼婦もわたしと同じ時代を生きた人だからね。でも結局あの子は永すぎる時の中で、堕落していく人々の姿に狂ってしまった。昔からすぐ調子づく子だったけれど、まさかあんな風に育つとはねえ。長生きなんてするもんじゃないわ」
「あの――ラーネイヤ様。なぜ、わたくしの前に?」
「さあ、知らないわ。そもそもわたしって本当に存在してるの? あなたの見ている幻とかじゃなくて?」
「そ、そんなことを言われましても――」
「考えてもしかたのないことなのよ。大事なのはわたしが今ここにいて、あなたに語りかけているという、この事実だけ。分かった?」
「は、はい」
「あなたはあの子の《傲慢》を見習うべきね。あの子は少し増長しすぎた。確かに人類の滅亡はわたしの望むところ……ああ、誤解しないでね? ラーネイヤの望みではないわよ?」
「世界の意思ではあれど、始祖ラーネイヤ個人の意思ではないということですか?」
「そういうことね。まあ、始祖ラーネイヤ――わたしは本来、とうに存在しない人物だから、そんなものそもそもあり得ないんだけど。あなたが考える始祖ラーネイヤは人類の滅亡など望まない、という表現が適切かしら」
「そういうものですか」
「そういうものよ。とにかくわたしはあの子を『代行者』にした覚えなんてないわ。あれはそう思い込んでいるようだけど――《傲慢》の《傲慢》たる所以よね。それにわたし――世界の意思も、人類の滅亡は『やむを得ない』と考えているのであって、必ずしも本意ではない。救えるものなら救いたいと考えてはいるのよ?」
「あの。先ほどから、話が見えないのですが――」
「ふふふ、大丈夫、すべてを教えてあげるわ、シスター・メリッサ。いいえ、ジョゼット。あなたに審判者の祝福があらんことを――」
* * *
それからメリッサの意識は、膨大な情報の奔流に呑み込まれていった。
始祖ラーネイヤの、アルティスの意思が、《魂の質量》が流れ込んでくる。
法術の恩恵を得るべく生み出された洗礼の儀。
《使徒》を得る度に分かたれる魂。
その都度薄れていく《魂の質量》。
巡る魂は軽くなり、世界は淀みはじめる。
“あちら側”の世界では人が溢れ、神秘の力が失われた。
灰色の街並み。何かに急き立てられるかのように、足早に歩く人々。
世界は病み、崩れ、緩やかに、しかし確実に滅びへと向かっていく。
世界に生きる生命は、なにも人類だけではない。
だから世界は、その意思を決定した。秤にかけて選んだ。
滅ぶべきは人類だと。
第二章 ギャウサルの戦い
エルナト王国北西部、ギャウサル山の近辺は、端的に『ギャウサル地方』もしくは『ギャウサル平原』と呼ばれている。これは『竜』に関連する言葉であったとされるが、本来の語源は定かではない。
そのギャウサルに、エルナト王国軍はここしばらく駐屯していた。元々の目的は、付近に出没するドラゴンの撃退であったが、藤重爽悟によりそれがなされた今、撤収しないのは今後予想される教会からの襲撃に備えてである。
アルティス聖教会の権限は共通貨幣の生産、洗礼名簿の管理など、法術の教授以外にも多岐に及ぶが、教皇の直轄領は飛び地が点在する程度で驚くほど少ない。トゥレイス教皇庁は四方を山に隔離された場所にあり、そこから他国に進入する経路はごく限られている。
エルナト王国に関して言えば、必ずギャウサルを経由する必要があった。
加えて、ドラゴンの出現により空白地帯となったギャウサルには、教会の嫌悪するジプシャンを居住させると内々に決まっており、先日それが公表されている。
教皇庁にお伺いを立てず、女であるヴィクトリアが王位を継承したエルナト王国に反感を覚えていたアルティス聖教会が、これを黙って見ているはずもない。
王家と懇意にしていたメリッサを異端の嫌疑で引っ立てたくらいなのだ。難癖をつけて攻め入ってくるくらいのことはするだろう。それに備えておく必要はあった。
ただ一方で、教会の勢力は修道院をはじめ王国の各地に存在するし、粛清済みとはいえヴィクトリア政権に対する不満分子もいまだ存在する。彼らが教皇庁の動きに呼応しないはずがない。その動きへの対応を考えれば、各領地の貴族に派兵を命じることなどできないし、王国軍も戦力の全てを動員することはできなかった。
集めることができた戦力は、歩兵隊が千。騎兵隊が五百。弓兵隊が三百。これに移住予定だったジプシャン、現地に暮らしていたドワーフの有志をあわせて、どうにか二千に届くか、といったところだ。
教会の擁する軍事組織、聖騎士団はそれ以上の兵力を用意してくるはずだ。苦しい戦いを強いられることは間違いない。指揮官である第一王子アルバートは、部隊の首脳陣を自分の天幕に集め、軍議を開いていた。
集まったのは歩兵隊長ゴードン、弓兵隊長ウィリアム、騎兵隊長クインシー、ジプシャンの若き呪い師ユリアン、聖騎士として唯一王国に味方しているアンリエッタ、アルバートの侍女役として傍らに控えているミリー。最後に――
「ギチギチギチッ」
名前もよく分からないし、襤褸布で体を覆っているため外見もよく分からないが、とりあえずドワーフで、彼らの代表者らしいということだけははっきりしている。意思の疎通は困難を極めたが、彼らも教会の侵攻に危機感を覚えているらしく、王国軍に協力したい、らしい。ミリーの“翻訳”によるとそういうことのようだ。根拠はない。
そんなドワーフが時々妙な鳴き声をあげる以外には、今この軍議の場は静寂に満ちていた。というのも、呪い師ユリアンがじっと目を閉じて瞑想しているからだ。
彼は今、物見の術によって聖騎士団の様子を探っている。長距離・広範囲の物見の術は、相応の集中力を要する。本来ならもっと落ち着いた場所で香でも焚いて行うべきものだが、今はいつ火急の事態に陥るか分からない状況だ。
そのユリアンがゆっくりと目を開けた。
「聖騎士団、こちらに進軍しています。数、ううん、ざっと五千ってとこっすかね。敵の先鋒は――あれはホーマー聖騎士長だ」
「総大将は?」
ユリアンの告げた結果に、アルバートが問いを重ねる。ユリアンは返答に窮して腕を組んで首を捻った。見たものを伝えることはできても、彼には軍学の知識がないし、密偵をやっていたとはいえ教会の内情にそこまで通じているわけでもない。
「ううん、俺っちにはよく区別がつかねえんすけど、やたら立派なローブを着たおっさんがいたからそいつじゃねっすかね。四十絡みのおっさんでしたよ。かなり高位の聖職者だと思うんすけどね」
ユリアンは分からないなりに、自分の見た詳細を説明した。その内容を聞いたアンリエッタには思い当たる相手がいたようで、思わず声をあげる。
「――チェレスティアノ枢機卿か! あの男っ、メリッサを異端審問にかけただけでは飽き足らず、エルナトまで踏み荒らす気なのか!」
椅子を蹴って立ち上がり、怒りをあらわにした彼女を、ゴードンが宥める。
「まあまあ、落ち着きなさいな、アンリエッタ卿。美人が台無しよ」
教皇コンスタンツェ三世が、静かにこちらを見下ろしていた。
そこには悲哀も憐憫もなく。ただ、無だけがある。
傀儡。
思うことを、感じる心を奪われた、無惨なヒトの、成れの果て。
メリッサは思わず祈りの常套句を口にしていた。
「あなたに審判者の祝福があらんことを」
数多の悲鳴を吸ってきたであろう壁が、虚しくメリッサの祈りも吸っていく。
「そなたはまず、その死の安らかであることを祈るべきであろう――チェレスティアノ」
コンスタンツェはメリッサの真意を図りかね、一瞬眉をひそめたが、あっさり疑念を切り捨て、隣に座す枢機卿、チェレスティアノに声をかける。
「なんなりと」
教皇に名を呼ばれた若き枢機卿、チェレスティアノはゆるく笑みをつくる。
「審問はそなたに任せよう」
コンスタンツェは視線だけを向け、そう命じた。
「心得ました。――係官!」
チェレスティアノは微笑みを浮かべたまま一礼すると、眼下に控える係官に厳しい声を投げかける。係官は素早く火のついた松明を手にする。これを今から、たっぷりと炭の載った火台にくべていくのだろう。
異端審問というのは、要するに拷問であり、とびきり残酷な処刑であった。色々な手法があったが、ここ最近用いられているのは主に火刑である。
異端の嫌疑をかけられた者を鉄の檻に閉じ込め、燃料をたっぷり載せた火台で囲む。陪審員の代表と異端者の間で質疑応答が行われる。問いが一つ行われるごとに、火が一つくべられる。火と煙に巻かれて異端者が死んだら、それは普通の異端者、全ての問いが終わってもなお生き残っていたら《悪魔》憑きの異端者。そう認定される。
これほど理不尽な法廷というのもそうそうないだろう。枢機卿の中に苦い顔をしている者がいるのも、なんら不思議なことではない。
「ではシスター・メリッサ。異端審問を始めましょう」
「はい」
メリッサは静かに頷いた。唾を呑み込もうとして、できなかった。口の中がからからだった。これから身の上に起こることを、理解し、覚悟していたつもりでも、自分は想像していた以上に恐れていたらしい。
「あなたは、審判者の存在を信じますか」
「はい」
「あなたは、始祖ラーネイヤを尊い存在と感じますか」
「はい」
「あなたは、レサトの大河の向こう側にある、もう一つの世界を信じますか」
「はい」
「《迷い子》は教会の手によって丁重に保護されるべきと思いますか」
ボッ。四つ目の火がくべられる。暑い。メリッサの顎の先から汗が滴った。
「そうは思いません。《迷い子》の来訪は、審判者の尊い思し召し。その在り様は、彼らの意思に委ねられるべきです。王都アル=ナスルを襲った三度にわたる危難、エルフの里の異変、エルナト北西部へのドラゴンの襲撃――いずれも、あなたがたの魔手を逃れた《迷い子》の手によって解決されたもの。これらの事実を踏まえた上でなお、《迷い子》に対して保護という名目の拉致監禁を行おうというおつもりなのであれば、異端者はあなたたちの方でしょう」
きっぱりと言い切ったメリッサに、枢機卿たちが息を呑む。
別に口を噤んだところで罪が減じられるわけではない。言ったもの勝ちだろう。
「ははは、それを言われると辛いところですな」
だがチェレスティアノは、メリッサの言葉を笑って受け流した。
「しかしながら、法術、政治、経済――教会の権威はあまりに大きすぎますのでね。もしそれが崩れるようなことがあれば、アルレシャ大陸全土の情勢にどんな影響が出るか」
チェレスティアノは首を竦め、両の手の平を上に向けた。
「想像するだに恐ろしい。我々としても心苦しいところですが、現実と折り合いをつけねば、ね」
子供に言い聞かせるような口調だった。一つの国で起きた多少の変事を持ち出されたところで、広いアルレシャの大地においては些事にすぎない――ということなのだろう。
「次の問いに移りましょう、シスター・メリッサ」
火が、新たにくべられる。灰色の煙が徐々に檻のあたりまで満ちてきた。
「あなたは、ご自身が教皇聖下の実姉であると吹聴しておられたと。そのような情報が我々の耳に入っておりますが、これは事実ですか?」
チェレスティアノのこの問いこそが核心であった。
傀儡とはいえ、アルレシャ大陸においてもっとも大きな権力を持つ教皇に血縁がいる。枢機卿たちは、彼らが教会の内部政治に干渉することを大いに恐れた。だからこそ、コンスタンツェを俗世から完全に切り離すべく、彼女の故郷を焼き払い、そこに住まう人々を根絶やしにした。
メリッサの存在を知ったとき、しかも彼女が聖職者であると知ったとき、枢機卿たちは震えあがったことだろう。彼らはこう思ったはずだ。復讐の芽を潰さねば。教皇の姉を殺さねば。今度は自分が殺される。
立ちのぼる熱い煙に巻かれながら、メリッサは嗤った。
「吹聴? ごほっ、わたくしが? それがあなたがたのお耳に入ったと?」
煙が気管を焼き、メリッサは激しくせき込む。
「ふふふ、ごほっ、これはこれは! 語るに落ちるとは、ごほっ、このことではありませんか!」
それでも若い女司祭は、ふてぶてしく胸を張った。
「確かにわたくしには、ごほっ、教皇聖下と同じ年頃の妹がおります。それがどこの誰なのかも、マザー・クレアに一度告白いたしました。っ、ごほっ、ですがそのことは、そのマザー・クレアに口外を禁じられているのです。ひゅっ、ええ、言えるはずがありません! あちらにおわす教皇聖下が、わたくしの妹だなんて!」
メリッサは両手を伸ばして、コンスタンツェを、無表情に自分を見下ろす教皇の顔を仰ぎ見た。
「仮に血の繋がりがあったとしても! ごほっ、教皇聖下はもはや俗世と無縁の尊きお方! そのお方を妹だなんて吹聴してまわる、そんな恐ろしいことがどうしてできましょう!」
メリッサとコンスタンツェ。
ジョゼットとアレクシア。
互いに名を偽った姉妹は、その真意を語ることなく、まっすぐに視線をかわす。
しばしのち。
メリッサはそっと目を伏せたかと思えばすぐにあげ、ぐるりと枢機卿たちの顔へと視線を巡らせた。
「それよりも! 枢機卿のお歴々、あなた方はどうして、わたくしとマザー・クレアしか知らぬはずのことを知っておられるのでしょう?」
「ひ、火だ! 火をくべろ! その女をそれ以上喋らせるな!」
唖然と見守っていた枢機卿の一人が、慌てて係官に指示をくだす。これ以上余計なことを話されて、教皇に心変わりなどされては困る。
係官が一斉に松明をくべる。
「あっ」
メリッサは目を見開いた。
「火っ、火が」
炎が、大きく燃え上がり、踊るように爆ぜた火の手は。
「あああああああああっ!」
メリッサのまとっていた襤褸布に移り、彼女の身を焦がしはじめる。
それでもなお。
「ええっ! ええっ! 知っていて当然でしょうとも!」
彼女は語るのをやめない。いや、死を目前にしたればこその狂気が、彼女をそうさせているのだろう。
「ああっ! 教皇聖下とわたくしの故郷の村を焼き払ったのは、他ならぬあなた方の手になるもの! ああ! されどあた、わたく、あたしが生きていた! 土の下でとうに骨になっているはずの小娘が! ごほっ! それを知ったとき、あなたがたの恐怖がいかほどであったか! ひゅっ、想像するに心が痛みます! ざまあみやがれっ! あは、あははっ、あははは!」
熱傷の痛みに身を捩らせながら、メリッサは腹を抱えて笑った。狂気と正気の狭間で、空気を求める淡水魚のように、彼女は言葉を発し続ける。
「わたくしは、異端者として生きたまま灰になるんでしょうね! ああっ、熱い、痛いっ、苦しい! ねえ! なんでよ! なんで誰も助けてくれないの!? くそっ、なんであたしが! 俗世の権力に溺れた薄汚い保守派のブタどもめ! ごほっ! ごほっ! ぜえ、お前たちの魂は死後レサトの大河を渡ることなく、ひゅう、審判者の業火に焼かれることになるわ!」
彼女の言葉にはもはや脈絡などなかった。それでも彼女は、わずかに残された理性を振り絞って妹に語りかける。伝えるべきことを伝えるために。
「ご覧なさい、教皇聖下! そして、ふう、知りなさい! うう、熱い、あなたはあまりにも無垢だわ! わたくしは、ひゅう、一人の聖職者として、ぐう、姉として、ごほっ、あなたの過ちを正さねばなりません!」
ぎり、と歯を食いしばり、メリッサはコンスタンツェを睨みつける。
「あなたは知らねばならない!」
メリッサが吠えると、それに応じるかのように、炎がより強く燃え盛る。
「ああっ! なんでっ! どうしてあたしが! あんたたちがのうのうと、ごほっ、ぬくぬくと暮らしているのに! あたしたちばかりがっ、ごほっ、ごほっ、こんな目にっ、ごほっ、ひゅう、こんな目に遭わなければならないの!」
メリッサはどうにか逃れようと、枷を嵌められた手で鉄の檻を握る。だが、檻は熱く焼けていて、じゅう、と彼女の手の平を焼いた。
「あああああああっ!」
メリッサは悲鳴を上げた。
「呪ってやる! この身が灰になっても、ひゅう、魂が星に還っても、たとえ、ひゅう、審判者が、ひゅう、アルティスが、あたしを諌めてもっ!」
それでも彼女は檻を掴み、揺さぶるのをやめなかった。この炎の中に、やつらも引きずり込んでやる。怒りと憎しみが、彼女を突き動かしていた。
「おまえたちが地獄の業火に、ぜえ、焼かれて、許しを乞うても、ひゅう、あたしは絶対に、お前たちを、ひゅう、絶対に赦さない!」
ガタン。一人の枢機卿が、腰を抜かして椅子から滑り落ちた。
彼らは、他の異端者の死に立ち会ったことがないのだろうか。まさか今さら、メリッサごときの振る舞いを恐れているとでもいうのだろうか。とんだお笑い草だ。
それでも。この光景を前にしてなお、コンスタンツェの表情は動かなかった。
「見なさい!」
メリッサはすっかりしわがれた声を張り上げる。
「はあ……はあ、見なさい。この焼けただれた皮膚を」
メリッサは炎に巻かれながら、焼けただれた醜い手の平を教皇に向けてかざす。
「ぜえ、感じなさい、髪の焦げるにおいを。ひゅう、聴きなさい、今わの際の醜悪な喚きを!」
これを見てもなお、コンスタンツェが物言わぬ人形であり続けられるというのなら、それもまた一つの強さだろう。妹がその道を選ぶのなら、メリッサがあえて何か言うこともあるまい。
「これが、ひゅう、現実よ! あなたの、ぜえ、あたしたちの、はあ、教会の《罪》よ!」
メリッサは胸を張り、背筋を伸ばし、まっすぐに妹の目を見て言った。
「人が死ぬっていうのはねえ! こんなにむごいことなのよ!」
* * *
――ここはどこだろう。あれからどれくらい経ったのだろう。あの忌まわしい炎は? 妹は?
いや、そうだ。自分は死んだのだ。炎に焼かれ、煙に巻かれ、苦しみ悶えながら死んだのだ。
死はすべての終わりではない。彼女はそう教わってきた。
(嘘だ)
こんな気持ちで虚無をたゆたっている。
これが終わりでなくて、なんだというのか。
「そんな凪いだ気持ちであなた、このまま『向こう側』へ行ってしまうつもり?」
メリッサにかけられたその声は、どこからだろうか。遠くから? 近くから? 上から? 下から? 分からない。もはやどうでもよかった。
「まだやり残したことがあるんじゃないかしら」
「あなたは――」
メリッサはもう存在しないはずの目を開ける。
長い黒髪。優しげな眼差し。
会ったことがないはずなのに、どこかで見覚えのある――
「始祖、ラーネイヤ、様?」
「あなたがそう思うのなら、そうなんでしょうね」
女性はそう言うと、優しく微笑んだ。
「わたしは全にして一、一にして全なる存在、世界そのもの。それは全てを内包し、ヒトの認識し得る外にある。だからあなたたちにとってもっとも『それらしい』姿をとって現れるだけ――ううん、前にもこんな話をした覚えがあるわね――まあ別のわたしが、違う誰かに違うどこかでそういう話をしたんでしょう。どうでもいいことね」
「では、あなたは――審判者、アルティスなのですか……」
「あなたたちはそう呼んでるわね。でも審判者という属性もわたしの一つの側面に過ぎないわ。それより、チェレスティアノがずいぶんと迷惑をかけているみたいね」
「あの男をご存じなのですか?」
「ご存じも何も、愛弟子だもの。わたしの十二人の弟子。最後の弟子。アルティス聖教会の基盤を作った男。あなたには理解しにくいかもしれないけれど、わたしが生きていた頃、人の《魂の質量》は今よりずっと強かったの。それこそ死したのち、神になり得る程度にはね」
「人が、神に――」
「ええ。あの頃はさして珍しいことでもなかった。言ってみれば、今はナタリと名乗っているのだったかしら? あの娼婦もわたしと同じ時代を生きた人だからね。でも結局あの子は永すぎる時の中で、堕落していく人々の姿に狂ってしまった。昔からすぐ調子づく子だったけれど、まさかあんな風に育つとはねえ。長生きなんてするもんじゃないわ」
「あの――ラーネイヤ様。なぜ、わたくしの前に?」
「さあ、知らないわ。そもそもわたしって本当に存在してるの? あなたの見ている幻とかじゃなくて?」
「そ、そんなことを言われましても――」
「考えてもしかたのないことなのよ。大事なのはわたしが今ここにいて、あなたに語りかけているという、この事実だけ。分かった?」
「は、はい」
「あなたはあの子の《傲慢》を見習うべきね。あの子は少し増長しすぎた。確かに人類の滅亡はわたしの望むところ……ああ、誤解しないでね? ラーネイヤの望みではないわよ?」
「世界の意思ではあれど、始祖ラーネイヤ個人の意思ではないということですか?」
「そういうことね。まあ、始祖ラーネイヤ――わたしは本来、とうに存在しない人物だから、そんなものそもそもあり得ないんだけど。あなたが考える始祖ラーネイヤは人類の滅亡など望まない、という表現が適切かしら」
「そういうものですか」
「そういうものよ。とにかくわたしはあの子を『代行者』にした覚えなんてないわ。あれはそう思い込んでいるようだけど――《傲慢》の《傲慢》たる所以よね。それにわたし――世界の意思も、人類の滅亡は『やむを得ない』と考えているのであって、必ずしも本意ではない。救えるものなら救いたいと考えてはいるのよ?」
「あの。先ほどから、話が見えないのですが――」
「ふふふ、大丈夫、すべてを教えてあげるわ、シスター・メリッサ。いいえ、ジョゼット。あなたに審判者の祝福があらんことを――」
* * *
それからメリッサの意識は、膨大な情報の奔流に呑み込まれていった。
始祖ラーネイヤの、アルティスの意思が、《魂の質量》が流れ込んでくる。
法術の恩恵を得るべく生み出された洗礼の儀。
《使徒》を得る度に分かたれる魂。
その都度薄れていく《魂の質量》。
巡る魂は軽くなり、世界は淀みはじめる。
“あちら側”の世界では人が溢れ、神秘の力が失われた。
灰色の街並み。何かに急き立てられるかのように、足早に歩く人々。
世界は病み、崩れ、緩やかに、しかし確実に滅びへと向かっていく。
世界に生きる生命は、なにも人類だけではない。
だから世界は、その意思を決定した。秤にかけて選んだ。
滅ぶべきは人類だと。
第二章 ギャウサルの戦い
エルナト王国北西部、ギャウサル山の近辺は、端的に『ギャウサル地方』もしくは『ギャウサル平原』と呼ばれている。これは『竜』に関連する言葉であったとされるが、本来の語源は定かではない。
そのギャウサルに、エルナト王国軍はここしばらく駐屯していた。元々の目的は、付近に出没するドラゴンの撃退であったが、藤重爽悟によりそれがなされた今、撤収しないのは今後予想される教会からの襲撃に備えてである。
アルティス聖教会の権限は共通貨幣の生産、洗礼名簿の管理など、法術の教授以外にも多岐に及ぶが、教皇の直轄領は飛び地が点在する程度で驚くほど少ない。トゥレイス教皇庁は四方を山に隔離された場所にあり、そこから他国に進入する経路はごく限られている。
エルナト王国に関して言えば、必ずギャウサルを経由する必要があった。
加えて、ドラゴンの出現により空白地帯となったギャウサルには、教会の嫌悪するジプシャンを居住させると内々に決まっており、先日それが公表されている。
教皇庁にお伺いを立てず、女であるヴィクトリアが王位を継承したエルナト王国に反感を覚えていたアルティス聖教会が、これを黙って見ているはずもない。
王家と懇意にしていたメリッサを異端の嫌疑で引っ立てたくらいなのだ。難癖をつけて攻め入ってくるくらいのことはするだろう。それに備えておく必要はあった。
ただ一方で、教会の勢力は修道院をはじめ王国の各地に存在するし、粛清済みとはいえヴィクトリア政権に対する不満分子もいまだ存在する。彼らが教皇庁の動きに呼応しないはずがない。その動きへの対応を考えれば、各領地の貴族に派兵を命じることなどできないし、王国軍も戦力の全てを動員することはできなかった。
集めることができた戦力は、歩兵隊が千。騎兵隊が五百。弓兵隊が三百。これに移住予定だったジプシャン、現地に暮らしていたドワーフの有志をあわせて、どうにか二千に届くか、といったところだ。
教会の擁する軍事組織、聖騎士団はそれ以上の兵力を用意してくるはずだ。苦しい戦いを強いられることは間違いない。指揮官である第一王子アルバートは、部隊の首脳陣を自分の天幕に集め、軍議を開いていた。
集まったのは歩兵隊長ゴードン、弓兵隊長ウィリアム、騎兵隊長クインシー、ジプシャンの若き呪い師ユリアン、聖騎士として唯一王国に味方しているアンリエッタ、アルバートの侍女役として傍らに控えているミリー。最後に――
「ギチギチギチッ」
名前もよく分からないし、襤褸布で体を覆っているため外見もよく分からないが、とりあえずドワーフで、彼らの代表者らしいということだけははっきりしている。意思の疎通は困難を極めたが、彼らも教会の侵攻に危機感を覚えているらしく、王国軍に協力したい、らしい。ミリーの“翻訳”によるとそういうことのようだ。根拠はない。
そんなドワーフが時々妙な鳴き声をあげる以外には、今この軍議の場は静寂に満ちていた。というのも、呪い師ユリアンがじっと目を閉じて瞑想しているからだ。
彼は今、物見の術によって聖騎士団の様子を探っている。長距離・広範囲の物見の術は、相応の集中力を要する。本来ならもっと落ち着いた場所で香でも焚いて行うべきものだが、今はいつ火急の事態に陥るか分からない状況だ。
そのユリアンがゆっくりと目を開けた。
「聖騎士団、こちらに進軍しています。数、ううん、ざっと五千ってとこっすかね。敵の先鋒は――あれはホーマー聖騎士長だ」
「総大将は?」
ユリアンの告げた結果に、アルバートが問いを重ねる。ユリアンは返答に窮して腕を組んで首を捻った。見たものを伝えることはできても、彼には軍学の知識がないし、密偵をやっていたとはいえ教会の内情にそこまで通じているわけでもない。
「ううん、俺っちにはよく区別がつかねえんすけど、やたら立派なローブを着たおっさんがいたからそいつじゃねっすかね。四十絡みのおっさんでしたよ。かなり高位の聖職者だと思うんすけどね」
ユリアンは分からないなりに、自分の見た詳細を説明した。その内容を聞いたアンリエッタには思い当たる相手がいたようで、思わず声をあげる。
「――チェレスティアノ枢機卿か! あの男っ、メリッサを異端審問にかけただけでは飽き足らず、エルナトまで踏み荒らす気なのか!」
椅子を蹴って立ち上がり、怒りをあらわにした彼女を、ゴードンが宥める。
「まあまあ、落ち着きなさいな、アンリエッタ卿。美人が台無しよ」
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