4 / 5
序章
【4】雨の夜 1
しおりを挟む
四月に入った。新年度の新体制に慣れるまで、色々込み入る仕事が多く、忙しい日をすごしてるうちに、桜が散り始めていた。
その日は花冷えだとテレビのニュースのお天気アナウンサーが言っていたので、夏乃はスプリングコートの下にカーディガンを1枚着込んで出勤した。
仕事が終わって病院を出たのは、9時を回っていて、夕方から降り続いていた雨の中、駐車場を傘を差して家路についた。
マンションに入る頃には足元のパンプスと、パンストの足はビショビショに濡れて冷たかった。ぶるっと震えながら、早くお風呂に入ろう、とエレベーターから降りた。
部屋の前が見えてくると、夏乃は立ち止まった。部屋の前にうずくまるようにして座っている人影が見えたのだ。
傘の先からぽたりと垂れた雫が足の甲に当たって、ハッと身じろぐと、その動きに、その人物はこちらを見た。
「尊…」
「…夏姉、おかえり」
弱く笑った尊は同じく雨に濡れたのか、髪が濡れていたが、薄手の黒いパーカーや、トレーニング用のスパッツは乾いている。随分ここにいた証拠だ。
「髪、濡れてるじゃない!傘もってなかったの?」
「ランニングに出てたの。ちょっとこっちまで遠回りしたら、急に降るんだもん」
つい医者の癖で、座ったままの尊の頬に触れると、無精髭がチクリとした。その手を逆に上から握られて、ドキッとした。
「ちょ…手、冷たいじゃない!入って、シャワーした方がいいよ」
立ち上がって、部屋の鍵を開けようと手を離しかけた時、その手をぎゅっと尊が握った。
驚いて尊を見下ろす。
見上げてくる、尊の目が熱っぽくて、思わずたじろいだ。
「……なんか、あった?」
ようやく絞り出した言葉は掠れている。
「無かったら来ちゃダメなの?」
尊はふっと笑った。夏乃はその力のない笑顔にドキッとした。こんな顔する子だっただろうか。
「ダメじゃないよ。とにかく寒いから中、入ろう?ね?」
戸惑う気持ちを振り切って、尊を引っ張って立たせると、その勢いでバタバタと鍵を開けて、変に暴れかけている胸の鼓動を気にしないようにし、部屋に入る。
スリッパを出してやって、エアコンを付け、浴室のお湯が出るようにボタンを押す。
とりあえず髪を拭かせる為にタオルを尊に渡すと、大きめの自分のスウェット、前に付き合っていた人の買い置きにしていた新品のボクサーパンツを一瞬だけ迷って、引き出しの奥から引っ張り出す。一通りを浴室の前に置いた。
「先にシャワーしてきなさい」
「夏姉も手冷たいじゃん」
「あんたは昔から風邪ひきやすいから、私はとりあえず着替えするから、先に入って?湯船溜まったらちゃんと温まってね」
尊の背中を押して強引に脱衣所に押し込む。自分は湯を沸かしながら寝室で温かい部屋着に着替え、濡れたものをカゴに入れる。
尊が出てきた時のために、作り置きのスープを温めながら自分にはコーヒーを入れた。
冷蔵庫を開けて、冷凍うどんと切った油揚げを取り出して、出汁と一緒に鍋にかけて、卵を落とすともう一度蓋をしてしばらく加熱する。
「夏姉、ありがと、風呂お先」
やはり、袖も、ズボンの股下も足りてない、ちょっと情けない格好の尊がタオルで髪を拭きながら出てきた。
ちょっと痩せたのか、この前会った時より顎のラインがスッキリした気がする。
「お腹すいてるでしょ?おうどん食べて?」
切ったネギを散らすと、レンゲと一緒に出してやる。スープは野菜たっぷりなので、汁物がふたつになるが、健康のために食べてもらうつもりだ。
この間会った時は、貧血気味なのでは?と感じる程度に顔色が良くなかった。気になっていたのだ。一度うちに呼んでしっかり食べさせよう、そう思いつつ、日々をバタバタしてるうちに声をかけ損ねて今に至る。
「ありがとう、腹減ってた」
「じゃ、私もお風呂入ってくるね、ゆっくりしてて」
脱衣所の引き戸を開けようと手をかけたところで呼ばれた。
「なあ」
「うん?」
「なんで男物のパンツがあんの?」
一瞬固まる。真っ直ぐ自分にあてられた視線から、ゆっくりと目を逸らした。
「…前に付き合ってた人の」
「…ふーん」
それ以上何も言わずに、夏乃は浴室に入った。少なからず動揺している。
(変に思われなかったかな?)
夏乃は今年26になる。そういう相手が過去にいてもおかしくもない。普通にしてたらいい。夏乃には気にしていることがある。それは極力、誰にも知られたくない事実だ。
(二十六歳か…)
尊は二十一歳だ。前に顔を合わせていた時はまだ高校生だったのに、不意に大人びて目の前に現れたものだから、どんな顔していいか時々分からなくなる。
先程自分のスウェットから出た、尊の首すじのしっかりした感じや、線の細さの無くなりかけた顎のライン。元々、伯父に似て、端正な顔立ちなのは分かっていたが、こんな数年でこうも変わるものかと、時々見とれてしまう自分がいる。
花屋の前で会った時だって、重い荷物をサッと持ってくれたり、店に入る時のドアを押さえてくれたり、以前にはなかった女性に対しての気遣いが自然に出る度に、随分大人っぽくなったな、と姉のような気持ちで嬉しく思っていた。思っていたのだけど。
先程、雨に濡れてこちらを見上げて弱く笑った尊は、頼りなげに見えて、それなのに妙な色気を放っていた。
走ることへの挫折や、元カノとの別れなど、色んな苦悩を抱えて悩んできたことが、今の尊を作っている。
湯船に、鼻まで浸かる。
カタン、脱衣所のドアが軽く開いた音がした。
その日は花冷えだとテレビのニュースのお天気アナウンサーが言っていたので、夏乃はスプリングコートの下にカーディガンを1枚着込んで出勤した。
仕事が終わって病院を出たのは、9時を回っていて、夕方から降り続いていた雨の中、駐車場を傘を差して家路についた。
マンションに入る頃には足元のパンプスと、パンストの足はビショビショに濡れて冷たかった。ぶるっと震えながら、早くお風呂に入ろう、とエレベーターから降りた。
部屋の前が見えてくると、夏乃は立ち止まった。部屋の前にうずくまるようにして座っている人影が見えたのだ。
傘の先からぽたりと垂れた雫が足の甲に当たって、ハッと身じろぐと、その動きに、その人物はこちらを見た。
「尊…」
「…夏姉、おかえり」
弱く笑った尊は同じく雨に濡れたのか、髪が濡れていたが、薄手の黒いパーカーや、トレーニング用のスパッツは乾いている。随分ここにいた証拠だ。
「髪、濡れてるじゃない!傘もってなかったの?」
「ランニングに出てたの。ちょっとこっちまで遠回りしたら、急に降るんだもん」
つい医者の癖で、座ったままの尊の頬に触れると、無精髭がチクリとした。その手を逆に上から握られて、ドキッとした。
「ちょ…手、冷たいじゃない!入って、シャワーした方がいいよ」
立ち上がって、部屋の鍵を開けようと手を離しかけた時、その手をぎゅっと尊が握った。
驚いて尊を見下ろす。
見上げてくる、尊の目が熱っぽくて、思わずたじろいだ。
「……なんか、あった?」
ようやく絞り出した言葉は掠れている。
「無かったら来ちゃダメなの?」
尊はふっと笑った。夏乃はその力のない笑顔にドキッとした。こんな顔する子だっただろうか。
「ダメじゃないよ。とにかく寒いから中、入ろう?ね?」
戸惑う気持ちを振り切って、尊を引っ張って立たせると、その勢いでバタバタと鍵を開けて、変に暴れかけている胸の鼓動を気にしないようにし、部屋に入る。
スリッパを出してやって、エアコンを付け、浴室のお湯が出るようにボタンを押す。
とりあえず髪を拭かせる為にタオルを尊に渡すと、大きめの自分のスウェット、前に付き合っていた人の買い置きにしていた新品のボクサーパンツを一瞬だけ迷って、引き出しの奥から引っ張り出す。一通りを浴室の前に置いた。
「先にシャワーしてきなさい」
「夏姉も手冷たいじゃん」
「あんたは昔から風邪ひきやすいから、私はとりあえず着替えするから、先に入って?湯船溜まったらちゃんと温まってね」
尊の背中を押して強引に脱衣所に押し込む。自分は湯を沸かしながら寝室で温かい部屋着に着替え、濡れたものをカゴに入れる。
尊が出てきた時のために、作り置きのスープを温めながら自分にはコーヒーを入れた。
冷蔵庫を開けて、冷凍うどんと切った油揚げを取り出して、出汁と一緒に鍋にかけて、卵を落とすともう一度蓋をしてしばらく加熱する。
「夏姉、ありがと、風呂お先」
やはり、袖も、ズボンの股下も足りてない、ちょっと情けない格好の尊がタオルで髪を拭きながら出てきた。
ちょっと痩せたのか、この前会った時より顎のラインがスッキリした気がする。
「お腹すいてるでしょ?おうどん食べて?」
切ったネギを散らすと、レンゲと一緒に出してやる。スープは野菜たっぷりなので、汁物がふたつになるが、健康のために食べてもらうつもりだ。
この間会った時は、貧血気味なのでは?と感じる程度に顔色が良くなかった。気になっていたのだ。一度うちに呼んでしっかり食べさせよう、そう思いつつ、日々をバタバタしてるうちに声をかけ損ねて今に至る。
「ありがとう、腹減ってた」
「じゃ、私もお風呂入ってくるね、ゆっくりしてて」
脱衣所の引き戸を開けようと手をかけたところで呼ばれた。
「なあ」
「うん?」
「なんで男物のパンツがあんの?」
一瞬固まる。真っ直ぐ自分にあてられた視線から、ゆっくりと目を逸らした。
「…前に付き合ってた人の」
「…ふーん」
それ以上何も言わずに、夏乃は浴室に入った。少なからず動揺している。
(変に思われなかったかな?)
夏乃は今年26になる。そういう相手が過去にいてもおかしくもない。普通にしてたらいい。夏乃には気にしていることがある。それは極力、誰にも知られたくない事実だ。
(二十六歳か…)
尊は二十一歳だ。前に顔を合わせていた時はまだ高校生だったのに、不意に大人びて目の前に現れたものだから、どんな顔していいか時々分からなくなる。
先程自分のスウェットから出た、尊の首すじのしっかりした感じや、線の細さの無くなりかけた顎のライン。元々、伯父に似て、端正な顔立ちなのは分かっていたが、こんな数年でこうも変わるものかと、時々見とれてしまう自分がいる。
花屋の前で会った時だって、重い荷物をサッと持ってくれたり、店に入る時のドアを押さえてくれたり、以前にはなかった女性に対しての気遣いが自然に出る度に、随分大人っぽくなったな、と姉のような気持ちで嬉しく思っていた。思っていたのだけど。
先程、雨に濡れてこちらを見上げて弱く笑った尊は、頼りなげに見えて、それなのに妙な色気を放っていた。
走ることへの挫折や、元カノとの別れなど、色んな苦悩を抱えて悩んできたことが、今の尊を作っている。
湯船に、鼻まで浸かる。
カタン、脱衣所のドアが軽く開いた音がした。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる