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8月のイルカ達へ・7 告白
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「ただいま!」
静まり返った部屋の中、玄関から母ちゃんの声がした。
俺はベッドの上で膝を抱え、ドアの隙間から入ってくるリビングの明かりをぼんやりと見つめていた。
結局、龍吾には何も言えなかった。告白を断ることすらできなかった。龍吾はそんな俺にまた「ごめんな」と言って、俺の頭を軽く撫でてから自分の部屋に戻って行った。
「………」
「彪史。ご飯作るけど、ラーメンでいい?」
スーパーのビニール袋の音。母ちゃんの明るい声。昼間訪ねてきた龍吾のことは何も聞かず、まるで俺の機嫌を取っているかのようだ。
思えば18年間生きてきて、こうして母ちゃんに迷惑かけるのはこれで何度目だろう? 何度悲しませて、何度悩ませたのだろう?
俺はベッドを降り、部屋を出てリビングに移動した。テーブルの上でビニール袋を畳んでいた母ちゃんが、俺に気付いて笑顔になる。
「何か食べたの? すっごいお腹空いた顔してるけど」
「母ちゃん……」
俺はテーブルの一点を見つめたまま、見切り発車的に口を開いた。
「……俺ね、……男の人が好きなんだ」
「ん?」
「いつからか忘れちゃったけど。……俺、ゲイなんだ」
「………」
驚いている。当然だ。女手一つで大事に育ててきた一人息子が同性愛者だったなんて、母ちゃんにとってこれ以上の衝撃はないだろうと思う。
俺に彼女が出来ないこと。好きな女の話すらしたことがないこと。年頃の男子みたいに、可愛いアイドルに全く興味を示したことがないこと。
いま母ちゃんの中で、俺に関する様々な謎が解け始めている。既に俺が答えを出してしまったから、恐らく数瞬のうちに理解できるだろうけれど。
「ごめん……」
呟くと、母ちゃんがハッとして俺を見上げた。
「……俺、将来誰とも結婚できないよ。だから母ちゃんに孫の顔見せるとか、そういうのもできないよ。父ちゃんと離婚してから母ちゃんは一生懸命俺を育ててくれたのに、俺はその期待に応えてあげられないんだ……」
言いながら、また涙が溢れてきた。
「ごめんなさい……俺、本当に……。なんで自分がこんなふうになっちゃったのか、考えても全然分からなくて……だから……」
その後は言葉にならなかった。沈黙の空気の中、俺の啜り泣く声だけが響いている。
どのくらいそれが続いただろう。
やがて、母ちゃんが伸ばした手で俺の手を優しく握った。
「彪史」
「っ……」
恐る恐る母ちゃんの顔を見ると、その目も俺と同様、涙に濡れていた。
だけど――。
「彪史が謝る必要なんて何もない。お母さんの方こそ、謝らなきゃならないね」
母ちゃんは、穏やかな笑みを浮かべていた。俺を見つめる目は涙で真っ赤なのに、どこまでも優しくて、愛情に溢れていて……。
「今までお母さんが何気なく言っていた一言が、彪史を傷付けていたかもしれないね。気付いてあげられなくて、ごめんね」
俺は泣きながら何度も首を横に振った。
「ずっと一人で抱えてて、辛かったでしょ。言って少しは楽になった?」
「ん……。でも俺、一人っ子なのに結婚できな……」
最後まで言う前に、母ちゃんが笑って俺を抱きしめた。
「馬鹿だね。そんなこと気にしてるの?」
「だ、だって……」
「お母さんは彪史が幸せなら、形なんてどうだっていい。気にしたってどうにもならないことなんか、考えなくたっていいの。自分と周りの環境を受け入れて、その上で最善を尽くせばいいのよ」
「どうにもならない、こと……」
昨日聞いたばかりの龍吾の言葉が脳裏によぎった。
無理して結婚したとしても、誰も幸せになんかなれねえ――。
「彪史」
指で目のふちを拭いながら、母ちゃんが言った。
「生きてたらさ、誰にだって『どうにもならないこと』の一つや二つ、あると思わない? たとえば背が低いとか、足が遅いとか、可愛くないとか格好よくないとか、誰にでもコンプレックスがあると思う」
「……うん」
「でも、そういうのを気にして塞ぎ込んじゃうよりかは、自分を受け入れて、人生を面白可笑しく過ごす方が幸せだと思わない?」
俺は苦笑いを浮かべて首を傾げた。
「……ゲイだっていうのも同じってこと? 受け入れたら幸せになれる?」
「自棄になって受け入れても駄目よ。ちゃんと自分を理解して、認めてあげるの」
「簡単に言うけどさ、難しいよ……」
「そうだね」
母ちゃんが椅子を引き、自分の隣に俺を座らせた。テーブルの上にあった麦茶のグラスを俺の前に置く。
「お母さんもね、お父さんと離婚した時にそう思った。離婚の理由は、それこそどうにもならないことだったの。別に喧嘩別れしたわけじゃないし、今でもお父さんのこと思い出す時だってある。だけどその時はお互いにとってそれが最善で、お母さんもお父さんも、受け入れて納得するしかなかった。離婚なんて世間では褒められたことじゃないし、まだ小さかった彪史を父親のいない子にしちゃうんだって思うと、本当に辛かった」
「………」
「だけどね、どんなに気にして考えたって、現状は何も変わらないでしょ? あっちの道もあったとか、こういう世界もあったのにとか、そんなの気にしたって自分の世界はどうにもならない。だからまずは現状を受け入れて、そこから強くなっていけばいいのよ」
知らなかった。いつもお気楽な母ちゃんが、こんなことを考えていたなんて。
俺は唇を噛みしめて、母ちゃんの目をじっと見つめた。
「だから今、お母さんはすごく幸せよ。彪史がこんなにお母さん想いの優しい子に育ってくれてるってのも分かったしね。ひょっとしてお父さんと一緒に暮らしてたら、今の彪史はもっと捻じ曲がった性格になってたかもしれない」
冗談ぽく笑う母ちゃんの目の下には、涙で溶けたマスカラが付いていた。
「だから彪史も、少しずつ……何年かかってもいいから自分を受け入れて、幸せになるの。彪史が男の人を好きになるのは決しておかしなことなんかじゃないし、後ろめたいことでも、悪いことでも何でもない。それを忘れないで」
「う、うん……」
「文句言う奴がいたら、お母さんがぶっ飛ばしてあげるから!」
「あっ……」
壁越しに隣の部屋を睨む母ちゃんを見て、ようやく気付いた。
昨日、俺が龍吾の部屋から戻ってきた時に泣いていたから、母ちゃんは俺が龍吾に何か言われたんだと思って――。
「り、龍吾は関係ないからっ。むしろ俺によくしてくれてるし、いっぱいアドバイスとかもしてくれてるしっ……」
「あら、そうなの。てっきりお母さんは柊くんが……。何なら、今からお隣に怒鳴りこんでやろうと思ってたくらいなんだけど」
「違うよ!」
あんなに龍吾の前でデレデレしていた母ちゃんなのに。なんだか面白くて、俺は思わず笑ってしまった。
夕飯と風呂を済ませてから、俺はベッドの中で龍吾にメールを打った。
『昼間、ひどいこと言って本当にごめん』
『別に構わない。俺の方こそ、アヤが動揺するような話しちまった。悪い』
すぐに返ってきたメール。絵文字も何もない無機質な文字だけだと、携帯を握った龍吾が怒っているのか笑っているのか、表情までは読み取れない。だけど……
アヤ。初めてそんなふうに名前を呼ばれて、心の中がくすぐったくなった。
『俺、龍吾の恋人に嫉妬してるんだと思う。だけど肝心の嫉妬の理由が曖昧で、よく分からないんだ』
『それは俺のことが好きっていう解釈でいいんじゃねえの?』
『自信満々だね』
『このくらいがっついて行かなきゃ、生き残れねえぞ(笑)』
それもそうだ、と俺は思った。
緩く流れるエアコンの風が肌に触れて心地好い。ベランダに面した窓の外から見える空には、星は少ないけれど大きな月が輝いていた。
『明日、晴れるかな』
『どっか行くのか?』
『龍吾は?』
『一緒に遊びたいのか?』
『別に』
『可愛くねー。さっさと電気消して寝ろ』
『いつ寝るかなんて俺の勝手だよ』
何気ないやり取りに、ほんの一瞬違和感を覚えた。
「………」
ベランダに顔を向ける。そこには、さっきと変わらない夜空があった。
『俺の部屋に電気点いてるの、分かる?』
『直接は見えねえけど、明かりが漏れてるのは分かる』
やっぱりだ。
俺はベッドを降りてベランダに向かった。ガラス戸の向こう側は、龍吾の部屋のベランダと繋がっている。
「龍吾」
「お、彪史。偶然だな」
携帯片手に煙草を咥えた龍吾が、ベランダの手すりにもたれ掛かって笑っていた。ちょっとの危険を覚悟で柵を越えれば、簡単に向こう側に行けてしまえる。俺がその柵に手をかけると、龍吾も手を伸ばして俺を引っ張ってくれた。
「気をつけろ」
「子供の時からこのくらいやってる」
「防犯がなってねえマンションだなぁ」
僅かなへこみにつま先をかけ、ゆっくりと柵を登る。俺の背丈くらいあるその柵を何とか乗り越えると、手すりに携帯を置いた龍吾が両手で俺を抱きとめてくれた。
「……ふう、子供の頃みたいに軽々ってわけにはいかなかった」
俺を解放した龍吾が、咥えていた煙草を摘まんで灰皿へ押し付ける。柔らかな夜風が吹いて、灰が微かに舞った。
「龍吾、さっきの話の続き、聞かせてよ」
「どこまで話したっけ。俺がお前を好きってのは言ったよな?」
「違うよ」
俺は龍吾の携帯を指してニッと笑った。
「明日、どこ行こうかっていう話!」
「なんだ、さっきと比べてずいぶん元気になったな。何かあったのか?」
「色々すっきりしたのかも」
「じゃあ、明日は彪史の好きな所に連れてってやらねえとな」
「やった!」
拳を握って飛び跳ねると、龍吾が灰皿と携帯を手に持ってガラス戸を開けた。部屋の中に入り、更に俺を招き入れる。
「遊びに行くとなったら、今夜中にもう一仕事終わらせねえと。彪史、適当に映画でも観てろ。冷蔵庫にジュースも入ってる」
「龍吾は仕事かぁ、なんか申し訳ない……。なぁ、無理だったら別に明日じゃなくたっていいんだよ」
「できることはできるうちにやるのが俺のモットーだ」
そう言って、龍吾はパソコン前の椅子に腰を下ろした。
俺はそのすぐ後ろにあるソファに寝転がり、龍吾の背中を見つめて長く息を吐いた。
龍吾は普通の絵描きが描くように、画用紙にペンを走らせているみたいだ。だけど彼の手によって描かれた物は、用紙上でなくパソコン画面の中に表示されている。どういう仕組みなのか凄く気になるけど、訊いたところで俺にはきっと理解できない。
「本当、上手だな。羨ましいくらいだ」
何度も引いた線が次第にモンスターの形になってゆく。龍吾の絵を見ているうちに、ついそんな言葉が出た。
「ん」
俺の方は振り返らずに、龍吾が言う。
「飛び抜けて上手いってわけでもない。俺より上手い奴はたくさんいる」
「そうかな……じゅうぶん上手いと思うけど」
「上手い絵と魅力的な絵は別物だ。両方備わってるのが一番だけどな」
俺が考えているよりずっと、シビアな世界なんだろう。これ以上邪魔しないように、俺は黙ってその背中を見つめた。
時計の針が進んでゆく。
初めのうちは龍吾にお茶を淹れたり灰皿を交換したりとチョロチョロ動き回っていた俺だけど、ここ最近色々なことがあってさすがに疲れていたからか、そのうちにだんだん眠くなってきて……午前一時を過ぎた頃、ついにソファに倒れ込んだ。
龍吾が仕事してるのに寝てしまうのは申し訳ない。そうだ。俺もこの夏、バイトの一つでもしてみようかな。いつまでも父ちゃんの金を頼りにするわけにはいかないし、自分でしっかりと稼いで、給料が出たら母ちゃんと龍吾に何かプレゼントでもあげよう。そういう目標があると、働くのも楽しそうだ。
「………」
しんと静まり返った龍吾の部屋で目が覚めた時、時計の針はすでに明け方の四時近くをさしていた。薄らと夜が明けてきた窓の外を別とすれば、部屋の隅にある背の高いスタンドライトだけがオレンジ色の光を発している。パソコンの電源は消され、龍吾の姿も見当たらない。
「……龍……」
ソファから起き上がって辺りを見回すと、床の方から微かな寝息が聞こえてきた。
「しまった」
俺がソファを占領していたから、龍吾は床で寝る羽目に……。しかも俺の体には薄いタオルケットが掛けられているのに、龍吾は何も掛けていない。体の下にも何も敷いていない。フローリングの床にそのまま寝ていたのだ。
「龍吾……」
俺はソファの上から手を伸ばして、彼の体を軽く揺さぶった。
「ん……」
「風邪ひくし、体痛くするぞ。俺、自分の部屋に戻るから……上で寝ろよ」
「彪史……?」
目蓋を半分開けた龍吾が俺の姿を確認したらしく、寝たままの体勢で薄く笑った。
「龍吾、ソファで……」
「一緒に寝るか……」
のっそりと起き上がった龍吾が、そのまま俺の横に体を倒してきた。ゆったりしているけど、男二人で寝るには決してじゅうぶんとは言えない大きさのソファだ。密着する形で龍吾と寝ていると、どうしてもこのソファで龍吾とセックスしたことが思い出されて鼓動が速まってしまう。
「布団、持ってないの……?」
「……夏は必要ねえかなって。秋になったら買う」
「仕事、終わった?」
「終わった。一時間前くらいかな」
「お疲れ様」
「もっと労ってくれよ。彪史のために終わらせたんだからな……」
意識ははっきりしているらしいが、龍吾の目蓋は閉じかかっている。俺は少しだけ迷ってから、龍吾の唇にそっと自分の唇を押し付けた。
「……ありがと、彪」
完全に目を閉じ、だけど満足げに笑っている龍吾。俺は彼がソファから落ちないように背中へ腕を回し、その広い胸に顔を埋めて目蓋を閉じた。
静まり返った部屋の中、玄関から母ちゃんの声がした。
俺はベッドの上で膝を抱え、ドアの隙間から入ってくるリビングの明かりをぼんやりと見つめていた。
結局、龍吾には何も言えなかった。告白を断ることすらできなかった。龍吾はそんな俺にまた「ごめんな」と言って、俺の頭を軽く撫でてから自分の部屋に戻って行った。
「………」
「彪史。ご飯作るけど、ラーメンでいい?」
スーパーのビニール袋の音。母ちゃんの明るい声。昼間訪ねてきた龍吾のことは何も聞かず、まるで俺の機嫌を取っているかのようだ。
思えば18年間生きてきて、こうして母ちゃんに迷惑かけるのはこれで何度目だろう? 何度悲しませて、何度悩ませたのだろう?
俺はベッドを降り、部屋を出てリビングに移動した。テーブルの上でビニール袋を畳んでいた母ちゃんが、俺に気付いて笑顔になる。
「何か食べたの? すっごいお腹空いた顔してるけど」
「母ちゃん……」
俺はテーブルの一点を見つめたまま、見切り発車的に口を開いた。
「……俺ね、……男の人が好きなんだ」
「ん?」
「いつからか忘れちゃったけど。……俺、ゲイなんだ」
「………」
驚いている。当然だ。女手一つで大事に育ててきた一人息子が同性愛者だったなんて、母ちゃんにとってこれ以上の衝撃はないだろうと思う。
俺に彼女が出来ないこと。好きな女の話すらしたことがないこと。年頃の男子みたいに、可愛いアイドルに全く興味を示したことがないこと。
いま母ちゃんの中で、俺に関する様々な謎が解け始めている。既に俺が答えを出してしまったから、恐らく数瞬のうちに理解できるだろうけれど。
「ごめん……」
呟くと、母ちゃんがハッとして俺を見上げた。
「……俺、将来誰とも結婚できないよ。だから母ちゃんに孫の顔見せるとか、そういうのもできないよ。父ちゃんと離婚してから母ちゃんは一生懸命俺を育ててくれたのに、俺はその期待に応えてあげられないんだ……」
言いながら、また涙が溢れてきた。
「ごめんなさい……俺、本当に……。なんで自分がこんなふうになっちゃったのか、考えても全然分からなくて……だから……」
その後は言葉にならなかった。沈黙の空気の中、俺の啜り泣く声だけが響いている。
どのくらいそれが続いただろう。
やがて、母ちゃんが伸ばした手で俺の手を優しく握った。
「彪史」
「っ……」
恐る恐る母ちゃんの顔を見ると、その目も俺と同様、涙に濡れていた。
だけど――。
「彪史が謝る必要なんて何もない。お母さんの方こそ、謝らなきゃならないね」
母ちゃんは、穏やかな笑みを浮かべていた。俺を見つめる目は涙で真っ赤なのに、どこまでも優しくて、愛情に溢れていて……。
「今までお母さんが何気なく言っていた一言が、彪史を傷付けていたかもしれないね。気付いてあげられなくて、ごめんね」
俺は泣きながら何度も首を横に振った。
「ずっと一人で抱えてて、辛かったでしょ。言って少しは楽になった?」
「ん……。でも俺、一人っ子なのに結婚できな……」
最後まで言う前に、母ちゃんが笑って俺を抱きしめた。
「馬鹿だね。そんなこと気にしてるの?」
「だ、だって……」
「お母さんは彪史が幸せなら、形なんてどうだっていい。気にしたってどうにもならないことなんか、考えなくたっていいの。自分と周りの環境を受け入れて、その上で最善を尽くせばいいのよ」
「どうにもならない、こと……」
昨日聞いたばかりの龍吾の言葉が脳裏によぎった。
無理して結婚したとしても、誰も幸せになんかなれねえ――。
「彪史」
指で目のふちを拭いながら、母ちゃんが言った。
「生きてたらさ、誰にだって『どうにもならないこと』の一つや二つ、あると思わない? たとえば背が低いとか、足が遅いとか、可愛くないとか格好よくないとか、誰にでもコンプレックスがあると思う」
「……うん」
「でも、そういうのを気にして塞ぎ込んじゃうよりかは、自分を受け入れて、人生を面白可笑しく過ごす方が幸せだと思わない?」
俺は苦笑いを浮かべて首を傾げた。
「……ゲイだっていうのも同じってこと? 受け入れたら幸せになれる?」
「自棄になって受け入れても駄目よ。ちゃんと自分を理解して、認めてあげるの」
「簡単に言うけどさ、難しいよ……」
「そうだね」
母ちゃんが椅子を引き、自分の隣に俺を座らせた。テーブルの上にあった麦茶のグラスを俺の前に置く。
「お母さんもね、お父さんと離婚した時にそう思った。離婚の理由は、それこそどうにもならないことだったの。別に喧嘩別れしたわけじゃないし、今でもお父さんのこと思い出す時だってある。だけどその時はお互いにとってそれが最善で、お母さんもお父さんも、受け入れて納得するしかなかった。離婚なんて世間では褒められたことじゃないし、まだ小さかった彪史を父親のいない子にしちゃうんだって思うと、本当に辛かった」
「………」
「だけどね、どんなに気にして考えたって、現状は何も変わらないでしょ? あっちの道もあったとか、こういう世界もあったのにとか、そんなの気にしたって自分の世界はどうにもならない。だからまずは現状を受け入れて、そこから強くなっていけばいいのよ」
知らなかった。いつもお気楽な母ちゃんが、こんなことを考えていたなんて。
俺は唇を噛みしめて、母ちゃんの目をじっと見つめた。
「だから今、お母さんはすごく幸せよ。彪史がこんなにお母さん想いの優しい子に育ってくれてるってのも分かったしね。ひょっとしてお父さんと一緒に暮らしてたら、今の彪史はもっと捻じ曲がった性格になってたかもしれない」
冗談ぽく笑う母ちゃんの目の下には、涙で溶けたマスカラが付いていた。
「だから彪史も、少しずつ……何年かかってもいいから自分を受け入れて、幸せになるの。彪史が男の人を好きになるのは決しておかしなことなんかじゃないし、後ろめたいことでも、悪いことでも何でもない。それを忘れないで」
「う、うん……」
「文句言う奴がいたら、お母さんがぶっ飛ばしてあげるから!」
「あっ……」
壁越しに隣の部屋を睨む母ちゃんを見て、ようやく気付いた。
昨日、俺が龍吾の部屋から戻ってきた時に泣いていたから、母ちゃんは俺が龍吾に何か言われたんだと思って――。
「り、龍吾は関係ないからっ。むしろ俺によくしてくれてるし、いっぱいアドバイスとかもしてくれてるしっ……」
「あら、そうなの。てっきりお母さんは柊くんが……。何なら、今からお隣に怒鳴りこんでやろうと思ってたくらいなんだけど」
「違うよ!」
あんなに龍吾の前でデレデレしていた母ちゃんなのに。なんだか面白くて、俺は思わず笑ってしまった。
夕飯と風呂を済ませてから、俺はベッドの中で龍吾にメールを打った。
『昼間、ひどいこと言って本当にごめん』
『別に構わない。俺の方こそ、アヤが動揺するような話しちまった。悪い』
すぐに返ってきたメール。絵文字も何もない無機質な文字だけだと、携帯を握った龍吾が怒っているのか笑っているのか、表情までは読み取れない。だけど……
アヤ。初めてそんなふうに名前を呼ばれて、心の中がくすぐったくなった。
『俺、龍吾の恋人に嫉妬してるんだと思う。だけど肝心の嫉妬の理由が曖昧で、よく分からないんだ』
『それは俺のことが好きっていう解釈でいいんじゃねえの?』
『自信満々だね』
『このくらいがっついて行かなきゃ、生き残れねえぞ(笑)』
それもそうだ、と俺は思った。
緩く流れるエアコンの風が肌に触れて心地好い。ベランダに面した窓の外から見える空には、星は少ないけれど大きな月が輝いていた。
『明日、晴れるかな』
『どっか行くのか?』
『龍吾は?』
『一緒に遊びたいのか?』
『別に』
『可愛くねー。さっさと電気消して寝ろ』
『いつ寝るかなんて俺の勝手だよ』
何気ないやり取りに、ほんの一瞬違和感を覚えた。
「………」
ベランダに顔を向ける。そこには、さっきと変わらない夜空があった。
『俺の部屋に電気点いてるの、分かる?』
『直接は見えねえけど、明かりが漏れてるのは分かる』
やっぱりだ。
俺はベッドを降りてベランダに向かった。ガラス戸の向こう側は、龍吾の部屋のベランダと繋がっている。
「龍吾」
「お、彪史。偶然だな」
携帯片手に煙草を咥えた龍吾が、ベランダの手すりにもたれ掛かって笑っていた。ちょっとの危険を覚悟で柵を越えれば、簡単に向こう側に行けてしまえる。俺がその柵に手をかけると、龍吾も手を伸ばして俺を引っ張ってくれた。
「気をつけろ」
「子供の時からこのくらいやってる」
「防犯がなってねえマンションだなぁ」
僅かなへこみにつま先をかけ、ゆっくりと柵を登る。俺の背丈くらいあるその柵を何とか乗り越えると、手すりに携帯を置いた龍吾が両手で俺を抱きとめてくれた。
「……ふう、子供の頃みたいに軽々ってわけにはいかなかった」
俺を解放した龍吾が、咥えていた煙草を摘まんで灰皿へ押し付ける。柔らかな夜風が吹いて、灰が微かに舞った。
「龍吾、さっきの話の続き、聞かせてよ」
「どこまで話したっけ。俺がお前を好きってのは言ったよな?」
「違うよ」
俺は龍吾の携帯を指してニッと笑った。
「明日、どこ行こうかっていう話!」
「なんだ、さっきと比べてずいぶん元気になったな。何かあったのか?」
「色々すっきりしたのかも」
「じゃあ、明日は彪史の好きな所に連れてってやらねえとな」
「やった!」
拳を握って飛び跳ねると、龍吾が灰皿と携帯を手に持ってガラス戸を開けた。部屋の中に入り、更に俺を招き入れる。
「遊びに行くとなったら、今夜中にもう一仕事終わらせねえと。彪史、適当に映画でも観てろ。冷蔵庫にジュースも入ってる」
「龍吾は仕事かぁ、なんか申し訳ない……。なぁ、無理だったら別に明日じゃなくたっていいんだよ」
「できることはできるうちにやるのが俺のモットーだ」
そう言って、龍吾はパソコン前の椅子に腰を下ろした。
俺はそのすぐ後ろにあるソファに寝転がり、龍吾の背中を見つめて長く息を吐いた。
龍吾は普通の絵描きが描くように、画用紙にペンを走らせているみたいだ。だけど彼の手によって描かれた物は、用紙上でなくパソコン画面の中に表示されている。どういう仕組みなのか凄く気になるけど、訊いたところで俺にはきっと理解できない。
「本当、上手だな。羨ましいくらいだ」
何度も引いた線が次第にモンスターの形になってゆく。龍吾の絵を見ているうちに、ついそんな言葉が出た。
「ん」
俺の方は振り返らずに、龍吾が言う。
「飛び抜けて上手いってわけでもない。俺より上手い奴はたくさんいる」
「そうかな……じゅうぶん上手いと思うけど」
「上手い絵と魅力的な絵は別物だ。両方備わってるのが一番だけどな」
俺が考えているよりずっと、シビアな世界なんだろう。これ以上邪魔しないように、俺は黙ってその背中を見つめた。
時計の針が進んでゆく。
初めのうちは龍吾にお茶を淹れたり灰皿を交換したりとチョロチョロ動き回っていた俺だけど、ここ最近色々なことがあってさすがに疲れていたからか、そのうちにだんだん眠くなってきて……午前一時を過ぎた頃、ついにソファに倒れ込んだ。
龍吾が仕事してるのに寝てしまうのは申し訳ない。そうだ。俺もこの夏、バイトの一つでもしてみようかな。いつまでも父ちゃんの金を頼りにするわけにはいかないし、自分でしっかりと稼いで、給料が出たら母ちゃんと龍吾に何かプレゼントでもあげよう。そういう目標があると、働くのも楽しそうだ。
「………」
しんと静まり返った龍吾の部屋で目が覚めた時、時計の針はすでに明け方の四時近くをさしていた。薄らと夜が明けてきた窓の外を別とすれば、部屋の隅にある背の高いスタンドライトだけがオレンジ色の光を発している。パソコンの電源は消され、龍吾の姿も見当たらない。
「……龍……」
ソファから起き上がって辺りを見回すと、床の方から微かな寝息が聞こえてきた。
「しまった」
俺がソファを占領していたから、龍吾は床で寝る羽目に……。しかも俺の体には薄いタオルケットが掛けられているのに、龍吾は何も掛けていない。体の下にも何も敷いていない。フローリングの床にそのまま寝ていたのだ。
「龍吾……」
俺はソファの上から手を伸ばして、彼の体を軽く揺さぶった。
「ん……」
「風邪ひくし、体痛くするぞ。俺、自分の部屋に戻るから……上で寝ろよ」
「彪史……?」
目蓋を半分開けた龍吾が俺の姿を確認したらしく、寝たままの体勢で薄く笑った。
「龍吾、ソファで……」
「一緒に寝るか……」
のっそりと起き上がった龍吾が、そのまま俺の横に体を倒してきた。ゆったりしているけど、男二人で寝るには決してじゅうぶんとは言えない大きさのソファだ。密着する形で龍吾と寝ていると、どうしてもこのソファで龍吾とセックスしたことが思い出されて鼓動が速まってしまう。
「布団、持ってないの……?」
「……夏は必要ねえかなって。秋になったら買う」
「仕事、終わった?」
「終わった。一時間前くらいかな」
「お疲れ様」
「もっと労ってくれよ。彪史のために終わらせたんだからな……」
意識ははっきりしているらしいが、龍吾の目蓋は閉じかかっている。俺は少しだけ迷ってから、龍吾の唇にそっと自分の唇を押し付けた。
「……ありがと、彪」
完全に目を閉じ、だけど満足げに笑っている龍吾。俺は彼がソファから落ちないように背中へ腕を回し、その広い胸に顔を埋めて目蓋を閉じた。
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