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8月のイルカ達へ・8 初デート
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「暑いっ!」
「我慢しろ、俺だって暑い」
容赦なく降り注ぐ太陽の光。拭いてもすぐに汗が噴き出し、数歩先では陽炎ができている。
帳が丘の駅を出て少ししか歩いていないのに、もう俺の両足は悲鳴をあげていた。
「燃えるか蒸発するかして死ぬ!」
「どっちもしねえから安心しろ。あそこの自販機でジュース買ってやるから」
龍吾は普段涼しい部屋の中に籠もっているくせに、この暑さに全く動じていない。例のサーファー然とした爽やかなファッションから余裕が滲み出ているようだ。
「なぁ、今日どこ行くの?」
買ってもらったジュースに早速口を付けながら質問すると、龍吾が秘密めかした笑みを浮かべて「涼しい所だ」と言った。
「コンビニだったりして」
「アホか。ちゃんと金払って入る所だ」
「映画館?」
「違う。もっと明るい所」
「プール!」
「違う。もっと大人向けの所」
「じゃあ、ラブホだ」
「お前な……」
観念したように、龍吾が財布からチケットを取り出して俺に見せた。
「『帳が丘シーサイドパーク・割引券』……。水族館?」
「当たり。越してきて仲良くなったコンビニの店員さんに貰ったの」
水族館なんて子供の時以来だ。家族連れやカップルが多いイメージだから、仲間内で遊ぶ時には、行き先の候補にも上がらない。でも……
「すげえ! サメもいるじゃん。俺、本物のサメ見るの初めて! かっこいいだろうなぁ」
「やっぱりな、好きだと思ったぜ。俺はシャチの方が好きだけど。あのフォルムに白黒のデザインがたまんねえ。しかもサメより強いんだぜ、自然が生み出したクリーチャーだ」
「そのシャチとイルカのショーもやってるって。見るだろ?」
「チビッコに混ざって見るのは結構恥ずかしいモンがあるな……」
「見たいくせに」
それから約20分後。
俺は龍吾が買ってくれたチケットを握りしめ、わくわくしながら帳が丘シーサイドパークのゲートをくぐった。
子供の頃に来た時よりもずっと綺麗になっている。改装したのだろうか? 前は無かったはずの遊園地や小さな動物園なんかもできていて、園内はかなり賑やかな内容になっていた。そのせいもあってか、いるのは家族連れやカップルだけじゃない。女の子グループはもちろん、俺達みたいに男同士で来ている連中もいた。
パンフレットを捲りながら、龍吾も興奮している。
「すげえなぁ。彪史、遊園地もあるじゃん。――お、動物園ではヤギに餌あげられるってよ。リスザルも肩に乗せてくれるらしい」
「取り敢えずサメ! サメ見なきゃ勿体ない」
「ああ、分かったから……引っ張るな、落ち着け!」
水族館の入口を抜けた瞬間、ひんやりとした空気が俺の肌を包んだ。
壁も天井も床も、辺り一面、濃いブルーだ。壁にはめ込まれた四角い窓の向こう側ではカラフルな魚が泳いでいる。その他にも円柱型の大きな水槽や、実際に手を入れて生き物に触ることのできる水槽も展示されていた。
「すごい……」
光と闇が融合した、異世界のような空間。きらきらと輝く気泡。どこからか、ふっと漂ってくる潮の香り……まるで本物の深海に落ちて来たかのような錯覚に陥り、不覚にもそれだけで感動しそうになった。
「最初は当たり障りの無い魚とか、ちっちゃい生き物のゾーンだ」
龍吾が水槽前の解説に目を凝らしている。いちいち魚の名前を口に出して読んでいるのは、たぶん興奮しているせいだ。
俺は龍吾そっちのけで、巨大な円柱水槽の前に立ち尽くしていた。
「どうした彪史、何かいいものいたか?」
「クラゲ」
「ああ、ミズクラゲだ。綺麗だな」
ふわふわと宙を舞うかのような、透明の生き物。海にいるクラゲはあんなにも嫌われているのに、こうして見るととても幻想的で神々しい。この一つ一つが生きているなんて信じられない思いだった。
「こいつらは自由だけど、海のクラゲは摘んで捨てられて可哀相だ」
「仕方ねえよ、クラゲってのは人を刺すからな。彪史、刺されたことあるか? あれ超痛てぇぞ」
「確かにね」
そっと水槽に触れてみたその瞬間、赤や緑や紫色の明かりが水槽全体を照らして、透明のクラゲ達が美しく鮮やかに彩られた。
「ボタン押すとライトが点く」
「わあ、すごいすごい。綺麗!」
「お兄ちゃん、もう一回、電気点けて」
歓声をあげたのは、俺の隣にいた子供達だ。
龍吾が得意げな顔をして、何度もライトのスイッチを押してやっている。クラゲももちろん綺麗だけど、知らない子供達と一緒にはしゃいでいる龍吾を見てる方がなんだか面白かった。
「サメはあっちだ」
大きなトンネル型の水槽の下をゆっくり歩きながら、俺達は色々な魚を指さして語り合い、笑い合った。
「………」
「龍吾、じっと何見てんの?」
「いや、でかい魚って結構不気味だよな。仕事のためになりそうだと思ってよ」
「ああ、分かるかも。深海魚ってそういう方面での魅力が――」
「彪史!」
龍吾の声に顔を上げると、まさにたった今、巨大なサメが俺達の頭上を泳いでいるところに遭遇した。
「すげえ……!」
悠々と尾ヒレを動かしながら泳いでいくメジロザメ。生まれて初めて目にするその魚は、当たり前だけど映画で見るそれよりもリアルで、迫力があって、かっこ良かった。
独特な下アゴの形、真っ黒の目、海の中で一番見たくない、あの背中の三角形。怖くて仕方ないのに、絶対に遭遇したくないのに、こんなにも魅力的で美しい。
「………」
俺はサメが向こうに行って完全に見えなくなってしまうまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。
「良かったな、彪史!」
「う、うん……」
満足に言葉が喋れないほど感動してしまった俺の頭を軽く叩き、龍吾がトンネルの出口を指さした。
「あそこの土産屋でサメグッズ買ってやるよ」
「龍吾、好き」
「物で釣ってばかりだな、俺は……」
顔を見合わせて笑い、俺達は出口に向かって駆け出した。
「これがいい、彪史に一番似合う。これにしろ」
そう言って龍吾が手を伸ばしたのは、「メジロザメの『コスモ君』ぬいぐるみ・Mサイズ」だった。名前があったのか。コスモ君の隣には、メスザメのアースちゃんがいた。頭に小さなリボンが付いている。俺達が見たのはどっちのサメだったのか分からないけど、龍吾はとにかくコスモ君を買ってくれた。
ギザギザの歯が並んだ口の中に手を突っ込めるようになっていて、面白い。そのくせにふわふわしたパイル地の手触りが気持ち良くて、顔付きも可愛い。こんなサメなら、海で遭遇してもペットにできそうだ。
「ありがとう、龍吾!」
「似合ってるぞ」
それから、箱形の水槽にいるヒトデやナマコを触った。シロイルカのバブリングも見たし、ペンギンの餌やりも見た。本物の海ガメは想像より大きくて驚いた。フカヒレのためにサメが乱獲されているという資料を見て、二人で腹を立てた。その直後、龍吾がカニを見て美味そうだと呟いた。
「龍吾、シャチのショー見るんだろ?」
「うーん……やっぱ少し恥ずかしいな」
「ショーの後は順番でシャチやイルカに触れるんだって」
「マジかよ、行くぞ!」
チビッコに混ざってシャチとイルカのショーを見た。あんなに恥ずかしがっていたくせに、龍吾の希望で最前列だ。逆に俺の方が恥ずかしくなった。
だけど、ショー自体は本当に凄かった。どうしてイルカはここまで人間の言うことを理解できるんだろうってくらいに、完璧で素晴らしいショーだった。
パンフレットによると、イルカはこういう遊びが大好きなのだそうだ。餌を貰えるからっていうのもあるけれど、基本的にイルカ達は楽しんでショーをやっているらしい。だけど広大な海で自由に泳ぐ野生のイルカと比べたら、狭い場所でしか泳げずにストレスも多そうだ。どっちがいいかなんて言えないけど、イルカとして生を受けておいて海で泳げないのは、少し可哀相な気もする。
「彪史、知ってるか? サルが人間になるよりもっと前の、ずっと昔の祖先の話」
「知らない」
ショーの合間の休憩時間中、龍吾がしたり顔で説明しだした。
「たぶん、微生物みたいなやつ。それがな、陸に上がったのと、海に残ったのがいるんだって。陸に上がったのはサルに進化して、海に残った方はイルカに進化したそうだ」
「嘘つけ」
「いや、本当かどうかは分からんけどさ……。イルカって人間に似てるってよく言うじゃん」
「俺がイルカだったら、海で自由に泳ぎたいな。ジャンプして猛スピードで何キロも泳いでさ。自由ってそういうことだろ?」
「それも過酷。人間社会とは比較にならんくらい弱肉強食の世界だぞ」
「うーん……でもさ、水族館だと壁に囲まれてて……」
「ちょっと待て! きた、シャチきた!」
龍吾の目が子供みたいに輝きだした。
テンポの早いロック調の曲に合わせて、二頭のシャチがプールの底を旋回し始めたのだ。ウェットスーツを着た二人の調教師がプールの端と端にスタンバイしている。シャチが水面に顔を出すと、調教師が滑り落ちるようにしてその巨体の上に乗った。
「うおぉ、シャチに乗るとかありえん……」
龍吾はもう俺のことなんて見えていない様子だ。拳を握りしめ、周りの子供達と同じように身を乗り出して正面に集中している。
二頭のシャチがそれぞれ調教師を背に乗せたままで泳ぎ始める。プールに潜り、勢いをつけて水面に向かって一気に加速する――。
「うぉっ、くるぞ彪史!」
「わあぁっ! マジかよ、嘘っ!」
無意味と知りつつ反射的に両手で頭を庇ったせいで、俺は決定的なジャンプの瞬間と、調教師の華麗な宙返りが見られなかった。
容赦なくプールの水が顔面にかかる。俺達の周りでも女の人の悲鳴や子供達の笑い声が湧き起こった。髪も服も、龍吾に買ってもらったサメのぬいぐるみもびしょ濡れた。茫然とする俺の隣で、龍吾は物凄く興奮していた。
その後も四、五回は水をかぶる羽目になり、ようやく全てのショーが終わって、いよいよ龍吾が心待ちにしていたシャチタッチの時がきた。
一度に触れる人数と時間が決まっているらしく、元気なチビッコ達に出し抜かれて並ぶのが遅くなった俺達は、その場でずいぶんと待たされることになった。
「あ、彪史……。何か俺、緊張してきた。だってシャチって海で最強なんだぜ? 海の殺し屋だぞ? サメより強いんだ」
「よく訓練されてるから大丈夫だろ。龍吾が触る時だけ野生に戻るかもしれないけど」
「不安を煽るようなこと言うなよ!」
ようやく俺達の順番が来た時には、龍吾はすっかり怯えてしまっていた。恐る恐る伸ばした手で、シャチの背中に触れている。龍吾が触っても平気なのを確認した後、俺もその大きな背中に触ってみた。
「つるつるだ」
「ゴムみてえだな!」
滅多にない機会だからもっと触っていたかったけど、子供達を優先しなきゃならない雰囲気になっていたから、仕方なく横にそれて龍吾と一緒にイルカを撫でた。
「こっちもつるつる。可愛い」
「気持ちいいな!」
心から満足した俺達は、館内のレストランで軽食をとってから水族館を後にした。
「すげえ楽しかった。龍吾、ありがとう!」
片手にサメを抱えて、龍吾に笑いかける。午後六時の空はまだ明るい。これで今日が終わってしまうなんて、勿体ないと思えてくるほどに。
「夏休みの思い出ができただろ。絵日記に書いとけ」
「そんな宿題ないよ」
それにわざわざ日記に残さなくたって、今日のことは絶対に忘れない。
初めて龍吾と二人で出掛けたこと。憧れのサメを見たこと。わざと気付かないふりをしていたけど、ショーを見る龍吾の瞳が微かに潤んでいたこと――。
「じゃあ、帰るかぁ」
ずっとずっと、忘れない。
「……龍吾」
俺は小さく龍吾のシャツを引っ張り、俯きながら歩いた。
「どうした、彪史」
「どこに帰る……?」
「どこって、家だろ」
「……まだ俺、帰りたくない。……もう少し龍吾といたい」
たぶん俺の顔は耳まで真っ赤になっている。顔が上げられなくて、だから龍吾が見られなくて、それを聞いた龍吾がどんな顔をしていたのかは分からない。
「どうせ帰ったって俺の部屋来るだろ? あ、今度は彪史の母ちゃんも誘って俺の部屋で飯食うか?」
「……龍吾と二人でいたい」
駄々っ子みたいに俯いて、恥ずかしさから唇を尖らせる俺。そんな俺を見て、龍吾が冗談交じりに提案した。
「じゃあ、初めに彪史が期待してたラブホにでも行くか? なんて――」
「行く」
「……マジで?」
「ん」
「困ったな」
呆れてるのか。怒ってるのか。よく分からない言い方だった。少し喜んでいるようにも聞こえたし、本当に困っているようにも聞こえる。
どっちにしても、龍吾。
初めに仕掛けたのは俺かもしれないけど、本気にさせたのはお前なんだからな。
「我慢しろ、俺だって暑い」
容赦なく降り注ぐ太陽の光。拭いてもすぐに汗が噴き出し、数歩先では陽炎ができている。
帳が丘の駅を出て少ししか歩いていないのに、もう俺の両足は悲鳴をあげていた。
「燃えるか蒸発するかして死ぬ!」
「どっちもしねえから安心しろ。あそこの自販機でジュース買ってやるから」
龍吾は普段涼しい部屋の中に籠もっているくせに、この暑さに全く動じていない。例のサーファー然とした爽やかなファッションから余裕が滲み出ているようだ。
「なぁ、今日どこ行くの?」
買ってもらったジュースに早速口を付けながら質問すると、龍吾が秘密めかした笑みを浮かべて「涼しい所だ」と言った。
「コンビニだったりして」
「アホか。ちゃんと金払って入る所だ」
「映画館?」
「違う。もっと明るい所」
「プール!」
「違う。もっと大人向けの所」
「じゃあ、ラブホだ」
「お前な……」
観念したように、龍吾が財布からチケットを取り出して俺に見せた。
「『帳が丘シーサイドパーク・割引券』……。水族館?」
「当たり。越してきて仲良くなったコンビニの店員さんに貰ったの」
水族館なんて子供の時以来だ。家族連れやカップルが多いイメージだから、仲間内で遊ぶ時には、行き先の候補にも上がらない。でも……
「すげえ! サメもいるじゃん。俺、本物のサメ見るの初めて! かっこいいだろうなぁ」
「やっぱりな、好きだと思ったぜ。俺はシャチの方が好きだけど。あのフォルムに白黒のデザインがたまんねえ。しかもサメより強いんだぜ、自然が生み出したクリーチャーだ」
「そのシャチとイルカのショーもやってるって。見るだろ?」
「チビッコに混ざって見るのは結構恥ずかしいモンがあるな……」
「見たいくせに」
それから約20分後。
俺は龍吾が買ってくれたチケットを握りしめ、わくわくしながら帳が丘シーサイドパークのゲートをくぐった。
子供の頃に来た時よりもずっと綺麗になっている。改装したのだろうか? 前は無かったはずの遊園地や小さな動物園なんかもできていて、園内はかなり賑やかな内容になっていた。そのせいもあってか、いるのは家族連れやカップルだけじゃない。女の子グループはもちろん、俺達みたいに男同士で来ている連中もいた。
パンフレットを捲りながら、龍吾も興奮している。
「すげえなぁ。彪史、遊園地もあるじゃん。――お、動物園ではヤギに餌あげられるってよ。リスザルも肩に乗せてくれるらしい」
「取り敢えずサメ! サメ見なきゃ勿体ない」
「ああ、分かったから……引っ張るな、落ち着け!」
水族館の入口を抜けた瞬間、ひんやりとした空気が俺の肌を包んだ。
壁も天井も床も、辺り一面、濃いブルーだ。壁にはめ込まれた四角い窓の向こう側ではカラフルな魚が泳いでいる。その他にも円柱型の大きな水槽や、実際に手を入れて生き物に触ることのできる水槽も展示されていた。
「すごい……」
光と闇が融合した、異世界のような空間。きらきらと輝く気泡。どこからか、ふっと漂ってくる潮の香り……まるで本物の深海に落ちて来たかのような錯覚に陥り、不覚にもそれだけで感動しそうになった。
「最初は当たり障りの無い魚とか、ちっちゃい生き物のゾーンだ」
龍吾が水槽前の解説に目を凝らしている。いちいち魚の名前を口に出して読んでいるのは、たぶん興奮しているせいだ。
俺は龍吾そっちのけで、巨大な円柱水槽の前に立ち尽くしていた。
「どうした彪史、何かいいものいたか?」
「クラゲ」
「ああ、ミズクラゲだ。綺麗だな」
ふわふわと宙を舞うかのような、透明の生き物。海にいるクラゲはあんなにも嫌われているのに、こうして見るととても幻想的で神々しい。この一つ一つが生きているなんて信じられない思いだった。
「こいつらは自由だけど、海のクラゲは摘んで捨てられて可哀相だ」
「仕方ねえよ、クラゲってのは人を刺すからな。彪史、刺されたことあるか? あれ超痛てぇぞ」
「確かにね」
そっと水槽に触れてみたその瞬間、赤や緑や紫色の明かりが水槽全体を照らして、透明のクラゲ達が美しく鮮やかに彩られた。
「ボタン押すとライトが点く」
「わあ、すごいすごい。綺麗!」
「お兄ちゃん、もう一回、電気点けて」
歓声をあげたのは、俺の隣にいた子供達だ。
龍吾が得意げな顔をして、何度もライトのスイッチを押してやっている。クラゲももちろん綺麗だけど、知らない子供達と一緒にはしゃいでいる龍吾を見てる方がなんだか面白かった。
「サメはあっちだ」
大きなトンネル型の水槽の下をゆっくり歩きながら、俺達は色々な魚を指さして語り合い、笑い合った。
「………」
「龍吾、じっと何見てんの?」
「いや、でかい魚って結構不気味だよな。仕事のためになりそうだと思ってよ」
「ああ、分かるかも。深海魚ってそういう方面での魅力が――」
「彪史!」
龍吾の声に顔を上げると、まさにたった今、巨大なサメが俺達の頭上を泳いでいるところに遭遇した。
「すげえ……!」
悠々と尾ヒレを動かしながら泳いでいくメジロザメ。生まれて初めて目にするその魚は、当たり前だけど映画で見るそれよりもリアルで、迫力があって、かっこ良かった。
独特な下アゴの形、真っ黒の目、海の中で一番見たくない、あの背中の三角形。怖くて仕方ないのに、絶対に遭遇したくないのに、こんなにも魅力的で美しい。
「………」
俺はサメが向こうに行って完全に見えなくなってしまうまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。
「良かったな、彪史!」
「う、うん……」
満足に言葉が喋れないほど感動してしまった俺の頭を軽く叩き、龍吾がトンネルの出口を指さした。
「あそこの土産屋でサメグッズ買ってやるよ」
「龍吾、好き」
「物で釣ってばかりだな、俺は……」
顔を見合わせて笑い、俺達は出口に向かって駆け出した。
「これがいい、彪史に一番似合う。これにしろ」
そう言って龍吾が手を伸ばしたのは、「メジロザメの『コスモ君』ぬいぐるみ・Mサイズ」だった。名前があったのか。コスモ君の隣には、メスザメのアースちゃんがいた。頭に小さなリボンが付いている。俺達が見たのはどっちのサメだったのか分からないけど、龍吾はとにかくコスモ君を買ってくれた。
ギザギザの歯が並んだ口の中に手を突っ込めるようになっていて、面白い。そのくせにふわふわしたパイル地の手触りが気持ち良くて、顔付きも可愛い。こんなサメなら、海で遭遇してもペットにできそうだ。
「ありがとう、龍吾!」
「似合ってるぞ」
それから、箱形の水槽にいるヒトデやナマコを触った。シロイルカのバブリングも見たし、ペンギンの餌やりも見た。本物の海ガメは想像より大きくて驚いた。フカヒレのためにサメが乱獲されているという資料を見て、二人で腹を立てた。その直後、龍吾がカニを見て美味そうだと呟いた。
「龍吾、シャチのショー見るんだろ?」
「うーん……やっぱ少し恥ずかしいな」
「ショーの後は順番でシャチやイルカに触れるんだって」
「マジかよ、行くぞ!」
チビッコに混ざってシャチとイルカのショーを見た。あんなに恥ずかしがっていたくせに、龍吾の希望で最前列だ。逆に俺の方が恥ずかしくなった。
だけど、ショー自体は本当に凄かった。どうしてイルカはここまで人間の言うことを理解できるんだろうってくらいに、完璧で素晴らしいショーだった。
パンフレットによると、イルカはこういう遊びが大好きなのだそうだ。餌を貰えるからっていうのもあるけれど、基本的にイルカ達は楽しんでショーをやっているらしい。だけど広大な海で自由に泳ぐ野生のイルカと比べたら、狭い場所でしか泳げずにストレスも多そうだ。どっちがいいかなんて言えないけど、イルカとして生を受けておいて海で泳げないのは、少し可哀相な気もする。
「彪史、知ってるか? サルが人間になるよりもっと前の、ずっと昔の祖先の話」
「知らない」
ショーの合間の休憩時間中、龍吾がしたり顔で説明しだした。
「たぶん、微生物みたいなやつ。それがな、陸に上がったのと、海に残ったのがいるんだって。陸に上がったのはサルに進化して、海に残った方はイルカに進化したそうだ」
「嘘つけ」
「いや、本当かどうかは分からんけどさ……。イルカって人間に似てるってよく言うじゃん」
「俺がイルカだったら、海で自由に泳ぎたいな。ジャンプして猛スピードで何キロも泳いでさ。自由ってそういうことだろ?」
「それも過酷。人間社会とは比較にならんくらい弱肉強食の世界だぞ」
「うーん……でもさ、水族館だと壁に囲まれてて……」
「ちょっと待て! きた、シャチきた!」
龍吾の目が子供みたいに輝きだした。
テンポの早いロック調の曲に合わせて、二頭のシャチがプールの底を旋回し始めたのだ。ウェットスーツを着た二人の調教師がプールの端と端にスタンバイしている。シャチが水面に顔を出すと、調教師が滑り落ちるようにしてその巨体の上に乗った。
「うおぉ、シャチに乗るとかありえん……」
龍吾はもう俺のことなんて見えていない様子だ。拳を握りしめ、周りの子供達と同じように身を乗り出して正面に集中している。
二頭のシャチがそれぞれ調教師を背に乗せたままで泳ぎ始める。プールに潜り、勢いをつけて水面に向かって一気に加速する――。
「うぉっ、くるぞ彪史!」
「わあぁっ! マジかよ、嘘っ!」
無意味と知りつつ反射的に両手で頭を庇ったせいで、俺は決定的なジャンプの瞬間と、調教師の華麗な宙返りが見られなかった。
容赦なくプールの水が顔面にかかる。俺達の周りでも女の人の悲鳴や子供達の笑い声が湧き起こった。髪も服も、龍吾に買ってもらったサメのぬいぐるみもびしょ濡れた。茫然とする俺の隣で、龍吾は物凄く興奮していた。
その後も四、五回は水をかぶる羽目になり、ようやく全てのショーが終わって、いよいよ龍吾が心待ちにしていたシャチタッチの時がきた。
一度に触れる人数と時間が決まっているらしく、元気なチビッコ達に出し抜かれて並ぶのが遅くなった俺達は、その場でずいぶんと待たされることになった。
「あ、彪史……。何か俺、緊張してきた。だってシャチって海で最強なんだぜ? 海の殺し屋だぞ? サメより強いんだ」
「よく訓練されてるから大丈夫だろ。龍吾が触る時だけ野生に戻るかもしれないけど」
「不安を煽るようなこと言うなよ!」
ようやく俺達の順番が来た時には、龍吾はすっかり怯えてしまっていた。恐る恐る伸ばした手で、シャチの背中に触れている。龍吾が触っても平気なのを確認した後、俺もその大きな背中に触ってみた。
「つるつるだ」
「ゴムみてえだな!」
滅多にない機会だからもっと触っていたかったけど、子供達を優先しなきゃならない雰囲気になっていたから、仕方なく横にそれて龍吾と一緒にイルカを撫でた。
「こっちもつるつる。可愛い」
「気持ちいいな!」
心から満足した俺達は、館内のレストランで軽食をとってから水族館を後にした。
「すげえ楽しかった。龍吾、ありがとう!」
片手にサメを抱えて、龍吾に笑いかける。午後六時の空はまだ明るい。これで今日が終わってしまうなんて、勿体ないと思えてくるほどに。
「夏休みの思い出ができただろ。絵日記に書いとけ」
「そんな宿題ないよ」
それにわざわざ日記に残さなくたって、今日のことは絶対に忘れない。
初めて龍吾と二人で出掛けたこと。憧れのサメを見たこと。わざと気付かないふりをしていたけど、ショーを見る龍吾の瞳が微かに潤んでいたこと――。
「じゃあ、帰るかぁ」
ずっとずっと、忘れない。
「……龍吾」
俺は小さく龍吾のシャツを引っ張り、俯きながら歩いた。
「どうした、彪史」
「どこに帰る……?」
「どこって、家だろ」
「……まだ俺、帰りたくない。……もう少し龍吾といたい」
たぶん俺の顔は耳まで真っ赤になっている。顔が上げられなくて、だから龍吾が見られなくて、それを聞いた龍吾がどんな顔をしていたのかは分からない。
「どうせ帰ったって俺の部屋来るだろ? あ、今度は彪史の母ちゃんも誘って俺の部屋で飯食うか?」
「……龍吾と二人でいたい」
駄々っ子みたいに俯いて、恥ずかしさから唇を尖らせる俺。そんな俺を見て、龍吾が冗談交じりに提案した。
「じゃあ、初めに彪史が期待してたラブホにでも行くか? なんて――」
「行く」
「……マジで?」
「ん」
「困ったな」
呆れてるのか。怒ってるのか。よく分からない言い方だった。少し喜んでいるようにも聞こえたし、本当に困っているようにも聞こえる。
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