鈴木さんちの家政夫

ユキヤナギ

文字の大きさ
27 / 27

手紙

しおりを挟む
 彩葉いろはから腕時計をもらった数日後、智樹ともき宛てに父親からの手紙が届いた。

 そこには、ある一冊の本についての私見しけんしるされていた。


『この前は、せっかく智樹が帰省したのに、留守にしてしまって悪かったね。
 囲碁クラブのじいさん達が、「新年会をやるから顔を出せ」としつこくてね。
 挨拶だけして帰るつもりだったんだが、酒を勧められて、酔い潰れてしまったんだよ。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。
 本題はここからだ。
 智樹は、プラトンという哲学者が書いた『饗宴』という作品を知ってるか?

 読んだことが無いかもしれないから簡単に説明しておくと、“ソクラテスという哲学者とその仲間達が、宴会の席でエロスについての議論を交わす”というのが、おおまかな内容だ。

 哲学者というと、気難しくて偉そうな人物像を思い浮かべるかもしれないが、この本から浮かび上がるソクラテスの姿は、そういった堅苦かたくるしいイメージとはかけ離れている。

 考えることが好きで好奇心旺盛。勇気と忍耐力があり、謙虚で仲間思い。少々変わり者ではあるが、道徳を実践し、知恵を愛する探求者。

 ソクラテスとは、そんな人物だったんじゃないかと、父さんは思っている。


『饗宴』の中には、面白い話がいろいろと書かれていてね。
 その中でも、“かつて人間は球体で、四本の手足と二つの頭を持っていたが、神の怒りに触れて半分に引き裂かれ、それから自分の半身を探し求めるようになった”というエピソードは有名だから、智樹もどこかで耳にしたことがあるかもしれないね。

 他にもいろいろと“愛”にまつわる話が書いてあるんだけども、父さんが一番好きなのは、“ディオティマという女性から聞いた話”として、ソクラテスが語る部分なんだ。

 作中には、ディオティマの言葉として、こんなことが書かれている。

 “人間には、体に子を宿す者と、心に子を宿す者がいる。
 彼らは美しきもの——すなわちきものを探し求め、その相手との間に子をなす。
 体に子を宿した者は人間の子を生み、心に子を宿した者は知恵を生み出す”

 若かりし頃の父さんは、この部分を読んで大いに感銘を受けた。
 智樹も、機会があればぜひ読んでみてほしい。

 そしてもしいつか、心に美しきものを持つ人と出会い、その人とならば善きものを生み出し、共にはぐくんでいけると感じたら、誰に何を言われても、決してその手を離さないように。

 そんな相手と巡り会えることは、奇跡に近いのだから。


 父さんの伝えたかったことは以上だ。
 体に気をつけて、無理をしないように。

 それから、鈴木さんにもよろしく言っといてくれ。

 それでは、また。』




 手紙を読み終えた智樹は、すぐに彩葉の部屋へと向かい、手紙を見せながら問いただした。

「もしかして、父さんに会った?」

「あ……うん」

「なんで? いつ? 何を話したの?」

「智樹に腕時計を渡したあと、朝から出かけた日があっただろ? あの日、会いに行ってたんだ。自宅まで行くと近所の人に見られて変な噂が立つかもしれないから、長野駅まで来てもらって一緒に食事をした。その時に『息子さんを下さい』ってお願いして、『もし智樹が了承してくれたら、専業主夫として家庭に入ってもらうつもりです』ってことも伝えてきた」

 彩葉の話に、智樹は顔色を失う。

「なんで、そんな……」

「どうしても智樹と別れたくなくて……喧嘩が増えた頃から、いろいろと香澄ちゃんに相談してたんだ。『専業主夫になってもらいたいって、智樹にお願いしてみる』って話したら、『お兄ちゃんの性格からして断る可能性が高いから、外堀を埋めた方がいい』ってアドバイスされて、お父さんとの食事会をセッティングしてもらった」

「香澄がセッティングしたの? ……いつの間にそんなに仲良くなったんだよ」

「帰省から戻ったあと、何かあった時のためにって、智樹から実家の電話番号と香澄ちゃんの連絡先を教えてもらっただろ? 向こうにも俺の連絡先を伝えておいた方がいいかなと思って、お邪魔した時のお礼がてら、香澄ちゃんに連絡したんだ。何回かやり取りを続けてるうちに、いろいろと相談にのってもらうようになって……」

「僕に隠れて、そんなことしてたのかよ」

「黙って勝手なことをしたのは悪かったよ。本当にごめん。だけど、もし香澄ちゃんが相談にのってくれてなかったら、俺達の関係はもっとずっと悪化してたと思うよ」


 言われてみると、確かにそうかもしれない。
 実際、ここ最近の二人は喧嘩ばかりだった。
 香澄が間に入ってくれなければ、修復できない状態にまで追い込まれていた可能性だってある。
 そう思うと、彩葉の行動を責める気持ちにはなれなかった。


「そうだね、彩葉と香澄が頑張ってくれなかったら、今ごろ別れ話をしていたかもしれないんだもんな……感謝しないといけないね。わざわざ長野まで会いに行ってくれてありがとう。あとで香澄にもお礼の連絡を入れとくよ」

 そう言うと、智樹は自分の部屋へ腕時計を取りに行き、戻ってくるなり彩葉の前に差し出した。

「決めた。専業主夫になるよ。ただし、アルバイトはこの先も続けたい。主夫業に支障が出ないように、シフトは減らすから。それでも良ければ、この時計を……彩葉の手で、僕の腕にめてくれない?」

 彩葉は差し出された腕時計を手に取り、智樹の手首へ巻きつけると、少し照れくさそうな顔をして、耳慣れない言葉を口にした。

「Σ΄ αγαπώ. 」

「え?」

「古代ギリシャ語で、“愛してます”って意味らしいよ。智樹のお父さんが教えてくれた。この言葉で、お母さんにプロポーズしたんだってさ。でも『何それ?』って笑われちゃって、真剣に受け止めてもらえなかったから、すぐに日本語で言い直したって言ってたけど」

「……うちの父さん、昔からくだらないことばかりするんだよね……」

 智樹が溜め息まじりに言うと、彩葉はおかしそうに声を上げて笑った。




 智樹が専業主夫になり、鈴木家は平穏な日常を取り戻した。
 そして、草木が芽吹きはじめる季節を迎えたある日の午後。リビングで洗濯物を畳んでいる智樹のところへ、神妙しんみょうな顔つきをした彩葉がやってきた。
 手には、分厚い紙の束を持っている。

「どうしたの?」

 智樹が問いかけると、彩葉はソファに腰掛けて話し始めた。

「伊藤さんから、『たちばな光希みつきの復帰作を書籍化する企画は、編集会議に通りませんでした』って連絡があった」

「そっか……」

 智樹は自分のことのように残念な気持ちになりながら、彩葉に尋ねる。

「もう小説は書かないの?」

「書くよ。ライターとしての仕事を頑張りながら、小説も書き続ける。伊藤さんからの助言を参考にして、また新しい企画を出すよ」

 思いのほかすっきりとした表情で答えると、彩葉は手に持った紙の束を智樹に差し出した。

「これ、プリントアウトした小説。本にはならなかったけど、最後まで書き上げたから……智樹にだけは読んでもらいたい」

 智樹は、受け取った原稿をいつくしむような仕草で胸に抱える。

「大切に読むよ」

 智樹の言葉に、彩葉がやわらかく微笑む。


 表紙をめくると、最初のページには、こんな献辞けんじの言葉がつづられていた。










 “この物語を、最愛の君に捧ぐ”









しおりを挟む
感想 1

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

パンちゃん1号

なんか、ほっこりとした気持ちになりました。いっきに読ませていただきました。2人のこれからの生活覗き見したいです☺️

解除

あなたにおすすめの小説

春風の香

梅川 ノン
BL
 名門西園寺家の庶子として生まれた蒼は、病弱なオメガ。  母を早くに亡くし、父に顧みられない蒼は孤独だった。  そんな蒼に手を差し伸べたのが、北畠総合病院の医師北畠雪哉だった。  雪哉もオメガであり自力で医師になり、今は院長子息の夫になっていた。  自身の昔の姿を重ねて蒼を可愛がる雪哉は、自宅にも蒼を誘う。  雪哉の息子彰久は、蒼に一心に懐いた。蒼もそんな彰久を心から可愛がった。  3歳と15歳で出会う、受が12歳年上の歳の差オメガバースです。  オメガバースですが、独自の設定があります。ご了承ください。    番外編は二人の結婚直後と、4年後の甘い生活の二話です。それぞれ短いお話ですがお楽しみいただけると嬉しいです!

欠けるほど、光る

七賀ごふん
BL
【俺が知らない四年間は、どれほど長かったんだろう。】 一途な年下×雨が怖い青年

双葉の恋 -crossroads of fate-

真田晃
BL
バイト先である、小さな喫茶店。 いつもの席でいつもの珈琲を注文する営業マンの彼に、僕は淡い想いを寄せていた。 しかし、恋人に酷い捨てられ方をされた過去があり、その傷が未だ癒えずにいる。 営業マンの彼、誠のと距離が縮まる中、僕を捨てた元彼、悠と突然の再会。 僕を捨てた筈なのに。変わらぬ態度と初めて見る殆さに、無下に突き放す事が出来ずにいた。 誠との関係が進展していく中、悠と過ごす内に次第に明らかになっていくあの日の『真実』。 それは余りに残酷な運命で、僕の想像を遥かに越えるものだった── ※これは、フィクションです。 想像で描かれたものであり、現実とは異なります。 ** 旧概要 バイト先の喫茶店にいつも来る スーツ姿の気になる彼。 僕をこの道に引き込んでおきながら 結婚してしまった元彼。 その間で悪戯に揺れ動く、僕の運命のお話。 僕たちの行く末は、なんと、お題次第!? (お題次第で話が進みますので、詳細に書けなかったり、飛んだり、やきもきする所があるかと思います…ご了承を) *ブログにて、キャライメージ画を載せております。(メーカーで作成) もしご興味がありましたら、見てやって下さい。 あるアプリでお題小説チャレンジをしています 毎日チームリーダーが3つのお題を出し、それを全て使ってSSを作ります その中で生まれたお話 何だか勿体ないので上げる事にしました 見切り発車で始まった為、どうなるか作者もわかりません… 毎日更新出来るように頑張ります! 注:タイトルにあるのがお題です

運命の息吹

梅川 ノン
BL
ルシアは、国王とオメガの番の間に生まれるが、オメガのため王子とは認められず、密やかに育つ。 美しく育ったルシアは、父王亡きあと国王になった兄王の番になる。 兄王に溺愛されたルシアは、兄王の庇護のもと穏やかに暮らしていたが、運命のアルファと出会う。 ルシアの運命のアルファとは……。 西洋の中世を想定とした、オメガバースですが、かなりの独自視点、想定が入ります。あくまでも私独自の創作オメガバースと思ってください。楽しんでいただければ幸いです。

ふた想い

悠木全(#zen)
BL
金沢冬真は親友の相原叶芽に思いを寄せている。 だが叶芽は合コンのセッティングばかりして、自分は絶対に参加しなかった。 叶芽が合コンに来ない理由は「酒」に関係しているようで。 誘っても絶対に呑まない叶芽を不思議に思っていた冬真だが。ある日、強引な先輩に誘われた飲み会で、叶芽のちょっとした秘密を知ってしまう。 *基本は叶芽を中心に話が展開されますが、冬真視点から始まります。 (表紙絵はフリーソフトを使っています。タイトルや作品は自作です)

秋風の色

梅川 ノン
BL
兄彰久は、長年の思いを成就させて蒼と結ばれた。 しかし、蒼に思いを抱いていたのは尚久も同じであった。叶わなかった蒼への想い。その空虚な心を抱いたまま尚久は帰国する。 渡米から九年、蒼の結婚から四年半が過ぎていた。外科医として、兄に負けない技術を身に着けての帰国だった。 帰国した尚久は、二人目の患者として尚希と出会う。尚希は十五歳のベータの少年。 どこか寂しげで、おとなしい尚希のことが気にかかり、尚久はプライベートでも会うようになる。 初めは恋ではなかったが…… エリートアルファと、平凡なベータの恋。攻めが十二歳年上のオメガバースです。 「春風の香」の攻め彰久の弟尚久の恋の物語になります。「春風の香」の外伝になります。単独でも読めますが、「春風の香」を読んでいただくと、より楽しんでもらえるのではと思います。

僕がそばにいる理由

腐男子ミルク
BL
佐藤裕貴はΩとして生まれた21歳の男性。αの夫と結婚し、表向きは穏やかな夫婦生活を送っているが、その実態は不完全なものだった。夫は裕貴を愛していると口にしながらも、家事や家庭の負担はすべて裕貴に押し付け、自分は何もしない。それでいて、裕貴が他の誰かと関わることには異常なほど敏感で束縛が激しい。性的な関係もないまま、裕貴は愛情とは何か、本当に満たされるとはどういうことかを見失いつつあった。 そんな中、裕貴の職場に新人看護師・宮野歩夢が配属される。歩夢は裕貴がΩであることを本能的に察しながらも、その事実を意に介さず、ただ一人の人間として接してくれるαだった。歩夢の純粋な優しさと、裕貴をありのまま受け入れる態度に触れた裕貴は、心の奥底にしまい込んでいた孤独と向き合わざるを得なくなる。歩夢と過ごす時間を重ねるうちに、彼の存在が裕貴にとって特別なものとなっていくのを感じていた。 しかし、裕貴は既婚者であり、夫との関係や社会的な立場に縛られている。愛情、義務、そしてΩとしての本能――複雑に絡み合う感情の中で、裕貴は自分にとって「真実の幸せ」とは何なのか、そしてその幸せを追い求める覚悟があるのかを問い始める。 束縛の中で見失っていた自分を取り戻し、裕貴が選び取る未来とは――。 愛と本能、自由と束縛が交錯するオメガバースの物語。

切なくて、恋しくて〜zielstrebige Liebe〜

水無瀬 蒼
BL
カフェオーナーである松倉湊斗(まつくらみなと)は高校生の頃から1人の人をずっと思い続けている。その相手は横家大輝(よこやだいき)で、大輝は大学を中退してドイツへサッカー留学をしていた。その後湊斗は一度も会っていないし、連絡もない。それでも、引退を決めたら迎えに来るという言葉を信じてずっと待っている。 そんなある誕生日、お店の常連であるファッションデザイナーの吉澤優馬(よしざわゆうま)に告白されーー ------------------------------- 松倉湊斗(まつくらみなと) 27歳 カフェ・ルーシェのオーナー 横家大輝(よこやだいき) 27歳 サッカー選手 吉澤優馬(よしざわゆうま) 31歳 ファッションデザイナー ------------------------------- 2024.12.21~

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。