龍の檻と青年

はる

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鉄の扉が閉まったあとの、沈黙の残響。

息を潜めても無意味だった。

ここにはもう、奏多の呼吸しかない。

寒い――はずなのに、感覚が鈍い。

右足はとっくに痺れて、左足も床についたまま、硬い床に根を張ったように動かない。
 
背中は椅子に預けている。いや、もたれかかっているだけだ。

自立できていないことを、誰よりも本人が知っていた。

縄で後ろ手に縛られた手首。

強く締められた麻縄が、皮膚を切っている。
 
乾いて、血が張りついて、少し動くたびにビリビリと痛みが走った。
 
奏多にとって――心と身体どちらもが、悲鳴を上げていた。

奏多『桐谷さん……』

心の中で、何度も呼ぶ。その声は、口には出せない。
 
出してしまえば、何かが壊れる気がした。

頼ってしまえば、待つしかできなくなる。

けれど――それでも、呼びたかった。
 
彼にすがっていなければ、崩れてしまいそうだった。

不意に、足音が近づいてきた。

コツ、コツ、と硬質な革靴の音。一定のリズムで、まるで舞台に登場する役者のように。

 ――如月。

 扉が開いた。
 
空気が変わる。甘いようで、腐ったような、何とも言えない香水の香りが鼻をくすぐった。
 
暗がりの中、細身のスーツに身を包んだ若い男がゆっくりと入ってくる。

その顔に、感情はない。

ただ「お前を見るのが面白い」とでも言いたげな、余裕と冷笑の仮面だけが貼りついていた。

如月「……やぁ。調子はどう?」

奏多は返さない。

目線を上げようとしたが、まぶたが重い。動かすのも億劫だった。
 
けれど、それが気に障ったのか。如月は数歩、すっと距離を詰めて、膝をつく。

如月「なあ、無視すんの、性格悪いって思わない?」

顔を覗き込まれ、ペシペシと頬を軽く叩かれる。

香水の匂いが濃くなり、奏多は本能的に顔を背けた。

だが、髪をぐっと掴まれ、無理やり正面を向かされた。

如月「おい、こっち向けよ」

吐息が近い。

皮膚に熱が触れた気がした。

背筋がぞわりと震える。
 
目を合わせたくなくて、瞼を閉じた。だが、それすら許されなかった。

如月「見ろ。俺を見ろ。……お前が見てるのは、桐谷じゃねえ。いま、お前の前にいるのは俺だ。そうだろ?」

低い声が、耳の奥にまで侵入してくる。
 
指先が頬に触れ、親指で唇をなぞってきた。

奏多は、喉の奥で小さく息を呑む。嫌悪と恐怖が混ざり合い、胃の奥が冷える。
 
けれど、逃げられない。

縛られた身体も、弱った足も、すべてがこの場に縫い留められていた。

如月「……“壊れそう”なのに、よく頑張ってるよな。精神病持ちで、足もまともに動かねえのに。……えらいえらい」

まるで子どもをからかうような口調だった。

だけど、そこに優しさはない。

あったのは、“残酷な理解”だった。
 
如月は知っている。奏多が、ただの若い男じゃないことを。

「弱い」という事実が、どれほど奏多を縛っているかを。

如月「でもな、奏多。お前、もうちょいで本当に壊れるぜ?」

如月「というか、もう堕ちた方が苦しまずに済む。」

その言葉に、鼓動が跳ねた。
 
「壊す」ではない。「壊れる」と言ったのだ。如月は、奏多の中にある“脆さ”を見透かしていた。  

精神が、身体が、もたないことを――まるで楽しんでいるように。

如月が立ち上がり、奏多を見下ろす。

如月「なあ。お前が壊れて、戻れなくなったら……桐谷、どうすっかなぁ」

その言葉が、最も奏多の胸を抉った。
 
戻れなくなったら、見捨てられる?
 
手を出されて、汚されて、どこにも行けなくなったら――もう、あの人のそばにいられない?

それだけは、だめだ。

奏多「っ……やめ、ろ……」

かすれた声だった。声帯が、喉が、乾き切っていて、ただの空気のように漏れた声。

だが、如月は嬉しそうに目を細めた。

如月「お。やっと鳴いた」

頬に指が触れる。ゆっくりと顎を撫でながら、まるで所有物でも撫でるように。

如月「ほら、壊れる瞬間って綺麗なんだよ。心も、体も。きっとお前、綺麗に壊れる。見てみたくなるよな、普通」

奏多は目を伏せた。見せたくない。絶対に。
 
壊れるのは、自分のせいじゃない。

でも、壊れてしまったら、桐谷に“捨てられる”のは、自分の責任になる。

――来て、桐谷さん。

声にならない祈りを、もう一度、心の奥で叫んだ。
 
熱が、こめかみに集まる。

泣いていないのに、涙が頬を伝う。

身体が、勝手に恐怖を記憶している。

如月の笑みが深くなる。
 

壊れる寸前の音が、部屋の空気に、確かに響いていた。
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