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第1話:静寂を求めた先のノイズ
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世界はいつだって、無駄な情報(ノイズ)で溢れかえっている。
教室の笑い声、廊下を走る足音、窓の外から聞こえるグラウンドの喧騒。それらは物理的な音の振動として鼓膜を揺らす。だが、俺――八雲零士(やくも れいじ)にとっての「ノイズ」は、それだけではない。
視界の端を過ぎる、黒い靄。 誰もいないはずの理科準備室から漏れ出る、湿った怨嗟の声。 校庭の桜の木の下で、何十年も誰かを待ち続けている白い影。
それらは、普通の人間には知覚できない「死」の残滓だ。 俺にはそれらが視える。聞こえる。そしてあろうことか、連中が発する独特の冷気や圧迫感さえも肌で感じてしまう。 幼い頃から続くこの体質を、俺は呪いとも才能とも思っていない。ただただ、平穏な高校生活を送る上で邪魔なだけの、処理しきれないバグのようなものだ。
だから俺は、徹底した「無視」を貫くことにしている。 視えても視えないフリ。聞こえても聞こえないフリ。関わらなければ、彼らは俺を「ただの通りすがり」として認識し、害をなすことはない。そうやって俺は、今日まで平穏を勝ち取ってきた。
私立青藍高校に入学して二週間。 俺が求めていたのは、放課後の静寂だった。 クラスメイトの誘いは適当な理由をつけて断り、部活動強制参加という校則を満たすためだけの場所を探し歩いた。運動部は論外、文化部も活動が活発なところは「ノイズ」が多い。
そして辿り着いたのが、特別校舎の最上階。 普段はあまり使われないこの階の、さらに廊下の突き当たりにある一室だった。
「……ここか」
目の前にある古びた引き戸には、『オカルト部』と書かれたプレートが斜めにぶら下がっている。 事前に調べた情報によれば、部員数はゼロ。廃部寸前――いや、実質的には廃部状態だが、書類上だけ存続している幽霊部活だそうだ。 皮肉な名前だが、環境は最高だ。部員がいないなら、人間関係の煩わしさはない。オカルトなんて胡散臭い名前の場所には、普通の生徒は寄り付かない。そして何より、この部屋からは「嫌な気配」がしなかった。
俺にとっての特等席。 聖域となるべき場所。
俺は安堵の息を一つ吐き出し、静かに手をかけ、その引き戸を開けた。
ガラララ……と、乾いた音が廊下に響く。
西日が差し込む教室。舞い上がる埃が、オレンジ色の光の中でキラキラと踊っている。 部屋の中央には長机が一つと、パイプ椅子が数脚。壁際には乱雑に積まれた段ボール箱や、怪しげな水晶玉、破れたタロットカードなどが放置されていた。 静かだ。 完璧な静寂が、そこにあった。
「――あ、また誰か来た」
その、鈴を転がすような声が聞こえるまでは。
2
俺は動きを止めた。 視線だけを動かし、声の主を探す。 窓際。一番西日が強く差し込む場所に、彼女はいた。
旧式の制服に身を包んだ、小柄な少女だった。 肩まで伸びた髪は光を透かして栗色に輝き、大きな瞳は退屈そうにこちらを見ている。窓枠に腰掛け、足をぷらぷらとさせている姿は、まるで絵画のように幻想的で――そして、決定的に「異質」だった。
(……やられた)
俺は心の中で舌打ちをした。 彼女の足元には、影がなかった。 西日は強烈だ。机も椅子も、長く黒い影を床に落としている。だが、彼女だけが、光の中に溶け込むように存在していた。
幽霊だ。 しかも、そこらの浮遊霊とは格が違う。姿形がここまで鮮明で、なおかつ自我を持って喋るタイプ。一番厄介な「地縛霊」の類だ。 どうりで、この部屋から「嫌な気配」がしなかったわけだ。強力な主がいる場所には、雑魚の霊は寄り付かない。
「ねえ、そこの君。入るならドア閉めてくれない? 廊下の風が入ってきて寒……くはないんだけど、なんとなく気分的に」
少女は俺に向かって話しかけてきた。 だが、俺は反応しない。反応してはいけない。 ここで視線を合わせれば、「視える人間」だとバレる。そうなれば最後、俺の平穏な放課後は、彼女の暇つぶしや未練解消のためのパシリ生活へと変貌するだろう。
俺は視線を彼女から外し、何事もなかったかのように部屋へと足を踏み入れた。 そして、背後のドアを無造作に閉める。
「あ、閉めてくれた。ありがとー」
彼女の声が弾む。 俺はそのまま、彼女がいる窓際とは反対側の、部屋の隅にあるロッカーへと向かった。 ポケットから、予め用意しておいた入部届を取り出す。これを顧問――確か、雨宮とかいう化学教師だ――に提出すれば手続きは完了だが、とりあえず部室に「私の居場所」を確保しておきたかった。
「……ふーん。無視かぁ」
背後から、不満げな声が聞こえる。 俺は鞄を長机の上に置き、パイプ椅子を引き出した。 座り、文庫本を取り出す。タイトルは『深淵の魔術師』。ハイファンタジーの古典的名作だ。
「ねえねえ、聞こえてないの? それとも視えてないの?」
声が近づいてくる。 気配が移動する。窓際から、俺のすぐ側へ。 視界の端に、彼女のスカートの裾が見えた。
「ま、視えてないよねー。ここ3年、誰も私のこと気づかなかったし。たまーに『なんか寒気しない?』って逃げてく子はいたけどさ」
彼女は俺の机の向かい側に回り込み、身を乗り出した。 至近距離。 顔を上げれば、鼻先が触れそうな距離に彼女の顔があるはずだ。 だが、俺は本から目を離さない。ページをめくる指のリズムも崩さない。 心拍数を一定に保て。呼吸を乱すな。俺はただの、読書好きの無愛想な高校生だ。目の前に幽霊なんていない。
「うわ、この本おもしろそう。文字ちっさ。ねえ、私のこと透けてる? 今の私、どんな感じ? ちょっと薄くなってるかな?」
うるさい。 圧倒的にうるさい。 なんだこの幽霊は。地縛霊といえば、普通はもっとジメジメと恨みつらみを呟くものではないのか。「私が死んだのはお前のせいだ」とか「ここから出ていけ」とか。 なんだこの、「放課後に遊びに来た友達」みたいなテンションは。
「あーあ。つまんないの。せっかく新しい部員が入ってくれたと思ったのに」
彼女はつまらなそうに頬を膨らませると(その仕草が手に取るように分かってしまうのが悔しい)、俺の持っている文庫本を覗き込んできた。
「……ねえ。君、名前は?」
無視。
「私はね、白鷺瑞希(しらさぎ みずき)。よろしくね、後輩くん」
無視、無視。 彼女――瑞希は、反応のない俺に業を煮やしたのか、今度は俺の顔の前で手をひらひらと振った。
「おーい。ハロー。もしもーし」
白い手が、俺の視界を遮る。 半透明の指先。その向こうに活字が透けて見える。 鬱陶しい。これでは読書に集中できない。 俺は小さく溜息をつき、ページをめくるふりをして、少しだけ体の向きを変えた。
「あ、逃げた。ねえ、ちょっとくらい反応してよー。独り言も3年続くと流石に飽きるんだってば」
瑞希はめげない。むしろ、無視されればされるほど燃え上がるタイプらしい。 彼女は机の上にひょいと座り込んだ。行儀が悪い。幽霊だから重さはないのだろうが、視覚的には完全に俺の文庫本を踏みつけている。
「ねえってばー! こっち向いてよー!」
彼女が顔を近づけてくる。 甘いような、それでいてどこか冷たい、不思議な香りがした。 線香の匂いではない。花の香りに近いが、体温を感じさせない冷涼な空気。
(……限界か)
このままでは、今日一日が彼女の独り舞台で終わってしまう。 俺は作戦を変更することにした。 「視えない」ふりをして、自然にここから立ち去る。今日は一度退却し、明日からは耳栓を持ってくることにしよう。
俺はバタンと本を閉じた。 その音に、瑞希がビクリと肩を震わせる。
「うわっ、びっくりした……急に閉じるんだもん」
俺は無言で立ち上がり、鞄を肩にかけた。 椅子を戻す。 そして、出口へと向かう。
「え、帰っちゃうの? もう? まだ来たばっかりじゃん!」
瑞希が慌てて机から飛び降り、俺の後を追ってくる。 俺は歩みを緩めない。
「待ってよー! もう少し居てよ。誰かがいるだけで、空気美味しくなる気がするんだよ」
彼女は俺の前に回り込もうとする。 俺はそれを避けるように、右へステップを踏む。 彼女も右へ。 左へ。 彼女も左へ。
「……」 「あ! 今、私を避けたでしょ! 絶対避けたよね!?」
鋭い。 俺は表情筋を死守しながら、強引に直進する。 彼女は「通せんぼ」をするように、両手を広げて俺の前に立ちはだかった。
「行かせなーい! せっかくの生きた人間なんだから、私の話を聞くまで帰しません!」
子供のような理屈だ。 だが、俺は知っている。幽霊に物理的な干渉力はない。 ポルターガイストのような現象を起こせる強力な霊ならともかく、彼女のように自我がはっきりしすぎている霊は、逆に物理的な力を持たないことが多い。 つまり、このまま直進すれば、俺の体は彼女をすり抜ける。 あの、濡れた雑巾で顔を撫でられるような不快な冷気を我慢すればいいだけだ。
俺は覚悟を決めて、一歩を踏み出した。 彼女の体へ向かって。
「えっ……わ、ちょ、ぶつかる!」
瑞希が目を丸くする。 彼女自身も、自分がすり抜ける存在だと分かっているはずだ。なのに、反射的に身構えるような仕草を見せた。 その無防備さが、ほんの一瞬、俺の判断を鈍らせたのかもしれない。
俺の足が、床のわずかな段差に引っかかった。 バランスが崩れる。 前につんのめる体。 目の前には、両手を広げた瑞希。
(まずい――突っ込む)
すり抜けるときの寒気を覚悟して、俺は目を細めた。 瑞希もまた、「きゃっ」と小さな悲鳴を上げて目を瞑る。
そして。
ドンッ、という衝撃。 ふわりとした柔らかさ。 そして何より――伝わってきたのは、「冷気」ではなく、確かな「質量」だった。
「…………え?」 「…………は?」
時が止まったような静寂。 俺は、床に倒れ込んでいなかった。 俺の手は、瑞希の肩を掴んでいた。 瑞希の体は、俺に押し倒されるような形で、壁に受け止められていた。
至近距離で、二人の視線が交差する。 彼女の大きな瞳が、驚愕に見開かれている。 俺の手のひらから伝わる感触。 制服の生地の感触。その下にある華奢な骨格。 そして、驚くべきことに、じんわりとした微かな「温もり」さえ感じられた。
「……うそ」
瑞希が、震える声で呟いた。
「さ、触れてる……?」
俺はハッとして、慌てて手を離そうとした。 だが、その指先が彼女の腕を離れる瞬間、パチッという静電気のような刺激が走り、俺と彼女の間で何かが繋がったような感覚がした。
「あっ……!」
瑞希が小さく声を上げる。 彼女は自分の両手を見つめ、それから自分の頬に手を当てた。
「あたたかい……」
彼女の言葉は、まるで何年も忘れていた宝物を見つけたような響きを持っていた。
「体温だ……。私、あったかい。寒くない。ねえ、君!」
瑞希が猛然と顔を上げた。 さっきまでの「暇つぶしの相手」を見る目ではない。 砂漠でオアシスを見つけた遭難者のような、飢えた瞳だ。
「君、何者!? なんで私に触れるの!? ていうか、やっぱり私のこと視えてたでしょ!」
彼女が俺の胸倉を掴もうと手を伸ばしてくる。 その手は、今度はすり抜けなかった。 俺のブレザーをしっかりと握りしめている。
「……離せ」
俺はようやく口を開いた。 数時間ぶりに発した声は、自分でも驚くほど低く、動揺を孕んでいた。
「わ、やっぱり喋った! 声いいじゃん! じゃなくて!」
瑞希は興奮状態で、俺を揺さぶる。
「すごいよ君! 私、死んでからずっと、何に触ってもスカスカだったのに! 壁にもたれることもできなかったのに! 今、君を通じて感覚が戻ってきてる! すごいすごい!」
「うるさい。近い。離れろ」
俺は彼女の手首を掴み、引き剥がそうとした。 その瞬間、再び熱が移動する。 俺の体温が彼女へ流れ込み、彼女の「空虚」が俺の中に流れ込んでくるような、奇妙な循環。 それは不快ではなかった。むしろ、パズルのピースがハマるような、奇妙な充足感があった。
「やだ! 絶対離さない!」
瑞希は俺の手を逆に握り返してきた。 その力は意外なほど強く、そして必死だった。
「お願い、もう少しだけ! この『生きてる感じ』、忘れたくないの! 3年ぶりなんだよ!? アイスの味も、風の冷たさも、人の温もりも、全部忘れかけてたのに!」
彼女の瞳に、涙が浮かんでいた。 幽霊が泣くなんて聞いたことがない。だが、その涙はあまりにも綺麗で、俺の「無視する」という鉄の意志を容易く溶かしていった。
俺は大きく溜息をついた。 今日何度目かの、そしてこれまでで最も深い溜息を。
静寂を求めた俺の聖域は、どうやら最も騒がしい場所に変わってしまったらしい。 そして俺は、この「オカルト部」で、とんでもなく面倒な何かを背負い込んでしまったことを悟った。
「……名前」
俺は諦め混じりに言った。
「え?」
「名前だ。俺は八雲零士。……1年だ」
瑞希は一瞬きょとんとして、それからパァッと花が咲くような笑顔を見せた。 夕陽よりも眩しい、幽霊の笑顔。
「零士くん! よろしくね! 私、白鷺瑞希! オカルト部の幽霊部員・兼・本物の幽霊です!」
握られた手から伝わる熱は、まだ消えそうになかった。 こうして俺の、「日常」という名の皮を被った「非日常」が幕を開けたのだった。
教室の笑い声、廊下を走る足音、窓の外から聞こえるグラウンドの喧騒。それらは物理的な音の振動として鼓膜を揺らす。だが、俺――八雲零士(やくも れいじ)にとっての「ノイズ」は、それだけではない。
視界の端を過ぎる、黒い靄。 誰もいないはずの理科準備室から漏れ出る、湿った怨嗟の声。 校庭の桜の木の下で、何十年も誰かを待ち続けている白い影。
それらは、普通の人間には知覚できない「死」の残滓だ。 俺にはそれらが視える。聞こえる。そしてあろうことか、連中が発する独特の冷気や圧迫感さえも肌で感じてしまう。 幼い頃から続くこの体質を、俺は呪いとも才能とも思っていない。ただただ、平穏な高校生活を送る上で邪魔なだけの、処理しきれないバグのようなものだ。
だから俺は、徹底した「無視」を貫くことにしている。 視えても視えないフリ。聞こえても聞こえないフリ。関わらなければ、彼らは俺を「ただの通りすがり」として認識し、害をなすことはない。そうやって俺は、今日まで平穏を勝ち取ってきた。
私立青藍高校に入学して二週間。 俺が求めていたのは、放課後の静寂だった。 クラスメイトの誘いは適当な理由をつけて断り、部活動強制参加という校則を満たすためだけの場所を探し歩いた。運動部は論外、文化部も活動が活発なところは「ノイズ」が多い。
そして辿り着いたのが、特別校舎の最上階。 普段はあまり使われないこの階の、さらに廊下の突き当たりにある一室だった。
「……ここか」
目の前にある古びた引き戸には、『オカルト部』と書かれたプレートが斜めにぶら下がっている。 事前に調べた情報によれば、部員数はゼロ。廃部寸前――いや、実質的には廃部状態だが、書類上だけ存続している幽霊部活だそうだ。 皮肉な名前だが、環境は最高だ。部員がいないなら、人間関係の煩わしさはない。オカルトなんて胡散臭い名前の場所には、普通の生徒は寄り付かない。そして何より、この部屋からは「嫌な気配」がしなかった。
俺にとっての特等席。 聖域となるべき場所。
俺は安堵の息を一つ吐き出し、静かに手をかけ、その引き戸を開けた。
ガラララ……と、乾いた音が廊下に響く。
西日が差し込む教室。舞い上がる埃が、オレンジ色の光の中でキラキラと踊っている。 部屋の中央には長机が一つと、パイプ椅子が数脚。壁際には乱雑に積まれた段ボール箱や、怪しげな水晶玉、破れたタロットカードなどが放置されていた。 静かだ。 完璧な静寂が、そこにあった。
「――あ、また誰か来た」
その、鈴を転がすような声が聞こえるまでは。
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俺は動きを止めた。 視線だけを動かし、声の主を探す。 窓際。一番西日が強く差し込む場所に、彼女はいた。
旧式の制服に身を包んだ、小柄な少女だった。 肩まで伸びた髪は光を透かして栗色に輝き、大きな瞳は退屈そうにこちらを見ている。窓枠に腰掛け、足をぷらぷらとさせている姿は、まるで絵画のように幻想的で――そして、決定的に「異質」だった。
(……やられた)
俺は心の中で舌打ちをした。 彼女の足元には、影がなかった。 西日は強烈だ。机も椅子も、長く黒い影を床に落としている。だが、彼女だけが、光の中に溶け込むように存在していた。
幽霊だ。 しかも、そこらの浮遊霊とは格が違う。姿形がここまで鮮明で、なおかつ自我を持って喋るタイプ。一番厄介な「地縛霊」の類だ。 どうりで、この部屋から「嫌な気配」がしなかったわけだ。強力な主がいる場所には、雑魚の霊は寄り付かない。
「ねえ、そこの君。入るならドア閉めてくれない? 廊下の風が入ってきて寒……くはないんだけど、なんとなく気分的に」
少女は俺に向かって話しかけてきた。 だが、俺は反応しない。反応してはいけない。 ここで視線を合わせれば、「視える人間」だとバレる。そうなれば最後、俺の平穏な放課後は、彼女の暇つぶしや未練解消のためのパシリ生活へと変貌するだろう。
俺は視線を彼女から外し、何事もなかったかのように部屋へと足を踏み入れた。 そして、背後のドアを無造作に閉める。
「あ、閉めてくれた。ありがとー」
彼女の声が弾む。 俺はそのまま、彼女がいる窓際とは反対側の、部屋の隅にあるロッカーへと向かった。 ポケットから、予め用意しておいた入部届を取り出す。これを顧問――確か、雨宮とかいう化学教師だ――に提出すれば手続きは完了だが、とりあえず部室に「私の居場所」を確保しておきたかった。
「……ふーん。無視かぁ」
背後から、不満げな声が聞こえる。 俺は鞄を長机の上に置き、パイプ椅子を引き出した。 座り、文庫本を取り出す。タイトルは『深淵の魔術師』。ハイファンタジーの古典的名作だ。
「ねえねえ、聞こえてないの? それとも視えてないの?」
声が近づいてくる。 気配が移動する。窓際から、俺のすぐ側へ。 視界の端に、彼女のスカートの裾が見えた。
「ま、視えてないよねー。ここ3年、誰も私のこと気づかなかったし。たまーに『なんか寒気しない?』って逃げてく子はいたけどさ」
彼女は俺の机の向かい側に回り込み、身を乗り出した。 至近距離。 顔を上げれば、鼻先が触れそうな距離に彼女の顔があるはずだ。 だが、俺は本から目を離さない。ページをめくる指のリズムも崩さない。 心拍数を一定に保て。呼吸を乱すな。俺はただの、読書好きの無愛想な高校生だ。目の前に幽霊なんていない。
「うわ、この本おもしろそう。文字ちっさ。ねえ、私のこと透けてる? 今の私、どんな感じ? ちょっと薄くなってるかな?」
うるさい。 圧倒的にうるさい。 なんだこの幽霊は。地縛霊といえば、普通はもっとジメジメと恨みつらみを呟くものではないのか。「私が死んだのはお前のせいだ」とか「ここから出ていけ」とか。 なんだこの、「放課後に遊びに来た友達」みたいなテンションは。
「あーあ。つまんないの。せっかく新しい部員が入ってくれたと思ったのに」
彼女はつまらなそうに頬を膨らませると(その仕草が手に取るように分かってしまうのが悔しい)、俺の持っている文庫本を覗き込んできた。
「……ねえ。君、名前は?」
無視。
「私はね、白鷺瑞希(しらさぎ みずき)。よろしくね、後輩くん」
無視、無視。 彼女――瑞希は、反応のない俺に業を煮やしたのか、今度は俺の顔の前で手をひらひらと振った。
「おーい。ハロー。もしもーし」
白い手が、俺の視界を遮る。 半透明の指先。その向こうに活字が透けて見える。 鬱陶しい。これでは読書に集中できない。 俺は小さく溜息をつき、ページをめくるふりをして、少しだけ体の向きを変えた。
「あ、逃げた。ねえ、ちょっとくらい反応してよー。独り言も3年続くと流石に飽きるんだってば」
瑞希はめげない。むしろ、無視されればされるほど燃え上がるタイプらしい。 彼女は机の上にひょいと座り込んだ。行儀が悪い。幽霊だから重さはないのだろうが、視覚的には完全に俺の文庫本を踏みつけている。
「ねえってばー! こっち向いてよー!」
彼女が顔を近づけてくる。 甘いような、それでいてどこか冷たい、不思議な香りがした。 線香の匂いではない。花の香りに近いが、体温を感じさせない冷涼な空気。
(……限界か)
このままでは、今日一日が彼女の独り舞台で終わってしまう。 俺は作戦を変更することにした。 「視えない」ふりをして、自然にここから立ち去る。今日は一度退却し、明日からは耳栓を持ってくることにしよう。
俺はバタンと本を閉じた。 その音に、瑞希がビクリと肩を震わせる。
「うわっ、びっくりした……急に閉じるんだもん」
俺は無言で立ち上がり、鞄を肩にかけた。 椅子を戻す。 そして、出口へと向かう。
「え、帰っちゃうの? もう? まだ来たばっかりじゃん!」
瑞希が慌てて机から飛び降り、俺の後を追ってくる。 俺は歩みを緩めない。
「待ってよー! もう少し居てよ。誰かがいるだけで、空気美味しくなる気がするんだよ」
彼女は俺の前に回り込もうとする。 俺はそれを避けるように、右へステップを踏む。 彼女も右へ。 左へ。 彼女も左へ。
「……」 「あ! 今、私を避けたでしょ! 絶対避けたよね!?」
鋭い。 俺は表情筋を死守しながら、強引に直進する。 彼女は「通せんぼ」をするように、両手を広げて俺の前に立ちはだかった。
「行かせなーい! せっかくの生きた人間なんだから、私の話を聞くまで帰しません!」
子供のような理屈だ。 だが、俺は知っている。幽霊に物理的な干渉力はない。 ポルターガイストのような現象を起こせる強力な霊ならともかく、彼女のように自我がはっきりしすぎている霊は、逆に物理的な力を持たないことが多い。 つまり、このまま直進すれば、俺の体は彼女をすり抜ける。 あの、濡れた雑巾で顔を撫でられるような不快な冷気を我慢すればいいだけだ。
俺は覚悟を決めて、一歩を踏み出した。 彼女の体へ向かって。
「えっ……わ、ちょ、ぶつかる!」
瑞希が目を丸くする。 彼女自身も、自分がすり抜ける存在だと分かっているはずだ。なのに、反射的に身構えるような仕草を見せた。 その無防備さが、ほんの一瞬、俺の判断を鈍らせたのかもしれない。
俺の足が、床のわずかな段差に引っかかった。 バランスが崩れる。 前につんのめる体。 目の前には、両手を広げた瑞希。
(まずい――突っ込む)
すり抜けるときの寒気を覚悟して、俺は目を細めた。 瑞希もまた、「きゃっ」と小さな悲鳴を上げて目を瞑る。
そして。
ドンッ、という衝撃。 ふわりとした柔らかさ。 そして何より――伝わってきたのは、「冷気」ではなく、確かな「質量」だった。
「…………え?」 「…………は?」
時が止まったような静寂。 俺は、床に倒れ込んでいなかった。 俺の手は、瑞希の肩を掴んでいた。 瑞希の体は、俺に押し倒されるような形で、壁に受け止められていた。
至近距離で、二人の視線が交差する。 彼女の大きな瞳が、驚愕に見開かれている。 俺の手のひらから伝わる感触。 制服の生地の感触。その下にある華奢な骨格。 そして、驚くべきことに、じんわりとした微かな「温もり」さえ感じられた。
「……うそ」
瑞希が、震える声で呟いた。
「さ、触れてる……?」
俺はハッとして、慌てて手を離そうとした。 だが、その指先が彼女の腕を離れる瞬間、パチッという静電気のような刺激が走り、俺と彼女の間で何かが繋がったような感覚がした。
「あっ……!」
瑞希が小さく声を上げる。 彼女は自分の両手を見つめ、それから自分の頬に手を当てた。
「あたたかい……」
彼女の言葉は、まるで何年も忘れていた宝物を見つけたような響きを持っていた。
「体温だ……。私、あったかい。寒くない。ねえ、君!」
瑞希が猛然と顔を上げた。 さっきまでの「暇つぶしの相手」を見る目ではない。 砂漠でオアシスを見つけた遭難者のような、飢えた瞳だ。
「君、何者!? なんで私に触れるの!? ていうか、やっぱり私のこと視えてたでしょ!」
彼女が俺の胸倉を掴もうと手を伸ばしてくる。 その手は、今度はすり抜けなかった。 俺のブレザーをしっかりと握りしめている。
「……離せ」
俺はようやく口を開いた。 数時間ぶりに発した声は、自分でも驚くほど低く、動揺を孕んでいた。
「わ、やっぱり喋った! 声いいじゃん! じゃなくて!」
瑞希は興奮状態で、俺を揺さぶる。
「すごいよ君! 私、死んでからずっと、何に触ってもスカスカだったのに! 壁にもたれることもできなかったのに! 今、君を通じて感覚が戻ってきてる! すごいすごい!」
「うるさい。近い。離れろ」
俺は彼女の手首を掴み、引き剥がそうとした。 その瞬間、再び熱が移動する。 俺の体温が彼女へ流れ込み、彼女の「空虚」が俺の中に流れ込んでくるような、奇妙な循環。 それは不快ではなかった。むしろ、パズルのピースがハマるような、奇妙な充足感があった。
「やだ! 絶対離さない!」
瑞希は俺の手を逆に握り返してきた。 その力は意外なほど強く、そして必死だった。
「お願い、もう少しだけ! この『生きてる感じ』、忘れたくないの! 3年ぶりなんだよ!? アイスの味も、風の冷たさも、人の温もりも、全部忘れかけてたのに!」
彼女の瞳に、涙が浮かんでいた。 幽霊が泣くなんて聞いたことがない。だが、その涙はあまりにも綺麗で、俺の「無視する」という鉄の意志を容易く溶かしていった。
俺は大きく溜息をついた。 今日何度目かの、そしてこれまでで最も深い溜息を。
静寂を求めた俺の聖域は、どうやら最も騒がしい場所に変わってしまったらしい。 そして俺は、この「オカルト部」で、とんでもなく面倒な何かを背負い込んでしまったことを悟った。
「……名前」
俺は諦め混じりに言った。
「え?」
「名前だ。俺は八雲零士。……1年だ」
瑞希は一瞬きょとんとして、それからパァッと花が咲くような笑顔を見せた。 夕陽よりも眩しい、幽霊の笑顔。
「零士くん! よろしくね! 私、白鷺瑞希! オカルト部の幽霊部員・兼・本物の幽霊です!」
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偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。
スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!
冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!
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