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第6話:アルバムの中の不在証明
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化学準備室は、独特の匂いがした。 エタノールの刺激臭、古い紙の埃っぽさ、そして――コーヒーの焦げたような苦い香り。 だが、俺の鼻腔をくすぐっていたのは、それらに混じった微かな「甘い香り」だった。
「やあ、いらっしゃい。生徒会長まで来るなんて珍しいね」
白衣を羽織った男――オカルト部顧問、雨宮誠(あまみや まこと)は、ビーカーにお湯を注ぎながら穏やかに微笑んだ。 黒髪に縁なしの眼鏡。優しげな垂れ目。生徒からの人気が高いのも頷ける、人当たりの良さが滲み出ている。
「先生。突然お邪魔してすみません」 「いいよいいよ。部活動の相談かい? それとも進路相談?」
雨宮はコーヒー(ビーカーに入っているのがなんとも化学教師らしい)を三つ用意し、俺たちの前に差し出した。 俺と凛、そして俺の隣には、雨宮には見えていないはずの瑞希がいる。
「実は、相談というのはこれのことです」
凛がハンカチに包んだ「骨の杭」をテーブルの上に置いた。 カトリ、と乾いた音が響く。 雨宮は眼鏡の位置を指で直し、興味深そうにそれを覗き込んだ。
「ほう……これはまた、随分と趣味の悪い骨董品だね。どこで拾ったんだい?」 「音楽室です。これが原因で、例の怪異騒ぎが起きていました。先生は、この形状に見覚えはありませんか?」
凛の視線は鋭い。尋問官の目だ。 だが、雨宮は表情一つ変えずに首を傾げた。
「うーん、専門外だなあ。僕は科学の徒だからね。オカルト的な呪物には疎いんだよ」 「……そうですか。この杭には、人間の記憶や生気を吸い上げる術式が施されているようです。最近街で多発している『記憶喪失事件』とも関連があると考えています」
凛が鎌をかける。 雨宮は「へえ」と感心したように声を上げた。
「それは怖いね。でも、記憶を吸い上げるなんて、まるで魂の蒸留実験だね。不純物を取り除いて、純粋なエネルギーだけを抽出する……昔の錬金術師が夢見た『賢者の石』の生成過程に似ているかも」
ドキリとした。 「魂の蒸留」。その言葉選びが、妙に引っかかる。 俺は黙って雨宮の手元を見つめた。 彼がコーヒーに砂糖を入れている。角砂糖を一つ、二つ、三つ……四つ。
「先生、甘党なんですね」
俺が口を挟むと、雨宮は照れくさそうに笑った。
「ああ、頭を使うと糖分が欲しくなってね。……君もどうだい?」
彼が俺に微笑みかける。 その時、ふわりと香った。 コーヒーの湯気に乗って漂う、濃厚なバニラのような、あるいは腐りかけた果実のような甘い匂い。 ――昨日の記憶喪失の少女から感じた「残り香」と、完全に一致する匂い。
俺の中で、疑惑が確信へと変わる警鐘が鳴り響いた。 こいつだ。 この男が、何かを知っている。いや、関わっている。
「……いえ、俺はブラックで結構です」
俺は動揺を押し殺して答えた。 雨宮は「そうか」と残念そうに言い、ふと俺の隣――瑞希がいる何もない空間へと視線を向けた。
「ああ、そういえば八雲くん。オカルト部は最近、賑やかになったようだね」 「……え?」 「いや、なんとなくね。君の周りの空気が、以前より明るくなった気がしてね。いいことだよ、青春だ」
雨宮はにこりと目を細めた。 その瞳の奥が、一瞬だけ爬虫類のように冷たく光った気がしたのは、俺の考えすぎだろうか。 隣で瑞希が、「な、なんか今の言い方、見えてるっぽくなかった?」と怯えたように俺の袖を引いた。
2
化学準備室を出た後、俺たちは重苦しい沈黙の中で廊下を歩いていた。
「……食えない男ね」 凛が悔しげに呟く。 「証拠はないわ。でも、あの杭を見た時の反応……『知らない』と言いつつ、警戒心ゼロで触れようとした。普通なら気味悪がるはずよ」 「それに、あの匂いです」 俺は言った。 「被害者から感じた甘い匂いが、あの部屋からもしました。状況証拠としては十分怪しい」
「ええ。引き続きマークが必要ね。でもその前に……」 凛は足を止め、俺と、その隣の瑞希を見た。
「まずは『白鷺瑞希』という存在について、はっきりさせましょう」
凛の提案で、俺たちは生徒会室へと向かった。 生徒会室の奥には、過去数十年にわたる在校生のデータや卒業アルバムが保管されている書庫がある。 瑞希が「3年前に死んだ」という認識が正しいなら、3年前、あるいは4年前の資料に彼女の名前があるはずだ。
「ここよ」 凛が鍵を開け、埃っぽい小部屋に入る。 棚に並んだ分厚いファイル群。 瑞希はおずおずと中に入り、不安そうに周囲を見回した。
「……私、本当にここにいたのかな」 「今更何を言うんだ。制服だってウチの学校のものだし、学食の味も知ってたじゃないか」 「そうなんだけど……なんか、怖いんだよ。雨宮先生のところに行ってから、急に自分の中身が不確かに思えてきて……」
瑞希の身体が、チカチカとノイズのように明滅する。 彼女の存在強度が下がっている証拠だ。 俺はさりげなく手を伸ばし、彼女の指先に触れた。バッテリー充電。 瑞希はハッとして俺を見上げ、少しだけ安心したように息を吐いた。
「ありがとう、零士くん」
「あったわ」 凛が棚から一冊の重厚なアルバムを取り出した。 背表紙には『平成〇〇年度 卒業アルバム』とある。ちょうど3年前の卒業生のものだ。 もし瑞希が1年生で亡くなったなら、この学年の1年生の集合写真に載っているはずはない(死んでいるから)。 だが、在籍名簿や、あるいはその前の年の修学旅行の写真など、何かしらの痕跡はあるはずだ。
「白鷺瑞希……シ行……」 凛がページをめくる音が、静かな部屋に響く。
ペラリ。ペラリ。
「……ないわね」 「えっ?」
凛の手が止まる。 俺も横から覗き込んだ。
「名簿に名前がない。退学者リストにも、死亡者リストにも」 「そんな馬鹿な。見落としじゃないですか?」 「生徒会長の事務処理能力を舐めないで。……でも、おかしいわ」
凛はあるページを開いたまま、指で一点を示した。 それは、1年C組のクラス集合写真だった。 桜の木の下で、新入生たちが並んで笑顔を見せている。
「ここ」
凛が指差したのは、最前列の端。 女子生徒が座っている場所の隣だ。
「……なんだ、これ」
そこには、誰もいなかった。 いや、正確には「空間が歪んでいた」。 隣の生徒の袖が見切れているわけでも、背景の桜が見えているわけでもない。 まるで、その部分だけ写真の現像に失敗したかのように、黒いインクをぶちまけたような「 void(虚無)」が広がっていたのだ。 意図的に塗りつぶした黒塗りではない。世界そのものが、そこの情報を読み込めずにエラーを起こしたような、不自然な欠落。
「私の記憶が正しければ、集合写真は欠席者がいない限り、バランスよく配置されるはずよ。ここには明らかに『誰か』がいたスペースがある。でも、写真には写っていないし、名簿にも行ごとそのものが抜けている」
凛の声が低くなる。
「これは単なる記録漏れじゃない。……『存在の抹消』よ」
3
「そん、ざい……?」
瑞希の声が震えた。 彼女は恐る恐るアルバムに近づき、その「黒い穴」を見つめた。
「これ……私?」 「おそらくね。何らかの強力な術式によって、貴方が『この世にいた』という事実そのものが削り取られている。だから誰も貴方のことを覚えていないし、記録にも残っていない」
凛の分析は冷徹だが、的確だった。 早見が言っていた「神隠し」の究極系だ。 物理的に消えるだけでなく、因果律レベルで世界から弾き出されている。
「うそ……嘘だ……」
瑞希が後退る。 彼女の顔から表情が抜け落ちていく。
「私、生きてなかったの? ここにいなかったの? あんなに楽しかったのに、文化祭の準備もしたし、テスト勉強もしたのに……全部、嘘?」
バチッ、バチチッ! 瑞希の輪郭が激しく乱れ始めた。 テレビの砂嵐のように、彼女の姿が霧散しかけている。 自己認識(アイデンティティ)の崩壊。自分が「いた」という確証を失った幽霊は、その存在を維持できずに消滅してしまう。
「瑞希!」
俺は叫んだ。 凛も「まずい!」と身構える。 瑞希は頭を抱えて座り込んだ。
「わかんない、わかんないよぉ……私、誰? なんでここにいるの? 消えちゃう、消えちゃう……」
彼女の身体が透け、床が見え始める。 このままでは、彼女は「黒い穴」の一部になって完全に消え失せる。
俺は迷わず、彼女に向かって手を伸ばした。 幽霊に触れる能力。 それは単に「触れる」だけじゃない。第4話で俺は知った。 俺の認識と生命力を注ぎ込むことで、彼女をこの世界に「固定(アンカー)」する力だと。
「瑞希ッ!!」
俺は彼女の両肩をガシッと掴んだ。 冷たい。ドライアイスのように冷え切っている。 だが、俺は離さない。
「俺を見ろ! アルバムなんかどうでもいい!」 「れ、いじ……くん……?」 「お前はここにいる! 俺が視えてる! 俺が触ってる! お前は昨日、学食のクレープを食って『美味い』って笑っただろうが!」
俺は必死に叫んだ。 論理も理屈もない。ただの事実の羅列だ。
「記録になくても、記憶になくても、今ここにいるお前は本物だ! 俺が証明してやる! だから勝手に消えるな!」
俺の体温が、熱となって彼女の中に流れ込む。 ドクン、と大きな鼓動が伝わった。 砂嵐が収まり、瑞希の輪郭が再び鮮明になる。 彼女の瞳に、俺の顔がはっきりと映り込んだ。
「……零士くん」
瑞希の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。 それは冷たい幽霊の涙ではなく、温かい感情の雫に見えた。
「私……いて、いいの?」 「許可なんか取るな。お前はオカルト部の部員だ。部長命令だ、そこにいろ」
俺が乱暴に言うと、瑞希は泣き笑いのような顔をして、俺の胸に飛び込んできた。 ドンッ、と確かな衝撃。 俺は彼女を強く抱き止めた。
その様子を見ていた凛が、ふぅと深く息を吐き、眼鏡(かけていないが)の位置を直すような仕草をした。
「……やれやれ。私の目の前でイチャつくのはやめてほしいものね」 「緊急事態だったんですよ」 「分かっているわ。……でも、これで確定したわね」
凛の表情が引き締まる。
「白鷺瑞希を『消した』元凶がいる。そしてそれは、彼女の存在を抹消する必要があった人物――すなわち、彼女を何らかの『人柱』として利用した術者よ」
俺は瑞希の背中を撫でながら、暗い怒りが腹の底で渦巻くのを感じた。 雨宮誠。 あの優男の教師が、この小さな少女を贄(にえ)にし、その痕跡すらも世界から消し去ったというのか。
「……許さない」
俺は低く呟いた。 瑞希が顔を上げる。
「まずは瑞希の存在を安定させるのが先決だ。アイツとやり合うには、瑞希のメンタルが不安定だと危ない」 「どうするの?」 「『やり残したこと』リストだ。次は何だっけ?」
俺は瑞希の涙を指で拭ってやった。
「……水族館」 瑞希が鼻をすすりながら答えた。 「雨の日の水族館で、クラゲを見たい」
「よし、行こう。デートだ」 「えっ、デ、デート!?」
瑞希が真っ赤になる。 凛が「は?」と呆れた声を上げるが、俺は本気だった。 彼女の「生きた証」を一つずつ積み重ねて、何者にも消させない強固な実体にする。それが、今の俺たちにできる最大の反撃準備だ。
アルバムの中の空白。 そこに何があったのか、俺たちがこれから書き込んでやる。 オカルト部の活動日誌に、白鷺瑞希という少女が生きていた証拠を。
「やあ、いらっしゃい。生徒会長まで来るなんて珍しいね」
白衣を羽織った男――オカルト部顧問、雨宮誠(あまみや まこと)は、ビーカーにお湯を注ぎながら穏やかに微笑んだ。 黒髪に縁なしの眼鏡。優しげな垂れ目。生徒からの人気が高いのも頷ける、人当たりの良さが滲み出ている。
「先生。突然お邪魔してすみません」 「いいよいいよ。部活動の相談かい? それとも進路相談?」
雨宮はコーヒー(ビーカーに入っているのがなんとも化学教師らしい)を三つ用意し、俺たちの前に差し出した。 俺と凛、そして俺の隣には、雨宮には見えていないはずの瑞希がいる。
「実は、相談というのはこれのことです」
凛がハンカチに包んだ「骨の杭」をテーブルの上に置いた。 カトリ、と乾いた音が響く。 雨宮は眼鏡の位置を指で直し、興味深そうにそれを覗き込んだ。
「ほう……これはまた、随分と趣味の悪い骨董品だね。どこで拾ったんだい?」 「音楽室です。これが原因で、例の怪異騒ぎが起きていました。先生は、この形状に見覚えはありませんか?」
凛の視線は鋭い。尋問官の目だ。 だが、雨宮は表情一つ変えずに首を傾げた。
「うーん、専門外だなあ。僕は科学の徒だからね。オカルト的な呪物には疎いんだよ」 「……そうですか。この杭には、人間の記憶や生気を吸い上げる術式が施されているようです。最近街で多発している『記憶喪失事件』とも関連があると考えています」
凛が鎌をかける。 雨宮は「へえ」と感心したように声を上げた。
「それは怖いね。でも、記憶を吸い上げるなんて、まるで魂の蒸留実験だね。不純物を取り除いて、純粋なエネルギーだけを抽出する……昔の錬金術師が夢見た『賢者の石』の生成過程に似ているかも」
ドキリとした。 「魂の蒸留」。その言葉選びが、妙に引っかかる。 俺は黙って雨宮の手元を見つめた。 彼がコーヒーに砂糖を入れている。角砂糖を一つ、二つ、三つ……四つ。
「先生、甘党なんですね」
俺が口を挟むと、雨宮は照れくさそうに笑った。
「ああ、頭を使うと糖分が欲しくなってね。……君もどうだい?」
彼が俺に微笑みかける。 その時、ふわりと香った。 コーヒーの湯気に乗って漂う、濃厚なバニラのような、あるいは腐りかけた果実のような甘い匂い。 ――昨日の記憶喪失の少女から感じた「残り香」と、完全に一致する匂い。
俺の中で、疑惑が確信へと変わる警鐘が鳴り響いた。 こいつだ。 この男が、何かを知っている。いや、関わっている。
「……いえ、俺はブラックで結構です」
俺は動揺を押し殺して答えた。 雨宮は「そうか」と残念そうに言い、ふと俺の隣――瑞希がいる何もない空間へと視線を向けた。
「ああ、そういえば八雲くん。オカルト部は最近、賑やかになったようだね」 「……え?」 「いや、なんとなくね。君の周りの空気が、以前より明るくなった気がしてね。いいことだよ、青春だ」
雨宮はにこりと目を細めた。 その瞳の奥が、一瞬だけ爬虫類のように冷たく光った気がしたのは、俺の考えすぎだろうか。 隣で瑞希が、「な、なんか今の言い方、見えてるっぽくなかった?」と怯えたように俺の袖を引いた。
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化学準備室を出た後、俺たちは重苦しい沈黙の中で廊下を歩いていた。
「……食えない男ね」 凛が悔しげに呟く。 「証拠はないわ。でも、あの杭を見た時の反応……『知らない』と言いつつ、警戒心ゼロで触れようとした。普通なら気味悪がるはずよ」 「それに、あの匂いです」 俺は言った。 「被害者から感じた甘い匂いが、あの部屋からもしました。状況証拠としては十分怪しい」
「ええ。引き続きマークが必要ね。でもその前に……」 凛は足を止め、俺と、その隣の瑞希を見た。
「まずは『白鷺瑞希』という存在について、はっきりさせましょう」
凛の提案で、俺たちは生徒会室へと向かった。 生徒会室の奥には、過去数十年にわたる在校生のデータや卒業アルバムが保管されている書庫がある。 瑞希が「3年前に死んだ」という認識が正しいなら、3年前、あるいは4年前の資料に彼女の名前があるはずだ。
「ここよ」 凛が鍵を開け、埃っぽい小部屋に入る。 棚に並んだ分厚いファイル群。 瑞希はおずおずと中に入り、不安そうに周囲を見回した。
「……私、本当にここにいたのかな」 「今更何を言うんだ。制服だってウチの学校のものだし、学食の味も知ってたじゃないか」 「そうなんだけど……なんか、怖いんだよ。雨宮先生のところに行ってから、急に自分の中身が不確かに思えてきて……」
瑞希の身体が、チカチカとノイズのように明滅する。 彼女の存在強度が下がっている証拠だ。 俺はさりげなく手を伸ばし、彼女の指先に触れた。バッテリー充電。 瑞希はハッとして俺を見上げ、少しだけ安心したように息を吐いた。
「ありがとう、零士くん」
「あったわ」 凛が棚から一冊の重厚なアルバムを取り出した。 背表紙には『平成〇〇年度 卒業アルバム』とある。ちょうど3年前の卒業生のものだ。 もし瑞希が1年生で亡くなったなら、この学年の1年生の集合写真に載っているはずはない(死んでいるから)。 だが、在籍名簿や、あるいはその前の年の修学旅行の写真など、何かしらの痕跡はあるはずだ。
「白鷺瑞希……シ行……」 凛がページをめくる音が、静かな部屋に響く。
ペラリ。ペラリ。
「……ないわね」 「えっ?」
凛の手が止まる。 俺も横から覗き込んだ。
「名簿に名前がない。退学者リストにも、死亡者リストにも」 「そんな馬鹿な。見落としじゃないですか?」 「生徒会長の事務処理能力を舐めないで。……でも、おかしいわ」
凛はあるページを開いたまま、指で一点を示した。 それは、1年C組のクラス集合写真だった。 桜の木の下で、新入生たちが並んで笑顔を見せている。
「ここ」
凛が指差したのは、最前列の端。 女子生徒が座っている場所の隣だ。
「……なんだ、これ」
そこには、誰もいなかった。 いや、正確には「空間が歪んでいた」。 隣の生徒の袖が見切れているわけでも、背景の桜が見えているわけでもない。 まるで、その部分だけ写真の現像に失敗したかのように、黒いインクをぶちまけたような「 void(虚無)」が広がっていたのだ。 意図的に塗りつぶした黒塗りではない。世界そのものが、そこの情報を読み込めずにエラーを起こしたような、不自然な欠落。
「私の記憶が正しければ、集合写真は欠席者がいない限り、バランスよく配置されるはずよ。ここには明らかに『誰か』がいたスペースがある。でも、写真には写っていないし、名簿にも行ごとそのものが抜けている」
凛の声が低くなる。
「これは単なる記録漏れじゃない。……『存在の抹消』よ」
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「そん、ざい……?」
瑞希の声が震えた。 彼女は恐る恐るアルバムに近づき、その「黒い穴」を見つめた。
「これ……私?」 「おそらくね。何らかの強力な術式によって、貴方が『この世にいた』という事実そのものが削り取られている。だから誰も貴方のことを覚えていないし、記録にも残っていない」
凛の分析は冷徹だが、的確だった。 早見が言っていた「神隠し」の究極系だ。 物理的に消えるだけでなく、因果律レベルで世界から弾き出されている。
「うそ……嘘だ……」
瑞希が後退る。 彼女の顔から表情が抜け落ちていく。
「私、生きてなかったの? ここにいなかったの? あんなに楽しかったのに、文化祭の準備もしたし、テスト勉強もしたのに……全部、嘘?」
バチッ、バチチッ! 瑞希の輪郭が激しく乱れ始めた。 テレビの砂嵐のように、彼女の姿が霧散しかけている。 自己認識(アイデンティティ)の崩壊。自分が「いた」という確証を失った幽霊は、その存在を維持できずに消滅してしまう。
「瑞希!」
俺は叫んだ。 凛も「まずい!」と身構える。 瑞希は頭を抱えて座り込んだ。
「わかんない、わかんないよぉ……私、誰? なんでここにいるの? 消えちゃう、消えちゃう……」
彼女の身体が透け、床が見え始める。 このままでは、彼女は「黒い穴」の一部になって完全に消え失せる。
俺は迷わず、彼女に向かって手を伸ばした。 幽霊に触れる能力。 それは単に「触れる」だけじゃない。第4話で俺は知った。 俺の認識と生命力を注ぎ込むことで、彼女をこの世界に「固定(アンカー)」する力だと。
「瑞希ッ!!」
俺は彼女の両肩をガシッと掴んだ。 冷たい。ドライアイスのように冷え切っている。 だが、俺は離さない。
「俺を見ろ! アルバムなんかどうでもいい!」 「れ、いじ……くん……?」 「お前はここにいる! 俺が視えてる! 俺が触ってる! お前は昨日、学食のクレープを食って『美味い』って笑っただろうが!」
俺は必死に叫んだ。 論理も理屈もない。ただの事実の羅列だ。
「記録になくても、記憶になくても、今ここにいるお前は本物だ! 俺が証明してやる! だから勝手に消えるな!」
俺の体温が、熱となって彼女の中に流れ込む。 ドクン、と大きな鼓動が伝わった。 砂嵐が収まり、瑞希の輪郭が再び鮮明になる。 彼女の瞳に、俺の顔がはっきりと映り込んだ。
「……零士くん」
瑞希の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。 それは冷たい幽霊の涙ではなく、温かい感情の雫に見えた。
「私……いて、いいの?」 「許可なんか取るな。お前はオカルト部の部員だ。部長命令だ、そこにいろ」
俺が乱暴に言うと、瑞希は泣き笑いのような顔をして、俺の胸に飛び込んできた。 ドンッ、と確かな衝撃。 俺は彼女を強く抱き止めた。
その様子を見ていた凛が、ふぅと深く息を吐き、眼鏡(かけていないが)の位置を直すような仕草をした。
「……やれやれ。私の目の前でイチャつくのはやめてほしいものね」 「緊急事態だったんですよ」 「分かっているわ。……でも、これで確定したわね」
凛の表情が引き締まる。
「白鷺瑞希を『消した』元凶がいる。そしてそれは、彼女の存在を抹消する必要があった人物――すなわち、彼女を何らかの『人柱』として利用した術者よ」
俺は瑞希の背中を撫でながら、暗い怒りが腹の底で渦巻くのを感じた。 雨宮誠。 あの優男の教師が、この小さな少女を贄(にえ)にし、その痕跡すらも世界から消し去ったというのか。
「……許さない」
俺は低く呟いた。 瑞希が顔を上げる。
「まずは瑞希の存在を安定させるのが先決だ。アイツとやり合うには、瑞希のメンタルが不安定だと危ない」 「どうするの?」 「『やり残したこと』リストだ。次は何だっけ?」
俺は瑞希の涙を指で拭ってやった。
「……水族館」 瑞希が鼻をすすりながら答えた。 「雨の日の水族館で、クラゲを見たい」
「よし、行こう。デートだ」 「えっ、デ、デート!?」
瑞希が真っ赤になる。 凛が「は?」と呆れた声を上げるが、俺は本気だった。 彼女の「生きた証」を一つずつ積み重ねて、何者にも消させない強固な実体にする。それが、今の俺たちにできる最大の反撃準備だ。
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