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第8話:優しき顧問の仮面
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翌日のニュースは、水族館での集団失神騒ぎを「空調設備の故障による酸欠」と報じていた。
嘘だ。 俺は教室でスマートフォンを握りしめ、画面の中のアナウンサーを睨みつけた。 あれは事故じゃない。酸欠でもない。もっとおぞましい、人間の精神を根こそぎ刈り取る「捕食」だった。
「……八雲くん、顔色が悪いわよ」
昼休み。俺の席の横に、九条院凛が立っていた。 彼女もまた、目の下に薄っすらと隈を作っている。昨夜、水族館から脱出した後、彼女は関係各所への裏工作や結界の修復に奔走していたらしい。
「会長こそ。……昨日の被害者たちは?」
「命に別状はないわ。ただ、全員が『水族館に行った記憶』を失っている。それどころか、もっと大事な……家族との思い出や、恋人への感情といった『核』になる記憶が抜け落ちている人もいる」
ドン、と俺は机を叩いた。 クラスメイトが驚いてこちらを見るが、構っていられない。
「……やっぱり、あの男ですか」
「状況証拠は真っ黒よ。でも、決定的な証拠がない。それに、彼が『九条院家』の監視下にある術者ネットワークのデータベースに存在しないのも気になるわ。雨宮誠という男、経歴が綺麗すぎるのよ」
凛は声を潜めて言った。 底知れない不気味さ。あの優しげな笑顔の裏に、どれほどの闇を隠しているのか。
その時だった。 校内放送のチャイムが鳴り、無機質な声が響いた。
『1年C組、八雲零士くん。八雲零士くん。至急、特別棟化学準備室、雨宮教諭のもとまで来てください』
俺と凛は顔を見合わせた。 背筋に冷たいものが走る。 呼び出しだ。向こうから、接触してきた。
「……行きます」
俺は立ち上がった。
「待って、私も行くわ」
「いえ、会長は瑞希をお願いします」
俺は首を横に振った。
「瑞希は昨日の消耗で、部室で眠っています。あいつを一人にする方が危険だ」
昨日の水族館で、瑞希は存在を維持するのに相当なエネルギーを使った。今は泥のように眠っている。もしあの状態で敵に襲われたら、ひとたまりもない。
「……分かったわ。部室の警護は私が引き受ける。でも、何かあったらすぐに連絡しなさい。単独行動は厳禁よ」
凛の警告を背に、俺は教室を出た。 廊下の窓から見える空は、昨日の雨が嘘のように晴れ渡っている。 だが、俺の鼻には、まだあの時の――水族館に充満していた「腐ったバニラ」のような甘い匂いがこびりついて離れなかった。
2
化学準備室の扉は、いつも通り少しだけ開いていた。 中から漂ってくるのは、コーヒーの香り。 だが、今日だけは、その奥に隠しきれない「異臭」を感じ取ることができた。
「失礼します」
俺はノックもそこそこに、部屋へと足を踏み入れた。 夕方の西日が差し込む部屋。 実験器具が並ぶ棚の前に、白衣の男が立っていた。
「やあ、八雲くん。早かったね」
雨宮誠は、いつも通りの柔和な笑みを浮かべて振り返った。 手にはフラスコ。中では真っ赤な液体がボコボコと沸騰している。
「放送、聞きましたか?」
「うん。僕が呼んだからね」
雨宮はフラスコをバーナーから下ろし、作業台の上に置いた。
「昨日の水族館、大変だったそうだね。ニュースで見たよ。君たちも行ってたんだろう? 怪我はなかったかい?」
白々しい。 あまりにも自然な口調に、逆に吐き気が込み上げてくる。 俺は扉を背にして立ち、雨宮を睨み据えた。
「……先生。芝居はやめましょう」
「おや?」
「水族館にいたのは貴方だ。そして、街の人々から記憶や生気を奪っているのも貴方だ。……違いますか」
俺は単刀直入に切り込んだ。 雨宮の動きが止まる。 彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、ふぅ、と小さく息を吐いた。
そして、顔を上げた時。 そこにあったのは、生徒に向ける教師の顔ではなかった。 無機質で、冷徹で、そしてどこまでも深い狂気を孕んだ、観察者の目だった。
「……勘のいい子は嫌いじゃないよ、八雲くん」
声のトーンが変わった。 温かみが消え、冷たいメスで皮膚を撫でられるような感覚。
「正解だ。昨日の収穫は実に効率的だった。幸せに浸っている人間の魂ほど、純度が高くて抽出しやすいからね」
あっさりと認めた。 罪悪感など微塵もない口調だった。
「なんのためにあんなことを……!」
「研究のためさ。そして、救済のためだ」
雨宮は作業台に歩み寄り、赤い液体の入ったフラスコを愛おしそうに撫でた。
「ねえ、八雲くん。君は不思議に思わなかったかい? 白鷺瑞希という少女が、なぜ『死んだ時の記憶』を持っていないのか。なぜ、3年間も誰にも気づかれずに、この学校に縛り付けられていたのか」
心臓が早鐘を打つ。
「……知っているのか」
「知っているも何も」
雨宮は口角を吊り上げた。
「彼女を殺し、彼女の存在を世界から隠蔽し、魂をここに固定したのは――この僕だからね」
思考が一瞬、真っ白になった。 殺した? こいつが、瑞希を?
「……ふざけるなッ!!」
俺は激昂し、雨宮に掴みかかろうと踏み出した。 だが、身体が動かない。 空気がゼリーのように凝固し、俺の手足を拘束している。
「暴れないでくれたまえ。これは重要な『商談』なんだ」
雨宮が指をパチンと鳴らすと、甘い匂いが爆発的に濃くなった。 視界が揺らぐ。
「君は瑞希くんを大切に思っているようだね。昨日も必死に彼女の存在を繋ぎ止めていた。……素晴らしい能力だ。霊体に物理的に干渉し、エネルギーを譲渡する『接触(パス)』の力。君のような特異点が現れたのは、計算外の幸運だった」
雨宮は俺の周りをゆっくりと歩き始めた。
「君なら分かるはずだ。幽霊としての彼女がいかに不安定で、儚い存在か。君がずっと側にいて充電し続けなければ、彼女はいずれ消滅する」
それは、昨日の水族館で俺たちが直面した現実だった。 俺がいないと、瑞希は存在できない。
「そこで提案だ」
雨宮は俺の耳元で囁いた。
「彼女を、生き返らせたくはないかい?」
悪魔の囁きだった。
3
瑞希が、生き返る。 その言葉の響きは、あまりにも魅力的だった。 幽霊部員ではなくなる。普通の女子高生として、学食でクレープを食べ、水族館で笑い、そして俺の隣で――。
一瞬、俺の心が揺らいだのを、雨宮は見逃さなかった。
「君の力が必要なんだ。僕が集めた膨大なエネルギーを、彼女の魂に注ぎ込む『パイプ役』がね。君が手伝ってくれれば、成功率は100%になる」
雨宮の手が、俺の肩に置かれる。 甘い匂いが脳を麻痺させようとする。
だが。 俺の脳裏に浮かんだのは、昨日の瑞希の言葉だった。
『私、怖くなっちゃった』 『楽しければ楽しいほど……消えたくないって思っちゃう』
彼女は生きたがっていた。 だが、それ以上に彼女は――今の、俺たちとの時間を大切にしていた。
「……条件は?」
俺は低い声で尋ねた。
「その儀式には、どれだけのエネルギーが必要なんだ?」
「そうだね。街一つ分……およそ数万人の記憶と精神エネルギーがあれば足りるかな」
雨宮は、今日の天気の話でもするように答えた。
「街一つ……? 全員を廃人にする気か」
「『世界』から見れば些細な損失だよ。愛する一人を取り戻すためなら、安い代償だろう?」
狂っている。 こいつの思考回路は、根本から破綻している。 誰かを救うために、他の全員を犠牲にする。それを「安い」と言い切る傲慢さ。
瑞希は、そんな復活を望むだろうか。 自分が生き返るために、街中の人々が犠牲になったと知ったら。あのお人好しで、泣き虫で、優しい瑞希は――きっと、自分自身を呪うだろう。
「……断る」
俺は雨宮の手を振り払った。 拘束の術を、怒りの感情で無理やりねじ切る。
「瑞希は生き返りたいなんて願ってない。あいつが望んでるのは、『今』を笑って過ごすことだ。誰かを犠牲にした未来なんて、あいつは絶対に選ばない!」
俺は雨宮を睨みつけた。
「そして俺もだ。お前が作った血塗られた道を通って、あいつを連れ戻す気はない。……瑞希は、俺がこの手で守る」
部屋に沈黙が落ちた。 雨宮はしばらく俺を見つめていたが、やがて「はぁ」と深く、失望のため息をついた。
「……残念だよ。君なら、愛の重さを理解してくれると思ったのに」
彼が眼鏡を外す。 その瞳の奥には、ドロドロとした暗黒の感情が渦巻いていた。
「『あいつは選ばない』? 関係ないね。選ぶのは僕だ。彼女の意志などどうでもいい。彼女はただの『器』だ。……僕の大切な人を呼び戻すための、空っぽで綺麗な器であればいい」
「なに……?」
瑞希を生き返らせるんじゃない。 こいつは、瑞希の身体を使って、別の誰かを――。
「交渉決裂だね、八雲くん。……なら、君には退場してもらおうか」
雨宮が指を鳴らした。 瞬間、部屋の床から黒い影が噴き出した。 音楽室で見たものと同じ、いや、それ以上に濃密な「黒い靄」が、俺の足元に絡みつく。
「くっ……!」
動けない。今度は力づくでは解けない。 黒い影が蛇のように這い上がり、俺の首を締め上げようとする。
「文化祭の前夜祭。それが儀式の日だ。君はその特等席で、指を咥えて見ているといい」
雨宮が冷酷に見下ろす。 意識が遠のく。 甘い匂いと、窒息の苦しみの中で、俺の視界は暗転した。
――瑞希。 あいつだけは、渡さない。
俺の最後の思考は、闇の中に溶けていった。
嘘だ。 俺は教室でスマートフォンを握りしめ、画面の中のアナウンサーを睨みつけた。 あれは事故じゃない。酸欠でもない。もっとおぞましい、人間の精神を根こそぎ刈り取る「捕食」だった。
「……八雲くん、顔色が悪いわよ」
昼休み。俺の席の横に、九条院凛が立っていた。 彼女もまた、目の下に薄っすらと隈を作っている。昨夜、水族館から脱出した後、彼女は関係各所への裏工作や結界の修復に奔走していたらしい。
「会長こそ。……昨日の被害者たちは?」
「命に別状はないわ。ただ、全員が『水族館に行った記憶』を失っている。それどころか、もっと大事な……家族との思い出や、恋人への感情といった『核』になる記憶が抜け落ちている人もいる」
ドン、と俺は机を叩いた。 クラスメイトが驚いてこちらを見るが、構っていられない。
「……やっぱり、あの男ですか」
「状況証拠は真っ黒よ。でも、決定的な証拠がない。それに、彼が『九条院家』の監視下にある術者ネットワークのデータベースに存在しないのも気になるわ。雨宮誠という男、経歴が綺麗すぎるのよ」
凛は声を潜めて言った。 底知れない不気味さ。あの優しげな笑顔の裏に、どれほどの闇を隠しているのか。
その時だった。 校内放送のチャイムが鳴り、無機質な声が響いた。
『1年C組、八雲零士くん。八雲零士くん。至急、特別棟化学準備室、雨宮教諭のもとまで来てください』
俺と凛は顔を見合わせた。 背筋に冷たいものが走る。 呼び出しだ。向こうから、接触してきた。
「……行きます」
俺は立ち上がった。
「待って、私も行くわ」
「いえ、会長は瑞希をお願いします」
俺は首を横に振った。
「瑞希は昨日の消耗で、部室で眠っています。あいつを一人にする方が危険だ」
昨日の水族館で、瑞希は存在を維持するのに相当なエネルギーを使った。今は泥のように眠っている。もしあの状態で敵に襲われたら、ひとたまりもない。
「……分かったわ。部室の警護は私が引き受ける。でも、何かあったらすぐに連絡しなさい。単独行動は厳禁よ」
凛の警告を背に、俺は教室を出た。 廊下の窓から見える空は、昨日の雨が嘘のように晴れ渡っている。 だが、俺の鼻には、まだあの時の――水族館に充満していた「腐ったバニラ」のような甘い匂いがこびりついて離れなかった。
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化学準備室の扉は、いつも通り少しだけ開いていた。 中から漂ってくるのは、コーヒーの香り。 だが、今日だけは、その奥に隠しきれない「異臭」を感じ取ることができた。
「失礼します」
俺はノックもそこそこに、部屋へと足を踏み入れた。 夕方の西日が差し込む部屋。 実験器具が並ぶ棚の前に、白衣の男が立っていた。
「やあ、八雲くん。早かったね」
雨宮誠は、いつも通りの柔和な笑みを浮かべて振り返った。 手にはフラスコ。中では真っ赤な液体がボコボコと沸騰している。
「放送、聞きましたか?」
「うん。僕が呼んだからね」
雨宮はフラスコをバーナーから下ろし、作業台の上に置いた。
「昨日の水族館、大変だったそうだね。ニュースで見たよ。君たちも行ってたんだろう? 怪我はなかったかい?」
白々しい。 あまりにも自然な口調に、逆に吐き気が込み上げてくる。 俺は扉を背にして立ち、雨宮を睨み据えた。
「……先生。芝居はやめましょう」
「おや?」
「水族館にいたのは貴方だ。そして、街の人々から記憶や生気を奪っているのも貴方だ。……違いますか」
俺は単刀直入に切り込んだ。 雨宮の動きが止まる。 彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、ふぅ、と小さく息を吐いた。
そして、顔を上げた時。 そこにあったのは、生徒に向ける教師の顔ではなかった。 無機質で、冷徹で、そしてどこまでも深い狂気を孕んだ、観察者の目だった。
「……勘のいい子は嫌いじゃないよ、八雲くん」
声のトーンが変わった。 温かみが消え、冷たいメスで皮膚を撫でられるような感覚。
「正解だ。昨日の収穫は実に効率的だった。幸せに浸っている人間の魂ほど、純度が高くて抽出しやすいからね」
あっさりと認めた。 罪悪感など微塵もない口調だった。
「なんのためにあんなことを……!」
「研究のためさ。そして、救済のためだ」
雨宮は作業台に歩み寄り、赤い液体の入ったフラスコを愛おしそうに撫でた。
「ねえ、八雲くん。君は不思議に思わなかったかい? 白鷺瑞希という少女が、なぜ『死んだ時の記憶』を持っていないのか。なぜ、3年間も誰にも気づかれずに、この学校に縛り付けられていたのか」
心臓が早鐘を打つ。
「……知っているのか」
「知っているも何も」
雨宮は口角を吊り上げた。
「彼女を殺し、彼女の存在を世界から隠蔽し、魂をここに固定したのは――この僕だからね」
思考が一瞬、真っ白になった。 殺した? こいつが、瑞希を?
「……ふざけるなッ!!」
俺は激昂し、雨宮に掴みかかろうと踏み出した。 だが、身体が動かない。 空気がゼリーのように凝固し、俺の手足を拘束している。
「暴れないでくれたまえ。これは重要な『商談』なんだ」
雨宮が指をパチンと鳴らすと、甘い匂いが爆発的に濃くなった。 視界が揺らぐ。
「君は瑞希くんを大切に思っているようだね。昨日も必死に彼女の存在を繋ぎ止めていた。……素晴らしい能力だ。霊体に物理的に干渉し、エネルギーを譲渡する『接触(パス)』の力。君のような特異点が現れたのは、計算外の幸運だった」
雨宮は俺の周りをゆっくりと歩き始めた。
「君なら分かるはずだ。幽霊としての彼女がいかに不安定で、儚い存在か。君がずっと側にいて充電し続けなければ、彼女はいずれ消滅する」
それは、昨日の水族館で俺たちが直面した現実だった。 俺がいないと、瑞希は存在できない。
「そこで提案だ」
雨宮は俺の耳元で囁いた。
「彼女を、生き返らせたくはないかい?」
悪魔の囁きだった。
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瑞希が、生き返る。 その言葉の響きは、あまりにも魅力的だった。 幽霊部員ではなくなる。普通の女子高生として、学食でクレープを食べ、水族館で笑い、そして俺の隣で――。
一瞬、俺の心が揺らいだのを、雨宮は見逃さなかった。
「君の力が必要なんだ。僕が集めた膨大なエネルギーを、彼女の魂に注ぎ込む『パイプ役』がね。君が手伝ってくれれば、成功率は100%になる」
雨宮の手が、俺の肩に置かれる。 甘い匂いが脳を麻痺させようとする。
だが。 俺の脳裏に浮かんだのは、昨日の瑞希の言葉だった。
『私、怖くなっちゃった』 『楽しければ楽しいほど……消えたくないって思っちゃう』
彼女は生きたがっていた。 だが、それ以上に彼女は――今の、俺たちとの時間を大切にしていた。
「……条件は?」
俺は低い声で尋ねた。
「その儀式には、どれだけのエネルギーが必要なんだ?」
「そうだね。街一つ分……およそ数万人の記憶と精神エネルギーがあれば足りるかな」
雨宮は、今日の天気の話でもするように答えた。
「街一つ……? 全員を廃人にする気か」
「『世界』から見れば些細な損失だよ。愛する一人を取り戻すためなら、安い代償だろう?」
狂っている。 こいつの思考回路は、根本から破綻している。 誰かを救うために、他の全員を犠牲にする。それを「安い」と言い切る傲慢さ。
瑞希は、そんな復活を望むだろうか。 自分が生き返るために、街中の人々が犠牲になったと知ったら。あのお人好しで、泣き虫で、優しい瑞希は――きっと、自分自身を呪うだろう。
「……断る」
俺は雨宮の手を振り払った。 拘束の術を、怒りの感情で無理やりねじ切る。
「瑞希は生き返りたいなんて願ってない。あいつが望んでるのは、『今』を笑って過ごすことだ。誰かを犠牲にした未来なんて、あいつは絶対に選ばない!」
俺は雨宮を睨みつけた。
「そして俺もだ。お前が作った血塗られた道を通って、あいつを連れ戻す気はない。……瑞希は、俺がこの手で守る」
部屋に沈黙が落ちた。 雨宮はしばらく俺を見つめていたが、やがて「はぁ」と深く、失望のため息をついた。
「……残念だよ。君なら、愛の重さを理解してくれると思ったのに」
彼が眼鏡を外す。 その瞳の奥には、ドロドロとした暗黒の感情が渦巻いていた。
「『あいつは選ばない』? 関係ないね。選ぶのは僕だ。彼女の意志などどうでもいい。彼女はただの『器』だ。……僕の大切な人を呼び戻すための、空っぽで綺麗な器であればいい」
「なに……?」
瑞希を生き返らせるんじゃない。 こいつは、瑞希の身体を使って、別の誰かを――。
「交渉決裂だね、八雲くん。……なら、君には退場してもらおうか」
雨宮が指を鳴らした。 瞬間、部屋の床から黒い影が噴き出した。 音楽室で見たものと同じ、いや、それ以上に濃密な「黒い靄」が、俺の足元に絡みつく。
「くっ……!」
動けない。今度は力づくでは解けない。 黒い影が蛇のように這い上がり、俺の首を締め上げようとする。
「文化祭の前夜祭。それが儀式の日だ。君はその特等席で、指を咥えて見ているといい」
雨宮が冷酷に見下ろす。 意識が遠のく。 甘い匂いと、窒息の苦しみの中で、俺の視界は暗転した。
――瑞希。 あいつだけは、渡さない。
俺の最後の思考は、闇の中に溶けていった。
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