2 / 5
第一章 バラバラ死体——ときめきますね!
しおりを挟む
春の朝、白い光はまだ冷たい。窓の外がぼんやりと明るくなってきたことに気づいて、わたしは視線をあげた。時計を見ると五時をすぎたところだった。
――徹夜してしまったか。
小さくため息をついて、文庫本を閉じた。紺色の表紙が、つるりとした感触を指先に残す。いつもと同じ、柔らかな感触。
うつ伏せだった身体をベッドの上に起こし、軽く伸びをする。少し硬くなった身体に、酸素が巡っていく感覚がした。
鳥の声が聞こえる。都内といえど、早朝には鳥が鳴く。もっとも、以前住んでいた高尾の家ほどではない。それでもチィチィという声を聞いていると、なぜか新鮮な気持ちになるものだ。
――うむ。いい朝だ。
何か口に入れようと立ち上がったその時、遠くでサイレンが鳴った。
パトカー、か?
サイレンは次第に近づいてきて、家の前を通り過ぎ、やがて……少し離れたところで、止まった。
――事件?
いや、事故かもしれないし、ただの痴話喧嘩かもしれない。おじいちゃんが転んで大騒ぎ、とか、隣人の騒音で苦情が、とか、そういう通報があったのかもしれない。この日本で、そうそう物騒な事件なんて起きるわけがない。
そうは思うのに、こころは浮足立ってしまう。
窓を開けて様子を見ることにした。ベランダに出ると、明け方の冷たい空気が全身を包む。三月の終わり、早朝はまだ、寒さを感じる気温だ。
手すりから身を乗り出して外を眺める。……左手、坂下公園のほうが騒がしい。赤いランプが明滅している。なにやらざわついた気配もする。
――事件、だな?
わたしは部屋に戻り、上着を手にした。一体どんな事件が起きているのか、確かめないわけにはいかない。なぜなら……わたしは、探偵なのだから。
***
わたしの名前は瑪瑙可南子。都内の私立大学に通う学生だ。そして……探偵でもある。いや、探偵と言い切るには語弊があるな。正確には、探偵の姪、だ。
瑪瑙探偵事務所は、叔父の清隆が経営している。叔父様はわたしの唯一の肉親で、数年前、行先のないわたしを引き取ってくれた恩人だ。
桜見坂ビルと呼ばれるこの四階建てのビルを所有しており、二階が探偵事務所だ。一階は蕎麦屋に貸し出しており、三階と四階が居住フロア。私と叔父様の私室は、ここ、四階にある。
探偵業はさほど儲かってはいないようだが、わたしたちが生活に困ることはない。一生遊んで暮らせるだけの遺産を、それぞれが手にしているからだ。その点だけは、わたしも叔父様も、故人に感謝している。
***
部屋を出たところで叔父様と出くわした。叔父様は薄手の上着を着ている。やはり、サイレンで目が覚めたのか。
わたしは好奇心を抑えきれずに同意を求めた。
「事件ですね」
「ああ、可南子くん。おはよう」
呑気な返事をしてきたけれど、外に行くつもりなのはわかりきっている。わたしは、もう一度言った。
「事件、ですよね。行きましょう」
「君は残っていなさい。何があったのか、まだわからない」
叔父様の口調は柔らかかったけれど、その目は笑っていなかった。「でも」と言いかけたのを、飲み込む。「待っていろ」と言われたのなら、待っていなければいけない。自分の立場は、弁えている。
「わかりました」
我が家は、三階にある玄関を出た後、二階の探偵事務所を抜けて初めて外に出られる構造だ。靴を履いた叔父様が内階段を下りていくのを見送った。春の空気は感じられなかった。
* * *
どれくらい時間が経っただろうか。十五分――いや、三十分か。
叔父様は、戻ってこない。それなのに、サイレンの音が増えている。二台、三台……不穏な音は絡み合いながら鳴り響き、早朝の桜通りを駆け抜けていく。
「……これは、仕方ない、な」
誰にともなくつぶやいた。
待っていなさい、と言われたが、いつまで、とは言われていない。わたしはもう、じゅうぶんに待った。それなのに戻ってこないのだから、これは叔父様の問題である。
「うむ、仕方ないな」
わたしは改めて上着を手に、玄関を出た。
内階段を下り、無人の探偵事務所を抜ける。鍵をかけることは忘れなかった。そのまま外へと続く階段を下りる。一階の《蕎麦更科》は、もちろんまだ開店前だ。
外に出ると、春の風。ふわり、と薄紅色の花びらが目の前に舞い落ちた。桜通りの並木は、咲き始めたばかりの花を枝いっぱいにつけている。満開には、まだ少し早いが、それでも、こころ浮き立つ光景だ。
桜色の花の下を歩きながら、ふと思い出す。四年前、ここに越してきたときのことを。
その時は、もう桜の見ごろは終わっていた。花弁は散り、緑色になった枝が伸びるだけだった。残念に思っていたわたしに、叔父様が言った。
「葉桜は、いい。過ぎ去っても、そこにある証だ」
意味がわからなかったが――そして、今も真意はわからないが――なぜか心に残っている。
* * *
桜通りは、桜見坂ともいう。文字通り、緩やかな坂道だ。道路の左右には見事な桜並木が続き、車道に挟まれた中央部分には、坂の上から下まで伸びる細長い遊歩道がある。
整えられたアスファルトの上に障害物はなく、花見散歩にはうってつけだ。この遊歩道は、桜見坂公園と呼ばれている。
坂を下りきったところにあるのが、坂下公園だった。桜見坂公園からそのままつながる形で整備されており、一本の桜の大樹を中心に、円を描くようにベンチが置かれている。
どちらも、犬連れや高齢者に人気の場所だ。
その坂下公園には、人だかりができていた。それになにより……青いシート。あれは、遮蔽用のブルーシートだろう。その手前には黄色いテープで規制線も張られている。
――何が、あったんだろう。
わたしは、わくわくする気持ちを抑えられなかった。
事件……殺人?いや、まさか。
だが、あのシート、この警官の動き……何か重大な事件が起きたのは間違いない。
周囲を見回す。
叔父様の姿は、どこにもない。
誰か、事情を知っている人はいないものか……
「あの、殺人事件ですか?」
規制線のところに立つ警官に聞いてみた。が、無言で首を振られ、追い払われてしまった。
むぅ。一体何があったというんだ。
近所の人に聞くか、とあたりを見回す。知った顔は……いない。いや、そもそも誰が近所の人なのか、わからない。都会とはそういうものだ。
そのとき、ハンチング帽が視界に入った。ベージュのジャケットを着た、背の高い青年が立っている。スマホを構えて写真を撮っている。
――記者、か?
わたしは、瞬時にそう判断した。
うむ、きっとそうだ。
「あの」
わたしは彼に声をかけた。
「何があったんですか」
「殺人事件です」
青年は、こちらを見ることもなく答える。
スマホのレンズがきらりと光り、シャッター音が鳴った。
「バラバラ死体が見つかったそうですよ」
その言葉に、心臓が飛び跳ねる心地がした。
――バラバラ死体、だと?
ブルーシートの向こうに、バラバラの死体がある、と、そういうことか?
「それは……ときめきますね!」
興奮のあまり、思わず声に出して同意を求めてしまった。
青年が、こちらを見た。不審そうな表情を浮かべている。
――なんだ、その顔は。
青年は、わたしをじっと見つめたまま、何も言わない。
茶色の髪が朝日に揺れて綺麗だな、と、場違いなことを思った。
「あの……なにか」
おそるおそる問いかけると、青年は帽子を目深に被りなおした。
「いえ、なんでも」
そうしてそれだけ言うと、逃げるように去って行った。
――変な人間、だな。
取り残されたわたしは、小さくため息をついた。
何か、おかしなことをしてしまったのだろうか。
が、すぐに思い直す。
まぁ、わたしの美しさに見とれてしまったのかもしれない。よくあることだ。なにせわたしは、そこらの女優すら裸足で逃げ出すほどの美少女だからな。このトゥルントゥルンの長い黒髪、麗しい瞳に見つめられたら、そりゃあ逃げ出すのも致し方ない。
納得して頷いていた、その時。
「可南子くん、来ていたのか」
叔父様の声がした。
顔をあげると、公園の向こう側から、叔父様が戻ってくるところだった。
「待っていろと言ったのに、まったく、しかたのない子だな」
「叔父様が戻ってこないからですよ」
叔父様は周囲の人をかき分け、わたしの前までやってくると言った。
「さあ、帰るよ」
そのまま、坂下公園を後にする。わたしは足早の叔父様を追いかけながら、意気込んで聞いた。
「バラバラ死体って、本当ですか」
「しっ。大きな声で言わない」
慌てて声を落とす。
いわれてみれば、早朝に大声でいう単語ではないのかもしれない。
「ほんとう、ですか?」
改めて聞くと、叔父様はため息まじりに答えてくれた。
「本当だよ。驚いた。こんな平和な街でまさか」
おお!本当だったのか!
なんともいえない高揚感がわたしを満たす。
バラバラ死体……ロマンあふれる単語!
一体どんな感じでバラバラになっていたんだろう。
誰が、なぜ、どのように……!
具体的に想像しては、顔がにやけてしまうのを止められない。
そこで、ふと、気づいた。
――あれ?
「叔父様、見たんですか?」
「いいや、警官に話を聞いただけだ」
まぁ、それはそうだろう、と思った。いくら探偵だとはいえ、そんな簡単に現場を見せてもらえるはずはない。けれど――
わたしは、さきほどの警官の対応を思い出す。
「よく教えてくれましたね」
「詳しくは教えてくれなかったよ。でも、所轄の面々とは顔見知りだからね」
なるほど。さすが探偵事務所所長の叔父様だ。
わたしは、身を乗り出して言った。
「事件となると、捜査しますよね!」
そう!今こそ、瑪瑙探偵事務所の活躍を見せる時じゃないか!
わたしは全身の血が滾るのを感じていた。
しかし、叔父様の返事はそっけないものだった。
「いや、しないよ」
「なぜ!」
納得のいかないわたしは、強い口調で尋ねる。
叔父様は事務所の鍵を回すと、いつもの柔らかな笑顔でこう言った。
「依頼人がいない事件は関係ないよ。僕はボランティアじゃなくて、探偵だからね」
***
朝食は、パンとサラダだった。叔父様がサラダを作り、わたしはパンを焼く。焼きあがるタイミングを見計らうのが難しい。焦げる一歩手前で、取り出す。熟練の技が必要だ。……うむ、今日も完璧。
ふたりで食卓に座り、「いただきます」と言い合う。自然と、軽く両手を合わせる。それから静かに食べ始める。
叔父様はまず、コーヒーを一口飲んだ。わたしは、サラダにドレッシングをかける。時間は早いが、いつも通りの食卓。……まったく、いつもと同じ。
ああ、面白くない。
「どうしたんだい、可南子くん」
「どうしたも、こうしたもありません」
しゃくり、と、トーストを齧りながら叔父様が聞いてきた。わたしはミニトマトにフォークを突き刺して答える。
「捜査、しないなんて」
不満が漏れ出たような声だが、気にしない。実際、不満しかない。叔父様は淡々と答えた。
「言っただろう、僕は探偵だ」
「だからこそ、捜査するんじゃないですか」
「逆だよ。だからこそ、しない」
「依頼人が、いないから?」
「そのとおり」
叔父様はそれだけ言うと、コーヒーを飲んだ。
朝日が窓から入り込み、食卓のグラスに反射している。
依頼人のいない事件は捜査しない、か……。
――ん?それなら。
いいことを思いついた。
「じゃあ、依頼人がいれば……」
「君の依頼じゃ、動かないからね」
見透かされていた。
「……つまらない」
思わず、独り言ちる。
せっかくこんな身近に重大事件が起きたというのに、何もしないなんて。捜査に参加できないなんて。探偵として活躍できないなんて。
けれど、わたしは叔父様に養われている身だ。成人しているし金銭面では世話になっていないとはいえ、日常生活はお世話になりっぱなしである。だからこそ……逆らえない。
ああ……なんてことだ!
事件がわたしを待っているというのに!
「さて、デザートにしよう」
叔父様が苦笑して立ち上がり、キッチンに向かった。戻ってきたとき、その手にあったのは――イチゴ。
キラキラと輝く、紅い宝石。ブラボー、フルーツ!
「そうですね、食べましょう」
わたしはイチゴを、一粒つまんだ。口に、入れる。噛む。広がる、甘みと酸味。
うむ、これは、あまおう、だな。やはり、最高に美味い。
事件のことなど、この果物に比べたら些細なことに思えてくる。
わたしは、ほくほくとイチゴを食べた。
* * *
来客があったのは、九時半だった。
叔父様と一緒に事務所に降りていたわたしは、来客用のソファで本を読んでいた。
「瑪瑙探偵は、こちらですか」
扉を開けて入ってきたのは、二人の男。どちらも黒っぽいスーツを着ていて、姿勢がいい。一人は筋肉質の大柄な中年、もう一人は若く小柄な男。
「警視庁桜見坂署刑事課の久坂といいます」
「三島です」
二人は黒い手帳を取り出して掲げた。……警察手帳、か。
「先ほどの事件について、お聞きしたいことが」
年上の久坂刑事が、叔父様のデスクに歩み寄りながら訪ねた。三島刑事は、後ろに控えている。
「ええ、どうぞ。よろしければ、そちらで」
叔父様が立ち上がり、来客用のソファを指した。わたしは仕方なく立ち上がり、席を譲ることにする。観葉植物の隣で、二人の刑事とすれ違った。
「ああ、お構いなく」
久坂刑事は、慣れた様子で来客用ソファに座る。隣に三島刑事。後からやってきた叔父様が向かいに座った。わたしはそのまま受付横の椅子に座る。ここなら、いても構わないだろう。話は聞けるけれど、姿は見えない。つまり、邪魔にはならない。
「事件のことは、ご存じで?」
「少し、伺いました。バラバラ遺体が見つかった、と」
叔父様と刑事たちが話しているのを、わたしは黙って聞いていた。
どうやら、遺体は赤いスーツケースに詰められていたらしい。発見されたのは今朝の五時ごろ。通報したのはジョギングをしていた男性。被害者の身元はまだわかっていない。
「今のところ、昨夜、公園にスーツケースがあったという目撃情報はありません」
若い三島刑事が言った。
叔父様が尋ねる。
「つまり、夜中に置かれたということですか」
「それなんですよね。瑪瑙さん、不審な車を見たとか、そういったことあります?」
久坂刑事は答えずに、問いに問いで返した。さて、叔父様はどう反応するのか……と思っていたら。
「そうですね……特に変わったことは……ないよね、可南子くん」
「ふぇっ」
唐突に名前を呼ばれて、変な声が出た。
「隠れて聞くなら、こっちに来なさい」
ばれていたか。
わたしは観葉植物の横から来客エリアを覗き込んだ。二人の刑事が、身を乗り出してこちらを見ている。
「姪の可南子です。意外と、鋭い子ですよ」
若い三島刑事が、「ほぅ」と小さな声を出した。久坂刑事は表情を変えない。
叔父様に手招きされて、わたしは隣に座った。
「えーっと、可南子さん、ですか。最近変わったこと、ありましたか」
「そうですね……」
わたしは、言った。
「イチゴが、高いですね」
由々しき変化だ。
「去年より明らかに高いですし、粒も小さい気がします。あと、あまおうと、とちおとめと、最近出回っている新品種の違いも分かりにくくてですね――」
「あ、もう結構です」
久坂刑事に止められた。
隣では、叔父様が笑いをこらえている。
……どういうことだ。意味がわからない。
「ま、とにかく」
久坂刑事が立ち上がり、三島刑事もそれに続く。
「何かありましたら、ご連絡ください」
そう言って軽く頭を下げると、二人の刑事は去って行った。
* * *
「……叔父様」
「なんだい?」
クックッ、と、まだ笑いをこらえている叔父様を睨みつける。
「わたしを、利用しましたね」
「さて、なんのことだか」
しらじらしい。刑事と話すのが面倒になって、わたしを巻き込んだんだろう。あの二人と叔父様の反応を見れば、それくらいはわかる。
「どうせなら、最初から同席させてくれれば」
「そうすれば、盗み聞きはしなかった?」
見ると、きらり、と、叔父様の目が光っていた。
うぅ……気まずい。
わたしは、膨れて言う。
「盗んでません……堂々と聞いてましたし」
「じゃあ、問題ないね」
そう言って、叔父様はまた、クックッと笑った。
ああ、もう。この人には敵わない。
だめだ、このままでは叔父様のペースから逃れられない。
「それにしても」
わたしは、話題を変えることにした。
「大変な事件ですね」
「捜査は、しないよ」
「それは、わかりました。でも、事件の概要は知りたいです」
「今、聞いていただろう」
「足りません。もっと詳細な内容をお願いします」
「報道を待つんだね」
「詳細は伏せられちゃうじゃないですか」
不満げに言うと、叔父様は笑顔のまま頷いた。
「そうかもしれないね」
「ですよね。今の刑事さんたちも、詳しくは話してくれないし」
「それはそうだろう」
叔父様はそれだけ言うと、所長席へと戻って行った。事務仕事が溜まっているのだろう。机の上には書類が何枚も重なっている。
「けちくさい。もっと教えてくれればいいのに」
ぶぅ、とこぼしたその時、階段を上ってくる足音が聞こえた。
――刑事が、戻ってきた?
そう思ったわたしは、叔父様が気づく前に扉に向かった。止められる前に、今度こそ詳しいことを聞き出してやる。
「おかえりなさい、刑事さん。お話なら……」
ドアを開けたそこに立っていたのは。
「あ、すいません。刑事じゃないです」
ハンチング帽の青年だった。
* * *
ベージュのジャケット、細身の体、無駄に高い身長。
「…………」
「…………」
わたしたちは、しばし無言で向かい合った。青みがかった瞳に見覚えがある気がしたが、思い出せない。きっと、気のせいだろう。
「……先ほどは、どうも」
その声は思ったよりも柔らかな響きだった。自然と警戒心が下がる。
「どうも」
わたしは後ろ手にドアを閉め、軽く頭を下げた。
「改めて――東雲将流といいます」
ニコッと笑顔を浮かべて、青年――東雲将流は、名刺を差し出した。受け取って眺める。雑誌か新聞の編集部らしい名前とロゴの下に、携帯番号、メールアドレス。肩書きは《記者》。
改めて、青年の顔を見る。年齢はわたしよりも上だろうか。いずれにせよ、若い。アルバイトか?
「記者、ですか」
「はい。まだ、見習いですけど」
ということは、内定済みの大学生、といったところか。
わたしは意気込んで尋ねた。
「例の事件のこと、詳しく知ってますか」
記者だというのなら、ある程度のことは知っているだろう。この際、刑事じゃなくても構わない。わたしは、事件の詳細を知りたいのだ。
しかし、青年は笑顔のまま、意外なことを言った。
「事件ではなくて――あなたに用事があるんです。瑪瑙可南子さん」
***
青みがかった瞳が、薄い光を吸い込む。
「数年前、山陰地方のある大物議員が亡くなりました」
わたしが口を開く前に、青年は話し始めた。
「汚職の疑惑があった彼の屋敷が火事になり、親族が全員亡くなった事件です。ご存じですよね?」
探るような瞳が、わたしを射抜く。
「……報道、されてましたね」
返答する声が少し掠れたのが、自分でもわかった。
青年は、何事もなかったかのように、続ける。
「あなたの、ご実家、ですよね」
胸が、ドクンと鳴った。
冷たい空気が、吹き抜けた気がした。
薄暗い雲。低い空。湿った風。潮騒。鼓動が、うるさい。
わたしは、息をのむ。青年が、何か続けようと口を開いた。
「あなたは……」
「人の……!」
とっさに、遮る。
そして、告げる。
「人のプライバシーに土足で踏み込むな。不愉快だ」
名刺を突き返すと、青年は一瞬黙り込んだ。けれど、すぐに言った。真剣な眼差しと口調だった。
「貴女のことが知りたいんです。話を聞かせてください」
「断る」
わたしは踵を返し、背を向けた。
そのまま、ドアを開ける。
話すことなど、なにもない。
――なにも。
「なんでもいい、連絡をください」
瞬間、左手に何かを押し付けられる。
無視して、ドアを閉めた。
向こう側の気配は、しばらくそこにあったけれど、やがて階段を下りる足音とともに消えていった。
手の中を見る。ぐしゃりと曲がった名刺があった。
――《記者》東雲将流。
ポケットに、押し込む。歪んだ紙の感触が、指先に残る。
不愉快だった。
もしかしたら、悲しかったのかもしれない。
よく、わからない。
ただ――胸の奥が、重たかった。
――徹夜してしまったか。
小さくため息をついて、文庫本を閉じた。紺色の表紙が、つるりとした感触を指先に残す。いつもと同じ、柔らかな感触。
うつ伏せだった身体をベッドの上に起こし、軽く伸びをする。少し硬くなった身体に、酸素が巡っていく感覚がした。
鳥の声が聞こえる。都内といえど、早朝には鳥が鳴く。もっとも、以前住んでいた高尾の家ほどではない。それでもチィチィという声を聞いていると、なぜか新鮮な気持ちになるものだ。
――うむ。いい朝だ。
何か口に入れようと立ち上がったその時、遠くでサイレンが鳴った。
パトカー、か?
サイレンは次第に近づいてきて、家の前を通り過ぎ、やがて……少し離れたところで、止まった。
――事件?
いや、事故かもしれないし、ただの痴話喧嘩かもしれない。おじいちゃんが転んで大騒ぎ、とか、隣人の騒音で苦情が、とか、そういう通報があったのかもしれない。この日本で、そうそう物騒な事件なんて起きるわけがない。
そうは思うのに、こころは浮足立ってしまう。
窓を開けて様子を見ることにした。ベランダに出ると、明け方の冷たい空気が全身を包む。三月の終わり、早朝はまだ、寒さを感じる気温だ。
手すりから身を乗り出して外を眺める。……左手、坂下公園のほうが騒がしい。赤いランプが明滅している。なにやらざわついた気配もする。
――事件、だな?
わたしは部屋に戻り、上着を手にした。一体どんな事件が起きているのか、確かめないわけにはいかない。なぜなら……わたしは、探偵なのだから。
***
わたしの名前は瑪瑙可南子。都内の私立大学に通う学生だ。そして……探偵でもある。いや、探偵と言い切るには語弊があるな。正確には、探偵の姪、だ。
瑪瑙探偵事務所は、叔父の清隆が経営している。叔父様はわたしの唯一の肉親で、数年前、行先のないわたしを引き取ってくれた恩人だ。
桜見坂ビルと呼ばれるこの四階建てのビルを所有しており、二階が探偵事務所だ。一階は蕎麦屋に貸し出しており、三階と四階が居住フロア。私と叔父様の私室は、ここ、四階にある。
探偵業はさほど儲かってはいないようだが、わたしたちが生活に困ることはない。一生遊んで暮らせるだけの遺産を、それぞれが手にしているからだ。その点だけは、わたしも叔父様も、故人に感謝している。
***
部屋を出たところで叔父様と出くわした。叔父様は薄手の上着を着ている。やはり、サイレンで目が覚めたのか。
わたしは好奇心を抑えきれずに同意を求めた。
「事件ですね」
「ああ、可南子くん。おはよう」
呑気な返事をしてきたけれど、外に行くつもりなのはわかりきっている。わたしは、もう一度言った。
「事件、ですよね。行きましょう」
「君は残っていなさい。何があったのか、まだわからない」
叔父様の口調は柔らかかったけれど、その目は笑っていなかった。「でも」と言いかけたのを、飲み込む。「待っていろ」と言われたのなら、待っていなければいけない。自分の立場は、弁えている。
「わかりました」
我が家は、三階にある玄関を出た後、二階の探偵事務所を抜けて初めて外に出られる構造だ。靴を履いた叔父様が内階段を下りていくのを見送った。春の空気は感じられなかった。
* * *
どれくらい時間が経っただろうか。十五分――いや、三十分か。
叔父様は、戻ってこない。それなのに、サイレンの音が増えている。二台、三台……不穏な音は絡み合いながら鳴り響き、早朝の桜通りを駆け抜けていく。
「……これは、仕方ない、な」
誰にともなくつぶやいた。
待っていなさい、と言われたが、いつまで、とは言われていない。わたしはもう、じゅうぶんに待った。それなのに戻ってこないのだから、これは叔父様の問題である。
「うむ、仕方ないな」
わたしは改めて上着を手に、玄関を出た。
内階段を下り、無人の探偵事務所を抜ける。鍵をかけることは忘れなかった。そのまま外へと続く階段を下りる。一階の《蕎麦更科》は、もちろんまだ開店前だ。
外に出ると、春の風。ふわり、と薄紅色の花びらが目の前に舞い落ちた。桜通りの並木は、咲き始めたばかりの花を枝いっぱいにつけている。満開には、まだ少し早いが、それでも、こころ浮き立つ光景だ。
桜色の花の下を歩きながら、ふと思い出す。四年前、ここに越してきたときのことを。
その時は、もう桜の見ごろは終わっていた。花弁は散り、緑色になった枝が伸びるだけだった。残念に思っていたわたしに、叔父様が言った。
「葉桜は、いい。過ぎ去っても、そこにある証だ」
意味がわからなかったが――そして、今も真意はわからないが――なぜか心に残っている。
* * *
桜通りは、桜見坂ともいう。文字通り、緩やかな坂道だ。道路の左右には見事な桜並木が続き、車道に挟まれた中央部分には、坂の上から下まで伸びる細長い遊歩道がある。
整えられたアスファルトの上に障害物はなく、花見散歩にはうってつけだ。この遊歩道は、桜見坂公園と呼ばれている。
坂を下りきったところにあるのが、坂下公園だった。桜見坂公園からそのままつながる形で整備されており、一本の桜の大樹を中心に、円を描くようにベンチが置かれている。
どちらも、犬連れや高齢者に人気の場所だ。
その坂下公園には、人だかりができていた。それになにより……青いシート。あれは、遮蔽用のブルーシートだろう。その手前には黄色いテープで規制線も張られている。
――何が、あったんだろう。
わたしは、わくわくする気持ちを抑えられなかった。
事件……殺人?いや、まさか。
だが、あのシート、この警官の動き……何か重大な事件が起きたのは間違いない。
周囲を見回す。
叔父様の姿は、どこにもない。
誰か、事情を知っている人はいないものか……
「あの、殺人事件ですか?」
規制線のところに立つ警官に聞いてみた。が、無言で首を振られ、追い払われてしまった。
むぅ。一体何があったというんだ。
近所の人に聞くか、とあたりを見回す。知った顔は……いない。いや、そもそも誰が近所の人なのか、わからない。都会とはそういうものだ。
そのとき、ハンチング帽が視界に入った。ベージュのジャケットを着た、背の高い青年が立っている。スマホを構えて写真を撮っている。
――記者、か?
わたしは、瞬時にそう判断した。
うむ、きっとそうだ。
「あの」
わたしは彼に声をかけた。
「何があったんですか」
「殺人事件です」
青年は、こちらを見ることもなく答える。
スマホのレンズがきらりと光り、シャッター音が鳴った。
「バラバラ死体が見つかったそうですよ」
その言葉に、心臓が飛び跳ねる心地がした。
――バラバラ死体、だと?
ブルーシートの向こうに、バラバラの死体がある、と、そういうことか?
「それは……ときめきますね!」
興奮のあまり、思わず声に出して同意を求めてしまった。
青年が、こちらを見た。不審そうな表情を浮かべている。
――なんだ、その顔は。
青年は、わたしをじっと見つめたまま、何も言わない。
茶色の髪が朝日に揺れて綺麗だな、と、場違いなことを思った。
「あの……なにか」
おそるおそる問いかけると、青年は帽子を目深に被りなおした。
「いえ、なんでも」
そうしてそれだけ言うと、逃げるように去って行った。
――変な人間、だな。
取り残されたわたしは、小さくため息をついた。
何か、おかしなことをしてしまったのだろうか。
が、すぐに思い直す。
まぁ、わたしの美しさに見とれてしまったのかもしれない。よくあることだ。なにせわたしは、そこらの女優すら裸足で逃げ出すほどの美少女だからな。このトゥルントゥルンの長い黒髪、麗しい瞳に見つめられたら、そりゃあ逃げ出すのも致し方ない。
納得して頷いていた、その時。
「可南子くん、来ていたのか」
叔父様の声がした。
顔をあげると、公園の向こう側から、叔父様が戻ってくるところだった。
「待っていろと言ったのに、まったく、しかたのない子だな」
「叔父様が戻ってこないからですよ」
叔父様は周囲の人をかき分け、わたしの前までやってくると言った。
「さあ、帰るよ」
そのまま、坂下公園を後にする。わたしは足早の叔父様を追いかけながら、意気込んで聞いた。
「バラバラ死体って、本当ですか」
「しっ。大きな声で言わない」
慌てて声を落とす。
いわれてみれば、早朝に大声でいう単語ではないのかもしれない。
「ほんとう、ですか?」
改めて聞くと、叔父様はため息まじりに答えてくれた。
「本当だよ。驚いた。こんな平和な街でまさか」
おお!本当だったのか!
なんともいえない高揚感がわたしを満たす。
バラバラ死体……ロマンあふれる単語!
一体どんな感じでバラバラになっていたんだろう。
誰が、なぜ、どのように……!
具体的に想像しては、顔がにやけてしまうのを止められない。
そこで、ふと、気づいた。
――あれ?
「叔父様、見たんですか?」
「いいや、警官に話を聞いただけだ」
まぁ、それはそうだろう、と思った。いくら探偵だとはいえ、そんな簡単に現場を見せてもらえるはずはない。けれど――
わたしは、さきほどの警官の対応を思い出す。
「よく教えてくれましたね」
「詳しくは教えてくれなかったよ。でも、所轄の面々とは顔見知りだからね」
なるほど。さすが探偵事務所所長の叔父様だ。
わたしは、身を乗り出して言った。
「事件となると、捜査しますよね!」
そう!今こそ、瑪瑙探偵事務所の活躍を見せる時じゃないか!
わたしは全身の血が滾るのを感じていた。
しかし、叔父様の返事はそっけないものだった。
「いや、しないよ」
「なぜ!」
納得のいかないわたしは、強い口調で尋ねる。
叔父様は事務所の鍵を回すと、いつもの柔らかな笑顔でこう言った。
「依頼人がいない事件は関係ないよ。僕はボランティアじゃなくて、探偵だからね」
***
朝食は、パンとサラダだった。叔父様がサラダを作り、わたしはパンを焼く。焼きあがるタイミングを見計らうのが難しい。焦げる一歩手前で、取り出す。熟練の技が必要だ。……うむ、今日も完璧。
ふたりで食卓に座り、「いただきます」と言い合う。自然と、軽く両手を合わせる。それから静かに食べ始める。
叔父様はまず、コーヒーを一口飲んだ。わたしは、サラダにドレッシングをかける。時間は早いが、いつも通りの食卓。……まったく、いつもと同じ。
ああ、面白くない。
「どうしたんだい、可南子くん」
「どうしたも、こうしたもありません」
しゃくり、と、トーストを齧りながら叔父様が聞いてきた。わたしはミニトマトにフォークを突き刺して答える。
「捜査、しないなんて」
不満が漏れ出たような声だが、気にしない。実際、不満しかない。叔父様は淡々と答えた。
「言っただろう、僕は探偵だ」
「だからこそ、捜査するんじゃないですか」
「逆だよ。だからこそ、しない」
「依頼人が、いないから?」
「そのとおり」
叔父様はそれだけ言うと、コーヒーを飲んだ。
朝日が窓から入り込み、食卓のグラスに反射している。
依頼人のいない事件は捜査しない、か……。
――ん?それなら。
いいことを思いついた。
「じゃあ、依頼人がいれば……」
「君の依頼じゃ、動かないからね」
見透かされていた。
「……つまらない」
思わず、独り言ちる。
せっかくこんな身近に重大事件が起きたというのに、何もしないなんて。捜査に参加できないなんて。探偵として活躍できないなんて。
けれど、わたしは叔父様に養われている身だ。成人しているし金銭面では世話になっていないとはいえ、日常生活はお世話になりっぱなしである。だからこそ……逆らえない。
ああ……なんてことだ!
事件がわたしを待っているというのに!
「さて、デザートにしよう」
叔父様が苦笑して立ち上がり、キッチンに向かった。戻ってきたとき、その手にあったのは――イチゴ。
キラキラと輝く、紅い宝石。ブラボー、フルーツ!
「そうですね、食べましょう」
わたしはイチゴを、一粒つまんだ。口に、入れる。噛む。広がる、甘みと酸味。
うむ、これは、あまおう、だな。やはり、最高に美味い。
事件のことなど、この果物に比べたら些細なことに思えてくる。
わたしは、ほくほくとイチゴを食べた。
* * *
来客があったのは、九時半だった。
叔父様と一緒に事務所に降りていたわたしは、来客用のソファで本を読んでいた。
「瑪瑙探偵は、こちらですか」
扉を開けて入ってきたのは、二人の男。どちらも黒っぽいスーツを着ていて、姿勢がいい。一人は筋肉質の大柄な中年、もう一人は若く小柄な男。
「警視庁桜見坂署刑事課の久坂といいます」
「三島です」
二人は黒い手帳を取り出して掲げた。……警察手帳、か。
「先ほどの事件について、お聞きしたいことが」
年上の久坂刑事が、叔父様のデスクに歩み寄りながら訪ねた。三島刑事は、後ろに控えている。
「ええ、どうぞ。よろしければ、そちらで」
叔父様が立ち上がり、来客用のソファを指した。わたしは仕方なく立ち上がり、席を譲ることにする。観葉植物の隣で、二人の刑事とすれ違った。
「ああ、お構いなく」
久坂刑事は、慣れた様子で来客用ソファに座る。隣に三島刑事。後からやってきた叔父様が向かいに座った。わたしはそのまま受付横の椅子に座る。ここなら、いても構わないだろう。話は聞けるけれど、姿は見えない。つまり、邪魔にはならない。
「事件のことは、ご存じで?」
「少し、伺いました。バラバラ遺体が見つかった、と」
叔父様と刑事たちが話しているのを、わたしは黙って聞いていた。
どうやら、遺体は赤いスーツケースに詰められていたらしい。発見されたのは今朝の五時ごろ。通報したのはジョギングをしていた男性。被害者の身元はまだわかっていない。
「今のところ、昨夜、公園にスーツケースがあったという目撃情報はありません」
若い三島刑事が言った。
叔父様が尋ねる。
「つまり、夜中に置かれたということですか」
「それなんですよね。瑪瑙さん、不審な車を見たとか、そういったことあります?」
久坂刑事は答えずに、問いに問いで返した。さて、叔父様はどう反応するのか……と思っていたら。
「そうですね……特に変わったことは……ないよね、可南子くん」
「ふぇっ」
唐突に名前を呼ばれて、変な声が出た。
「隠れて聞くなら、こっちに来なさい」
ばれていたか。
わたしは観葉植物の横から来客エリアを覗き込んだ。二人の刑事が、身を乗り出してこちらを見ている。
「姪の可南子です。意外と、鋭い子ですよ」
若い三島刑事が、「ほぅ」と小さな声を出した。久坂刑事は表情を変えない。
叔父様に手招きされて、わたしは隣に座った。
「えーっと、可南子さん、ですか。最近変わったこと、ありましたか」
「そうですね……」
わたしは、言った。
「イチゴが、高いですね」
由々しき変化だ。
「去年より明らかに高いですし、粒も小さい気がします。あと、あまおうと、とちおとめと、最近出回っている新品種の違いも分かりにくくてですね――」
「あ、もう結構です」
久坂刑事に止められた。
隣では、叔父様が笑いをこらえている。
……どういうことだ。意味がわからない。
「ま、とにかく」
久坂刑事が立ち上がり、三島刑事もそれに続く。
「何かありましたら、ご連絡ください」
そう言って軽く頭を下げると、二人の刑事は去って行った。
* * *
「……叔父様」
「なんだい?」
クックッ、と、まだ笑いをこらえている叔父様を睨みつける。
「わたしを、利用しましたね」
「さて、なんのことだか」
しらじらしい。刑事と話すのが面倒になって、わたしを巻き込んだんだろう。あの二人と叔父様の反応を見れば、それくらいはわかる。
「どうせなら、最初から同席させてくれれば」
「そうすれば、盗み聞きはしなかった?」
見ると、きらり、と、叔父様の目が光っていた。
うぅ……気まずい。
わたしは、膨れて言う。
「盗んでません……堂々と聞いてましたし」
「じゃあ、問題ないね」
そう言って、叔父様はまた、クックッと笑った。
ああ、もう。この人には敵わない。
だめだ、このままでは叔父様のペースから逃れられない。
「それにしても」
わたしは、話題を変えることにした。
「大変な事件ですね」
「捜査は、しないよ」
「それは、わかりました。でも、事件の概要は知りたいです」
「今、聞いていただろう」
「足りません。もっと詳細な内容をお願いします」
「報道を待つんだね」
「詳細は伏せられちゃうじゃないですか」
不満げに言うと、叔父様は笑顔のまま頷いた。
「そうかもしれないね」
「ですよね。今の刑事さんたちも、詳しくは話してくれないし」
「それはそうだろう」
叔父様はそれだけ言うと、所長席へと戻って行った。事務仕事が溜まっているのだろう。机の上には書類が何枚も重なっている。
「けちくさい。もっと教えてくれればいいのに」
ぶぅ、とこぼしたその時、階段を上ってくる足音が聞こえた。
――刑事が、戻ってきた?
そう思ったわたしは、叔父様が気づく前に扉に向かった。止められる前に、今度こそ詳しいことを聞き出してやる。
「おかえりなさい、刑事さん。お話なら……」
ドアを開けたそこに立っていたのは。
「あ、すいません。刑事じゃないです」
ハンチング帽の青年だった。
* * *
ベージュのジャケット、細身の体、無駄に高い身長。
「…………」
「…………」
わたしたちは、しばし無言で向かい合った。青みがかった瞳に見覚えがある気がしたが、思い出せない。きっと、気のせいだろう。
「……先ほどは、どうも」
その声は思ったよりも柔らかな響きだった。自然と警戒心が下がる。
「どうも」
わたしは後ろ手にドアを閉め、軽く頭を下げた。
「改めて――東雲将流といいます」
ニコッと笑顔を浮かべて、青年――東雲将流は、名刺を差し出した。受け取って眺める。雑誌か新聞の編集部らしい名前とロゴの下に、携帯番号、メールアドレス。肩書きは《記者》。
改めて、青年の顔を見る。年齢はわたしよりも上だろうか。いずれにせよ、若い。アルバイトか?
「記者、ですか」
「はい。まだ、見習いですけど」
ということは、内定済みの大学生、といったところか。
わたしは意気込んで尋ねた。
「例の事件のこと、詳しく知ってますか」
記者だというのなら、ある程度のことは知っているだろう。この際、刑事じゃなくても構わない。わたしは、事件の詳細を知りたいのだ。
しかし、青年は笑顔のまま、意外なことを言った。
「事件ではなくて――あなたに用事があるんです。瑪瑙可南子さん」
***
青みがかった瞳が、薄い光を吸い込む。
「数年前、山陰地方のある大物議員が亡くなりました」
わたしが口を開く前に、青年は話し始めた。
「汚職の疑惑があった彼の屋敷が火事になり、親族が全員亡くなった事件です。ご存じですよね?」
探るような瞳が、わたしを射抜く。
「……報道、されてましたね」
返答する声が少し掠れたのが、自分でもわかった。
青年は、何事もなかったかのように、続ける。
「あなたの、ご実家、ですよね」
胸が、ドクンと鳴った。
冷たい空気が、吹き抜けた気がした。
薄暗い雲。低い空。湿った風。潮騒。鼓動が、うるさい。
わたしは、息をのむ。青年が、何か続けようと口を開いた。
「あなたは……」
「人の……!」
とっさに、遮る。
そして、告げる。
「人のプライバシーに土足で踏み込むな。不愉快だ」
名刺を突き返すと、青年は一瞬黙り込んだ。けれど、すぐに言った。真剣な眼差しと口調だった。
「貴女のことが知りたいんです。話を聞かせてください」
「断る」
わたしは踵を返し、背を向けた。
そのまま、ドアを開ける。
話すことなど、なにもない。
――なにも。
「なんでもいい、連絡をください」
瞬間、左手に何かを押し付けられる。
無視して、ドアを閉めた。
向こう側の気配は、しばらくそこにあったけれど、やがて階段を下りる足音とともに消えていった。
手の中を見る。ぐしゃりと曲がった名刺があった。
――《記者》東雲将流。
ポケットに、押し込む。歪んだ紙の感触が、指先に残る。
不愉快だった。
もしかしたら、悲しかったのかもしれない。
よく、わからない。
ただ――胸の奥が、重たかった。
0
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結保証】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる