桜通りの殺人

月森朱音

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第一章 バラバラ死体——ときめきますね!

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 春の朝、白い光はまだ冷たい。窓の外がぼんやりと明るくなってきたことに気づいて、わたしは視線をあげた。時計を見ると五時をすぎたところだった。

 ――徹夜してしまったか。
 
 小さくため息をついて、文庫本を閉じた。紺色の表紙が、つるりとした感触を指先に残す。いつもと同じ、柔らかな感触。
 うつ伏せだった身体をベッドの上に起こし、軽く伸びをする。少し硬くなった身体に、酸素が巡っていく感覚がした。

 鳥の声が聞こえる。都内といえど、早朝には鳥が鳴く。もっとも、以前住んでいた高尾の家ほどではない。それでもチィチィという声を聞いていると、なぜか新鮮な気持ちになるものだ。

 ――うむ。いい朝だ。

 何か口に入れようと立ち上がったその時、遠くでサイレンが鳴った。
 パトカー、か?
 サイレンは次第に近づいてきて、家の前を通り過ぎ、やがて……少し離れたところで、止まった。

 ――事件?

 いや、事故かもしれないし、ただの痴話喧嘩かもしれない。おじいちゃんが転んで大騒ぎ、とか、隣人の騒音で苦情が、とか、そういう通報があったのかもしれない。この日本で、そうそう物騒な事件なんて起きるわけがない。
 そうは思うのに、こころは浮足立ってしまう。
 
 窓を開けて様子を見ることにした。ベランダに出ると、明け方の冷たい空気が全身を包む。三月の終わり、早朝はまだ、寒さを感じる気温だ。
 手すりから身を乗り出して外を眺める。……左手、坂下公園のほうが騒がしい。赤いランプが明滅している。なにやらざわついた気配もする。
 
 ――事件、だな?

 わたしは部屋に戻り、上着を手にした。一体どんな事件が起きているのか、確かめないわけにはいかない。なぜなら……わたしは、探偵なのだから。
 

***

 わたしの名前は瑪瑙可南子。都内の私立大学に通う学生だ。そして……探偵でもある。いや、探偵と言い切るには語弊があるな。正確には、探偵の姪、だ。
 瑪瑙探偵事務所は、叔父の清隆が経営している。叔父様はわたしの唯一の肉親で、数年前、行先のないわたしを引き取ってくれた恩人だ。
 桜見坂ビルと呼ばれるこの四階建てのビルを所有しており、二階が探偵事務所だ。一階は蕎麦屋に貸し出しており、三階と四階が居住フロア。私と叔父様の私室は、ここ、四階にある。
 探偵業はさほど儲かってはいないようだが、わたしたちが生活に困ることはない。一生遊んで暮らせるだけの遺産を、それぞれが手にしているからだ。その点だけは、わたしも叔父様も、故人に感謝している。

 
***

 
 部屋を出たところで叔父様と出くわした。叔父様は薄手の上着を着ている。やはり、サイレンで目が覚めたのか。

 わたしは好奇心を抑えきれずに同意を求めた。

「事件ですね」
「ああ、可南子くん。おはよう」

 呑気な返事をしてきたけれど、外に行くつもりなのはわかりきっている。わたしは、もう一度言った。

「事件、ですよね。行きましょう」
「君は残っていなさい。何があったのか、まだわからない」

 叔父様の口調は柔らかかったけれど、その目は笑っていなかった。「でも」と言いかけたのを、飲み込む。「待っていろ」と言われたのなら、待っていなければいけない。自分の立場は、弁えている。

「わかりました」

 我が家は、三階にある玄関を出た後、二階の探偵事務所を抜けて初めて外に出られる構造だ。靴を履いた叔父様が内階段を下りていくのを見送った。春の空気は感じられなかった。


* * *


 どれくらい時間が経っただろうか。十五分――いや、三十分か。
 叔父様は、戻ってこない。それなのに、サイレンの音が増えている。二台、三台……不穏な音は絡み合いながら鳴り響き、早朝の桜通りを駆け抜けていく。

「……これは、仕方ない、な」

 誰にともなくつぶやいた。
 待っていなさい、と言われたが、いつまで、とは言われていない。わたしはもう、じゅうぶんに待った。それなのに戻ってこないのだから、これは叔父様の問題である。

「うむ、仕方ないな」

 わたしは改めて上着を手に、玄関を出た。

 内階段を下り、無人の探偵事務所を抜ける。鍵をかけることは忘れなかった。そのまま外へと続く階段を下りる。一階の《蕎麦更科》は、もちろんまだ開店前だ。

 外に出ると、春の風。ふわり、と薄紅色の花びらが目の前に舞い落ちた。桜通りの並木は、咲き始めたばかりの花を枝いっぱいにつけている。満開には、まだ少し早いが、それでも、こころ浮き立つ光景だ。

 桜色の花の下を歩きながら、ふと思い出す。四年前、ここに越してきたときのことを。
 
 その時は、もう桜の見ごろは終わっていた。花弁は散り、緑色になった枝が伸びるだけだった。残念に思っていたわたしに、叔父様が言った。

「葉桜は、いい。過ぎ去っても、そこにある証だ」

 意味がわからなかったが――そして、今も真意はわからないが――なぜか心に残っている。


* * *


 桜通りは、桜見坂ともいう。文字通り、緩やかな坂道だ。道路の左右には見事な桜並木が続き、車道に挟まれた中央部分には、坂の上から下まで伸びる細長い遊歩道がある。
 整えられたアスファルトの上に障害物はなく、花見散歩にはうってつけだ。この遊歩道は、桜見坂公園と呼ばれている。
 坂を下りきったところにあるのが、坂下公園だった。桜見坂公園からそのままつながる形で整備されており、一本の桜の大樹を中心に、円を描くようにベンチが置かれている。
 どちらも、犬連れや高齢者に人気の場所だ。
 
 その坂下公園には、人だかりができていた。それになにより……青いシート。あれは、遮蔽用のブルーシートだろう。その手前には黄色いテープで規制線も張られている。

 ――何が、あったんだろう。

 わたしは、わくわくする気持ちを抑えられなかった。

 事件……殺人?いや、まさか。
 だが、あのシート、この警官の動き……何か重大な事件が起きたのは間違いない。

 周囲を見回す。
 叔父様の姿は、どこにもない。

 誰か、事情を知っている人はいないものか……

「あの、殺人事件ですか?」

 規制線のところに立つ警官に聞いてみた。が、無言で首を振られ、追い払われてしまった。

 むぅ。一体何があったというんだ。

 近所の人に聞くか、とあたりを見回す。知った顔は……いない。いや、そもそも誰が近所の人なのか、わからない。都会とはそういうものだ。

 そのとき、ハンチング帽が視界に入った。ベージュのジャケットを着た、背の高い青年が立っている。スマホを構えて写真を撮っている。

 ――記者、か?
 
 わたしは、瞬時にそう判断した。
 うむ、きっとそうだ。

「あの」

 わたしは彼に声をかけた。

「何があったんですか」
「殺人事件です」

 青年は、こちらを見ることもなく答える。
 スマホのレンズがきらりと光り、シャッター音が鳴った。
 
「バラバラ死体が見つかったそうですよ」

 その言葉に、心臓が飛び跳ねる心地がした。

 ――バラバラ死体、だと?

 ブルーシートの向こうに、バラバラの死体がある、と、そういうことか?
 
「それは……ときめきますね!」

 興奮のあまり、思わず声に出して同意を求めてしまった。
 青年が、こちらを見た。不審そうな表情を浮かべている。

 ――なんだ、その顔は。
 
 青年は、わたしをじっと見つめたまま、何も言わない。
 茶色の髪が朝日に揺れて綺麗だな、と、場違いなことを思った。

「あの……なにか」

 おそるおそる問いかけると、青年は帽子を目深に被りなおした。
 
「いえ、なんでも」

 そうしてそれだけ言うと、逃げるように去って行った。

 ――変な人間、だな。

 取り残されたわたしは、小さくため息をついた。
 何か、おかしなことをしてしまったのだろうか。
 
 が、すぐに思い直す。

 まぁ、わたしの美しさに見とれてしまったのかもしれない。よくあることだ。なにせわたしは、そこらの女優すら裸足で逃げ出すほどの美少女だからな。このトゥルントゥルンの長い黒髪、麗しい瞳に見つめられたら、そりゃあ逃げ出すのも致し方ない。

 納得して頷いていた、その時。

「可南子くん、来ていたのか」

 叔父様の声がした。
 顔をあげると、公園の向こう側から、叔父様が戻ってくるところだった。

「待っていろと言ったのに、まったく、しかたのない子だな」
「叔父様が戻ってこないからですよ」

 叔父様は周囲の人をかき分け、わたしの前までやってくると言った。

「さあ、帰るよ」

 そのまま、坂下公園を後にする。わたしは足早の叔父様を追いかけながら、意気込んで聞いた。

「バラバラ死体って、本当ですか」
「しっ。大きな声で言わない」

 慌てて声を落とす。
 いわれてみれば、早朝に大声でいう単語ではないのかもしれない。

「ほんとう、ですか?」

 改めて聞くと、叔父様はため息まじりに答えてくれた。
  
「本当だよ。驚いた。こんな平和な街でまさか」

 おお!本当だったのか!

 なんともいえない高揚感がわたしを満たす。
 
 バラバラ死体……ロマンあふれる単語!
 一体どんな感じでバラバラになっていたんだろう。
 誰が、なぜ、どのように……!
 具体的に想像しては、顔がにやけてしまうのを止められない。

 そこで、ふと、気づいた。

  ――あれ?
 
「叔父様、見たんですか?」
「いいや、警官に話を聞いただけだ」

 まぁ、それはそうだろう、と思った。いくら探偵だとはいえ、そんな簡単に現場を見せてもらえるはずはない。けれど――

 わたしは、さきほどの警官の対応を思い出す。
 
「よく教えてくれましたね」
「詳しくは教えてくれなかったよ。でも、所轄の面々とは顔見知りだからね」

 なるほど。さすが探偵事務所所長の叔父様だ。
 わたしは、身を乗り出して言った。
 
「事件となると、捜査しますよね!」

 そう!今こそ、瑪瑙探偵事務所の活躍を見せる時じゃないか!
 わたしは全身の血が滾るのを感じていた。

 しかし、叔父様の返事はそっけないものだった。
 
「いや、しないよ」
「なぜ!」

 納得のいかないわたしは、強い口調で尋ねる。
 叔父様は事務所の鍵を回すと、いつもの柔らかな笑顔でこう言った。
 
「依頼人がいない事件は関係ないよ。僕はボランティアじゃなくて、探偵だからね」

 
***


 朝食は、パンとサラダだった。叔父様がサラダを作り、わたしはパンを焼く。焼きあがるタイミングを見計らうのが難しい。焦げる一歩手前で、取り出す。熟練の技が必要だ。……うむ、今日も完璧。

 ふたりで食卓に座り、「いただきます」と言い合う。自然と、軽く両手を合わせる。それから静かに食べ始める。
 叔父様はまず、コーヒーを一口飲んだ。わたしは、サラダにドレッシングをかける。時間は早いが、いつも通りの食卓。……まったく、いつもと同じ。
 ああ、面白くない。

「どうしたんだい、可南子くん」
「どうしたも、こうしたもありません」

 しゃくり、と、トーストを齧りながら叔父様が聞いてきた。わたしはミニトマトにフォークを突き刺して答える。

「捜査、しないなんて」

 不満が漏れ出たような声だが、気にしない。実際、不満しかない。叔父様は淡々と答えた。

「言っただろう、僕は探偵だ」
「だからこそ、捜査するんじゃないですか」
「逆だよ。だからこそ、しない」
「依頼人が、いないから?」
「そのとおり」

 叔父様はそれだけ言うと、コーヒーを飲んだ。
 朝日が窓から入り込み、食卓のグラスに反射している。

 依頼人のいない事件は捜査しない、か……。
 
 ――ん?それなら。

 いいことを思いついた。

「じゃあ、依頼人がいれば……」
「君の依頼じゃ、動かないからね」

 見透かされていた。
 
「……つまらない」

 思わず、独り言ちる。
 せっかくこんな身近に重大事件が起きたというのに、何もしないなんて。捜査に参加できないなんて。探偵として活躍できないなんて。

 けれど、わたしは叔父様に養われている身だ。成人しているし金銭面では世話になっていないとはいえ、日常生活はお世話になりっぱなしである。だからこそ……逆らえない。

 ああ……なんてことだ!
 事件がわたしを待っているというのに!

「さて、デザートにしよう」

 叔父様が苦笑して立ち上がり、キッチンに向かった。戻ってきたとき、その手にあったのは――イチゴ。
 キラキラと輝く、紅い宝石。ブラボー、フルーツ!
 
「そうですね、食べましょう」

 わたしはイチゴを、一粒つまんだ。口に、入れる。噛む。広がる、甘みと酸味。
 うむ、これは、あまおう、だな。やはり、最高に美味い。
 事件のことなど、この果物に比べたら些細なことに思えてくる。
 わたしは、ほくほくとイチゴを食べた。

 
* * *


 来客があったのは、九時半だった。
 叔父様と一緒に事務所に降りていたわたしは、来客用のソファで本を読んでいた。

「瑪瑙探偵は、こちらですか」

 扉を開けて入ってきたのは、二人の男。どちらも黒っぽいスーツを着ていて、姿勢がいい。一人は筋肉質の大柄な中年、もう一人は若く小柄な男。

「警視庁桜見坂署刑事課の久坂といいます」
「三島です」

 二人は黒い手帳を取り出して掲げた。……警察手帳、か。

「先ほどの事件について、お聞きしたいことが」

 年上の久坂刑事が、叔父様のデスクに歩み寄りながら訪ねた。三島刑事は、後ろに控えている。

「ええ、どうぞ。よろしければ、そちらで」

 叔父様が立ち上がり、来客用のソファを指した。わたしは仕方なく立ち上がり、席を譲ることにする。観葉植物の隣で、二人の刑事とすれ違った。

「ああ、お構いなく」

 久坂刑事は、慣れた様子で来客用ソファに座る。隣に三島刑事。後からやってきた叔父様が向かいに座った。わたしはそのまま受付横の椅子に座る。ここなら、いても構わないだろう。話は聞けるけれど、姿は見えない。つまり、邪魔にはならない。
   
「事件のことは、ご存じで?」
「少し、伺いました。バラバラ遺体が見つかった、と」

 叔父様と刑事たちが話しているのを、わたしは黙って聞いていた。

 どうやら、遺体は赤いスーツケースに詰められていたらしい。発見されたのは今朝の五時ごろ。通報したのはジョギングをしていた男性。被害者の身元はまだわかっていない。

「今のところ、昨夜、公園にスーツケースがあったという目撃情報はありません」

 若い三島刑事が言った。
 叔父様が尋ねる。
 
「つまり、夜中に置かれたということですか」
「それなんですよね。瑪瑙さん、不審な車を見たとか、そういったことあります?」

 久坂刑事は答えずに、問いに問いで返した。さて、叔父様はどう反応するのか……と思っていたら。

「そうですね……特に変わったことは……ないよね、可南子くん」
「ふぇっ」

 唐突に名前を呼ばれて、変な声が出た。

「隠れて聞くなら、こっちに来なさい」

 ばれていたか。
 
 わたしは観葉植物の横から来客エリアを覗き込んだ。二人の刑事が、身を乗り出してこちらを見ている。

「姪の可南子です。意外と、鋭い子ですよ」

 若い三島刑事が、「ほぅ」と小さな声を出した。久坂刑事は表情を変えない。
 叔父様に手招きされて、わたしは隣に座った。

「えーっと、可南子さん、ですか。最近変わったこと、ありましたか」
「そうですね……」

 わたしは、言った。
 
「イチゴが、高いですね」
 
 由々しき変化だ。

「去年より明らかに高いですし、粒も小さい気がします。あと、あまおうと、とちおとめと、最近出回っている新品種の違いも分かりにくくてですね――」
「あ、もう結構です」

 久坂刑事に止められた。
 隣では、叔父様が笑いをこらえている。

  ……どういうことだ。意味がわからない。

「ま、とにかく」

 久坂刑事が立ち上がり、三島刑事もそれに続く。

「何かありましたら、ご連絡ください」

 そう言って軽く頭を下げると、二人の刑事は去って行った。

 
* * *


「……叔父様」
「なんだい?」

 クックッ、と、まだ笑いをこらえている叔父様を睨みつける。

「わたしを、利用しましたね」
「さて、なんのことだか」

 しらじらしい。刑事と話すのが面倒になって、わたしを巻き込んだんだろう。あの二人と叔父様の反応を見れば、それくらいはわかる。

「どうせなら、最初から同席させてくれれば」
「そうすれば、盗み聞きはしなかった?」

 見ると、きらり、と、叔父様の目が光っていた。
 うぅ……気まずい。
 わたしは、膨れて言う。

「盗んでません……堂々と聞いてましたし」
「じゃあ、問題ないね」

 そう言って、叔父様はまた、クックッと笑った。
 ああ、もう。この人には敵わない。
 だめだ、このままでは叔父様のペースから逃れられない。

「それにしても」

 わたしは、話題を変えることにした。

「大変な事件ですね」
「捜査は、しないよ」
「それは、わかりました。でも、事件の概要は知りたいです」
「今、聞いていただろう」
「足りません。もっと詳細な内容をお願いします」
「報道を待つんだね」
「詳細は伏せられちゃうじゃないですか」

 不満げに言うと、叔父様は笑顔のまま頷いた。

「そうかもしれないね」
「ですよね。今の刑事さんたちも、詳しくは話してくれないし」
「それはそうだろう」

 叔父様はそれだけ言うと、所長席へと戻って行った。事務仕事が溜まっているのだろう。机の上には書類が何枚も重なっている。

「けちくさい。もっと教えてくれればいいのに」

 ぶぅ、とこぼしたその時、階段を上ってくる足音が聞こえた。

 ――刑事が、戻ってきた?

 そう思ったわたしは、叔父様が気づく前に扉に向かった。止められる前に、今度こそ詳しいことを聞き出してやる。
 
「おかえりなさい、刑事さん。お話なら……」

 ドアを開けたそこに立っていたのは。

「あ、すいません。刑事じゃないです」

 ハンチング帽の青年だった。


* * *


 ベージュのジャケット、細身の体、無駄に高い身長。

「…………」
「…………」

 わたしたちは、しばし無言で向かい合った。青みがかった瞳に見覚えがある気がしたが、思い出せない。きっと、気のせいだろう。

「……先ほどは、どうも」

 その声は思ったよりも柔らかな響きだった。自然と警戒心が下がる。
 
「どうも」

 わたしは後ろ手にドアを閉め、軽く頭を下げた。
 
「改めて――東雲将流まさるといいます」

 ニコッと笑顔を浮かべて、青年――東雲将流は、名刺を差し出した。受け取って眺める。雑誌か新聞の編集部らしい名前とロゴの下に、携帯番号、メールアドレス。肩書きは《記者》。
 改めて、青年の顔を見る。年齢はわたしよりも上だろうか。いずれにせよ、若い。アルバイトか?

「記者、ですか」
「はい。まだ、見習いですけど」

 ということは、内定済みの大学生、といったところか。
 わたしは意気込んで尋ねた。
 
「例の事件のこと、詳しく知ってますか」

 記者だというのなら、ある程度のことは知っているだろう。この際、刑事じゃなくても構わない。わたしは、事件の詳細を知りたいのだ。

 しかし、青年は笑顔のまま、意外なことを言った。

「事件ではなくて――あなたに用事があるんです。瑪瑙可南子さん」

 
***


 青みがかった瞳が、薄い光を吸い込む。
 
 「数年前、山陰地方のある大物議員が亡くなりました」

 わたしが口を開く前に、青年は話し始めた。

 「汚職の疑惑があった彼の屋敷が火事になり、親族が全員亡くなった事件です。ご存じですよね?」

 探るような瞳が、わたしを射抜く。

「……報道、されてましたね」

 返答する声が少し掠れたのが、自分でもわかった。
 青年は、何事もなかったかのように、続ける。

「あなたの、ご実家、ですよね」

 胸が、ドクンと鳴った。
 冷たい空気が、吹き抜けた気がした。
 薄暗い雲。低い空。湿った風。潮騒。鼓動が、うるさい。
 わたしは、息をのむ。青年が、何か続けようと口を開いた。

「あなたは……」
「人の……!」

 とっさに、遮る。
 そして、告げる。

「人のプライバシーに土足で踏み込むな。不愉快だ」
 
 名刺を突き返すと、青年は一瞬黙り込んだ。けれど、すぐに言った。真剣な眼差しと口調だった。

「貴女のことが知りたいんです。話を聞かせてください」
「断る」

 わたしは踵を返し、背を向けた。
 そのまま、ドアを開ける。
 話すことなど、なにもない。
 ――なにも。

「なんでもいい、連絡をください」

 瞬間、左手に何かを押し付けられる。
 無視して、ドアを閉めた。
 
 向こう側の気配は、しばらくそこにあったけれど、やがて階段を下りる足音とともに消えていった。

 手の中を見る。ぐしゃりと曲がった名刺があった。
 
 ――《記者》東雲将流。

 ポケットに、押し込む。歪んだ紙の感触が、指先に残る。

 不愉快だった。
 もしかしたら、悲しかったのかもしれない。
 よく、わからない。
 ただ――胸の奥が、重たかった。
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