桜通りの殺人

月森朱音

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第三章 可南子の推理

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 一度、事務所に戻り、ドアから顔だけ出して、叔父様に声をかけた。

「ちょっと、でかけてきます」

 叔父様は書類から顔をあげずに、聞いてきた。
 
「お昼は?」
「外で食べようと思います」
「そうかい。気を付けて」

 言い終わるころにはドアを閉めていた。
 
 よし、いいぞ。
 ばれてない。
 
 わたしは、いそいそと階段を下りた。下では将流が待っている。

「大丈夫なんですか?」
「問題ない。わたしは、おとなだ」
「それは、そうですけど」

 将流は苦笑している。
 ええい、なにがおかしいというのだ。

「それで……どこに行きます?現場ですか?」
「まずは……腹ごしらえだ」
「えっ」

 驚く将流を無視して、一階の蕎麦屋の暖簾をくぐる。
 
《蕎麦更科》は、落ち着いた雰囲気のそば処だ。いつも出汁の匂いに包まれていて、とても居心地がいい。味は素朴で奥深く、のど越しがいい。店主の小春さんは不愛想だが、余計なことを聞いてこないところが気に入っている。たまに、果物をおまけしてくれるし。

「いらっしゃい」

 カウンターの奥から声がした。小春さんだ。相変わらず年齢不詳の声。わたしはお気に入りの席に腰を下ろし、胸を張って言った。

「とろろそばを」
「はいよ。相方は?」

 相方、という言い方に、わたしは眉をひそめた。相方ではない。抗議しようかと思ったとき、明るい声がした。

「俺、かき揚げそばでお願いします」

 腹の立つほど自然な声だ。
 うぅ、タイミングを逃した……。
 
 将流は、当然のように、同じテーブル席の向かい側に座った。持っていたカバンを隣の椅子に置く。そのとき……
 
 ——あれ?

 ちらり、と見えたものがあった。……学生証?しかも、それは、わたしの持っているものと同じデザインだ。

 ――まさか。
 
「……おまえ、N大か」
「え?そうですけど……それがなにか」
「同じ大学だ」

 将流が、目を丸くする。

「え、まじで?え、何学科?新入生?」
「哲学科、今年から二年だ」
「じゃ、俺、先輩じゃないですか。奇遇ですねぇ……って、俺、なんで敬語なんですかね」
「元からだろう、今更なにを」
「いや、これはクセみたいなもんで……ていうか、あなたはなんで、そんな偉そうなんですか」
「普通だが」

 将流は納得していない顔をした。わたしは気にしない。
 そのうちに、蕎麦が来た。

 とろろの白。青ねぎの緑。出汁の香り。湯気が頬に当たる。ひととおり鼻で味わったあとは、手をそろえて、「いただきます」。

 うむ、相変わらず、美味い。
 
 ひと口すすって、わたしは静かに満足した。
 正面の将流を見る。

 かき揚げを齧った将流は…… 

「……うま」

 驚いたような目でこちらを見る。

「だろう」

 わたしは得意満面の笑顔で頷いた。

「ここ、近所なのに知らなかった……」
「調査不足だな」
「ですねぇ、うわ、うま……」

 いいながらも、食事は進む。
 あっという間に、蕎麦の丼は汁を残すだけになった。

「おいしかった……」

 将流は、まだ呆然とした様子だ。
 そうだろう、そうだろう。小春さんの蕎麦は、本当に美味いからな。日本一といっても過言ではない。いや、蕎麦は日本食なわけだから、いうなれば、世界一かもしれないわけだ。
 
「それでは、捜査会議といこうか」

 私は丼を脇にずらし、身を乗り出した。
 将流は名残惜しそうに汁をすすっている。
 
 そのとき、小春さんが蕎麦湯を持ってやってきた。
 
「事件の話かい」

 珍しく、小春さんから話しかけてきた。
 将流が、答える。
 
「はい。昨日の」

 わたしは黙って蕎麦湯を受け取り、丼に少しずつ注いだ。ふわっと香りがたち、身体がほぐれていくのを感じる。

「調べるのかい」

 今度は、小春さんがわたしに向かって言った。答えないわけにはいかない。
 
「そのつもりです」

 将流が不思議そうに蕎麦湯を見ている。わたしは何も言わずに、勝手に将流の丼に注いでやった。将流は驚いたような反応を見せたが、おとなしく飲み始めた。すると、さらに驚いた表情を浮かべる。ふふん、どうだ、まいったか。小春さんの蕎麦は、最後の最後まで美味いのだ。
 
「ほどほどにしなよ」

 小春さんが立ち去ろうとしたとき、将流が声をかけた。

「なにか、変わったこととか、ありませんでしたか」

 小春さんは立ち止まり、不愛想に答える。
 
「知らないよ。警察にもそう言った」
「朝、変な音がした、とか」
「ここに住んでるわけじゃないからね」
「あれ、そうなんですか」
「あたしの部屋は柳町さ」
「桜通りから遠いですよね。なぜ、ここに店を?」

 小春さんは、一瞬の沈黙のあとに、言った。

「いろいろあるんだよ、人生にはね」

 将流が「はぁ……」と気の抜けた返事をする。
 
 ――そう、いろいろあるものだ。
 人生というやつには。


* * *


「ごちそうさまでした」

 それぞれ会計をして店を出る。わたしが先だった。将流はモタモタと、財布をしまっている。

「遅いぞ、将流」
「そんなに急がなくても」
「善は急げだ」
「善なのかな……」
「いいから、来い」
「なんでそんなに上からなんですか」
「遅い、と言って……」

 そのとき。

「……っ!」

 どん、と衝撃が走った。
 パラパラという音――紙が落ちる音?

「あ、すみません!大丈夫ですか!」

 将流が、慌てた様子で駆け寄ってくる。

 落ち着いて隣を見ると、背の高い女性がよろめいていた。手に持った紙束が、乱れている。
 
 ――わたしが、ぶつかったのか。

「すみません」

 慌てて謝罪した。

「いえ、こちらこそ」

 低く、クールな声。女性はかがんで、散らばった紙を拾いながら言った。白のスプリングコート、履きなれた感じのパンプス、すらりと伸びた脚はグレージュのパンツスタイル。黒い髪はボブカットで、さらさらと揺れている。

 そのとき、風が吹いた。落ちた紙が飛んで行ってしまわないように、将流と一緒に急いで拾い集める。
 
 それらは、楽譜だった。白いコピー用紙に、五線と綺麗なオタマジャクシが並んでいる。何の曲かは、わからない。わたしは楽譜が読めないからだ。タイトルも書かれていない。ただ、小さく印刷された《白石ピアノ教室》の文字だけは、読めた。

「これで、全部でしょうか」

 将流が、集めた楽譜を女性に手渡す。

「……はい、ありがとうございます」

 女性は受け取り、次にわたしに視線を向けた。
 手元の楽譜を渡そうとしたとき、それに気づいた。
 
「……カフェ・アンテール」
 
 思わず、つぶやく。
 
「え?」

 女性が不思議そうな声をあげた。
 わたしは、続ける。
 
「……この滲み。カフェ・アンテールのコーヒーですよね。駅裏の。豆が浅煎りで、濃いわりに赤みがあるから、こうなるんです」
「そ、そうですけど……」

 女性は、驚いたような表情を浮かべている。
 私は安心させようと、なるべく温和な笑顔を浮かべて言った。
 
「どうせなら、カフェオレがオススメですよ。あそこの牛乳はスチーム多めで、冷めにくいから。それから、ココアも美味しいです」

 楽譜を差し出すと、女性は困惑したような表情を浮かべた。

「あ、ありがとうございます……」

 そうして軽く頭をさげると、足早に去って行く。黒い髪が風に揺れ、跳ねていた。
 
 将流が、不思議そうに問いかけてくる。
 
「……今の、なんですか? なんで店の名前まで?」
「わからないのか」
「わかりません」
「頑張って考えろ」
「ええー……理不尽~~~」
 
 あの店は、叔父様が好きでよく行く。以前、叔父様から借りた本に、同じ色の染みがついていた……それだけの話だ。
 だが、そうだな。カフェ・アンテールに行ったことがなければ、確かにわかりようがないか。

「今度、連れて行ってやろう」
「え、どこにですか」

 ……鈍い男だ。

「まずは、現場からだな」
「なんか、腑に落ちない……」

 ブツブツ言う将流のことは、無視して、現場へと向かった。


* * *

 
 わたしたちは桜並木中央の遊歩道――桜見坂公園を歩き、そのまま坂下公園に入った。昨日の騒ぎが嘘みたいに静かだった。

 全体を見渡し、中央の桜の大樹に歩み寄る。規制線はもうない。大樹の下に置かれたカラーコーンと、それに張られた細いロープだけが、事件現場であったことを主張している。

 わたしは、大樹を見上げて、昨日のブルーシートの位置を思い出した。

「ブルーシートは、こう張られていた。つまり、現場はここだ」
「……てことですね」

 将流が頷き、周囲を見回している。公園内に人影は少なく、高齢者がのんびりと歩いているだけだ。

 わたしは、確認するように口に出した。
 
「ここから、通報があったんだな?」
「ジョギングしてた男性から。時刻は五時ごろだと思います」
「なぜ、わかる」
「最初のパトカーが到着したのが五時十五分くらいって話なので」

 なるほど、逆算するとそうなるのか。確かに。わたしの記憶とも合致する。

「まずは……話を聞いてみるか」

 散歩している高齢者を見やりながら、将流に言った。

「そうですね……って、俺が聞くんですか?」
「あたりまえだろう」
「なんで」
「記者だから?」
「適当だなぁ……ま、いいですけど」

 将流は小走りで高齢者の方に向かう。
 
 わたしは、ひとり大樹を眺めていた。
 樹齢はわからないが、古いものであることは間違いない。坂下公園の、ひいては桜通りのシンボルともいえる、桜の樹。この下で遺体が見つかった――そこに、どんな意味がある?
 桜の樹の下には屍体が埋まっている――梶井基次郎の一説だ。たしかに、この樹を眺めていると、その言葉は真実に思えてくる。この花たちは、昨日の朝、何を見たというのだろうか。

「可南子さん、おまたせしました」

 ほどなくして、将流が戻ってきた。浮かない顔だ。収穫はなかったらしい。

 将流は高齢者から聞いた話をした。曰く、サイレンで起こされ様子を見に来たら警官がいた、と。

「叫び声は」
 
 ふと、気になったことを口にした。
 
「叫び声?」
「そんなものをみつけたら、声をあげそうなものだが。ぎゃあ、とか、わあ、とか」
「あ、なるほど」
「その声は、聞いていないのか」
「言ってませんでしたね……」

 将流は手帳をめくりながら呻るように言った。

「手がかり、なし、です」
 
 ……となると。

「時間、か」
「え?」
「事件発生と同じ時間帯に、聞き込みをしよう」
「朝……ですか」

 わたしは、うなずく。
 
「明日の朝……そうだな、四時半に。ここで」

 将流は一瞬考え込んだあと、苦笑した。

「……わかりました、やりましょう」


* * *


 事件発生から三日めの早朝。
 わたしは現場に向かっていた。
 
 眠いし、寒い。
 誰だ、こんな時間に集合とか言い出したのは。
 昨日のわたしか――許せん。
 
 だが……わくわくもしていた。
 けれど、眠い……寒い……。

 将流はすでに、公園に到着していた。
 時刻は四時三十二分。
 
「おはようございます、可南子さん」

 眩しいくらいに爽やかな笑顔と、元気な声だ。
 なんだか、腹が立つ。
 わたしは、眩暈を堪えながら言った。

「元気だな、おまえは……」
「可南子さん……もしかして、眠いんですか、また本読んでました?」
「いや、昨日は読んでない、ただ……」

 言い淀んでいたら、将流はポン、と手を叩いて笑った。
 
「ああ、ワクワクして眠れなかったんですね!」
「そ、そういうわけでは……」

 くっ!なぜ、わかった!
 わたしは悔しさに歯噛みする。
 これでは、まるで遠足前の子どもみたいじゃないか!知らないけど。遠足、行ったことないけど。

「まぁ、いい。さっそく、聞き込み開始だ!」
「まだ……誰もいませんけどね」

 あたりでは、鳥が、鳴いているだけ。
 意気込んだわたしの言葉は、春の空に虚しく溶けた。
 

* * *

 
 寒空の下、しばらく立ちすくんでいた。将流が自動販売機で買った、暖かいココアを飲みながら。ちなみに、将流はコーヒーを飲んでいる。

「暇ですね」
「暇だな」
「これ、意味ありますかね」
「ないと困る」
「そうなんですけど……虚しいなぁ」
「黙れ。根性を見せろ」
「根性、ですか。可南子さん、あるんですか」
「わたしには、ある」
「どこからその自信が」
「わたしだからだ」
「意味がわからない」

 そんなやりとりをしていると……気配があった。
 遠く、公園の東側から、男の影が近づいてくる。

「ジョギングしている……男」
「通報者!?」

 顔を見合わせる。
 やがて男がすぐそばまでやってきた。
 すかさず声をかける――将流が。
 
「あの、すみません!」

 ジョガーは速度をおとし、わたしたちの前で足踏みをしている。

「なに?」

 細身の、けれど筋肉のついた体つき。バランスの取れた姿勢。刈り上げたような短い髪。ブルーと白のパーカーに、グレーのジョギングシューズ。腕ではスマートウォッチが心拍数を表示している。年齢は五十歳くらいか。

「少し、お話を聞かせてくれませんか」

 将流が名刺を差し出して、言う。男はそれを受け取り眺めると、笑って言った。

「あー、記者?あの話かぁ」

 どこか楽しんでいるような気配さえ漂う口調だ。足踏みを続けているから、身体が上下に揺れている。

「詳しく教えていただけませんか」

 将流の言葉に、苦笑しながら男性が答える。手を目の前で振りながら。

「いや、あんまり話しちゃダメなんでしょ、こういうの。警察にも言われてるし」

 そう言って走り出そうとするのを、わたしは必死で止めた。

「お願いします、情報がほしいんです」

 すると、男性は初めてわたしに気づいたのか、こちらを見た。それからすぐに、将流に視線を戻す。

「なに、彼女?かわいい子だね」
「えっと……あはは、まぁ」

 将流が適当に笑う。
 なんだ、その返答は。彼女ではないし、わたしは《まあ》かわいいレベルではないだろう。しっかりとそのあたりを説明しろ。
 そう言いたかったが、やめた。
 それより今は、この男の持っている情報だ。

「事実確認だけで、構いませんので」

 将流も理解しているようで、そう言って軽く頭を下げる。
 ジョガーはそこではじめて、動きを止めた。話をしてくれる気になったのだろう。

「まぁ、できる範囲でなら、協力するけどさ」
 
 将流の名刺を改めて見ながら、男は言った。

「で?なにが聞きたいの?」
  
 将流と視線を合わせうなずきあってから、わたしは聞いた。

「通報したのは、あなたですよね」
「そうそう。昨日ね。ジョギングしてて、なんかあるなって思ったら……びっくりだよね!」
「ジョギングは、毎日?」
「もちろん。雨でも走るよ。ま、大雪の時は、さすがにやめるけど」
「時間も同じですか?」
「うんうん。朝五時に家を出てね。この辺りを走るんだ。君もやる?気持ちいいよ」
「昨日も、同じでしたか?」
「いや、昨日は少し早かったかな。目が覚めちゃってね。準備もできたから、五時になる前に家を出たね」
「そういうこと、よくあります?」
「たまにね。まぁ、あるでしょ?五分とか十分くらいは。早まったり遅れたり」

 饒舌な男の言葉を、背後で将流が記録している。
 わたしは、質問を続けた。

「走っていて、何を見つけたんですか?」
「お、それ聞く?」

 男はいたずらっ子のように瞳を輝かせた。そして語る。

「いつもみたいに走ってたわけよ。人もいなくてね、気持ちいいな、って。そしたら、何か変なものがあるじゃない。赤いからね、すごく目立ってた。でも、まさかスーツケースだとは思わなかったよね。しかも、開いてる。その隙間から、指が……」
「ゆび」

 思わず、声が出た。
 発見されたのは……指だったのか。

「あ、今のオフレコね。言わないでくれって、言われてるから」

 男は軽薄そうに笑ってみせた。「わかりました」と神妙にうなずいてみせてから、わたしは続ける。

「その……《遺体の一部》が、見えたんですか」
「見えたっていうか、のぞいてたんだよね。こう……少し開いたスーツケースの隙間から……」

 男はおどろおどろしい声音で、手を形作ってみせた。

「それで、通報を?」
「そうそう。すぐにね、これで」

 掲げられた左手首では、スマートウォッチが変わらずに心拍数を表示している。

「時間は、五時過ぎ……ですよね」
「五時七分、だったな」
「ずいぶん、正確ですね」
「そりゃそうでしょう、これで通報したんだから、いやでも目に入るじゃない」

 なるほど、もっともだ。

「それで、警察が来るまで待って、事情聴かれて……仕事にも遅れそうになるし、さんざんだったよ」

 笑いながら言う男に、背後から将流が声をかける。
 
「それは、大変でしたね」
「ま、珍しい経験をしたってことでね。もう、いいかな?」
「あ、はい。ありがとうございました」

 将流の返答を聞いて、男が名刺をポケットに入れた。走り出そうとした瞬間、わたしは声をかける。
 
「さいごに、ひとつだけ、教えてください」
「なに?」
「スーツケースは、どっちを向いていましたか?」
「え?」

 ジョガーと将流が同時に声を上げた。
 わたしは、身振りをつけて、説明する。

「開いていたんですよね。それも、少しだけ。そのスーツケースは、どっち向きに開いてましたか?樹に向かって垂直に?それとも、平行に?」

 男は意外そうな顔をしていたけれど、聞いているうちに得心がいったようだった。

「あ、ああ、そういうことか」

 目線を上にむけ、思い出すようにつぶやく。

「たしか、こっち向き……だから、平行、ってことかな」
「ありがとうございます。おひきとめして、すみませんでした」

 わたしは、丁寧に頭を下げた。
 すると、男性は手首のスマートウォッチを一目見て、足踏みを始める。

「いやいや、お役に立てたなら、なによりですよ」
「ところで、先生はどこの医院にお勤めなんですか?内科だといいんですけど。叔父を連れていきたくて」

 男性は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。

「そこのTクリニックだよ。毎日はいないけどね。なに、叔父さん、調子悪いの?」
「いえ、元気なんですけど、定期健診に行かないので」
「ああ、そういうこと。じゃ、ぜひ来いって言っておいて」
「はい、ありがとうございました」
「それじゃ」

 医師の男性は手を振ると、そのまま軽やかに駆け出して行った。足音が次第に遠ざかる。
 残ったのは、わたしと、将流。

「……可南子さん」
「なんだ」
「なんで、医者だってわかったんですか」
「わからなかったのか」
「まったく」

 呆然としている将流に、説明してやることにする。
 面倒だったが、仕方ない。
 
「遺体を見ても動揺していなかったのは、語り口からわかる。つまり見慣れているということだ。とすると、まず思いつくのは、葬儀関係者、医者。彼は通報した時間を確認していた。日常的に染み付いている動作なんだろう。また健康に気を使っている。とすると、医者である可能性が高いだろう。だから、カマをかけた」
「なるほど」
「まぁ、筋肉のつき方やスタイルから、消防官や自衛官、警察官という可能性もあったが……だったら『警察に止められている』という言い方はしないだろう。仕事に遅れそうに、というのもな」
「そんなことまで考えていたんですか」

 将流が感嘆の声をあげた。
 
 驚いたのは、むしろわたしだ。当たり前のことしか、言っていない。
 だが、悪い気はしないな、ふむ。

「それで……スーツケースの向きは?それ、大事なんですか?」

 将流は手帳を開きなおして、聞いてきた。
 
「ああ、これでわかったことがある」
「それは?」
「それは……」
 
 わたしは大樹を背に立ち、正面を見た。
 桜見坂公園の遊歩道へとつながる一本の筋が見える。
 まっすぐにつながる、一本の道。

 わたしは、ゆっくりと言った。
 
「スーツケースは置かれたんじゃない。――転がってきた、ということだ」
「え?」

 将流が、変な声を出した。
 答えようとしたその時、ふいに、カラスが鳴いた。

「む、そろそろ叔父様が起きるころだ。戻らないと怪しまれる」
「あ、そうですね……。俺も、朝ご飯食べに帰りたいし」

 こうしてわたしたちは、一旦解散することとなった。「スーツケースの詳細、絶対教えてくださいね」という将流とは、午後再び会う約束をした。
 
 さて、いつもの朝だ。きっと今日も、朝食メニューは同じだろう。
 
 ――果物は、何を選ぼうか。
 
 将流の持ってきたフルーツバスケットを思い描きながら、わたしはうきうきと家に向かった。
 

* * *


 その日の午後、わたしたちは駅裏の喫茶店にいた。カフェ・アンテール。懐古趣味のマスターがこだわってつくった隠れた名店だ。以前、叔父様に連れられて何回か来た。店内には古いジャズが流れていて、世界から隔離されたような気持ちになる。

 その奥のボックス席に、わたしたちは向かい合っていた。

「お待たせしました」

 コーヒーとココアが運ばれてくる。店員が去るのを待って、将流が聞いてきた。

「で、スーツケースが転がってきた、っていうのは?」
「そう急くな」

 わたしは細いスプーンでゆっくりかき混ぜてから、ココアをひとくち飲んだ。柔らかい暖かさが、喉から奥へと滑り落ちていく。うむ。この絶妙な甘さ。さすがだ、マスター。

「コーヒーも美味いぞ。叔父様のお気に入りだ」
「あ、そうですね、いただきます……いやいや、そうですけど、それよりも」

 将流は身を乗り出してくる。

「スーツケースの話を」
「まったく、情けないな。こんなことまで説明が必要か」
「だから、なんでそう上からなんですか……いや、もう構いません。教えてください」

 百面相のように表情が変わる将流を眺める。面白い。なにかの動物のようだ。しばらく見ていようか……そんなことも思ったが、説明してやることにした。わたしは、おとな。

「さっきも話したが」
 
 将流が、息をのんだ。

「スーツケースから指がのぞいていた……ということは、完全に開いていたわけじゃない。それなら《のぞいていた》とは言わないだろうからな。スーツケースは半端な状態で開いていた……つまり、フレーム式ではなく、ファスナー式であることがわかる」
「……なるほど。フレーム式なら、ぱかっと全部開きますもんね」
「そのとおり。さて、ファスナー式のスーツケースから、中身が《のぞいていた》とはどういう状況か。考えられるのは、二つ。最初から開いていたか、何かの衝撃で開いたか。もし最初から開いていたなら、それは、演出されていたことになる。しかし、この場合、少し弱い。もし発見を演出したかったのなら、指が《のぞいていた》なんて半端なことはしないだろう。となると……」
「衝撃で、開いた?」

 わたしは、うなずく。

「そうなる。そして、もしスーツケースが初めからそこに置かれていたのなら、衝撃なんてあるはずもない。となると、答えはひとつ。転がってきて……」
「桜にぶつかって、開いた」
「そのとおり。あの大樹は桜見坂公園の遊歩道を真っすぐに下ったところにある。坂道を転がってきたスーツケースが、大樹にぶつかったのだとしたら。……衝撃で平行に倒れ、少しだけ開き、指が《のぞいていた》という状況になるだろうな」

 将流は「なるほど……」とつぶやき、手帳に書き込んでいる。今の情報をまとめているのだろう。

 わたしは、ココアをもう一口飲んで、言った。

「それで。おまえは何かわかったのか」
「おまえ、って……まぁ、いいですけど」

 将流はペンを置いて、コーヒーを飲む。砂糖もミルクも入れないようだ。

「被害者の身元が、わかりました」

 それだけいうと、手帳から数枚の資料を取り出した。

「佐伯俊也、28歳。H市在住の無職。女関係のトラブルが多かったみたいですね」

 資料の中には、軽薄そうな男の写真も混ざっていた。金色に染められた髪は乱雑で、根元が黒くなっている。顔にいくつものピアス。にやけた表情と細い目が印象的だった。

「よくわかったな」
「先輩からの情報です。そろそろ、警察からも発表があると思います」
「おまえ、使えるじゃないか」
「それは、どうも」

 将流は苦笑すると、またコーヒーを口に運び、「うまい」とつぶやいた。

「トラブルが多かった、ということは……動機を持つ者も多い、ということか」
「そうなりますね」
 
 ふたりして、考え込んでいると、店員がやってきた。
 
「お冷、おつぎします」
「あ、ありがとうございます」

 店員が水を注ぐ手元を眺める。綺麗な水が、光を反射しながら、コップの中に流れ込んでいく。氷が、カラン、と音を立てた。

「あれ」

 将流が、声をあげた。

「髪飾り、とれかけてますよ」
「え?」

 言われた店員が、まとめ髪に手を添える。そこにつけられた赤いアクセサリーが、たしかにぶらぶらととれかかっていた。

「あ、ありがとうございます」
「いえいえ。気づいてよかったです」

 店員はアクセサリーを外して手に持つと、会釈をして去って行った。
 わたしは、将流に言う。

「よく気づいたな」
「目立ってましたからね、鮮やかな赤で」

 そう言って水を飲む将流。
 わたしの脳内に、光が走った。

 ――目立つ、赤?

「そうか」
「なんですか、突然」

 将流が驚いた声を上げる。

「赤だ。赤い、スーツケース」
「あ、はい、そうですね。今回の事件の」
「発見させるため、だ」
「え?」

 不思議そうな声を上げる将流に、わたしは言う。

「犯人が赤を選んだ理由だ」
「……目立つから?」
「もしベージュやブラウンのスーツケースだったら、あの医師は見落としたかもしれない。真っ赤な異物だったから、すぐに気づいた」
「気づかせたかった?」
「すぐに、発見させたかったんだと思う」
「なんで?」
「……そこまでは、まだわからない」

 わたしはつぶやき、水の入ったグラスを手にした。冷たさが、脳まで冷静にさせてくれる気がする。

「計画的な犯行。発見時の状況までもコントロールしようとする意志……」

 言葉にしながら、気持ちが昂ってくるのを感じた。
 わたしは、誰にともなく、つぶやく。
 
「なかなか――面白いじゃないか」

 その言葉は、コーヒーの香りの中に、溶けていった。






――
ここまで読んでくださってありがとうございます。
続きも楽しんでいただけたら嬉しいです。
――


 
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かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

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