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四章 スーパーバイザーとして

57話 カランカラン、ドクンドクン。

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     一

本部直営店舗『フランス料理・ソレイユ』が入るショッピングモールは、本社のある港区・新橋から、電車で一駅行った有楽町駅すぐ近くにあった。

日比谷駅や東京駅にもほど近く、都内でも屈指の繁華街にあたる。

中でも、店が立つ場所は、かなりの好立地だった。道を覚えるのが得意ではない希美でも、工事の視察へ二度行っただけで地図に頼らずとも済んだ。

駅直通のビルで、かつエスカレーターで三階まで上がったら、もう目の前に現れる。
前に来た時はまだ外壁が塗られた程度だったが、

「ほとんど使えそうなところまできてますね!」
「そうみたいだな。遅れてないのは、工事関係だけってことか」

もう店の形をなしていた。シンクしかなかった調理場は、コンロやオーブンなどが整備され立派なキッチンになっている。

広く一間しかなかった客席も、カウンターや座敷席など、区分けがなされていた。あとはテーブルセット一式を置けばもう実用可能だろう。

少し物寂しいのは、『空』をイメージしたという水色一色の壁くらいのものだが、メニューやチラシなどを掲示すれば少しは緩和できるはずだ。

「新店ってのは、ちょっと薬品っぽい匂いがするな」

鴨志田が鼻をつまんで言う。
一方、希美は肺を大きく膨らませた。

「私はこの匂い嫌いじゃないですよ。なんだか新しいところへ連れて行ってくれる感じがします!」
「その新しいところが、いい場所ならいいけどな」
「いい場所にするんですよ!」

希美はフロアの真ん中で、ふんと息巻く。
鴨志田ならば、面倒くさいと文句の一つ吐くだろうかと思ったのだが、

「……ま、それくらいはポジティブな方が今はいいのかもな」

彼の中でも、少しは変化があったのかもしれない。

先般の直訴以降も、会長との関係は大きく変わったわけではないと聞いていた。けれど、ゆっくりでも溝が埋まり始めているのだろうか。

と、そこへ作業着姿の青年が数人、肩にダンボールを抱えて入ってくる。
次々に積み上げていって、

「以上になります。不足していたら、ご連絡ください」

気づけば入り口付近が塞がるほどになっていた。
鴨志田は顔のパーツを真ん中に集めて閉口する。希美は、その背中を押した。

「やりますよっ! 見てても減りません!」
「分かってるよ。でも、これも従業員さえいれば手伝ってもらえた話だよなと思っただけだ」
「……まぁそうですけど」

本来、希美たちが主担当でやるような仕事ではない。

ただ、あらぬ烙印を押されたことにより、人事面での決定的な遅れが発生していた。

そのせい、現場の人手が足りていないのだ。
不足しているスタッフは一時的に本部で埋めるほかなかった。手続き関係は部長に一任していたから、動けるのは三人だ。

「佐野課長、今日は一日かけて社内に謝罪行脚をしているみたいですね」
「なによりも、後輩にもっと謝るべきだと思うけどな」
「私はもう十分ですから。言ってても人が増えるわけじゃありませんし」
「無駄にした時間もな」

本部直営店舗のオープンまでは、残り二週間を切っていた。
遅れた分を捲り上げることを考えれば、スケジュールはかなりタイトだ。

希美は、テナントの外、壁に張り出された「七月一日 New Open!」とポップに飾られたチラシに目をやる。

同じような広告は、ビルの他の階や、駅ナカのデジタルサイネージ、SNSでも見かけた。

そうでなくとも支店経営のみを行ってきた『ダックダイニング』の直営店舗計画は、注目を集めている。

要は、後ろ倒すという選択肢は考えられない。

「とにかく、まずは手分けして開けていきましょう!」
「……むやみにやるなよ。むしろ時間がかかっちまう。明日にはデモを開始しなきゃいけないんだから。はじめにキッチン用とホール用で分けてからな」

希美は、気合を入れるため、腹の底から返事をする。そして、荷ほどきを開始した。

調子よく、目張りされたガムテープを素手で剥がしていく。詰まっているものには、当たりはずれがあった。重いものが入っていると、取り出すだけでも一苦労だ。

次はどちらだろう。封を切ったところで、希美の手が動かなくなった。

瞬きを二回して、蓋を閉じる。

これは大はずれだ。だが、見なかったふりをするのも憚られて、勇気というよりは無謀な挑戦をする思いで、もう一度開く。

入っていた包丁を見た途端、カランカランと音が鳴った、気がした。それは頭の中で何度も繰り返され、ドクンドクン、鼓動が血管を打つ。

「おい、後輩。聞いてるのか」
「は、はい! えっと、なにを?」

話を聞くのが優先だ。希美は、そのダンボールを奥へと押しやった。

「聞いてないじゃねぇか。明日のデモの話だよ。制服は届いてたけど、帽子はまだみたいだから、バンダナだけ持参してきてくれ」
「な、なるほど! 頑張りましょう!」

希美はきゅっと右拳を握る。
手首の裏、皮膚の内側が疼いてしまって、左手で押さえた。

その後、昼下がりまで時間は要したが、すべての荷解きが完了した。

包丁の入った箱は、鴨志田が片してくれた。

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