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四章 スーパーバイザーとして
58話 バランスが崩れる。
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翌日は、直行で店舗予定地へと入った。
「お、おはようございます!」
「……おはよう」
佐野課長と二人となると、この程度の会話しか生まれない。
反省してくれた以上、妬み続けていても仕方ない。希美はそう割り切っていたのだが、彼女はまだ負い目を感じているようだ。
気が滅入りそうになりつつ待機していたら、鴨志田がやっと現れる。その後ろに、新店長やホールのアルバイトたちを引き連れていた。
午前中に行われたのは、座学と実習によるホール業務の研修だ。
他店舗にも共通しているマニュアルをもとに、鴨志田が直々に指導を行う。
希美たちは、知識がないなりにそのサポートへと入った。
接客マナーからアルコールの提供まで、その内容は多岐に渡った。講習後、
「あー、カロリー使った。四百超えたらもうだめだな」
「なんか限界カロリー、前より減ってません……?」
「夏は元々だめなんだ。それに、慣れないことしたからな。外部講師の方がよっぽど的確だろうよ」
なんて疲れ切った顔で振り返っていたが、その辺の胡乱な講師より、よっぽど様になっていた。その能力のデパートっぷりには、希美は感嘆するしかなかった。
それが済むと、昼を挟んでキッチン研修の時間となる。
希美は、控え室で、白のコックシャツに袖を通した。持参したバンダナを頭に巻く。
白衣を着るのは、高校時代以来だった。真新しい布の裏側で、心臓が高鳴る。期待感によってというより、底知れぬ不安が押し寄せてくるような感覚だった。
そんな葛藤を見抜いてか、鴨志田が声をかけてくれる。
「後輩? 料理はからっきしとか言ってたよな。別に見学でもいいからな」
「いえ、大丈夫ですから! 人がいないんですもん! これでも近畿一うまい料理屋の長女ですよ」
希美はこう返事をしながら、自分に言い聞かせていた。
ホールとの連携にも目を届かせねばならないという理由で、鴨志田が持ち場を離れる。
代わって、過去には店舗で副店長をしていたという佐野課長が、役割を当てていった。
なんの因果か、希美の前には
「……たまねぎ」
いつかと同じ野菜が、まな板の上に乗っていた。丸い身の横に、包丁が添えてある。
「もう剥いてあるから、くし切りにしてもらえる?」
忙しそうにしつつ佐野課長から指示が与えられた。
カランカランと、軽い音が耳を打ちつける。反響しながら、だんだんと大きくなっていく。ドクンドクン、血が騒いでしょうがない。
大きな深呼吸を何度もやって、希美はそれら全てを押さえつけた。
それから、希美はそろーっと包丁へ右手を伸ばす。
柄をぎゅうっと握ったところで、手首が固まってしまった。引き寄せんとしても、わなわな震えるだけになる。
絶対に落としてはいけない。希美は、疼きのやまない右手首を左手で捕まえた。
「……木原さん?」
負けられない、己の中でのせめぎ合いだった。
なんとか均衡を保っているが、左手を離せば、そのバランスが崩れるのは目に見えていた。
カランカラン、ドクンドクン。
希美の頭に朱色がフラッシュバックする。鮮明な光景が浮かぶ前に、希美は無理に腕を持ち上げた。
ほんのスナップ程度のはずが、銀色の刃が肩の上まで振り上がる。
「ちょっと木原さん! もういいから、それ置きなさい!」
佐野課長が、悲鳴のような声を発する。場の空気が騒然としはじめる。
でも離せない。また同じ轍を踏むわけにはどうしてもいかない。今度こそ失敗してはいけないのだ。全てをなくしてしまった、高校生の頃の自分に誓って。
希美は柄を一層握り込む。荒い呼吸を整えていたら、
「後輩!? なにをやってんだ!」
鴨志田が乗り込んできて、後ろから希美の手首を掴む。
「鴨志田さん、離してください! 大丈夫、大丈夫ですから」
「その状態で、なに言われても聞かねぇよ」
抱き寄せられて、強張っていた全身から一気に力が抜ける。
まるで犯人確保の一幕かのようだった。
「お、おはようございます!」
「……おはよう」
佐野課長と二人となると、この程度の会話しか生まれない。
反省してくれた以上、妬み続けていても仕方ない。希美はそう割り切っていたのだが、彼女はまだ負い目を感じているようだ。
気が滅入りそうになりつつ待機していたら、鴨志田がやっと現れる。その後ろに、新店長やホールのアルバイトたちを引き連れていた。
午前中に行われたのは、座学と実習によるホール業務の研修だ。
他店舗にも共通しているマニュアルをもとに、鴨志田が直々に指導を行う。
希美たちは、知識がないなりにそのサポートへと入った。
接客マナーからアルコールの提供まで、その内容は多岐に渡った。講習後、
「あー、カロリー使った。四百超えたらもうだめだな」
「なんか限界カロリー、前より減ってません……?」
「夏は元々だめなんだ。それに、慣れないことしたからな。外部講師の方がよっぽど的確だろうよ」
なんて疲れ切った顔で振り返っていたが、その辺の胡乱な講師より、よっぽど様になっていた。その能力のデパートっぷりには、希美は感嘆するしかなかった。
それが済むと、昼を挟んでキッチン研修の時間となる。
希美は、控え室で、白のコックシャツに袖を通した。持参したバンダナを頭に巻く。
白衣を着るのは、高校時代以来だった。真新しい布の裏側で、心臓が高鳴る。期待感によってというより、底知れぬ不安が押し寄せてくるような感覚だった。
そんな葛藤を見抜いてか、鴨志田が声をかけてくれる。
「後輩? 料理はからっきしとか言ってたよな。別に見学でもいいからな」
「いえ、大丈夫ですから! 人がいないんですもん! これでも近畿一うまい料理屋の長女ですよ」
希美はこう返事をしながら、自分に言い聞かせていた。
ホールとの連携にも目を届かせねばならないという理由で、鴨志田が持ち場を離れる。
代わって、過去には店舗で副店長をしていたという佐野課長が、役割を当てていった。
なんの因果か、希美の前には
「……たまねぎ」
いつかと同じ野菜が、まな板の上に乗っていた。丸い身の横に、包丁が添えてある。
「もう剥いてあるから、くし切りにしてもらえる?」
忙しそうにしつつ佐野課長から指示が与えられた。
カランカランと、軽い音が耳を打ちつける。反響しながら、だんだんと大きくなっていく。ドクンドクン、血が騒いでしょうがない。
大きな深呼吸を何度もやって、希美はそれら全てを押さえつけた。
それから、希美はそろーっと包丁へ右手を伸ばす。
柄をぎゅうっと握ったところで、手首が固まってしまった。引き寄せんとしても、わなわな震えるだけになる。
絶対に落としてはいけない。希美は、疼きのやまない右手首を左手で捕まえた。
「……木原さん?」
負けられない、己の中でのせめぎ合いだった。
なんとか均衡を保っているが、左手を離せば、そのバランスが崩れるのは目に見えていた。
カランカラン、ドクンドクン。
希美の頭に朱色がフラッシュバックする。鮮明な光景が浮かぶ前に、希美は無理に腕を持ち上げた。
ほんのスナップ程度のはずが、銀色の刃が肩の上まで振り上がる。
「ちょっと木原さん! もういいから、それ置きなさい!」
佐野課長が、悲鳴のような声を発する。場の空気が騒然としはじめる。
でも離せない。また同じ轍を踏むわけにはどうしてもいかない。今度こそ失敗してはいけないのだ。全てをなくしてしまった、高校生の頃の自分に誓って。
希美は柄を一層握り込む。荒い呼吸を整えていたら、
「後輩!? なにをやってんだ!」
鴨志田が乗り込んできて、後ろから希美の手首を掴む。
「鴨志田さん、離してください! 大丈夫、大丈夫ですから」
「その状態で、なに言われても聞かねぇよ」
抱き寄せられて、強張っていた全身から一気に力が抜ける。
まるで犯人確保の一幕かのようだった。
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