59 / 70
四章 スーパーバイザーとして
59話 嫌な感じがしたんだ。
しおりを挟む
二
研修会は、希美の起こした騒ぎにより、一時中断となった。希美を抜いて、再度執り行われる。人数不足がたたって、終了したのは、夜の八時だった。
遠巻きから放心して眺めるほかできなかったのが、とても歯痒かった。
「すいません、私のせいで遅くなってしまって。お疲れ様でした!」
空元気でしかない挨拶で帰らんとしていたら、鴨志田に襟元を掴まれる。
周りの目も憚らず駐車場まで連れて行かれ、そのまま送ってもらうことになった。
触れられないような扱いをされたくなかった。関係のないことを駄弁り倒しているうちに、越谷のアパートに到着する。
扉の前まで見送られて、
「……なんかあったら言えよ」
「なんにもないですよっ! もう家ですもん」
希美は笑顔を作ってみせる。鴨志田は心許なさそうに瞳を揺らしていたが、それ以上は自重したようだった。
玄関扉を開けて、内側へと入る。
電気をつけると、暗がりに小さなキッチンが浮かびあがった。練習して慣れさえすれば、今日みたく足を引っ張らないで済むかもしれない。
希美は思いついて、その収納引き出しに手をかけた。入居した日、友達が開けてくれて以来のことだった。
希美は、ナイフラックに刺さった包丁を見て、唾を飲む。
カランカラン、ドクンドクン。昼と同じように、張り付いた幻想が希美に襲いくる。それでもどうにか包丁を抜こうとしていたら、チャイムが鳴った。音が余韻になる前に、何度も連打される。
こんな時間に、宅配便でもピンポンダッシュでもないだろう。
「鴨志田さん……」
分かった上で、希美は躊躇した。
今出てしまえば止められてしまうだろう。目を瞑って無視を決めようとしたのだが、
「用心しろよ、後輩。俺だったからよかったものを」
鍵をかけ忘れていたようだ。
上がっていいかと問われ、反射的にこくんと首を縦に振る。靴を脱ぎながら、
「戻ってきてよかったよ。嫌な予感がしたんだ」
心底ほっとしたように、彼が言う。
「私がなにするか分かったんですか」
「あぁ。後輩が扉閉める直前に、キッチンが目に入ったからな。後輩の思考パターンは単純だし。なぁ、後輩」
「……なんでしょうか」
「なにがあった」
すとんと懐に差し込んでくるような言葉だった。
希美が反応できずにいると、鴨志田はストップとばかり手を掲げる。
「あ、いや、いいんだ。忘れてくれ」
たかが三カ月、仮にも職場の人間だし、などとひとりごちた。
希美はつい笑ってしまう。そんな些細なことで、気が楽になった。
「中へどうぞ。大したおもてなしはできませんけど」
「いいよ、そんなの」
鴨志田をリビング兼寝室へと通す。片づけをしていないことに思い至ったが、もう見られていた。
「まじまじ見ないでくださいよ……?」
変なものがないかだけ確かめてから、希美はキッチンでお茶の用意をする。
戻ってくると、鴨志田は鳥籠の前で腰を屈めていた。キャルキャル、ときゅーちゃんが甲高く鳴く。
「文鳥飼ってるんだな」
嬉しくなって名前を教えてやると、鴨志田はほくそ笑む。
「きゅーちゃんって、ずいぶん可愛い名前してるな。こんなに怒ってるのに」
「怒ってるんですか、この子。たしかにいつもと鳴き方が違うような?」
「俺が来たからだろうな。後輩を、パートナーを奪われるとでも思ったんじゃないか」
恥ずかしげもなく、なにを言い出すのだろう、この人は。
「ち、違いますよ! うちの子は緊張しぃなんです!」
「ちなみに、キュウって鳴く時は、求愛してるんだと」
よもやの話に、危うく湯呑みを滑らせそうになった。てっきり、そうとしか鳴かないものだと思っていた。
けれど、そんなことに驚いて、問題を増やしている場合ではない。座布団を用意して、腰を落ち着けてもらった。
いつのまにかローテーブルの上にはクッキーまで用意されている。
「もし話してくれるんなら、したいタイミングでやってくれればいいよ」
鴨志田の優しさに甘え、少し気持ちを整理する。
それから、希美はゆっくりと話を始めた。
研修会は、希美の起こした騒ぎにより、一時中断となった。希美を抜いて、再度執り行われる。人数不足がたたって、終了したのは、夜の八時だった。
遠巻きから放心して眺めるほかできなかったのが、とても歯痒かった。
「すいません、私のせいで遅くなってしまって。お疲れ様でした!」
空元気でしかない挨拶で帰らんとしていたら、鴨志田に襟元を掴まれる。
周りの目も憚らず駐車場まで連れて行かれ、そのまま送ってもらうことになった。
触れられないような扱いをされたくなかった。関係のないことを駄弁り倒しているうちに、越谷のアパートに到着する。
扉の前まで見送られて、
「……なんかあったら言えよ」
「なんにもないですよっ! もう家ですもん」
希美は笑顔を作ってみせる。鴨志田は心許なさそうに瞳を揺らしていたが、それ以上は自重したようだった。
玄関扉を開けて、内側へと入る。
電気をつけると、暗がりに小さなキッチンが浮かびあがった。練習して慣れさえすれば、今日みたく足を引っ張らないで済むかもしれない。
希美は思いついて、その収納引き出しに手をかけた。入居した日、友達が開けてくれて以来のことだった。
希美は、ナイフラックに刺さった包丁を見て、唾を飲む。
カランカラン、ドクンドクン。昼と同じように、張り付いた幻想が希美に襲いくる。それでもどうにか包丁を抜こうとしていたら、チャイムが鳴った。音が余韻になる前に、何度も連打される。
こんな時間に、宅配便でもピンポンダッシュでもないだろう。
「鴨志田さん……」
分かった上で、希美は躊躇した。
今出てしまえば止められてしまうだろう。目を瞑って無視を決めようとしたのだが、
「用心しろよ、後輩。俺だったからよかったものを」
鍵をかけ忘れていたようだ。
上がっていいかと問われ、反射的にこくんと首を縦に振る。靴を脱ぎながら、
「戻ってきてよかったよ。嫌な予感がしたんだ」
心底ほっとしたように、彼が言う。
「私がなにするか分かったんですか」
「あぁ。後輩が扉閉める直前に、キッチンが目に入ったからな。後輩の思考パターンは単純だし。なぁ、後輩」
「……なんでしょうか」
「なにがあった」
すとんと懐に差し込んでくるような言葉だった。
希美が反応できずにいると、鴨志田はストップとばかり手を掲げる。
「あ、いや、いいんだ。忘れてくれ」
たかが三カ月、仮にも職場の人間だし、などとひとりごちた。
希美はつい笑ってしまう。そんな些細なことで、気が楽になった。
「中へどうぞ。大したおもてなしはできませんけど」
「いいよ、そんなの」
鴨志田をリビング兼寝室へと通す。片づけをしていないことに思い至ったが、もう見られていた。
「まじまじ見ないでくださいよ……?」
変なものがないかだけ確かめてから、希美はキッチンでお茶の用意をする。
戻ってくると、鴨志田は鳥籠の前で腰を屈めていた。キャルキャル、ときゅーちゃんが甲高く鳴く。
「文鳥飼ってるんだな」
嬉しくなって名前を教えてやると、鴨志田はほくそ笑む。
「きゅーちゃんって、ずいぶん可愛い名前してるな。こんなに怒ってるのに」
「怒ってるんですか、この子。たしかにいつもと鳴き方が違うような?」
「俺が来たからだろうな。後輩を、パートナーを奪われるとでも思ったんじゃないか」
恥ずかしげもなく、なにを言い出すのだろう、この人は。
「ち、違いますよ! うちの子は緊張しぃなんです!」
「ちなみに、キュウって鳴く時は、求愛してるんだと」
よもやの話に、危うく湯呑みを滑らせそうになった。てっきり、そうとしか鳴かないものだと思っていた。
けれど、そんなことに驚いて、問題を増やしている場合ではない。座布団を用意して、腰を落ち着けてもらった。
いつのまにかローテーブルの上にはクッキーまで用意されている。
「もし話してくれるんなら、したいタイミングでやってくれればいいよ」
鴨志田の優しさに甘え、少し気持ちを整理する。
それから、希美はゆっくりと話を始めた。
0
あなたにおすすめの小説
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました
cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。
そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。
双子の妹、澪に縁談を押し付ける。
両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。
「はじめまして」
そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。
なんてカッコイイ人なの……。
戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。
「澪、キミを探していたんだ」
「キミ以外はいらない」
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ゲーム未登場の性格最悪な悪役令嬢に転生したら推しの妻だったので、人生の恩人である推しには離婚して私以外と結婚してもらいます!
クナリ
ファンタジー
江藤樹里は、かつて画家になることを夢見ていた二十七歳の女性。
ある日気がつくと、彼女は大好きな乙女ゲームであるハイグランド・シンフォニーの世界へ転生していた。
しかし彼女が転生したのは、ヘビーユーザーであるはずの自分さえ知らない、ユーフィニアという女性。
ユーフィニアがどこの誰なのかが分からないまま戸惑う樹里の前に、ユーフィニアに仕えているメイドや、樹里がゲーム内で最も推しているキャラであり、どん底にいたときの自分の心を救ってくれたリルベオラスらが現れる。
そして樹里は、絶世の美貌を持ちながらもハイグラの世界では稀代の悪女とされているユーフィニアの実情を知っていく。
国政にまで影響をもたらすほどの悪名を持つユーフィニアを、最愛の恩人であるリルベオラスの妻でいさせるわけにはいかない。
樹里は、ゲーム未登場ながら圧倒的なアクの強さを持つユーフィニアをリルベオラスから引き離すべく、離婚を目指して動き始めた。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
地味な薬草師だった俺が、実は村の生命線でした
有賀冬馬
ファンタジー
恋人に裏切られ、村を追い出された青年エド。彼の地味な仕事は誰にも評価されず、ただの「役立たず」として切り捨てられた。だが、それは間違いだった。旅の魔術師エリーゼと出会った彼は、自分の能力が秘めていた真の価値を知る。魔術と薬草を組み合わせた彼の秘薬は、やがて王国を救うほどの力となり、エドは英雄として名を馳せていく。そして、彼が去った村は、彼がいた頃には気づかなかった「地味な薬」の恩恵を失い、静かに破滅へと向かっていくのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる